芸術/表現の場は今、いかに可能か
浅田彰×津田大介





2019年9月6日、京都のアートスペース「浄土複合」で、批評家の浅田彰・京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長によるレクチャーが開催された。芸術祭内の企画展「表現の不自由展・その後」の展示中止と文化庁による補助金不交付決定で揺れる「あいちトリエンナーレ2019」問題がテーマだったが、会場に、トリエンナーレの津田大介芸術監督が予告なく登場。会期半ば、まだ「表現の不自由展・その後」の再開への道筋が見えない時点で、期せずして対談となった当夜の模様を再現する。

構成:編集部
写真:池田剛介
編集協力:真部優子 水上瑞咲

 

浅田 今回、この浄土複合スクールという小さなスペースで「あいちトリエンナーレ2019」の問題について話すことになったのですが、トリエンナーレの芸術監督として問題の渦中にいる津田大介さんがそれを聞きつけて来てくれました――急に決まったので事前に告知はしませんでしたが。アート・ワールドならアート・ワールドで共有された常識のようなものがあって、例えば日本においてさえオール・ヌードでも原則的に許容される、しかしネットを通じてありとあらゆる人がそれを見る過剰露出状態になるとアレルギー反応を起こす人も出てくる、その意味では、半ばオープン、半ばクローズドというか、こういう小さなスペースに興味のある人が集まり、渦中の人もふらっと入ってきて、自由に話すというのがいいんじゃないか、と思うんですね。そういうわけで、最初から津田さんを中心に核心的な問題を議論するほうがいいのかもしれないけれど、最初の予定の通り、まず僕が一観客としてトリエンナーレをどう見たかについて話し、それを踏まえて津田さんに事件の真相を語ってもらおうと思います。

               

公開中止はやむを得なかった

「あいちトリエンナーレ2019」全体は、66組による現代美術の展示のほか、音楽や舞台芸術のパフォーマンス、映画や映像の上映、子供向けのラーニング・プログラムなど、きわめて多岐にわたるものであり、全体として政治的に方向付けられたものではない、ということをまず確認しておくべきでしょう。同時に、津田さんがアート・ワールド内部の評価にかかわらず参加アーティストを男女同数にするという決断を下された、これは重要な先例になるでしょう。問題となった「表現の不自由展・その後」は、そうした多くの現代美術の展示のほんの一部に過ぎない。ところが、そこにいわゆる「従軍慰安婦像」や「昭和天皇の写真を燃やすヴィデオ」が含まれているという情報がネット右翼と呼ばれる人たちのヒステリーを引き起こし、初日前日(内覧会のあった7月31日)からいわゆる「電凸」攻撃で事務局が麻痺、京都アニメーション放火事件の記憶も生々しいタイミングで「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」というような脅迫FAXまで届くにいたり、トリエンナーレ実行委員会の会長代行である河村たかし名古屋市長をはじめとするポピュリスト政治家たちがそういうネット右翼に悪乗りして批判を強める中で、実行委員会の会長である大村秀章愛知県知事と芸術監督の津田さんは8月3日に「表現の不自由展・その後」は一時的に公開中止にするという判断を下された。津田さんは、「情」は「情報」であるとともに「感情」や「情念」でもある、そうした「感情」や「情念」をいかに飼い慣らす(tame)かが重要だ(僕個人はこの「tame」という表現には賛成できませんが)、というので「情の時代 Taming Y/Our Passion」というテーマを設定されていたわけなので、この事件はそのテーマ設定がきわめてアクチュアルなものだったことを証明していると言ってよく、その意味で確信犯的な感じさえしなくもないのですが、しかし、このタイミングで日韓関係がここまで悪化し嫌韓感情が煽り立てられているなどとは事前に予想できなかったし、京都アニメーション放火事件も予想できなかったわけで、この事件はきわめて不幸なことだったと素直に考えるべきでしょう。もちろん、批判と脅迫に屈して一時的とはいえ公開を中止することは悪しき前例になるし、アーティストからは結果的に検閲に加担したと見られても仕方がないところがあるので、厳重な警備体制を敷いてでも公開し続けたほうがよかったとは思うし、大村知事と事務局が安全に配慮する一方、芸術監督の津田さんは徹底してアーティストの表現の自由を守る、という役割分担のほうがよかったようにも思いますが、逆に言えば、津田さんはアーティストのみならず現場のスタッフのことまで細かく配慮されて一時的公開中止という決定をされた、これはあの緊急事態ではやむを得ないことだったかとも思うし、「日本国民の心を踏みにじるもので、税金を使ってやるべきものではない」(浅田による要約;以下同様)という河村市長の批判に対し、大村知事が「その発言は憲法21条に違反する疑いが極めて濃厚である、公権力が税金を使ってやる場合こそ表現の自由が守られるべきなので、公権力をもった者が表現内容に関してこれはいいとか悪いとか、日本国民の心を踏みにじるものだとかそうでないとか決めつけること自体おかしい」という原則的立場を貫いているのも、公人として当然のこととはいえ、政治的コストを考えれば高く評価すべきことだと思います。また、何人かのアーティストが事件に応じて自分の作品の展示を中止あるいは変更するという行動に出、あるいは「ReFreedom_Aichi」のような形で機敏かつ柔軟な抵抗を続けている、このこともまた注目に値するでしょう。無責任な傍観者だから言えることかも知れませんが、当たり障りのない内容のトリエンナーレがさしたる波乱もなく「成功」に終わるより、今回のような事件が起き、議論が盛り上がったことは、結果的に大きな歴史的意味を持つのではないか。そういう意味も含め、アーティストのみなさん、キュレーターやスタッフのみなさん、そして大村さんや津田さんが、もちろんさまざまな矛盾を抱えながらも、それぞれの立場から粘り強く闘っておられることに敬意を表し、一時的に公開中止になった部分が早く再開されるよう期待したいと思います。

               

「反日プロパガンダ」という決めつけ

「表現の不自由展」について言えば、津田さんが2015年に東京のギャラリー古藤で開かれていたこの展覧会を見て、これは公共のミュージアムでやるに値すると考え、「表現の不自由展」実行委員会をいわばひとつのアーティスト・グループと同格の扱いでトリエンナーレに招かれたわけですね。日本は植民地支配や戦争で与えた被害の責任を取るべきだ、女性への差別や暴力は許されない、あるいは天皇制は批判すべきだ、そうしたメッセージを含むアート作品が日本で何度も公開中止に追い込まれ批判を浴びせられてきたことをきちんと自覚すべきだ、というような「正しい」左翼的信念に基づいて構成された展覧会だったので、当時僕は開催されること自体には大いに意義があるものの内容はほぼ想定内だろうと思って見に行かなかったんですよ。今回、それをアップデートした「表現の自由展・その後」を内覧会で見ました(7月31日の内覧会を取材したKBSニュースに僕が観客として映っているのが証拠ですが、「良心的な日本の市民」というところで映るのでまあいいかと思っていたら、「良心的な日本の市民は極右に展示を妨害させぬよう警備に立つ予定です」とアナウンサーが続けるので苦笑させられました)が、やはり想定内だと思ったし、小規模な展示で特に問題になるとはまったく思いませんでした。それなのに、右翼が作品のことをよく知りもせず、それどころか見もせずに、一方的に乱暴な非難を浴びせているということは、確認しておくべきでしょう。

いちばん注目を集めたキム・ウンソン&キム・ソギョン夫妻の「平和の碑(平和の少女像)」(いわゆる「従軍慰安婦像」)は、「韓国の反日左翼が日本帝国主義批判のプロパガンダためにつくった作品」ではなく、足が地についてないことが示唆するように、戦後の韓国で元慰安婦の女性たちが無視され差別さえされてきたことをも批判する作品です(彼らは韓国軍がヴェトナムで犯した民間人への暴力を告発する「ヴェトナムのピエタ」像もつくっています)。しかし、その傍らには、現在の「群馬の森」にあった陸軍火薬製造所で働かされて死んだ朝鮮人徴用工の追悼にかかわる白川昌生の「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」もあり、2018年に韓国大法院が元徴用工の日本企業に対する賠償請求を認める判決を出して以来、日本で急速に高まった異様な「嫌韓ブーム」の中で、これらの作品が「反日イデオロギーのプロパガンダ」であると決めつけられ、右翼のヒステリーを引き起こしたわけです。

とはいえ、白川昌生の作品以上に右翼が強調するのは、「大浦信行のヴィデオ作品の中で昭和天皇の写真が燃やされるのを見て傷ついた」というものです。しかし、そこには前提となる文脈がある。日本のアート・ワールドでは周知の事実ですが、アメリカで活動していた作家は、自分のアイデンティティを問うていくと「内なる天皇」の像が浮かび上がってきた、というので、昭和天皇の肖像を素材として含むコラージュ連作『遠近を抱えて』(1982-85年)をつくった。これが1986年に富山県立近代美術館(現在の富山県美術館)の「とやまの美術」展で展示されたとき、県議会で批判の声が上がり、美術館が買い上げた一部作品は売却、作品写真の掲載された図録の残部はすべて焼却された。今回、問題のコラージュ作品の一部とともに出展された新しいヴィデオ作品には、この事件、特に作品写真を含む図録が焼却されたことを踏まえ、「昭和天皇の写真」ではなく「昭和天皇の写真を素材として含む自らのコラージュ作品」を燃やす場面があるわけです。実のところ、僕は大浦信行の新旧の作品をあまり評価しない。そもそも、アメリカで自らのアイデンティティを問うていったら「内なる天皇」が浮かび上がってきた、などというのは浅薄な紋切り型に過ぎず、むしろある種の右翼に近い心性さえ感じる。天皇制はそんな「深い」ものではなく、たんに憲法改正によって廃止すればすむものです(言い換えれば、天皇制廃止は緊急の課題ではなく、自由民主党政権が憲法9条の「改正」を狙っているとき憲法改正論議の土俵に乗らないほうがいい、その程度の問題でしょう)。ともあれ、日韓の最近の争点が徴用工問題であるにもかかわらず、それにかかわる白川昌生の作品はほとんど話題にならず、「慰安婦像」と「昭和天皇の写真を燃やすヴィデオ」だけが槍玉に挙げられたということも、症候として興味深い。第二次世界大戦中の日本軍による女性への性暴力を裁く「女性国際戦犯法廷」が2000年に「裕仁は有罪」という「判決」を出したとき、右翼が異常なヒステリーを起こし、この「法廷」を取り上げたNHKの「ETV2001 問われる戦時性暴力」が大幅な改変を迫られた事件を思い出しても、最近、韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長が「天皇が元慰安婦の手をとって謝罪すればそれでこの問題を終わりにできる」といういたって常識的な提案をしたときの同様のヒステリーを見ても、右翼はあくまで清く正しく美しいものであるべき「天皇」と「性暴力」の結びつきがよほど嫌なんでしょう。

               

「不自由展」に欠けていた作品とは?

他方、「表現の不自由展・その後」には、本来なら右翼も共感すべき部分があるということも指摘しておきます。例えば、横尾忠則のポスターが2012-13年のニューヨーク近代美術館での「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」で展示されたとき、在米韓国人団体から、そこに含まれる旭日パターンが日本軍の旭日旗を連想させるので撤去せよ、という批判を受けた(美術館側は撤去に応じなかった)。「韓国が海上自衛隊の旭日旗を認めないのはけしからん」と憤激している右翼は、この問題が取り上げられていることを大いに喜ぶべきでしょう。僕だったら、赤瀬川原平が週刊『朝日ジャーナル』の雑誌内雑誌のような形で連載していた「櫻画報」の最終号に「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」という旧文部省教科書のページの引用を載せたので、朝日新聞社の経営陣がパニックを起こし、問題の『朝日ジャーナル』1971年3月19日号を回収した事件を、隣に並べたいところです。「あの朝日新聞が検閲した作品がある!」と(笑)。いずれにせよ、ポイントは、この展覧会にはある意味で右翼の主張に合致するような例も含まれているということです。それを見もしないで、「慰安婦像」や「昭和天皇の写真が燃やされる」という情報の断片だけに過剰反応したネット右翼が、「反日左翼のプロパガンダ」と決めつけて一方的に攻撃したわけですね。

とはいえ、最初に言ったように、僕は「表現の不自由展」はいわば「古い新左翼」の定石を超えないだろうと思ってわざわざ見に行くことはしなかったし、今回見た「表現の不自由展・その後」もおおむねその予想の範囲内に収まるものでした。もっと広い問題まで含んだ「その後」の表現の不自由を考えるなら、「表現の不自由展」実行委員会を招くのではなく、津田さんと新たなキュレーター陣がアーティストと直接話し合いながら今回新たに「表現の不自由展」を企画し直したほうがよかったでしょう。例えば、事前に京都造形芸術大学に講義に来ていただいたときのお話では、津田さんは会田誠(正確には「会田家」)が文部科学省を批判した「檄」(2015年に東京都現代美術館の「おとなもこどもも考える――ここはだれの場所?」展に出展され、美術館から撤去要請を受けたが、この要請は後に撤回された)なども含めたいと言っておられた。ところが、「表現の不自由展」実行委員会のメンバーである岡本有佳さんは、森美術館での「会田誠展:天才でごめんなさい」展(2012-13年)に含まれていた「犬」(1989年)という作品、四肢を切断された全裸の少女が首輪をつけて微笑んでいる絵が、女性や未成年者や障碍者に対する差別と暴力の表現であるとして抗議文を寄せた側で、会田誠のtweetによれば今回も会田作品を含めるのに反対したそうです。むろん、女性や未成年者や障碍者への差別や性的暴力・性的虐待を批判するのは絶対に正しい。しかし、それは法的・社会的正義の問題であって、アートの問題をそれで割り切ることはできない。アーティストが自分の中にあるどす黒い欲望を見つめながら制作した多義的な作品を、フェミニズムの正義の名で公開禁止にしようとするなら、それは善の独善への転化であり、最近広がりつつある新たな種類の検閲、「表現の自由」への大きな脅威になると言わなければならないでしょう。僕は、「反日的」と決めつけられた作品への検閲に断固反対するのと同様、会田作品に対する検閲にも断固反対します。むしろ、ある種のフェミニズムをはじめとする「古い新左翼」の正義では割り切れない問題がたくさん出てきている、そこに焦点を当てた新しい「表現の不自由展」を津田さんたちが新たに組み直すほうが良かっただろうと言ったのは、そういう文脈においてのことです。

それに絡めて言うと、「あいちトリエンナーレ」の会場のひとつである豊田市美術館には同時にクリムト展も巡回してきていて、コレクション展示室でも豊田市美術館が持っているエゴン・シーレの作品が出ている。その中には少女の無毛の股間が露骨に描かれたドローイングもあります。シーレは未成年者への「淫行」で逮捕・拘留されたこともあり、最近の「Me Too」運動の盛り上がりの中、ヨーロッパでさえ彼の作品が展示中止になった例がある。それはどう見ても行き過ぎなのではないか。それがダメなら会田誠の「犬」もダメでしょうが、もっと言えば、西洋美術史では男性のまなざしで女性を性的対象として描くということをずっとやってきたわけで、女性ヌード像はほとんど全部公開禁止にすべきだということになりかねないでしょう。潜在的にそういう問題を孕む作品を公共の美術館が購入・展示していいのかという問題もあるので、「表現の不自由展・その後」だけが問題なのではない。僕には危機的に見えるこうした状況の中で「表現の不自由展・その後」をめぐる事件が起こったわけで、広い視野から徹底的な議論が求められている――というところで、一観客としての僕の感想はこれくらいにして、渦中の津田さんにバトン・タッチしたいと思います。

 
               

公開中止にいたった経緯

津田 では簡単に今回の事態にいたる経緯を説明したいと思います。2015年の「表現の不自由展」は会場が狭いということもあって作品の数も少なく、実物として置かれていたのは少女像のミニチュアと現物、慰安婦の写真、昭和天皇の肖像をコラージュした作品くらいで、資料展示が多い博物館的でジャーナリスティックな展示構成でした。だからこそ自分も興味を持ったわけです。今回、騒ぎになり始めたのは会期前日、内覧会が行われた7月31日でした。その日の朝日新聞の社会面、それから中日新聞の1面で報じられたことがきっかけです。そして8月2日の昼に河村市長が展示を見に来て、展示中止を求める抗議文を大村知事に提出しました。そこから抗議の電話や脅迫がエスカレートしていったので、8月3日に不自由展だけ展示中止する発表をしました。中止時点では表現の自由についてあまりはっきりとした言及をしていなかった大村知事ですが、週明けの8月5日にはいろいろな政治家が文化事業の内容に介入するのは検閲ではないか、公金を使った芸術祭だからこそ内容には口を出してはいけないんじゃないか、ということを定例会見ではっきり発言し、それによって愛知県の中で愛知県知事と名古屋市長が政治的に相反するということになったわけです。

 

浅田 税金を使った公共の芸術祭だからこそ、公権力を持った者が個々の作品についてこれがいいとか悪いとか、敷衍して言うならこれは反日的で日本国民の感情を傷つけるとかそうでないとか言って介入すべきではない、それは憲法違反の疑いが濃厚である、と。まったくの正論ですよ。

 

津田 大村知事は「金は出すけど口は出さない」と口癖のように何度もおっしゃってました。そのことは僕に芸術監督を委嘱する際にも聞きましたが、2016年の「あいちトリエンナーレ」で鳥の生態展示でトラブルが発生した際も「問題はきちんと検証して次に生かせばいい。金は出すけど口は出さないというのが愛知県のスタンス」と言ってことさら問題視しなかったそうです。そういう知事がいたからこそ、この企画ができたのだと思います。他の自治体ではできなかったでしょうし、今回、奇跡的にできてしまった――この知事がいて優秀な職員の方々がいて、さまざまな方面に調整を続けた結果できてしまったがゆえの事件だったと僕は理解しています。このことを前提として共有してもらった上で話したいのですが、オープニングの3日間が大変だったのはもちろんですが、実際には展示中止を決めた後のほうが大変でした。展示中止の決定が海外作家には主催者による検閲と映ったんですね。僕や知事がいくら安全管理の問題だと言っても、それは脅迫に対して屈することであるし、政治家の圧力が原因ではないと言っても、それならば大村と津田が検閲をしたのだということになってしまう。現在11の作家がボイコットあるいは展示内容の変更を続けています。

整理しますと、中止の理由としてもっとも大きな要素だったのは「職員の疲弊」があります。僕自身のところにも2日目の朝には「もう限界です」という現場の声が届いていました。これは芸術祭の難しいところで、数日程度なら終わりが見えてがんばることもできるでしょうが、トリエンナーレは75日あるので、「これがあと70日以上続くのか」という絶望感が職員の中にありました。また愛知県の職員は優秀で、真面目なんです。だからこそ、そういった抗議電話やいたずら電話に過剰に丁寧に対応してしまう。それに耐えられない職員とそうでない職員の温度差などが現場の不協和音を生みました。その結果、組織の機能が一時停止状態になってしまいました。

そうやって円滑・安全な運営ができなくなり、その中で「ガソリン携行缶を持っていく」という脅迫FAXが来た。もちろんすぐに警察に相談して、その日に警察が来ているんですけども、捜査に入ってもらえず被害届も出させてもらえなかった。また、FAXの発信者番号が5桁なんですが、これだけじゃわからない、と言われました。8月3日に中止を発表したあと、この脅迫を何とかしなければと思い、4日にFAXの現物を見せてもらって、この5桁の番号からたどれるんじゃないかと考え、僕と専門家と僕の会社の社員で協力して解析した結果、そのFAXはコンビニの複合機から送られてきたもので、その5桁は店番号だとわかった。そして、愛知県内にあるファミリーマートのどの店舗かというところまで特定し、5日にそれを警察に伝えた。そしたら6日に警察のほうから「被害届を出してもらえませんか」という連絡が来て、7日に犯人が逮捕された、と。そこまで僕らが動かなかったら逮捕もなかっただろうなと思います。脅迫犯の特定は本来警察がやるべき仕事であり、芸術監督の仕事ではないわけですが、現実にはそういった対応に追われていて参加作家に対しての連絡ができない状況があり、そのことが作家から不信感を買うことにもなりました。

               

電凸に弱い文化行政

津田 論点としてはいろいろあると思いますが、まず「中止は検閲だったのか」、「テロに屈したのか」という点。僕個人としては「電話抗議に弱い文化行政」の問題が大きいと思います。これは、トリエンナーレ事務局の電話回線を抜くと関係のない部署にまで抗議の声が飛び火してしまうということと、情報公開法があるので電話を受けた職員が名乗らねばならず、服務規程などによって途中で電話を切れないということなどが原因です。また、抗議マニュアルが拡散されており、組織的に電話をかけてきているようでした。

それから「文化事業としての中立性」に関しては、「公金を使う内容として適切だったのか」という論点はあるでしょうけども、それを問うこと自体がどうなんだという議論もあります。文化芸術基本法が2017年に改正されていて、そこには「文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重する」と書いてあるにもかかわらず、それを相当逸脱した言動がありました。

「ガヴァナンス」の問題もあります。僕が「表現の不自由展」実行委員会に依頼しているので、二重の意思決定になってしまったことも混乱を引き起こしてしまった。これについては浅田さんから指摘があった通り、僕がもっとキュレーションして最終決定権まで持ってやれればよかったな、と。会田誠さんやろくでなし子さんの作品も取り入れてアップデートした形での展示を僕はやりたかったし、提案もしたんですが、実行委員会の5人の方の意思がかなり固く、介入が難しかった。

もうひとつは「事前告知をするべきだった」という点です。これも本当はする予定だったんですが、警察や弁護士や専門家のアドヴァイスで、早めに発表してしまうとその時点で抗議が殺到し、しかも時間があると右翼はネットワークをつくって抗議をするから、彼らに時間を与えないほうがいいという警察のアドヴァイスがあり、事務局としてもそれに従ってほしいという意向があり、それを尊重して事前の発表がキャンセルされました。

僕も準備はしていたつもりでしたが、3つ予想外のことがありました。ひとつ目は、最初の企画の時点で1年以上前の話なので、日韓関係がここまで急速に悪化するとは思ってなかったこと。もうひとつは、憲法21条や文化芸術基本法があるのに、さまざまな政治家がここまで踏み込んだ発言を露骨にするということ。そして最後はやっぱり京都アニメーション放火事件ですね。実際に京アニを仄めかされて脅迫されたときに、2週間前の事件を想像してしまう。そのことの強度が、非常に大きかったです。

それから皆さんがいちばん気になっていることと思うのですが、「展示は再開するのか」ということです。僕はもともとこれをやりたくて企画をしているわけですし、これが原因でさまざまな作家が展示を取りやめている状況なので、なんとか会期終了までに再開したいと思っています。ですが、現実的に再開するハードルは相当高いだろうな、とも思っています。まず、脅迫メール犯の逮捕。そして会場の警備体制の強化が必要でしょう。最も大きいのは電話抗議への有効な対策を見つけられるかということです。それから今回の問題を受けて設置された「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」による中間報告も現時点ではまだ出ていません。アーティストの態度も千差万別で、今回のことでボイコットしている作家もいれば、ボイコットはおかしいんじゃないかという作家もいる。あと個人的にいちばんねじれているなと思う論点は、職員です。再開にあたって絶対にクリアしなければならないのは、抗議によってトラウマを抱えてしまった職員たちをどう解きほぐすかということです。職員たちが再開なんて無理と思っているような状況の中で、無理やり推し進めることが可能なのか。僕はトリエンナーレ全体を見なければいけない立場なので、彼らがある程度は納得しない限り、無理にはできないという立場です。しかしアーティストの中には、芸術祭をやっているんだから、抗議を受けるのは職員の仕事ではないか、その覚悟がなければ国際芸術祭なんて開催するべきでないと考える人もいる。この溝を再開までに埋められるのかというのが、現実的な問題としてあります。

今回のケースを通じて、日本での国際芸術祭のあり方が問われていると思うんですね。ドクメンタみたいなテーマにこだわった芸術祭を目指して今回やってきたわけですけど、こういう事件もなく、動員数的にも成功していれば、「ドクメンタ風の芸術祭ができたよね」ということになったでしょう。しかし、幸か不幸か今回こういう事件に巻き込まれて、海外のメディアからも悪い意味で注目されてしまった。このイメージは変えなくてはいけないと思うんです。海外からは単に「検閲がすごいトリエンナーレを日本でやっている」と報道されてしまっているので、ここからどう回復して海外にも発信していくのか。このまま終わってしまったら、日本の国際芸術祭に海外作家がもう参加しなくなるという悪い影響も起きてしまう。だから、ここからどう最後に向けて形づくるのか考えなければと思っています。

               

慰安婦問題と徴用工問題

浅田 確かに、日本の世論がこれほど右傾化し「嫌韓」意識が広がることは予想外だったと思います。「日韓併合は悪くなかった、多くの朝鮮人を強制連行して徴用工や従軍慰安婦にしたとかいうのは反日左翼のでっち上げだ」などと言う人は昔からいた、しかし、それは右翼の街宣車からがなっているような見るからに極右の連中だったわけですよ。それがネットによって「正常化」され、あっという間にここまで広がってしまった。特に、朝日・岩波的な良識が「偽善」に見えてしまい、それに対する「露悪」――「でも韓国人って嫌だよね」というような「ホンネ」への居直りが広がってしまったんですね。

そこではすべてが単純化され、アート作品の複雑なニュアンスは切り捨てられてしまう。例えば、いわゆる「慰安婦像」も、さっき言ったように、元慰安婦の女性たちが韓国内でも「敵に汚された女たち」として無視され差別されてきた歴史を踏まえている、つまり単なる反日プロパガンダではない…

 

津田 男性社会に対する批判でもあるんですよね。「平和の少女像」の作者のキム夫妻は実は韓国政府からも都合の悪い表現者として批判されている。韓国政府は、朴正煕(パク・チョンヒ)や李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クネ)の時代に、韓国政府に反対する表現者をブラック・リストに記して弾圧・検閲していたのですが、夫妻はそのリストに入っているんです。

 

浅田 彼らは、ヴェトナムで韓国軍に虐殺された子供を親が抱えて泣いている「ヴェトナムのピエタ」と呼ばれる像もつくっていますからね。反日プロパガンダなんていう単純なものじゃないんです。

ちなみに、最近ミキ・デザキの『主戦場』という映画が公開されましたよね。日系アメリカ人の監督が知らないことを一から学習するような映画ですから、そんなに深いものではないけれど、たいへんわかりやすく、日本の若い方も是非観るといいと思います。このタイトルが指すのは、プロパガンダの主戦場としてのアメリカということなんですね。アメリカで、「テキサス親父」と呼ばれるトランプ支持の右翼の男性とか、日本でも右翼的言動をしているケント・ギルバートらが、「韓国は従軍慰安婦問題などを大げさに宣伝しているが、本当は日本は悪くない」と言ってまわっている、どうも日本の右翼がお金を出しているらしい、と。あの映画でいちばん面白いのは、日砂恵ケネディが出てくるところです。この日系アメリカ人女性は日本を擁護・礼賛して櫻井よしこの後継者と言われるくらいだったのが、よくよく調べてみると日本にも問題があるんじゃないかと思い始めて転向しつつあるらしい。その彼女が、アメリカのジャーナリストに日本の右翼にとって都合の良いことを書いてもらうためリサーチ代とかいう名目でかなりの額のお金を渡した、今にして思えば変なことだった、と言う。その次に櫻井よしこが出てきて、そういうことがあるのかと監督が聞くと、回答を拒み、「It’s complicated」とか言って何とも言えぬ微笑を浮かべる(笑)。

 

津田 あの映画の中で、あのシーンは最大の見どころと言ってもいい。

 

浅田 1993年に自民党・宮澤政権の官房長官だった河野洋平が朝鮮人従軍慰安婦問題で強制があったことを認めて謝罪する河野談話を出した。敗戦50周年の95年には、社会党・村山政権の村山富市首相が、連立相手の自民党・橋本龍太郎総裁の同意を得て、日本の戦争責任を認め改めて謝罪する村山談話を出した。その段階では、日本も改めて植民地支配や戦争に関する反省を示さないと、冷戦終結後の世界の中でやっていけない、という常識が共有されていたわけですよ。その常識がまだ続いていると思っていたら、知らない間に恐ろしい勢いで侵食され、昔は街宣車でがなっていたような極右の声が、日本国内だけでなく、アメリカの「主戦場」にまで広がっていた。おそるべき事態ですよ。

 

津田 元民主党の議員でLGBTの松浦大悟さんという方がいて、元々とてもリベラルな方で僕自身は彼のやられていることや考え方に好感を持っていました。そんな彼がいま、右派論壇の中に取り込まれようとしている。どうしてそのような“変節”があったのか、彼の周辺の人に話を聞いてみると、民主党の議員だったのが落選してしまったあと浪人生活が長く、厳しい生活状況に理由の一端があるようなんです。これは『主戦場』の話とつながっていて、端的に言えば右派のほうが金払いがいいし面倒見もいいんですよ。松浦さんが保守メディアで話すと左派からの攻撃もすごい。しかし、いろいろ要求はするが面倒は見ないという左派と、受け入れてくれて金も払ってくれる右派だったら、やはり右派になびいていくという状況もあるのかなと。とはいえ、松浦さんの発言を見る限りバランスを取った発言もされているので、完全な「右派論壇人」になったとは思いません。彼を通して見えてくるリベラルの問題――左派の運動論を考えなければいけないのではないかと思っています。

 

浅田 それから、慰安婦問題に加えて徴用工問題がある、それに関連するのがさっき言った白川昌生の「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」ですね。「群馬の森」という名前になっている広大な地域があって、磯崎新設計の群馬県立近代美術館や大高正人設計の群馬県立歴史博物館なんかもあるんだけど、そこは昔、陸軍火薬製造所があって、そこで働かされて死んだ朝鮮人徴用工もたくさんいた、それで市民団体が2004年に「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑」をつくったら、右翼の県会議員が「県の土地にそんな反日のモニュメントを置かせるのはおかしいから撤去させろ」と言い出し、裁判になった…

 

津田 ただ日本の司法もある程度は地裁レベルではしっかりしていて、県がちゃんと許可のもとに設置しているんだから、一審ではそれは撤去できないという判決が出て、いま高裁に行っています。玉虫色の判決ではあるんですが。

 

浅田 白川昌生がその追悼碑に布をかけたような「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」を群馬県立近代美術館の「群馬の美術2017」展に出したら、裁判中の問題にかかわるという理由で初日の朝に撤去された。僕が後で見に行ったら、いっぱい積まれた箱の中で蜂がうなっているような作品(《ミツバチの巣》2016-17)なんかに置き換えられていて、うまいなと思いましたね。今回の「不自由展」に出ている布をかけたオブジェがこの「追悼碑」です。

               

右翼ポピュリズムがいかに広がっているか

津田 僕がかかわったキュレーションで言うと、会田さんと白川さんは絶対に入れたかった。なぜなら2015年以降に美術館で起きた検閲的な出来事として、このふたつは大きいと思ったので。結果として、会田さんは入らず、白川さんは入ったということです。

 

浅田 なるほど。とにかく、「嫌韓」で言えば、「慰安婦像」と並んで白川昌生作品が問題になるはずなのに、良かれ悪しかれほとんど問題にならず、「昭和天皇の写真を燃やすヴィデオ」だと単純化され誤解された大浦信行作品のほうがだんだん焦点化されているという流れは、右翼の深層心理をよく物語っているように思いますね。

僕自身、昭和天皇が死んだ日に発売された『文学界』1989年2月号に載った柄谷行人との対談(『柄谷行人 浅田彰 全対話』[講談社文藝文庫]所収)で、昭和天皇の病気で「自粛」ムードに覆われた日本のことを「土人の国」(北一輝の引用)と呼んで物議を醸したことがあるし、このときのことを回想した『文藝春秋』2002年2月特別号のアンケート回答の中で「裕仁」や「明仁」という呼称を使ってカミソリ入りの抗議の手紙を受け取ったこともある。いまのようなネット社会だったらどうなっていたかわからない。しかし、それが「日本国民の感情を土足で踏みにじる表現だ」というのはいったい誰が決めるのか。また、仮にそれが正しいとして、そういう表現は禁止あるいは自粛すべきなのか。

例えば、ザ・スミスの『The Queen Is Dead』(1986年)は(僕自身はあまり評価しないけれど)ロック史に残る名作とされ、現在も世界中で聴かれている。文字通り「女王が死んだ」というタイトルで、デレク・ジャーマンの撮った実験映画風のヴィデオ・クリップにはポンド紙幣のエリザベス女王の肖像が出てきます。そういう「不敬」な表現も平気で許容するところがイギリス社会の成熟の証しであり、逆説的に言えばイギリス王室の強さでもあるわけですよ。では、日本で「天皇が死んだ」という曲を発売したり放送したりすることができるか。「日本国民の感情を踏みにじるものだ」という理由でそれが禁止ないし自粛されるのだとしたら、それはやはり「土人の国」と言うほかないでしょう(むろん、これは日本だけの問題ではなく、タイなどはもっとひどいということも付け加えておきます)。

津田さんが「情の時代」というテーマを掲げられたこのトリエンナーレは、幸か不幸か、全面化した「情報」の時代が「情念」や「感情」の爆発する時代でもあることを示し、「表現の不自由展・その後」に対するリアクションは、現代日本において表現は不自由だということを明らかになってしまった。それを確信犯的とは言いませんが、問題設定が企画者である津田さんの予想以上に当たってしまった、とは言えますね。

 

津田 おっしゃるとおりだなと思うと同時に、その点については複雑な思いがあります。自分がやりたかったのは75日間すべての展示をお客さんに見てもらうことでしたから。振り返れば、日韓関係が6月くらいから急速に悪化するのを見ていて、「不自由展」の準備を進めるのも難しく、そこで企画をやめるという選択肢もあったとは思います。ただやっぱり僕には、すべてがそういうもので埋め尽くされているときだからこそ、こういう企画ひとつできなければ、本当に日本という国はやばくなるんじゃないかというような思いもありました。こういう状況だからこそさまざまな反発も含めた中で議論すればいいんじゃないかと。結局は「情」の部分が爆発してしまって脅迫、そして中止という最悪の結果をもたらしてしまいましたが。

 

あと思うのは、京都アニメーションの事件やその前の川崎での殺人事件も含めて、大体、犯人にはみんな怒りがあるけれど、ぶつけ先がない状況なんです。その中で、トリエンナーレというのは非常にぶつけやすいものだった。しかも僕に直接というより、公金を使うからというので公務員や事務局のほうに矛先が向かってしまう。僕も刺されてもいいという覚悟で期間中は防刃チョッキを着ていました。だけど、それくらいの個人の覚悟があったとしても、今回は僕個人の文筆活動ではなく、これだけ大きなイヴェントなわけで、かかわっている人も多い。表現の自由は大事だけど、そのために命をかけてくれと一般の公務員に言えるかって言ったら、それは言えないですよ。彼らは表現の自由を守るために公務員になったわけではありませんから。僕が責められるところがあるとすれば、自分ひとりのやりたいという思いで突っ走ったことだと思っています。中止のときの記者会見で「それは自分のジャーナリストとしてのエゴだった」と言ったのには、そういう意味も含まれています。

 

浅田 無責任な傍観者として言えば、今回の事件自体は不幸なことであるけれども、これだけ議論が巻き起こったこと自体はよかった、いかに次につなげていくかというのがいま問われている、と思うんです。

特に、今回の事件は右翼ポピュリズムがいかに広がっているかをあらためて痛感させるウェイクアップ・コールだと言うべきでしょう。右翼ポピュリズムは、中道左派の「他者をリスペクトしよう」「マイノリティを大事にしよう」というような正論を偽善的なタテマエとして批判し、「アメリカは本来、白人男性キリスト教徒の国だ、我々が威張って何が悪い?」といってホンネに居直るトランプのような露悪で大衆を煽る。同じようなことが世界中で起こっているわけですよ。ちなみに、それに対抗するには多種多様な反対派をわかりやすいキーワードでつなげればいいという左翼ポピュリズムもあって、ギリシアやスペインのあと、日本でも遅まきながら山本太郎の「れいわ新選組」が登場した。左翼なら天皇制廃止・元号廃止を主張すべきだけれど、右翼のキーワードをパクッて換骨奪胎するというのも左翼ポピュリズムの戦略だろうとは思います。いずれにせよ、「旧左翼」(共産党など)や「古い新左翼」が時代の動きに追いつけず、古いタテマエを繰り返すだけだ、と思われてしまっていることは事実でしょう。

               

表現の自由の現在地

浅田 実際、左翼がもたもたしているうちに、右翼は着々とイデオロギー闘争を進めてきた。1970年代半ば、昭和天皇即位50周年あたりから、右翼は危機感を持つ。昭和天皇が死んだらどうなるのか。例えば元号は旧皇室典範に規定されていただけで、日本国憲法にも法律にも規定がない。元号法をつくらなくては、と。それで市町村や都道府県のレヴェルから草の根の「国民運動」を展開し、1979年の元号法制定を勝ち取る。その過程でできた元号法制化推進国民会議が紆余曲折を経て安倍政権の応援団である日本会議につながるんですね。で、その成功体験を踏まえ、歴史教科書の「自虐史観」の書き換え、1999年の国旗国歌法へと、右傾化が着々と進んでいくわけです。1990年代には、冷戦終結で中道多党連立になるかとも思われたし、政府も河野談話や村山談話のようにそこそこ良識的なことを言っておかないと冷戦後の世界でやっていけないと思っていた。だけど、実際には、中道化どころか、左右の対立が終わって右が全面化し、従って極右が強くなっただけだったし、草の根レヴェルでもどんどん右傾化が進んでいたわけです。そして気がついてみると、左翼ポピュリストさえ「れいわ新選組」を名乗らなければならない時代になっていた。確かに新選組は安倍晋三の持ち上げる長州の志士の敵だけれど、じゃあ幕府方ならいいのか(笑)。

 

津田 日本会議のもととなった「国民運動」をやっていたのは凝り固まった一部の人で、それを圧倒的にドライヴさせたのがインターネットです。さらにはブログやツイッターといった、自分で発信して拡散できる仕組みによって、組織として大きくなった。そして一般層にもわかりやすいストーリーとして消費されるようになった。それが排外主義と結びついていく。元々80年代の右派は反共という共通点があったという点で親韓だったわけで。北への防波堤という意味で、むしろ同胞くらいの意識があった。しかし韓国がどんどん経済的に日本を追い抜いていく過程で変わっていく。

 

浅田 退屈な復習教師みたいなことを言えば、韓国の初代大統領は反日反共の李承晩(イ・スンマン)で、その退陣後の停滞に乗じてクー・デタでひっくり返したのが朴正煕だった。彼は満州および日本でエリート士官として育てられ、大統領になったあと1965年の日韓基本条約および請求権協定で日本から巨額の賠償金を引き出し、それを植民地支配や戦争の被害者ではなく財閥につぎ込んで経済成長を実現した。親日ではないにせよ、まあ容日反共の軍事独裁政権ですね。その娘が朴槿恵です。で、朴正熙が暗殺されたあとも、全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)と、軍人出身の大統領が続き、日本の右派は北朝鮮と対峙するためそれと連携したわけですね。しかし、韓国の民主化運動は、光州事件のような犠牲を出しながら軍事政権を打倒し、金泳三(キム・ヨンサム)に続き、金大中(キム・デジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)らの中道左派政権が成立した。いまの文在寅(ムン・ジェイン)はその盧武鉉の後継者です。つまり、日本は1945年の敗戦以後、おおよそひと続きなのに対し、韓国は45年の終戦に次いで、87年の選挙で軍事独裁政権が終わった、それも革命的な変化だったわけです。むろん、右派も負けてはいないので、盧武鉉のあと、李明博、朴槿恵と右派の大統領が続き、それをひっくり返して文在寅政権が成立したわけですね。確かに、現在の状況だけを見ると、左右両極の対立が激しすぎるように見えるでしょう。しかし、朝鮮戦争の頃から、右派は「赤」と見なした敵を容赦なく虐殺してきたし、抵抗する側も当然暴力に走るわけで、民主化によってその記憶が払拭されたわけではない。現在の文在寅政権も、もっと早く運動モードから統治モードに切り替えるべきだったとは思うし、反日で国民を結束させようとするのは行き過ぎだとも思うものの、まずはその背後にある苛烈な闘争の歴史を理解しておくべきでしょう。

そもそも戦後日本の政財界のボスたちは、強者である日本が弱者である朝鮮に植民地支配や戦争でたいへんな被害を与えたことを意識していたし、そのことを謝罪するのも吝かでないという強者の自信があった。例えば右翼の中曽根康弘でさえ、首相になって初めてアメリカではなく韓国を訪問し、韓国語で挨拶したり歌を歌ったりした。外交交渉の前に、まずはそういう態度を示してきたわけです。ところが、韓国が経済的に発展し、日本の相対的地位が下がってきたいま、「一強」であるはずの安部首相は、韓国から(あるいは野党から)非難されると自分が弱者であるかのように逆上してしまう。確かに法律的には日韓請求権協定で一応片はついているわけですが、それだけで押し通すのなら政治家は要りません。65年当時には不当に無視・軽視されていた性暴力の問題が重視されるようになったので、従軍慰安婦問題については日韓両国で基金をつくって見舞金を出すという知恵を出した。徴用工問題についても同じような方法は可能であるはずです。

とにかく、ふと気がついてみたら日本はものすごく右傾化していた。言い換えれば、戦後ずっとこうだったと思ってはいけない…

 

津田 自民党の中での右、左のバランスも崩れちゃいましたからね。

 

浅田 しかも、昔の自民党のボスたちのような自信がないため、ちょっと批判されるとすぐヒステリーを起こすような人たちが、首相以下、要職を占め、官僚ももっぱら彼らの意向を忖度するようになっている。「表現の不自由展・その後」の事件は、そういう現状に気づかせてくれたと言うべきかもしれない。

 

津田 今回の騒動を受けて表現の自由ということを考えたときに、この国の現在地がここだというのは、皆さんよくわかったと思うんです。僕自身いろんな批判を一身に受けてきて、その通りだと納得してる部分もある一方で、「津田が表現の自由を後退させた」という意見には違和感があるんです。そもそも後退していたのでは? ということだと思うんですよね。

 

浅田 そうですよ。

 

津田 美術業界が腫れ物のように扱ってこなかったテーマに対して、門外漢の勇み足でやってしまった結果、思った以上の大爆発を起こした。構造そのものは単純ですよね。

 

浅田 門外漢ということでいうと、出展作家の男女比率をほぼ50:50にした、これはかなり乱暴にやったわけですよね。アート・ワールドの人がやると、アート・ワールドでの作品の評価を優先させるため、結果的に男性のほうが多くなったりする…

 

津田 芸術至上主義ですよね。

 

浅田 津田さんは、「自分はアート・ワールドの部外者だから、単純に50:50で行くぞ」と。これがよかったと思うんですよ。

 

津田 そこで留まっていれば、単に大成功したトリエンナーレで終われたんじゃないか……というような並行世界を考えたりするんですけども(苦笑)。ただこうした問題が起きてしまった以上は、この収拾をつけて、最後にどう回復していくのかを考えていかなければいけないので。

 
 

           

質疑応答

 

質問者1  電凸について、電話をかけてくる側の匿名性が高いことが問題だと思うのですが、業務改善のために録音するとか、こちらから連絡するために実名を名乗ってもらうなどの対応をすれば抑制につながるのではないでしょうか。

 

津田 電話抗議について準備不足だという声はあるんですけど、いまおっしゃっていただいたことは想定して対策を行っていました。まず「この電話は品質向上のため録音されてます」と入れる。これが入るか入らないかで全然違いますから。「折り返します」という対応もしていて、電話番号とお名前も聞いていたんですけど、激高しちゃった人は切らせてくれないんですよ。「折り返します」と言っても、ずっと喋り続ける。特に公務員の人は、公務員側から電話を切ることにはためらいがあるそうで、自分から電話を切れず、「担当者から折り返します」と言っても許してくれないため、3時間ずっと聞き続けなくてはいけないという状況がありました。テクニカルに準備はしていたのですが、それを上回る抗議があり、おそらく攻撃側でマニュアルも共有されていたというのが大きかった。今回参加作家たちが、この状況をなんとか乗り越えようとすごく動いてくれている。それは本当にありがたいと思っているし、トリエンナーレを崩壊させないために動いてくれている彼らに報いることが芸術監督としての責任ですし、なんとかうまい出口を見つけたいと思っています。

 

浅田 NHKの「クローズアップ現代+」で、「電凸」をやったというふたりが、思い返してみるとちょっとやりすぎたんじゃないか、展示が続いたほうがよかったんじゃないか、とか言っていたのは、素直な発言だと思いますよ。その場では生理的に激昂しちゃったものの、冷静になって考えてみると、あそこまでやることはなかったな、と。

カントを引くまでもなく、近代の主体は自己反省による自律に基づいている。例えば、誰かの批判に怒って激烈な反論の手紙を書いたとして、翌朝目が覚めて投函しに行く前に読み返してみて、「いや待てよ、これはやっぱり出さないでおこう」と思う。唯物論的に言えば、このタイム・ラグが自己反省を可能にしている。簡単に言えば、コミュニケーションが不便だったからなんですよ。いまは便利になりすぎて、自省と自制の余裕がなくなってしまったんです。

メディア論のパイオニアであるマクルーハンは、電子メディアによって世界は地球村(グローバル・ヴィレッジ)になるだろうと言った。都市(シティ)ではない。都市というのは個室での活字印刷本の黙読によって訓練された自律的(自省=自制的)な主体が前提となっており、公私の別がはっきりしていて、私的なところで怒り狂っていても、公的なところにそれを直接持ち込むのは自制することになっていた。それが電子メディアで覆われた地球村になってしまうと、公私の別もなくすべてがダダ漏れで共有される――感情に任せた暴言も、裏の取れていない噂も。悪い意味での村です。そこで秩序を維持しようと思ったら、中国で実現されつつあるような全面監視社会になってしまいかねない。難しい状況ですね。

 

津田 僕はネットの業界の人間なので少し補足します。例えばブログや掲示板などで投稿ボタンを押したときに、この内容で投稿しますかというプレビュー画面が入るものがあるんですよ。このプレビュー画面が一個挟まるだけでキャンセル率が高くなるんです。情動的に書こうと思って、パッと見たらちょっと書きすぎたかなと思って戻る。実はこういうコミュニティの設計によって荒れるか荒れないかが分かれるんですね。この裏返しとしては、人にいかに考えさせないかというのがネット・ショッピングで、アマゾンがなぜワン・クリックで買わせるのかといえば、確認画面を挟まないためなんですよ。確認画面が挟まるほど購入率が減っていく実証的なデータがある。できるだけ考えさせないで動物のように行動させるというのが、ショッピングだけでなく言論などにも広がった結果、いまのような状況になっているのかな、と。

               

「アートは異物を受け入れなかった」

質問者2 脅迫犯が捕まって、その後電凸の件数は減ったのでしょうか。また愛知県警が「FAXが匿名化されているために送信元がわからない」などと言ったことで、攻撃側も調子に乗った部分もある気がしていて、法の範囲内で警察がきちんと動かなかったことが問題を大きくしたように思うのですが、いかがでしょうか。

 

津田 捜査中なので表立って言えないことも多いですが、確かに不満なところもある、と同時に感謝しているところもあります。いわゆる縦割りということですが、凶悪犯の捜査は刑事課、会場の警備や街宣車対策は警備課がやる。愛知県警の警備課は大変協力的で、例えば僕は一時期、出ようと思ったイヴェントにすべて断わられるような状況だったんですが、私服警官が警備に当たってくれたりしました。これに対して刑事課は少し動きが遅い。ネット絡みの犯罪で難しそうだったら被害届を受け取ってもらえないんですよ、受け取って捕まえられなかったら検挙率に響いてしまうので。オリンピックや万博といった国際イヴェントを控えている中で、同じような愉快犯が来たときにどうするのかということもあるので、もう少し緊張感を持ってほしいなと思います。FAX脅迫犯の逮捕後、抗議は減っています。パンクしているときは1日200件ほどあったのが、いまは1日10件前後に減りました。その代わり1件1件が長くなっていますが。

 

質問者3 津田さんは今後アートの世界にかかわっていきたいと思いますか。

 

津田 そうですね、先日神戸で予定されていたシンポジウムがあったのですが中止になってしまって…

 

浅田 「アートは異物を受け入れるのか」というテーマで、津田さんがパネリストに入っていたのが、全体として中止されてしまった。やはり異物は排除される(笑)。

 

津田 「アートは異物を受け入れなかった」という結論が出ちゃったんだな、と(笑)。本業はもの書きなので、今回の騒動が落ち着いたら、1冊の本にまとめようとは思います。あと今回、芸術祭をつくっていく過程でアーティストをサポートするのが楽しかったです。僕が呼んできたような若手のアーティスト、例えば弓指寛治さんは良い作品をつくってくれたけど、だいぶリサーチを手伝っているんですよ。僕のようなジャーナリストのほうが、いろんなセクターとのつながりがあるし、具体的にアーティストの手助けがしやすいところがある。個人としてそういう手助けをやっていきたいと思いました。

 

質問者4(浄土複合・池田剛介) 正しい主張をするリベラル左派的なものがある時期まではそれなりに機能していたのが、ネットの影響も含め極端に右傾化してきているという話があったかと思います。同時に、「表現の不自由展・その後」において会田誠さんの作品がNGになったように、リベラルの側のポリティカル・コレクトネスを口実にした検閲のようなものが起こるケースもあるわけですよね。「あいちトリエンナーレ」の映像プログラムにも取り上げられていますが、吉開菜央さんの映像作品も、ICCで展示していた際、同和問題への配慮という名の下に作品に対して黒塗りが行われたりしている。そういった、右派からのそれとは異なる角度からの規制的な力についてはいかがでしょうか。

 

津田 まさに左派がずっとやってきたことを、俺らはその方法論でやっているだけだと右派は主張するんです。もちろん、左派からの抗議と、いまトリエンナーレで右派から起きている脅迫を伴う抗議はまったく異質なものなので、一緒にするのは危険なことですが。たださまざまな理由で圧力をかけてやめさせることは、これまで左派の側から起きていたことなんですよね。それは表現の自由で許された正当なことですけれども、それに対するルサンチマンが右派の側で溜まっていて、同じ方法でやり返されているのではないでしょうか。右派だけが悪いという形で思考停止してしまうと今回のような事態にもつながってしまうと思うんです。

               

多文化主義とグローバル資本主義の二重構造

質問者4(池田) おっしゃるように以前からあったものでもあると同時に、現代的な問題でもある気がするんです。こういう小さなスペースをやっている者として自戒も含めて言うわけですが、いまやどこから抗議なりクレームなりが起こるとも知れないので、全方位的に過剰な配慮を求める、そうした絶対安全なリスク・マネジメントによるセキュリティ意識が作用するケースもあるのではないかと。

 

津田 それはセキュリティの問題であると同時に、情報社会の問題でもあると思います。新聞とネットで起きていることだけを見ると、「あいちトリエンナーレ」ってどんな殺伐とした戦場なんだと思うかもしれないけど、現場はいたって平和なんで、その乖離が著しい。僕も毎日事務局にいるわけじゃなくて、会場の愛知県美術館や円頓寺商店街を巡回してスタッフに声がけしています。するとボランティアやお客さんから「応援しています」とか「ぜひ再開してください」とか、温かい声ばかりかけてもらえるんです。

アンケートを見ても非常に好評で、多くの人が「表現の不自由展」をなんとか再開してほしいと書いている。もちろん反対している県民もいるでしょう。しかしすべての人の声に応えることはできないんです。そして、いまは見る権利が侵害されていると同時に、不快な表現があった場合に見ない権利もある。実は「不自由展」はゾーニングしていたんですよ。順路の中に強制的に組み込むのではなくて、順路から外して見たい人だけ見てくれってことで入口には注意書きも書いていたんです。再開するときには、もし不快だったらあなたには見ない自由もある、ということをはっきりさせておく必要があるとも思います。

 

浅田 昔フランスでジャン・ジュネの『屏風』に関して大論争が起こったとき、シャルル・ド・ゴール大統領の下で文化相だったアンドレ・マルローが国会で大見得を切った演説は、昔から面白いと思っていたんですが、「あいちトリエンナーレ」の事件が起きてから、石田英敬さんが翻訳をネットに上げています。アルジェリア独立戦争のあげく、独立容認派のド・ゴールが第五共和制を樹立し大統領になって事態を収拾するんだけれど、アルジェリアで独立運動家の拷問で悪名をはせたジャン=マリ・ル・ペン(彼の創立した「国民戦線」は娘のマリーヌ・ル・ペンが継承し「国民連合」に変えた)のように絶対に独立を認めようとしない極右もいた。で、独立運動をアラブ人側から描いたジュネの『屏風』が1966年に国立劇場オデオン座で上演されたとき、彼らが激しい反対や妨害を展開し、2年後に68年5月革命でオデオン座が占拠される前触れとも言わる「屏風の戦い」が起こる。ド・ゴールもマルローも右派ですよ。しかし、マルローは開口いちばん、「自由はいつも清潔な手をしているとはかぎりません、だが、清潔な手をしてないからといって自由を捨ててしまう前に、自由とは何かをもう一度よく考えるべきです」と言う。そして「『この芝居は私の気持ちを傷つける、だから禁止すべきだ』というようにみなさんが考えるとすれば、それは異常な考え方だということです。理にかなったまっとうな考え方とは、次のようなものです。『この芝居があなたの気持ちを傷づけるとおっしゃるなら、その芝居の切符を買うのはおよしなさい。他の芝居を観に行けばいいでしょう。必ず観なければいけないという義務はあなたにはないのです』」と続け、国立劇場では古典もやっているし(カトリックの)クローデルもやっていると指摘する。そして、「『屏風』を上演するために国が助成金を出すべきかどうかが問題なのではないのです。国立劇場のような劇場で、ある一定の方向に向かう作品だけを上演すべきかどうか、が問題なのです」と言い、ここで検閲を始めたらそれは全国の劇場に波及するだろうと警告し、そもそもここで上演禁止にしたところで無意味だ、『屏風』はいたるところで何度となく再演されるだろうから、と指摘するんですね。

 

津田 「あいちトリエンナーレ2019」は全部で106の企画があって「不自由展」は106分の1。だから、見ない自由があり、あなたには他の105の選択肢がある。どんなに汚くても自由の手を取る必要があるという意味でいうと、僕は今回、その選択をしたんだろうなという気がしています。

 

浅田 マルローが面白いのは「そもそも、ゴヤが反スペインでないように、ジュネは反フランスではない、反人類であり反すべてなのです」と言うところ。日本の国会でもこれくらいのことを言ってのける政治家がいれば、日本も文化国家と言えるんですが。

ご質問の話に戻ると、現在の世界で支配的なイデオロギーは多文化主義(マルチカルチュラリズム)だと思います。日本なら日本の中でも、男性と女性の文化は違う、異性愛者とLGBTQ+の文化は違う、健常者と障害者の文化は違う、アイヌやウチナンチュー(沖縄人)の文化と本土の文化は違う、等々、多様な文化が混在していることを認め、マイノリティの文化も肯定しないといけない、と。しかし、そもそも文化というのは普遍化していく文明に対し個別性を強調して形成されるものだけれど、文化レヴェルの多文化主義の下には、グローバル資本主義という土台があるわけで、その二重構造全体を見なければいけないんですね。

そこで、多文化主義は「他者と他者の文化をリスペクトせよ」と言い、「他者を傷つけるな」と言う。それは正しい。しかし、グローバル資本主義は同じことを「クレームがきて賠償金の支払いを強いられる事態は避けよ」と言うんですね。確かに、誰も傷つけないように配慮しなければならない。しかし、それを制度化すると、「過激なことをしてクレームがきたり賠償金を払ったりするのは損だから当たり障りのないことだけやろう、今回の『あいちトリエンナーレ』みたいなことになったら大変だから」というので、どんどん自主規制が広がっていくわけです。本当は、そうやって「いかなる他者をも傷つけない」というのは、多文化主義の「他者をリスペクトせよ」という命令とは逆で、他者とまともに向き合うのを避けるということでしかないんですが――他者との深いコミュニケーションは自他を多少とも傷つけることなしには不可能でしょうから。そういう状況にあって、今回の事件のような表現の自由に対する野蛮な攻撃だけではなく、多文化主義やマイノリティ擁護の名を借りたポリティカリー・コレクトな自主規制にも注意しないといけない、いずれにせよ、きわめてクリティカルな事態に我々は直面しているのだと思います。

 

津田 国際芸術祭って多文化主義がすごくわかりやすく凝縮されていますよね。タニア・ブルゲラとか中南米の作家たちがなぜボイコットをしたのかをひとことで言うと、彼らからすれば、今回我々があの時点で中止をしたのは検閲にほかならないんですよ。僕らは検閲をしたつもりはないけれど、でもその意見はわかる。彼らを推薦し取りまとめたキュレーターのペドロ・レイエスが言っていたのですが、メキシコはジャーナリストが年間100人殺されるんです。表現することが比喩でなくリアルに命がけなんです。ブルゲラも何度も逮捕されてる。そのようなアクチュアリティを持っているアーティストにとって「電話が事務局に殺到して中止になりました」というのは、わけがわからないんですよね。「電話で人は殺されないじゃん」って。これはもう文化や社会状況のギャップの問題だし、そのギャップも含めてそれが露わになるのが国際芸術祭だと思います。だから、あえて他人事のように言えば、今回の「あいちトリエンナーレ」で、国際芸術祭で頻繁に起きているようなことが初めて日本で起きているという状況だと思います。

               

日本のアートや文化の底力が試されている

浅田 一般論として言えば、欧米でもアートは闘っていますよ。多文化主義が広がったおかげで、アフリカ系アメリカ人でもアメリカ合衆国大統領になれる。女性でもなれるだろう。マイノリティの存在と権利を承認するというレヴェルでは、これは偉大な進歩です。けれども、グローバル資本主義の層で言うと、ウォール・ストリートでリーマン・ショックのようなことが起こっても誰ひとり検挙されない。貧富の差が拡大する一方で、有効な再分配政策が打てない。言い換えれば、再分配問題では右派と大同小異になってしまった中道左派が承認問題で多文化主義を前面に出したのだとも言える。「マイノリティでもがんばればグローバル資本主義の最前線で成功できる」というわけだけれど、それができない大多数の人たちにとって、それは偽善にしか聞こえない。そこで、そういうマジョリティの支持を引き寄せてしまったのが、露悪に居直るトランプ、「オレがポリティカル・コレクトネスを気取る高学歴エリートどもの偽善を打ち砕いて、古き良きアメリカ、白人男性キリスト教徒が大いばりで闊歩できるアメリカを取り戻してやる」と叫ぶトランプだったわけです。

ただ、例えばトランプが大統領になってすぐ中東・アフリカ7ヶ国の出身者の入国を禁止する大統領令を出すと、すぐに複数の訴訟が起こって裁判所が大統領令を取り消す、と同時に、ニューヨーク近代美術館で、急遽、当該各国のアーティスト、例えばイラクのザハ・ハディドの作品を、ふだんピカソやマティスなんかを展示する常設スペースに並べた、あの機敏な対応には感心しました。あるいは、グッゲンハイム美術館に「ホワイトハウスに雪景色を描いたゴッホの絵を借りられないか」と打診があったときに、キュレーターのナンシー・スペクターが「いまちょっとゴッホはお貸しできないんですが、マウリツィオ・カテランの『アメリカ』ではいかがでしょうか」と。これは18金でできた本当の便器で、グッゲンハイム美術館のトイレで1年くらい使っていたことがある(笑)。それで、トランプの宣伝機関であるフォックス・ニュースのホストが激高して言うわけですよ、「これこそ思い上がったエリートの典型だ、彼女はトランプを侮辱しているが、それは大統領職と国家への侮辱だ、すぐに謝罪して辞任せよ」と――もちろん謝罪も辞任もしませんでしたけれど。実は、フォックス・ニュースの言い分には政治的には無視しがたいところがあって、「インテリぶった連中の思い上がりと偽善を許すな」というアジテーションが大衆をトランプに引きつけてしまうという現実はある。それにしても、アートが戦闘態勢でがんばっていることは事実で、日本で同じような状況になったらどうなのか、とは思います――というか、「あいちトリエンナーレ2019」で実際にそういう事態が発生したわけで、日本のアートや文化の底力が試されていると思いますね。

 

津田 そうですね。僕自身、最後まで闘わなくちゃいけないと思ってるんですけど、要するにわかりやすく世間や電凸をしてくる抗議者たちに対して「闘うぞ」と言った瞬間に、僕じゃなくて職員に攻撃が来てしまうので、その態度を“対外的”に貫くことができないんです。言葉を奪われている感は強いです。しかし芸術監督としては、最後に再開するために何が可能かを考えないといけない。そしてそれは職員が「やります」と言ってくれるような形でやるしかなくて、だからそこをどうしていくのか具体的な対策を含めて考えています。期間がもっと短くて組織が強固であれば闘える。しかし、大きな組織で闘う場合はスキも多くなるから慎重にやらなければいけなかった。このことは今回大きな学びになりました。

 

質問者5 今回の状況が改善して、対処について解決策がひとつでも出されれば、今後アートではなく一般社会にとっても良いと思います。

 

津田 それは本質を突いた指摘だと思います。今回起きてしまったことに対する責任はもちろん感じているのですが、同時にきちんと解決に向かうような道筋を示し、愛知県と日本の美術界にレガシーとして残さないといけない。例えば「電凸」の対応マニュアルをつくらなければいけないし、あるいは「行政は金は出すけど口は出さない」というアーツ・カウンシル的なものを愛知県に残していく議論をしないといけない。いままでの「あいちトリエンナーレ」の観客動員数は60万人くらい、今回は最高を記録しそうなんですが、それだけで成功とは言えないので、まず過去最大の観客動員とともにレガシーを残し、そして3年後にまた開催できるようにする、これらを実現することがディレクターとして果たさなければいけない責任だと思っています。

3年後にもっと十分な準備体制がつくれていれば、日本の美術業界のみならず僕がかかわるメディア業界にとっても大きなことなんです。新聞のインタビューで「公金を使った展示として適当だったと思いますか」という質問があったのですが、これは新聞にもかかわる問題です。新聞は消費税の軽減税率の対象ですから、間接的に税金が使われているとも言えるわけですから。だからメディアがそういう質問をするのは本当にまずいんじゃないかと思ったんですけど、そういうところも含めて日本の表現の自由の現在地なのかな、と。

 

浅田 トリエンナーレには「表現の不自由展・その後」だけではない、ほかにも印象的な作品がいろいろあった、その例として、高嶺格が豊田市の移転した高校の使われなくなったプールの底を屹立させた作品を最後にお見せします。これは傑作ですよ。「何だかわからないけれど力づけられる」という人も多いそうだし、今回の事件で疲れ果てたスタッフが「それでもこれを見たらまたやる気が出る」と言ったりもしたそうで、アートというのはまさにそういうものだと思いますね。2020年のオリンピックへの前もっての墓碑銘のようでもあるし…

 

津田 同時にこの作品は、アーティストが沖縄に行ったことがポイントなので、沖縄の碑とも言える。日本の中で沖縄だけが浮かされていて、中国や韓国との関係の中で矢面に立たされているとも解釈できる。本当に傑作です。

 

浅田 ここから丘を登った豊田市美術館のほうにも、望遠鏡で沖縄での辺野古への基地移設に反対するデモの現場を覗くという高嶺格のもうひとつの作品がありますからね。ともかく、プールの底を直立させる工事はかなり大変で相当な予算がかかった、その分は津田さんがファンド・レイジングをされたそうで、その意味でも津田さんは優秀な芸術監督だと思います。

               

「ヨコハマトリエンナーレ」への期待

浅田 というわけで2020年にはオリンピックがある、と同時期に裏で「ヨコハマトリエンナーレ2020」が開催される予定です。実を言うと、僕はアーティスティック・ディレクター選考委員会の委員長をやらされたんですが、一次審査で推薦されてきた人たちをみると、半分以上が外国人で、女性も多かった。それで結果的にラクス・メディア・コレクティヴという男性ふたり・女性ひとりのインドのチームを選びました。かれらが刺激的なトリエンナーレを実現してくれるよう期待しますし、皆さんにも注目していただきたいと思います。黒岩祐治神奈川知事が「表現の不自由展・その後」について「表現の自由から逸脱している」と述べ、神奈川県で同じ趣旨の企画展があったらという質問に「私は絶対に開催を認めない」と言ったようですが、「あいち」と違って「ヨコハマトリエンナーレ」は神奈川県ではなく横浜市の主催する行事ですから――とはいえ、林文子市長のバックにいるのは菅義偉官房長官なので楽観はできませんが(笑)。

 

津田 ラクス・メディア・コレクティヴやアーティストたちがそんなことを聞いたら、始まる前からボイコットとかありえるでしょうね。

 

浅田 二次審査に残った候補の提案は、人新世における環境問題の激化、それに対応する感性の教育やコモンズの形成とか何とか、最新流行のテーマを組み合わせた優等生的なものが多かった――水準は高かったのですが。その中で、ラクス・メディア・コレクティヴはちょっと違ったんです。いくつかの本をソース(原典)として共有し、みんながそれにインスパイアされたことをやってみよう、と。そこには、横浜の寄せ場で、もう亡くなってしまった日雇い労働者の話をずっと聞き書きした、イギリス人人類学者トム・ギルの『毎日あほうだんす――寿町の日雇い哲学者 西川紀光の世界』も含まれている。面白いことに、その人は日々の労働の苦しみを語るわけじゃなく、中沢新一経由で知ったと思しきドゥルーズ&ガタリの宇宙論なんかを滔々と語るんですよ(笑)。ストレンジャーがやって来て、もとからいたストレンジャーの話を聞く。その記録からインスパイアされて、また別のストレンジャーたちがそれぞれに想像力を働かせる。当然いろいろなコンフリクトが起こるでしょうが、それを含めての国際芸術祭なんですよ。

 

津田 聞こえてくるところでは、ラクスは「ヨコハマトリエンナーレ」でも、美術館よりも黄金町のような辺境のところを中心に展開したいらしいですね。

 

浅田 あと、大阪では2019年の夏に「堂島リバービエンナーレ」というのをやっていて、佐藤允がものによってはゲイのポルノグラフィのようにも見える絵を出品していたんですが、スポンサーが来て「こんなに露骨なものを描いているとは予想していなかった、やめてほしい」と言ったらしいんです。例えば自分で自分にフェラチオをする少年の絵はちょっと、と。それでプロデューサーもディレクターもがんばったようだけれど、アーティストは「それなら梱包して出します」と言って問題の数点を紙で包んだ。梱包して出さなきゃいけない国なんだってことを見せる、と。それは面白いと思いましたね。愛知県美術館の「これからの写真」展(2014年)で鷹野隆大の「おれと」のゲイのカップルのヌード写真に性器が写っているのが問題になったとき、写真の下半分(ものによっては全部)を布や紙で隠したのと似ていなくもない…

 

津田 「あいちトリエンナーレ」のモニカ・メイヤーとも近いですね。本来は女性が受けたセクシャル・ハラスメントなどを紙に書いて貼り出すという参加型アートだったんですが、紙に書かれたものは全部片づけられて、質問用紙がビリビリに破られた様子を見せることになり、強烈な作品に仕上がっています。

 

浅田 結果的に、そのほうが鮮烈な印象を与えたとも言えますね。「堂島リバービエンナーレ」全体としては、ジャン=リュック・ゴダールの『イメージの本』とゲルハルト・リヒターの『アトラス』の出会いが軸で、無数のイメージを集積した『アトラス』のかなりの部分とその無数の映像を「底なしの深さのなさ」へと乱反射する『8枚のガラス』が展示されていました。リヒターは旧東ドイツで社会主義リアリズムの教育を受けていたのが、ポップ・アートを見てこれは資本主義リアリズムだと思ったという人で、だから徹底したポストモダニストとも言えるんです。『アトラス』では、一部分にアウシュヴィッツの写真があり、その横にポルノ写真が並べられている――すべてはもはや並列されるイメージでしかない、うまくフレーム・アップすればどんなイメージでも偉大な絵画に見せかけられる、と言わんばかりに。本当は、佐藤允の作品よりこちらのほうがきつい毒を含んでいるとも言えるんです。むろん、だからいけないというのではない。そういう毒を含んだ作品も含め、すべてが堂々と公開されなければならない。そういう表現の自由が、いま、ひとつの関門に差し掛かっているのは確かでしょう。「あいちトリエンナーレ2019」に関する議論を継続・発展させながらここを乗り越えることが重要だと思います。

 

津田 「表現の不自由展・その後」は会期終了までになんとか再開したいと思っています。ハードルは高すぎるんですけど、あの展示を再開したらほぼすべてのアーティストが戻ってくると約束してくれていて、そうすると本来のトリエンナーレの姿をお見せすることができる。展示を中断しているタニア・ブルゲラが「いままで何十回も検閲されてきたけれども、検閲された作品が会期中に回復したトリエンナーレっていうのはほとんど知らない。それがもし実現すれば国際社会にも大きなメッセージになる」と言ってくれた。彼らの思いに応えることが僕は何よりも大事だと思っているのでがんばります。会期終了に向けて、トリエンナーレもどんどん動きがあると思いますので、ぜひお越しいただければありがたいです。今日はどうもありがとうございました。





 
あさだ・あきら

批評家。京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。

 
つだ・だいすけ

「あいちトリエンナーレ2019」芸術監督。ジャーナリスト/メディア・アクティビスト。

(2020年1月11日公開)




この対談は、2019年9月6日に京都の浄土複合スクールで行われました。開幕3日目に中止された「表現の不自由展・その後」は、閉幕1週間前の10月8日に展示が再開されました。

「あいちトリエンナーレ2019」公式サイト
https://aichitriennale.jp/