対談:ホー・ツーニェン×浅田彰
《旅館アポリア》をめぐって

あいちトリエンナーレ2019






あいちトリエンナーレ2019が波乱の内に閉幕する前日に、主会場のひとつである豊田市で参加アーティストと批評家による対談が行われた。対談のテーマは、近現代史に材を取った新作インスタレーション。神風特攻隊、京都学派の哲学者たち、小津安二郎、横山隆一……さまざまな要素が盛り込まれた作品はどのようにつくられたのか。作品が持つ現代的意味とは何か。スリリングな対談を、ほぼ完全な形で採録した。

構成:編集部
通訳:田村かのこ
翻訳:新井知行
写真:谷川ヒロシ(展示写真とも)
協力:あいちトリエンナーレ2019

 

浅田 最初に、あいちトリエンナーレ全体について話しておきたいと思います。昨日は台風19号が吹き荒れましたが、あいちトリエンナーレは「表現の不自由展・その後」をめぐって、「メディア台風」に襲われた。つまり、ネット右翼が巻き起こしマス・メディアにまで広がったストームですね。それはたいへん不幸なことでしたが、いよいよ終幕前日といういまの段階で言うと、限定された形ではあれ「表現の不自由展・その後」が再公開され、トリエンナーレ全体がこの大嵐を見事にサヴァイヴしたと言っていいのではないか。これは、トリエンナーレ実行委員長の大村秀章愛知県知事、アーティスティック・ディレクターの津田大介さん、キュレーターやスタッフ、そして何よりもアーティスト――特に「ReFreedom_Aichi」という集団を自発的につくって活動してきたアーティストの皆さんの、機敏で且つ粘り強い努力によるものであり、心から敬意を表します(そこには内部矛盾もあったわけですが、それはむしろいいことでしょう)。結果として、今回のトリエンナーレは表面的な成功に終わるよりもずっと大きな意味を持った。もちろん、問題が解決されたわけではなく、これからも闘争は続くけれども、今回のトリエンナーレがそういう歴史的な意味を持つということを確認しておきたいと思います。以上は私の個人的な感想であり、今日のホー・ツーニェンさんとの対談はこれから始まります。

               

小津安二郎と横山隆一

浅田 さて、ホー・ツーニェンさんは豊田市の喜楽亭全体を《旅館アポリア》という手の込んだ作品に仕立て上げた。このタイトルは、ルカーチがアドルノを批判して言った「Grand Hotel Abgrund(グランド・ホテル深淵)」の日本版みたいなものですね。ルカーチは繊細な感性を持った文芸批評家でしたが、マルクス主義者として、マルクス主義の現実的な実現とされる戦後の東ドイツのスターリン主義的な公式イデオロギーを受け入れた。それに対し、ホルクハイマーやアドルノのようなフランクフルト学派の人たちは、資本主義にノーと言うけれどもスターリン主義的な現存社会主義にもノーと言う立場だった。あれでもない、これでもない、と言って、いわば深淵に向かって否定を重ねていく。その否定弁証法は非常にラディカルに見えるけれど、ルカーチは「アドルノ君、君は『深淵』という名のグランド・ホテルでぬくぬくと滞在しているだけではないのかね」と言ったわけです。ついでに言うと、ホルクハイマーは昔、パリに行くとリュテシアというホテルに泊まっていたらしい。僕はそのことを知らずに、パリでジャック・デリダと会うときはこのホテルを使っていました。もしかしたらそのオテル・リュテシアが「グランド・ホテル深淵」の由来なのかもしれません。いずれにせよ、フランクフルト学派は、否定を通じて肯定へ、階級闘争を通じて革命へという、単純な肯定的弁証法がもう成り立たないところで、否定弁証法に賭けようとし、ルカーチは「そんなのは『グランド・ホテル深淵』で優雅に議論しているだけじゃないか」と言ったんですね。それを意識しつつ、「グランド・ホテル深淵」ならぬ《旅館アポリア》という虚構の空間の中で、西田幾多郎や田邊元らの京都学派とその戦争協力の問題を考え直すというのは、非常にウィッティで面白い。そこでまず、こうして、喜楽亭という旅館から、神風パイロットの話へ、それを通じて京都学派の哲学、そして小津安二郎の映画や横山隆一の漫画といった話へ連想の糸を紡いでいかれた、それをどうやって思いつかれたのか話していただけますか。

 

ホー こんにちは。みなさん、お越しいただきありがとうございます。プロジェクトの始まりを語ること、すべてがそこから始まったという起源を特定することはいつも、捏造や神話化なしには難しいんですが、やってみます。

これが始まりだったと言いうる契機をひとつ特定しなければならないとしたら、おそらく、喜楽亭という建物でプロジェクトをやってほしいという依頼をキュレーターの能勢陽子さんから受けたときということになるでしょう。能勢さんの依頼は最初、この建物の中に「古いアジアと新しいアジア」に関する何かをつくってほしいというものでした。それが始まりであり、私はこの建物に興味を持ったので、能勢さんに情報を求めました。能勢さんはこの建物に関する資料の調査に取り掛かり、喜楽亭の元女将のインタヴューを見つけました。女将はその中で、神風特攻隊のひとつだった草薙隊が出撃前夜に喜楽亭で最後の夕食を摂ったという話をしていました。また、戦後に彼らの家族が喜楽亭を訪ねて来て、お酒を飲んで、息子たちを偲んで歌を歌ったとも語っていました。

このエピソードが私に深く刺さりました。おそらくそのころ、このプロジェクトがどういうものになるか私はまだよくわかっていなかったと思いますが、それよりだいぶ前に京都学派に関するリサーチを始めていたので、そのリサーチとこの神風特攻隊のエピソードがともかくつながったわけです。

この作品のもうひとりの主要な登場人物である小津安二郎についてもお話しするべきでしょう。私が小津の全映画をまとめて観たのは18年前くらいだったと思います。いくつかの映画には、男性の主人公がかつての戦友に出会い、一緒に酔っ払って軍歌を歌うというシーンがありました。その中にシンガポールに言及している歌があって、とてもうれしくなったのを覚えています。その後、小津が1942年から1945年までシンガポールにいたということを知りました。それで、10年か15年くらい前から、私はずっと小津のシンガポールでの生活について、彼がシンガポールで何をしていたのか、どのように過ごしていたのか、もっと知りたいと思っていたんです。

この関心が、神風特攻隊のエピソードと、現在進行形の京都学派への関心と、ひとつに織り合わされていきました。そして、喜楽亭の旅館としての本来の機能、つまり、いろいろな登場人物がいろいろな部屋にいるという状態、そして日本の歴史における特に複雑な時代を生きたということにおいてのみ彼らが結びついているという状態を想像するようになったわけです。

あいちトリエンナーレ2019の展示風景
ホー・ツーニェン《旅館アポリア》2019
Photo: Hiroshi Tanigawa


浅田 横山隆一の漫画も出てきますよね。もちろん彼だけではなくて、田河水泡の『のらくろ』とか、島田啓三の『冒険ダン吉』とか、いろんな漫画が子供たちを戦争に駆り立てるイデオロギー的役割を果たした。その中のひとりとして、横山隆一も《旅館アポリア》の一部屋に招致されている。それも含めて、この作品全体が映画でいうグランド・ホテル形式――いろんな部屋にいろんな人がいて、それぞれの人生を生きているけれど、例えばそこで火事が起こったりして、ひとつの運命を共有することになる、という形式になっているんですね。《旅館アポリア》の滞在客には小津安二郎も含まれるけれど、《旅館アポリア》全体が「グランド・ホテル深淵」の日本版であると同時に、グランド・ホテル形式の映画のように見えました。

 

ホー シンガポールや東南アジアの国々に日本から派遣されていたプロパガンダ部隊について調べているときに、横山隆一のことを知りました。横山は小津と面白いコントラストをなしています。横山は『フクチャンの潜水艦』というプロパガンダ映画をつくりましたが、小津は、インドのラディカルな独立主義者スバス・チャンドラ・ボースについての映画をつくるためにシンガポールに派遣されていたにも関わらず、映画は撮らなかったようです。英国がシンガポールに戻ってくる前にその映画の台本を焼いたという話を読みました。小津は、私の知る限りでは、シンガポールでの日々について公に話してはいません。

 

浅田 彼はシンガポールで与えられた仕事をせず、日本で観られなかったアメリカ映画をたくさん観ていたんですよね。

 

ホー そうです。シンガポールには、小津がたくさん酒を飲み、大いに水泳やテニスを楽しみ、日本軍が押収したアメリカ映画を観ていたという記録があります。『風と共に去りぬ』を観たり、『市民ケーン』を観て傑作だと思ったりしていたようです。なので、彼は基本的に、戦時中いい暮らしをしていたと思います。

横山はこれとはだいぶ違っています。彼の記念館が高知に出来た後に行なわれたインタヴューがあります。インタヴュワーの桜本富雄は横山を不意打ちしただろう、横山は彼にインタヴューされたくはなかっただろう、と私は思っています。桜本は横山に、自分の戦争貢献についてどう思っているかと質問しました。横山は後悔していませんでした。彼は、国に要請されたらいまでも同じことをすると言いました。小津と横山は、異なる選択を体現しているというだけでなく、非常に異なる人生の戦略を体現していて、とても興味深い対比を成していると思います。

あいちトリエンナーレ2019の展示風景
ホー・ツーニェン《旅館アポリア》2019
Photo: Hiroshi Tanigawa


               

京都学派の問題

浅田 この作品の中に出てくる京都学派について、予備知識を持たない聴衆の方々のためにきわめて基本的なことを言うと、ふたつ大きな問題があると思います。ひとつは、特に西田幾多郎に言えることですが、ロジカルというよりはレトリカルだということ。もうひとつは総じて非常に図式的だということです。

前者に関しては、鈴木大拙と比較してみればいい。彼は西田と同世代で親しい関係にありましたが、禅をはじめとする仏教について英語で書き、ジョン・ケージや抽象表現主義者といったモダニストたちにも大きな影響を与えた。大拙がかなりロジカルに書いていて、わかりやすかったからでしょう。しかし西田は、それより真面目だったというか、座禅などの体験において体で感じ取るべきこと、言葉で言えないことを言葉で言おうとしているので、非常に無理のあるレトリックを反復していくことになるんですね。だからロジカルに理解することがとても難しい。西田に比べて田邊元はロジカルだとは思いますが。

後者は京都学派一般に関して言えることで、特に西洋に対する東洋という形で非常に図式的な議論を組み立てるきらいがあるということです。例えば西洋思想では全体論と要素論、全体主義と個人主義が対立しているが、東洋思想は全体でも要素でもない「関係のネットワーク」に重点を置くものであって、その東洋的関係主義によって西洋の二項対立は超えられる、というわけですね。「人の間」と書いて「人間」というように、人間は全体の一部でもなくバラバラの主体でもなく、関係のひとつの結節点である、と。西洋では全体主義と個人主義の二項対立がある。全体主義の中でもスターリンの共産主義とムッソリーニやヒトラーのファシズムが対立しており、それらに対して英米の自由資本主義が対立している。そうした対立を、関係主義、あるいは京都学派左派だった三木清の言う協同主義で乗り越えられる、と。要するに、東洋の知恵によって西洋の二項対立を全部乗り越えられる、それこそが西洋近代の超克だ、というわけです。しかし、それは図式的な言語ゲームの上での超克であって、現実的に関係主義とはいかなるものか、協同主義はどういう制度なのかというと、よくわからないんですね。

ついでに言うと、西田も1938年から京都大学で行った講義『日本文化の問題』でそういうことを言っているんですが、41年のはじめごろ、真珠湾攻撃より前に、天皇を前にした「御講書始」において、いま言ったようなことを生物学のメタファーで話しています。生物学者でいらっしゃる陛下はよくご存じのことと思いますが、森というのは全体でひとつというのでもないし、バラバラの動植物の総和でもない、エコロジカルな関係のネットワークなのであります、といった感じですね。だから社会もそうでなくてはいけない。アジアに関しても、西洋に代わって日本が全体を帝国主義的に支配するのではなく、トランスナショナルかつエコロジカルなネットワークとしての大東亜共栄圏を築くべきだ。日本はその先導役を務めるべきだけれども、西洋の植民地主義・帝国主義に取って代わる新しいヘゲモンになってはいけない、と。京都学派の主張は総じてこうしたもので、耳障りはいいのですが、それが日本の植民地主義・帝国主義を美化するイデオロギーでしかなかったのは明らかでしょう。京都学派は海軍に近く、陸軍のあからさまな全体主義・帝国主義に対して最低限のリベラリズムを守ろうとしたのだ――そういう見方はある程度は正しいものの、大きく見れば海軍も陸軍と同罪であり、京都学派も同様だと言わざるを得ません。

ひとことだけ付け加えると、西田が禅の体験などについて言っていることは、東洋武術の人がよく言うことに似ています。西洋では、筋肉の鎧をまとい、さらに鉄の鎧をまとった剛直な主体がぶつかり合って闘争が起こり、その結果、次のものが出てくる。これが西洋の弁証法だ。東洋は違う。水のように自在な存在として、相手の攻撃を柔らかく受け止め、相手の力をひゅっとひねることで相手が勝手に倒れるように仕向ける、と。西田の好んだ表現で言えば「己を空しうして他を包む」というわけです。ブルース・リーと同じことで、「水のようであれ(Be formless, shapeless, like water)」という彼の言葉を香港の民主化運動家たちが運動の指針としているのは面白いことではあります。ただ、西田は『日本文化の問題』の中で、それを天皇制と結びつけるんですね。西洋には「私は在りて在るもの(存在の中の存在)だ」という神がおり、神から王権を与えられて「朕は国家なり(国家、それは私だ)」という絶対君主がいる。それが近代では大統領などになり、そういうものを頂く国家が、上から植民地主義・帝国主義で世界を支配しようとするわけです。しかし、東洋は違う。そもそも、日本の天皇は「朕は国家なり」とは絶対に言わない。むしろ、皇室とは究極の「無の場所」であって、だからこそすべてを柔らかく包摂し、トランスナショナルかつエコロジカルな大東亜共栄圏の中心ならざる中心になりうる、というわけです。美しいレトリックではある。しかし、「無の場所」としての皇室がアジア全体を柔らかく包むと言われて、アジア人が納得するとは僕には思えませんが。

 

ホー 田邊は天皇が「絶対無」の象徴になるべきだと言っています。この考えはレトリカルにも美学的にも興味深い。でも、浅田さんが最初に言及された鈴木大拙に少し戻りたいと思います。私が鈴木のことを知ったのは、ジョン・ケージについていろいろと読んでいたときです。「カリフォルニア的禅」とでも言いますか、そういうものに対する鈴木の影響について知りました。でもそれより前の鈴木の著作を読んで、強い違和感を持ったと言わざるを得ません。戦後、鈴木は西洋で平和主義者として知られていたと思いますが、たしか1896年、日清戦争直後に、彼は中国との戦争は宗教的行為であると言っているんです。ですから、それ以降に大きな変化があったものと思われます。

他の京都学派の人々が言っていること、例えば『中央公論』に掲載された座談会などを読むと、彼らは戦争に反対していたと言えることは言えます。ただ、彼らが反対していたのはアメリカとの戦争だけであって、アジア諸国との戦争に反対していたわけではないようです。まるで、アジア諸国との間で起こっていたことは戦争と見なすことさえできないかのようで、浅田さんがおっしゃった大東亜共栄圏の理念の下に、日本がアジアに対して発揮するべき道徳的リーダーシップとして、ほとんど正当とされているのです。

浅田さんが指摘された非一貫性は西田の思考システムにも散見されます。でも私は、これらの非一貫性は西田の思考さえ超えて、もっと深く広く蔓延していると思っています。西田そのものを時代の徴候のひとつと見ているんです。例えば禅と武士文化の緊密な関係ですが、浅田さんが語られた禅の柔らかさや液体的な性質の中にも、武士の刀のような硬さが同時にあると思う。私が京都学派に興味を持ったのも、まさにそうした非一貫性や矛盾においてでした。そしてこれは、日本の汎アジア主義における矛盾とどこか通じていると思います。ユートピア的な次元で起こったこの動きが、私には非常に間違ったものに見えてきたし、アジア諸国の多くの人々にもそう見えたでしょう。私にとって、こうした矛盾こそがアポリアであり、先ほど話に出た「深淵」なのです。

もう少し続けると、こうした非一貫性は汎アジア主義の概念それ自体にも見られると思います。真に汎アジア的であるためには、アジア諸国間の国境を何らかの形で解消しなければならない。しかし、20世紀初頭の日本における汎アジア主義的言説は、それが同時にきわめてナショナリスティックな運動だったことを示しています。そういう意味で、20世紀初頭の日本には、歴史に関する非常に興味深く豊かな鉱脈が見られます。当時、アジア各地のナショナリスティックで反植民地主義的な多くの指導者たちが、日本の右翼的で汎アジア的な組織とつながりを持っていたのです。それにはヴェトナムのナショナリスト、インドのナショナリスト、あるいは中国の孫文のような人も含まれます。人が同時に汎アジア主義者かつナショナリストであることができるという、興味深い矛盾がそこにはあります。

やがて私はこの矛盾を、先ほど浅田さんが言及された、「空」や「虚無」の概念に内在する非一貫性、そしてそれを明確に述べることの難しさに結びつけて考えるようになりました。こうして「虚無」はとても柔軟な概念となり、容易に形を変えながら、さまざまな政治的目的に利用することができるようになる。例えばこのようなことを西田と彼の遺産について考えているんです。でも同時に、こういう批判的なことを一通り言った上でですが、私は西田の最初の著作『善の研究』を読んでずいぶんエモーショナルに感動してもいるんです。この本の難解さは悪名高いですけれども、それでも、簡単に言ってしまえば、西洋とどう向き合うか、東洋・西洋とは何を意味するのかという苦悩、そして歴史のこの段階における思考の新しい基礎をつくろうという野心を読み取ることができます。この野心そのものは感動的で、このようなものは現在そう簡単には見つけられないと思います。

 
            

もうひとりのゲスト、谷崎潤一郎

浅田 さっき、西田はレトリカル過ぎるのに対して、鈴木は明快で、だからこそ全世界に禅の考え方を広めるのに貢献した、と言いました。でも裏を返せば僕はホーさんと同意見で、どちらが深いかと言えば、それは西田のほうだと思います。彼は、自分でも整理が付かないような深い葛藤を抱えながら生き、そして考えていた。それに対して、鈴木は悪く言うと薄っぺらく見えます。

真珠湾攻撃の直前に始まって翌年まで続いた3回の座談会をまとめた『世界史的立場と日本』という本があります。ホーさんがおっしゃったように『中央公論』に掲載されたもので、西田や田邊の弟子だった高坂正顕、高山岩男、鈴木成高、西谷啓治の4人がメンバーでした。さらに、真珠湾攻撃の少し後には、今度は文学者たちも含めて「近代の超克」という大座談会が行われ、『文学界』に掲載されました。京都学派に加えて、日本浪漫派の(本当は保田與重郎が中心ですが)亀井勝一郎が参加し、『文學界』グループも参加していました(このように京都学派、日本浪漫派、『文學界』グループというふうに整理したのは橋川文三で、それは竹内好に引き継がれました)。

西田はある意味で深く、その分晦渋でわかりにくいのに対して、『世界史的立場と日本』の4人は西洋対東洋という図式にそって明快に議論を進めている。だからわかりやすいけれど「それで?」という感じがする。形式的な抽象論で、無内容なんです。それに対して、日本浪漫派は、いわば「見る前に跳べ」と言う。「空虚に向かって身を投げよ」と言うんですね。他方、小林秀雄をはじめとする『文學界』グループは、西洋文学を深く理解していて、西洋近代というのはそんなに単純なものではなく、簡単に超克することなどできるわけがない、とわかっていました。ここで、神風パイロットたちが自分のモティヴェーションを探していたときに、どれがいちばん心に響いたかと言えば、京都学派のような図式的な抽象論よりも、日本浪漫派のファナティックなアジテーション、「何のために死ぬのかはわからないが、しかし俺はもう死ぬと決めたのだ」という、悪い意味での空虚への投身への誘いのほうだったかもしれないという気がします。ホーさんは、いわば喜楽亭を戦闘機にしてしまったというか、二階で巨大なファンが回っているところはまさに戦闘機のプロペラのようで、その前に立つと京都学派だけでなく日本浪漫派のことも考えさせられました。

あともうひとり、《旅館アポリア》にいたら面白いと思うのは、谷崎潤一郎です。『中央公論』の1943年1月号には京都学派の3回の座談会の最後である「總力戰の哲學」が掲載されており、3月号には「總力戰と思想戰」という高山岩男のエッセイが載っています。この1月号はなかなかのもので、新連載として島崎藤村の『東方の門』と谷崎潤一郎の『細雪』も載っている。表紙の左に「總力戰の哲學」、右に『東方の門』『細雪』のタイトルが並んでいるんですが、いま見れば圧倒的に『細雪』の勝利でしょう。藤村は8月に亡くなるので、『東方の門』は連載が始まってすぐに中断され、未完の作品となります。他方、谷崎の『細雪』は、哲学者や歴史家が「總力戰の哲學」を熱く論じている傍らで、大阪の商家の4人の姉妹が、「新しい帯がきゅきゅっと鳴るのは嫌だ」とか言って騒ぐとか、どうでもいいような日常生活のディテールを延々と書いている。すごいですよ。これがすごいということは権力もよくわかっていて圧力をかけたらしく、早くも6月号には連載中断の「お斷り」というのが出る。「引きつづき本誌に連載豫定でありました谷崎潤一郎氏の長篇小説『細雪』は、決戦段階たる現下の諸要請よりみて、或ひは好ましからざる影響あるやを省み、この點遺憾に堪へず、ここに自肅的立場から今後の掲載を中止いたしました」と。現在の表現の自由の問題と絡めてみると面白くて、ここから進歩しているのかどうかわかりませんけど(笑)、谷崎は戦争中もひそかに『細雪』を書き続け、「總力戰の哲學」が忘れ去られたいまも読み継がれる大作を完成させるわけです。そういう意味で、《旅館アポリア》のどこかの部屋で谷崎がひとり机に向かっていてもいいのではないかと思いますね。

 

ホー 実際、私がこの旅館に招待したいと最初に思った「お客様」のひとりが谷崎でした。最終的に、彼はゲスト出演のような形で作品中に存在することになりました。《旅館アポリア》の大きな送風機がある部屋で、谷崎の『陰翳礼讃』に言及しています。彼は伝統的な日本家屋における床の間について書いていて、電灯は床の間の闇を損なってしまうと言っています。谷崎にとって、床の間は常に薄暗くなくてはならない。「虚無」や「空」は直視してはいけないものだからです。電灯を使うと、床の間の空無があまりに明らかになってしまう。私たちは「無」をあまりに明らかに見てしまってはいけないのだと。私はこれが、「絶対無」という概念を基盤に思考を組み立てた京都学派に対する、ありうる最も賢明な注釈のひとつだと思っていました。絶対無は、それをちょっと薄暗がりや影で覆ってあげたほうが良いものになると言えるのかもしれません。

 

浅田 《旅館アポリア》で谷崎を引用されていることは、以前に見て知っていたんですが、忘れてしまっていて申し訳ないことでした。《旅館アポリア》には谷崎のゴーストもいて、京都学派を内側から批判しているというわけですね。

 

ホー 谷崎の本は、喜楽亭の空間を理解する上でも非常に重要な示唆を与えてくれました。私は普段からプロジェクションを使うヴィデオ・アーティストとして活動していて、作品はブラック・ボックスやホワイト・キューブなど、還元的に言ってしまえば、いわゆる西洋のアート・スペースの形や寸法を持った空間で展示されることが多い。例えば、観客の影が出ないように高い位置にプロジェクターを設置するには、天井の高さが必要なわけです。ところが、喜楽亭のような天井の低い空間でプロジェクションを行なうと、まったく違った状況になってきます。初めて喜楽亭を訪れたとき、可能な限り静かに、身をかがめて歩かなければならないという感覚を持ったのをいまでも覚えています。それはまるで、常にお辞儀をしているかのようでした。プロジェクターやスピーカーに信号を送るケーブルをどう処理するかについても悩みました。谷崎は伝統的日本家屋の中で電化製品のケーブルを引き回すことについて非常に批判的でしたから。かなり早い段階から私たちは、建物の内装に合う色の木材だけを使い、かつ釘を一本も打ち込まずにスクリーンを設置するにはどうすればいいか、技術スタッフと話し合っていました。そういう意味で、谷崎は単にゴーストとして存在しているだけではなく、空間の物理的な設営をめぐってこの作品に遍在していると言えます。

               

谷崎と小津の共通点

ホー もう一人の遍在的なゲストである小津に戻ると、喜楽亭で低い位置に設置されたスクリーンに投影された映像を畳に座って観るというこの作品の状況は、ただちに小津のカメラ位置を思い起こさせます。彼の映画の屋内ショットにおいてカメラが、こう言ってよければ、西洋の映画のそれより低い位置に据えられていることは有名です。それは彼の映画の登場人物の多くが畳に座った状態で撮影されているからです。このような空間的布置の知覚と経験について考えることが、私にとって、東と西の遭遇あるいは衝突という古い問題に立ち戻る興味深い方法となりました。

 

浅田 それは僕も気づいていました。ちなみに、谷崎に関するありがちな偏見は、彼が西洋の明るい外延的な空間を否定し日本の暗い内包的な空間にこもった、という見方です。しかし、谷崎は基本的に快適な生活が好きな快楽主義者で、実は電化生活をしながら電気のケーブルは隠している。陰翳を愛しているのも、ゴージャスな着物が、上から電気照明を当てられたときより、下からゆらめく灯明に照らされたときのほうが、美しく見えるからである。つまり、座禅堂のように質素で暗い空間で自己と向かい合うというより、陰影の中にゴージャスなものがひそかにきらめくのを見たいだけなんです。実際、谷崎は早くから映画に興味を持ち、映画の原作小説も書いているし、映画化されると女優たちと付き合ったりもしていた。だから、確かに谷崎の趣味と小津の美学は随分違うとしても、案外似たところも多いのではないか、小津がシンガポールに派遣されながら肝心の大東亜共栄圏のための映画を撮らず、安楽な生活をしながら日本で観られなかったアメリカ映画ばかり観ていたというのは、谷崎的な態度と言えるのではないか、とも思いました。

 

ホー 小津は非常にモダンな人だという印象を私は持っています。それは写真で彼の生活ぶりや服装を見ても感じることです。谷崎や小津のような人の作品では、伝統と現代という問題が非常に複雑に展開し、ある種の曖昧さに到達します。私の好きな、《旅館アポリア》でも引用している『晩春』のショットでは、笠智衆が本を鞄にしまっているんですが、その本がニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』であることが一瞬見えます。一見ファミリードラマである小津のこの映画に、このドイツの哲学者が登場するというだけでも面白いのですが、私はこれは確実に意図的な選択だと思います。

実際、『晩春』の別のシーンでは、笠智衆が電車で雑誌を読んでいるんですが、その雑誌がかつて京都学派の座談会が掲載された『中央公論』であることが見てとれます。そういったさまざまな参照項が、彼の映画のテクスチュアに非常に繊細に織り込まれている。明快な、簡単に分類できるような立場表明の不在が、彼らの作品をどこまでも豊かにしていると思います。彼らはすでにアポリアなんです。なので、彼らは《旅館アポリア》のお客様として完璧でした。

文学と哲学の間での議論に戻ると、私は《旅館アポリア》を、京都学派、神風特攻隊、小津、横山などについての作品というよりも、それらの間にあるもの、あるいはそれらの下にあるものについての作品として構想したと思っています。「下」と言うとまるで確固とした深い基底のように聞こえますから、たぶん「間を通り過ぎてゆくもの」、例えば風のようなものと言ったほうがいいでしょう。実際、風はこの作品に繰り返し現われるモチーフで、神風として、あるいは西谷啓治の「空」をめぐる風として登場します。

《旅館アポリア》に取り組んでいる間ずっと、私の大きな疑問のひとつは、何がこの作品のポイントなのかということでした。ある確実な一点に向かって自分が進んでいるようには思えず、その心配が作品を完成するまでずっと続き、完成してみて初めて、ポイントがないということがこの作品のポイントだったんだと気づきました。

 

浅田 リサーチ・ベースト・アートと称し、歴史や民俗などの研究をして、それをアートワークに仕立て上げるという流行が強まってきている。それは必ずしも悪いことではない。ただ、場合によっては、「これならアート作品をつくるより歴史学や人類学・民族学のレポートや本を書いたほうがいいんじゃないか」と思うものもあります。その点、《旅館アポリア》は、一貫したレポートや本にまとめられないものだからこそアート作品として見せなければならないという意味で、まさにアート作品以外の何ものでもないと思います。いまホーさんがおっしゃったことはその点できわめて重要で、京都学派や谷崎潤一郎や小津安二郎や横山隆一に関する周到なリサーチに基づき、神風パイロットを見送る宴が開かれた旅館に彼らが配置されている、しかしいちばん重要なのは彼らの間を吹き抜けてる風なんですね。

豊田市には、一方に高嶺格が閉校した高等学校のプールの底を垂直に屹立させた作品、来るべきオリンピックへの沈黙のエピタフ(墓碑)みたいな作品があり、意味はわからなくとも、あるいはそれゆえにこそ、多くの観客を感動させてきた。あれは沈黙によってたくさんのノイズを発しているような作品です。対して、ホーさんの《旅館アポリア》では、いろいろな声が矛盾を孕みながら響き合っていて、その間を風やカタカタというノイズが走り抜けていく。このふたつの傑作を豊田市で体験することができただけでも、「あいちトリエンナーレ」には大きな意味があったと思います。

               

闘争はこれからも続く

質問者1 小津の映画の登場人物がすべて顔なしになっていたことに感動しました。あのアイデアはどこから生まれたのか、どういう考えでそうしたのかを聞かせて下さい。

 

ホー いくつか理由があります。まず、顔を消去することによって、彼らが誰でもありうるし誰でもないという状態をつくりたかったからです。彼らの顔は、観客が何らかの顔をそこに投影するスクリーンになるわけです。次に、日本の観客の多くが小津の映画や常連俳優に親しんでいるだろうと想定していたからです。彼らが顔のない映像を見ながらそれらの顔を思い出すことで、異なる時間性が作品に加わります。過去に小津の映画を観た経験の時間が起動し、たったいま起きている《旅館アポリア》との遭遇に重ねられ、層をつくるわけです。三つ目の理由としては、顔を消すことで著作権の問題がクリアしやすくなるかと思ったんですが、それについては定かではありません(笑)。

 

質問者2 観た感想として、肯定的な印象と否定的な印象が入り混じっています。ひとつには「顔がない」イメージに関してですが、日本人の匿名的なイメージというか、伝統的な日本人一般を表象しているように思えました。かつて小津映画は伝統的な日本人を描いているという評価をされていましたが、蓮實重彦さんはそれを批判する形で小津論を書いたように思います。ホー・ツーニェンさんはこの作品をつくるうえで、蓮實さんの著作を読まれましたか。

 

浅田 通訳してもらっている間に僕が勝手に言うと、あの顔のない人間をみて、伝統的な日本人像だと思う人はいないでしょう。「これは笠智衆だ」とか「これは原節子だ」とか思ってしまうと「あの映画だ」と特定されてしまうから、それを「どれでもない、しかし小津のものである映画」にするために顔を消しているだけだと思います。ある種、SF映画みたいにしてしまっているという言い方はできるかもしれませんが、伝統的な日本人像への回帰だとか、それが昔から小津について言われてきた紋切型への回帰だとかいうのは、むしろ逆でしょう。

 

ホー 顔を消去するというのは、私にとっては、特定のタイプの人間を表象しようということではなく、何も表象しないということ、それをできる限り空っぽな容れ物にするということでした。おっしゃった本が英訳されているかどうかわかりません。私自身のリサーチの範囲は英語の本に限られていました。それが私の限界であり、《旅館アポリア》の脚本が私と能勢陽子さん、ドラマトゥルク兼リサーチャーの新井知行さんとのEメールのやりとり、彼らの日本語の資料や素材への取り組みという形式を取っていることの理由でもあります。この対話的な形式が、この作品をつくるための、そしてそのプロセスから何かを明らかにするための唯一可能な、率直な形式であると思われました。でもあなたがおっしゃったその本は読んでみたいですね。

 

質問者3  浅田先生は先ほどトリエンナーレが成功裏に終わったというふうにおっしゃっていましたが、今回の件で次のトリエンナーレが何らかの影響を受けてしまうのではと心配しています。先生はどう思われているでしょうか。

 

浅田 僕は先生と呼ばれるのは嫌です(笑)。肩書きとして「思想家」と書かれているけれども、思想家や哲学者を自称したことは一度もなくて、単なる一介の批評家です。その上で言うと、成功裏に終わったという楽天的なことを言ったつもりはなく、大きなトラブルになって、これからが大変だろうとも言ったつもりです。会期の終わりが近づいて、愛知県が「表現の不自由展・その後」の再開に向けて動くと報じられたとたん、文化庁が採択済みだった補助金の交付をやめるという無茶苦茶なことを言い出しました。だから、これからどんどん闘争が続くんですよ。だけど、そういう国にいま我々は生きているんだということがわかっただけでも、「トリエンナーレでいろんなものが見られてよかった」で終わるよりよかったんじゃないか。というか、アートを含む文化一般はつねにイデオロギー闘争の場なんです。それにアクティヴィストとして関わっていく人もいれば、アクティヴィズムから距離を置く人もいるでしょう。最初に言ったように、僕は、実行委員長の知事とアーティスティック・ディレクターが最後まで粘り腰で頑張ったのは大したものだと思うけれど、彼らが一時的にせよ検閲を行ったと批判するアーティストがいてもいいでしょう。そうした矛盾を孕みつつ、キュレーターもアーティストもそれぞれの立場から忍耐強く創意工夫をもって闘争を続け、限定された形ではあるけれども、最後の段階になって、公開中止になっていた展示が再開されるところまで漕ぎつけた。これはひとつの成果であり、今後の闘争にとっても大きなヒントになるだろうと評価しています。

 

同質問者 今回の一連の騒動で、展示を取りやめたアーティストもいると思うのですが、ホーさんは展示の存続に関して何か考えましたか。

 

ホー あいちトリエンナーレに参加しているすべての作家と同様、私も自分の作品を取り下げることを真剣に考えました。でも同時に、私の作品が提示している問いがトリエンナーレに起こっていることにどこかつながっているのではないかという気がしていました。それで、作品を展示したままにして、それが状況と共鳴するに任せるというのが最も生産的な選択肢なのではないかと思うに至りました。作品を取り下げたアーティストたちは、とても難しい、痛みを伴う決断をしたと思います。そして作品を取り下げなかったアーティストたちもまた、難しい選択をしたのだと思っています。

 

浅田 私もそういうことに触発されて、今日配付した簡単なハンドアウトに京都学派と谷崎潤一郎が並ぶ『中央公論』の表紙を入れておいた。それはホーさんが引用するいくつかのテーマと響き合うと同時に、表現の自由をめぐる現在の状況とも響き合っていると思います。





 
HO Tzu Nyen

1976年シンガポール生まれ。神話や歴史、伝承、物語の探究を通じて作品を制作し、映像、インスタレーション、サウンド、演劇など様々な形式で発表する。主な個展に「The Critical Dictionary of Southeast Asia Volume 3: N for Names」クンストフェライン・ハンブルク(2018)、「MAMプロジェクト016:ホー・ツーニェン(何子彦)」森美術館(2012)、国際展に第54回ヴェネチア・ビエンナーレ シンガポール館(2011年)、舞台作品に『一頭あるいは数頭のトラ』KAAT(神奈川芸術劇場)/ TPAM (国際舞台芸術ミーティングin横浜)2018など。2020年2月9日まで台中の國立台湾美術館で開催中の2019 Asian Art Biennial を共同キュレーションした。

 
あさだ・あきら

批評家。京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。

(2020年1月5日公開)




この対談は、あいちトリエンナーレ2019の企画として、2019年10月13日に豊田産業文化センター小ホールで開催されました。ホー・ツーニェンの《旅館アポリア》については、以下のサイトをご覧下さい。

あいちトリエンナーレ2019公式サイト
https://aichitriennale.jp/artwork/T04.html

小崎哲哉によるレビュー
http://realkyoto.jp/review/ho-tzu-nyen_ozaki/