芸術論の新たな転回 01 星野太(2)
(Interview series by 池田剛介)
それでもなお、レトリックを――星野太『崇高の修辞学』をめぐって2



 
インタビュー:星野太
聞き手:池田剛介

表象不可能性の問題

星野 いまの流れに関連して、すごく通俗的な話をしますけれど、現代の美術作家の中で最も頻繁に崇高という言葉が言われるのは池田亮司でしょう。浅田彰さんもかつて、池田亮司と高谷史郎のふたりを対比して、池田亮司は崇高へ、高谷史郎は美へと向かっているという図式を出していました【「池田亮司による池田亮司 浅田彰との対話」『池田亮司 +/- [the infinite between 0 and 1] 』東京都現代美術館、2009年、101頁】。それこそ伝統的な崇高と美という対立をパロディ的に用いながら、元ダムタイプのふたりの作品を鮮やかに対比してみせた。事実、池田亮司の作品は露骨に崇高なわけですよね。最近のどの作品を挙げてもいいんですが、2010年のあいちトリエンナーレで発表された天空に光が伸びていく作品とか、サブライム以外の何ものでもない(笑)。光だし、垂直だし、ザ・崇高みたいな作品なわけですよね。そのほかのインスタレーション作品を見ても、池田亮司の作品は一貫してサブライム型です。

池田 把握しえない膨大なデータを一挙に提示して、その把握不可能性を通じて崇高が喚起される、と。

星野 念のために付け加えておくと、僕は池田亮司は好きですよ(笑)。けれど、ひとつの語られ方として、池田亮司に代表されるようなある種の作家に対するクリシェ化した崇高というものがある。それに対して、僕がこの本で修辞学的崇高、あるいは「テクスチュアル・サブライム」という言い方で名指そうとしているのは、池田さんがおっしゃったように、日常的に生じるちょっとしたズレのような、あるいはブレヒト的に言うなら異化のような、そういう日常的な経験の崩壊に近いものなんですね。

池田 ちょっとボケてしまう、みたいな感じと近いかなと。ちなみに池田亮司のあいちでの作品は、垂直的な超シンボリックな光であると同時に、どうもあの光に鳥やら虫やらが集まってきていたらしく、まったくの物質的な光として動物たちによって異化される(笑)。その辺は面白いと思うんです。

星野 こういう話をしていると、飴屋法水が2010年のフェスティバル/トーキョー(F/T)で発表した《わたしのすがた》を思い出したりもします。あの作品は形式的にはツアーパフォーマンスで、西巣鴨から出発して、池袋周辺を2時間くらいかけて巡礼するというものでした。その作品を自分がどう経験したかということを、以前『10+1』の年末アンケートに書いたことがあります。先ほど池田さんがボケとおっしゃったように、僕は《わたしのすがた》を経験しながら完全に混乱してしまった。西巣鴨を出て地図を片手に街を歩き回っていたら飴屋さんがその辺を歩いていて、なんだこりゃと思って(笑)。それで道を歩いている人がみな演者に見えてくるし、しかも地図の見方がおかしかったのか完全に道に迷ってしまって、そもそもこの手渡された地図からして嘘なのではないかという、それこそアイロニカルな疑念がどんどん湧いてきてしまった。最終的にはそれぞれのスポットをぐるぐる回って帰ってきたんですが、別にスペクタキュラーな仕掛けがあるわけでもない。けれどもそれは、自分にとっては地面の底が抜けたような経験でした。ド・マンについての章は、そんなベクトルを持った非−超越的なサブライムについて考えようとしたものである、と言っていいかもしれません。

池田 まさにそう思うんですね。いわゆる美学的崇高で言われるような表象不可能性の議論って、すごく倫理的な態度を要請するような深遠なテーマになりがちなんだけれど、そうではなくて、むしろすごく日常的な言語経験と地続きにありながら、そこからちょっとズレる、そこからの小さな裂け目っていうのを扱おうとしている感じがするんですね。そして、その含みを最大限に理解した上で、しかしかろうじて聞くと、表象不可能性のような議論ともう1回通じてしまう部分もなくはないのかなという気もするんですけど、いかがでしょうか。

星野 表象不可能性という話もちょっと復習的に見ていきましょうか。崇高というテーマそのものが、80年代に一度リバイバルして、90年代になって再び貧しいものになったのではないかと思います。いまから振り返って思うのは、それは何よりも崇高が表象不可能性の問題と結びついてしまったからだと思うんですね。自分の観測範囲では、表象不可能性の問題がさかんに論じられるようになったのは、クロード・ランズマンの『ショア』(1985)以来だと思います。いかなるフィクションもホロコーストの残酷さを描くことはできないという前提があって(当時、特に槍玉に挙げられたのはスティーヴン・スピルバーグの『シンドラーのリスト』[1993]です)、それに対してランズマンの『ショア』は、ホロコーストについて適切に語れない関係者たちの沈黙を通じて、その表象不可能性を提示するという仕立てになっていたわけですね。そこで、リオタールの崇高論などに顕著ですが、崇高=表象不可能性という図式が作り上げられてしまう。表象不可能性というのは、カントの崇高論で言われる理性理念の「表出不可能性」に対応するものですが、いまから振り返ってみると、ここで多くの人々が決定的に思考停止に陥ってしまったという印象がある。

2000年代に入り、そのような傾向に対してはっきり「ノー」と言ったのがジャック・ランシエールとジョルジュ・ディディ=ユベルマンです。ランシエールは『イメージの運命』(2003)の中で、ランズマンを含め、彼のフォロワーたちが言っている表象不可能性というのは実際には表象の禁止に過ぎないと指摘している【「表象不可能なものがあるのかどうか」『イメージの運命』堀潤之訳、平凡社、2010年】。表象不可能性というのは事実のレベルにおける可能性の問題だから、ショアが表象できないなどということは原理的に考えればありえないわけですね。だから、ランズマン周辺の表象不可能性をめぐる議論は、実は表象の禁止を訴えているに過ぎないと。しかも、その表象不可能な出来事を唯一(否定的に)表象できるのが『ショア』であるという、否定神学的な構図にすらなっていている。ランシエールが言っているのは、いかなる出来事もなんらかの仕方で表象可能なのだから、むしろそれをいかなる方法によって表象するかが重要である、というごくあたりまえの話なんですけどね。

池田 その意味で言うと表象のための技術が問題である、という今回の修辞の話とつながっていくわけですね。

星野 そうですね。ディディ=ユベルマンは『イメージ、それでもなお』(2003)の中で、ゾンダーコマンド(強制収容所内で死体処理を行わされた囚人)によって隠し撮りされたアウシュヴィッツの4枚の写真が持つ意義を最大限に強調しています【『イメージ、それでもなお――アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』橋本一径訳、平凡社、2006年】。ランズマンのように、収容所の写真が現実に存在するという事実から目を背けるのではなく、なおかつそれをトリミングのような手段によって美化するのでもなく、そこから命がけでもぎ取られたイメージを全力で擁護する。

そもそもの発端となったのは、2001年にパリで開催された《収容所の記憶》という展覧会でした。それまで象徴的に利用されるにとどまっていた収容所の資料を、同展はなるべくオリジナルに近い姿で(例えば従来なされていたようなトリミングを排して)提示した。これにランズマンが激昂し、そのカタログに寄稿していたディディ=ユベルマンと、ランズマン陣営に属するジェラール・ヴァジュマンらとの論争が2000年代初頭ににわかに活性化する。いま挙げた固有名からもわかるように、以上の表象不可能性をめぐる論争は実はかなりローカルなものなのですが、いずれにせよそれらを経て、崇高の概念もまた表象不可能性をめぐる議論からようやく切り離されつつある、というのがおおよその現状認識です。で、その上でもう1回、表象不可能性の問題と絡めて考えないと、というのが先ほどの池田さんのご質問の主旨でしょうか。

池田 というよりも、アイロニーという危うい比喩を通じて言語が言語として成立しているリミットに至り、言語が勝手に作動していくというのは、表象不可能性の議論として読まれかねない部分もあるのかな、ということでしょうか。確かにそこに修辞のリミットがあり、そこに至って崇高の修辞をめぐる系譜そのものが瓦解する、というのは必然性のあるものだと思うのですけど、そうやって修辞的なものが瓦解する手前で、崇高をめぐるいくつかの形象的なモチーフが取り上げられていた点も、同時に興味深く思いました。


 

崇高と曲線的形象(1):放物線

池田 なので、この本の中にアイロニー的な決定不可能性からの出口があるんじゃないかと、そういう見立てをしてみたい。例えばドゥギーをめぐる議論では、超越論的に上へと向かう動きと、それが経験的に落ちていく、その中間を頂点として放物線を描くような、パラボリックな崇高という概念が提示されています。このドゥギーのパラボリックに倣う仕方で、修辞学のリミットから引き返しながら、別のいくつかの出口を見つけられればと思うんです。ドゥギーによるパラボリック(parabolique=放物線状)とラクー=ラバルトによるイぺルボロジック(hyperbologique=双曲線状、誇張論理的)というふたつが提示されているわけですが、これらは未だ修辞の瓦解にまで至ることなく曲線的な形象を保っているように思えます。

星野 ドゥギーの章(第七章)で主題化している「パラボリック」というのは「放物線状の」という意味なので、文字通り頂点が上にくるマイナスの2次関数の形です。もう一方のラクー=ラバルトの章(第八章)で論じている「イペルボリック(hyperbolique)」というのはフランス語で「誇張(法)的な」という意味で、これは数学の用語だと双曲線になる。そういう意味では、拙著における崇高論のふたつの現代的なバリエーションは両方とも形象的なイメージを持っていて、僕自身も気に入っているんですね。

ドゥギーの言っていることはわりとわかりやすくて、崇高というのは語源的に上(高さ、頂上)へと向かうことが定められている。ギリシア語の「ヒュプソス(hypsos=崇高))というのは本来「高さ」という意味だし、それに対応するラテン語の「スブリミス(sublimis)」にも「上昇」のニュアンスが含まれています。しかし、特に近代以前であれば、当然そこには神との関係というものがあるから、我々の世界に対する超越的な世界という二元論が想定されてしまう。そうなると、崇高の持つ超越の運動が、人間的な秩序から神的な秩序へと超越的に突き抜けていくイメージが与えられてしまうわけです。ドゥギーは、そこで超越性をうまく回避しようとする。崇高というのは、思考(詩や哲学)が高みへと上昇していく人間的な運動であるというわけです。それは限りなく神的なものであるかに見えながら、最終的に上方へと突き抜けないというか、放物線の極点のように一瞬だけ上昇と下降のベクトルが釣り合う、その1点だけを求めるというような思考なわけですね。

池田 上昇と下降の均衡点で宙吊りになると。

星野 そう、宙吊りになる。それで墜落したらまた上昇すればいい。そういう無限の往復運動のような、ある意味では真っ当なことを言っていると思うんですよ。つまり高みを目指せと。それは最終的にはご破算になるけれども、またもう一度やれという、シーシュポスの神話のような話なわけです。そういう意味では、ドゥギーの議論そのものはきわめて抽象的ですが、ある面ではすごく真っ当なことを言っている。

池田 先ほど、美学的崇高の例で池田亮司を出されたけれど、そのカウンターパートとして、というかその傍にひとつの例を挙げておきたいと思うんです。ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラーというアーティストの《40声のモテット》(2001)という作品なんですが、40台のスピーカーを並べて、それぞれのスピーカーから40人それぞれの聖歌隊の声が発せられて合唱となる。神に捧げる歌が始まり、その終わりへと向けて盛り上がってゆきながら、歌が終わって沈黙が訪れる。ここまでは普通の意味で崇高なのですが、沈黙の後しばらくすると40台のスピーカーから歌い終わった聖歌隊メンバーたちの雑談が聞こえてくるんですね。まったく日常的というか形而下的なノイズが立ち現れる。やがてまた高みに向かって歌が始まるわけですが、これはすごくパラボリックな意味での崇高と親和性が高いんじゃないかと思うんですよ。垂直に高みへと向かう運動から横に逸れながら曲線化する感じかな。

星野 まさにドゥギーの話を例示したような作品ですね。


 

崇高と曲線的形象(2):双曲線

星野 それに比べるとラクー=ラバルトのほうが難しいかな。単純に言ってしまうと、ラクー=ラバルトは(フリードリヒ・)ヘルダーリンの詩を論じながら、極大と極小は入れ替え可能だという話をしています。最も賢いものが最も狂っており、最も狂っているものが最も賢いという、その極大と極小がある特権的なポイントにおいて入れ替え可能になってしまうという事態です。極端に知的な人は狂人と見分けがつかない、逆もしかり、ということですね。そうしたことを双曲線の形象に託して論じている。

池田 ここでは誇張のことも言われていますね。

星野 誇張の問題はドゥギーとラクー=ラバルトの議論の両方に出てくるんですが、それぞれ異なる論理が展開されている。ラクー=ラバルトの場合、誇張が限度を過ぎると、本来狙われていた効果とはまったく反対のものに転じてしまうというポイントが強調されている。

池田 節度が必要であると。

星野 そう、ほどほどに誇張することが誇張法には必要であると。ただし、これはロンギノスを含めた古代の修辞学において、すでに広く共有されていた戒めではありますが。

池田 この誇張の問題にも関連すると思うのですが、ラクー=ラバルトで面白かったのは光の比喩を使っていて、これはロンギノスから来ているのでしょうけれど、修辞の技術と真理との関連で、ぼんやりとした光が偉大な光に打ち消される、ということを言う。偉大な光というのは崇高な真理の光なわけですが、その光を可視化するのは人間的な技術の光なわけですね。この人間的な技術を、崇高の光が覆い隠す、と。しかしこれは変な話でもあって、そもそも技術なしには真理そのものが現れてこないわけですから。いずれにせよ、技術の人為的な光と真理の自然的な光とが対立するのではなく、ひとつのキアスム的な関係を結ぶ。人為的な光は崇高な光を生み出しながら、しかしその崇高な光によって隠されなければならない、というこれも節度の問題につながるわけですね。

星野 ロンギノスに即して言うと、偉大な光に相当するのが「思考」と「パトス」という、崇高の中でも生得的な要因とされるふたつの要素です。思考とパトスの輝きが、技術的な細工を覆い隠してしまう、と。

ラクー=ラバルトの読みの面白いところは、ロンギノスの著作の中に光というモチーフが繰り返し出てくる点に注目していることです。いま挙げたような「偉大な光」だけではなくて、例えばデモステネスに触れながら、「落雷のような」という言葉が出てきたりもする。光そのものが崇高であるというこの前提から、従来とは違った仕方で美と崇高の関係を練り上げていこうとする。崇高さがすべてを覆い隠す特権的な光であるとするなら、崇高なものは崇高なものとして現れてはいけない。最も完璧なテクネーはピュシスのように見え、最も完璧なピュシスはテクネーのように見えるという、その相互的な関係が極まった地点が、まさしく崇高な地点だというわけですね。ラクー=ラバルトによれば、崇高は美が美であることを可能にする不可視の光なのだから、崇高がそれとして認識されてしまったら、もはやそれは崇高ではない。それが先ほどの誇張法の議論につながってくる。

池田 そこで極大値と極小値が反転する、と。完全な真理こそが技術のように見えてしまうという逆説が成立する。このピュシスとテクネーのあいだの相補的な関係については、星野さんの本の第Ⅰ部で、ロンギノスの崇高論を再読しながら丁寧に取り出されています。基本的に僕たちは、真理(ピュシス)と人為的な技術(テクネー)との関係を上下関係あるいは対立関係として考えがちなんだけれども、ロンギノスのテクストの中に、それらが絡み合う相補的な関係、強く言えばこれらが共犯関係を成している点が検討されています。



 
パンタシアーと情念の伝達

池田 第Ⅰ部のロンギノスの再検討の中で、いちばんの毒というか、危険な香りのする部分がパンタシアーと情念(パトス)をめぐる第二章かな、という気がしました。修辞を通じて情念の伝達が起こる。パンタシアーはそもそも特定の具体的な現実に対応する「表象」という意味だったそうですが、ロンギノスのテクストの中で現れてくるその概念の中に、実在的現実に紐づけされない「空想」や「幻覚」にも近い意味が含まれていくことになる、と。この分析の中で、アリストテレスやストア派を踏まえた当時の文脈的な背景が詳らかにされていく。こういう緻密な仕事をされる姿勢に僕なんかは素朴に感動します(笑)。

星野 パンタシアーとパトスの問題を扱った第二章は、この本の中で最も思想史的な色合いが濃い部分かと思います。「パンタシアー(phantasia)」というのは本書にとって非常に重要な概念で、このギリシア語は後にラテン語の「イマギナチオ(imaginatio)」という言葉に翻訳されます。これはいまでいうところの「イマジネーション」ですね。一方でパンタシアーという言葉は、近代の言葉だと「ファンタジー」という言葉に継承される。このパンタシアーとイマギナチオというギリシア・ラテンの言葉が、今日の「想像力」「空想」「イメージ」という言葉すべてに流れ込んでいる。この本ではそれほど紙幅を割いてはいませんが、この問題はロマン主義の時代におけるイメージの位置づけにも深く関わってきます。

つまり、どのような種類の表象や想像力をよしとするかとするパラダイムには一定の移り変わりがある。例えば、この章ではストア派の話を長々としているんですが、ストア派の場合、称揚されるべき表象というのは明らかに実在する対応物を持った表象である。彼らの言葉で言うと、「把握された表象」というのがありうべき表象であって、逆に実在的な対応物を持たない表象は、幻覚や錯覚として劣位に置かれる。それがポジティブなものになってくるのが、後のシャルル・ボードレールにおいてであったりする。しかし、遡ればロンギノスの内に、そのような空想や幻覚を生ぜしめるような想像力が既に賛美されている。この意味において、ロマン主義的なイメージ論の萌芽として『崇高論』を読み直すことも不可能ではない(もちろんこの点については少なからぬ先行研究が存在します)。その上で言うと、確かに池田さんがおっしゃったように、これはなかなか危うい議論でもある。つまり、文学的な想像力について考えるときに空想なり幻覚なりを称揚するのはわかるけれども、実際にみんなが幻覚を見ていたらやばいわけですよね。

池田 実際、近代になってニコラ・ボワローがロンギノスの仏訳を行う中で、この概念の中の空想や幻覚に当たる部分を脱臭しつつ、新古典主義的な理想に沿うように書き換える、みたいなことが行われたりする。

星野 そうか、いまそれを言われて、なるほどと思いました!

池田 え、そうなの?(笑)。

星野 いやいや、でも、確かにボワローもバークも、まさにその点をこそ崇高論から排除しているわけですよね。ボワローは自らの『崇高論』の翻訳において、バークは『崇高と美の観念の起源』の像に関する議論の中で、同じように言語芸術から像の介在を排除するという方向に向かっている。ある意味では、それは『崇高論』の最もやばい部分を近代において排除したというふうにも言えますね。

池田 言葉を通じたイメージは、ある現実の再現としてのミメーシスと思われがちなんだけれど、ここではイメージのポイエーシスあるいは変形と言ってもいいかもしれないけれども、そういう生成の次元がおそらくある。

具体的に修辞というか表現の問題で面白いなと思ったのは、複数の言葉の圧縮的短絡の例ですね。何のテクストだったか、嵐の中の水夫たちの表現で、ふたつの言葉がひとつに圧縮されて新たな言葉を生成しながら、切迫した場面のパトスが伝達される。こういう具体的な技術とパトスの伝達が強く結びついているところなどは表現論としてすごく面白い。

星野 ホメロスですね。その話は僕もひとつの具体例として面白いなと思っています。ロンギノスがホメロスに言及するときに、ホメロスがふたつの前置詞を圧縮しているという話を紹介している。具体的に言うと、ホメロスは水夫たちが恐怖を抱いている場面を描くときに「死の底から」という表現を用いているのですが、そこでは「hupo」と「ek」つまり「under」と「from」に相当する前置詞を圧縮して、「hupek」というひとつの前置詞を作ってしまっている。

池田 いいですね。切迫し過ぎて言葉がくっついてしまう(笑)。

星野 この前置詞の圧縮というのは、まさしく水夫たちが抱いているパトスの迫真的な表象=再現前(representation)であると、ドゥギーも指摘しています。このような文章表現上の技術こそが、あるパトスを正確に、ミメティックに表現することができる。それはミメティック(模倣的)であると同時にポイエティック(創造的)な技術でもあり、こうした技術の次元がパトスの議論の中でも重要になってくる。

池田 一応、全体の中の大まかなポイントをさらいつつ、今日初めのところで話したパトスの伝達の問題に戻ってきたところで本に即した話をひと区切りして、これまでの議論をベースに、それをさらに外に開いていく仕方で、さらに議論できればと思います。

(2017年3月5日、元新道小学校・池田剛介アトリエにて/2017年5月9日公開)


▶ 星野太『崇高の修辞学』をめぐって3



 
 

ほしの・ふとし
1983年生まれ。美学、表象文化論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、金沢美術工芸大学講師。著書に『崇高の修辞学』(月曜社、2017年)、共著に『コンテンポラリー・アート・セオリー』(イオスアートブックス、2013年)、共訳書にカンタン・メイヤスー『有限性の後で』(共訳、人文書院、2016年)などがある。

 
いけだ・こうすけ
1980年生まれ。美術作家。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。自然現象、生態系、エネルギーへの関心をめぐりながら制作活動を行う。近年の展示に「Malformed Objects-無数の異なる身体のためのブリコラージュ」(山本現代、2017)、「Regeneration Movement」(国立台湾美術館、2016)、「あいちトリエンナーレ2013」など。近年の論考に「虚構としてのフォームへ」(『早稲田文学』 2017年初夏号)、「干渉性の美学へむけて」(『現代思想』2014年1月号)など。

 
 

〈C O N T E N T S〉
芸術論の新たな転回 01 星野太(Interview series by 池田剛介)
星野太『崇高の修辞学』をめぐって1
・星野太『崇高の修辞学』をめぐって2
星野太『崇高の修辞学』をめぐって3