特別寄稿

アラーキーは殺されるべきか?


飯沢耕太郎

荒木経惟さんのモデルだったKaoRiさんがブログに投稿した「その知識、本当に正しいですか?」という文章が大きな話題になっている。
https://note.mu/kaori_la_danse/n/nb0b7c2a59b65

とても真っ当な内容で、荒木さんの「ミューズ」だったはずの彼女が、契約書や金銭的な対価もほとんどなく「モノのように扱い続け」られてきたこと、自分のイメージが、荒木さん及び編集者を含む複数の関係者によって勝手に作り変えられ、そのことによって疲弊し、精神的、身体的に大きなダメージを受けたにもかかわらず、何のフォローもなかったことなどが、むしろ淡々と綴られている。単純に荒木さんを非難し、告発するというのではなく、事実を事実として認め合うことを求めた文章は、「お互いにお互いを尊重しあって発展する世の中になりますように」と結ばれる。

荒木さんとKaoRiさんの当事者同士の問題に口を挟むつもりはない。ただ、この文章に対する反応を見ると、荒木さんの写真のバックグラウンドを理解せずに、かなり感情的に非難するものが多いように思う。それはあまり好ましくないので、現時点での僕の見解を明らかにしておきたいと考えて、この一文を綴ることにした。

 

KaoRiさんの文章を読んで一番強く感じたのは、「時代は変わった」ということだ。僕が写真評論家として、荒木さんと彼の写真にきちんと付き合うようようになったのは1990年代だが、その頃とは荒木さんとモデルとの関係のあり方、そして時代状況そのものが、大きく変わってしまったのだ。

1990年代には、荒木さんに撮られることを願って押しかけてくるモデル志望の女性たちがたくさんいた。しかも、緊縛を含む過激なヌードモデルである。KaoRiさん自身はそう書いていないが、彼女の文章を読んで、荒木さんがこれまで無理やり、強制的にヌードを撮り続けてきたと思われた方がいるとすれば、それは違っている。むしろ、モデル志望の女性たちは、荒木さんに積極的に撮られたがっていたのだ。

なぜ、そうだったのかといえば、彼女たちを取り巻く社会状況が、いまよりずっときつかったからではないだろうか。家族や学校や職場の拘束はもっと強く、自己実現のハードルは高かった。「ヌードになる」という選択は、彼女たちの心とからだを、自分の手でコントロールしたいという強い欲求のあらわれでもあった。当時、「セルフヌード」が流行していたことを思い出す。カメラ操作ができる子たちは、自分で脱いで自分で撮り始めた。だが、それがいろいろな理由でむずかしい場合は、誰かに撮ってもらいたいと思っていたはずだ。その誰か、彼女たちにとって最も魅力的と思えた一人が荒木さんだったのだ。

なぜ荒木さんだったのか、ということについてはいくつか理由があるだろう。むろん、写真が抜群にうまいということがある。荒木さんが、もう一人の自分、秘められた内なるエロスの力を引き出す手練手管を備えていることを、彼女たちは本能的に察知していた。もう一つ大事なのは、荒木さんが『センチメンタルな旅・冬の旅』(1991年)の作者だったということだろう。愛妻の死の前後を撮り続けた写真は、荒木さんが、ワルぶってはいても実は「優しい」写真家であるという物語を流布するのに大きな役目を果たした。陽子さんのように見守られたいという思いもまた広く共有されていたのではないだろうか。

当時、荒木さんとモデルたちとの、いわば共依存とでもいうべき関係のあり方を鋭く見抜いていたアーティストがいた。今回、荒木さんについてのいろいろな文章を読み返してみて、驚くべき予見に満ちたこのエッセイを発見した。森村泰昌が『ユリイカ』1996年1月臨時増刊「総特集=荒木経惟 写真戯作者の55年」に執筆した「アラーキー殺害計画の真相」である。森村はそこでこう書いている。

「私の考えでは、簡単にいうとアラーキーとは彼女たちにとって道具に過ぎないのである。なんの道具か。セルフポートレイトのである。本当なら自分で撮ればいいものだけれども、写真機を持っていなくて、写真技術もない人間が、手っ取り早くセルフポートレイトを撮ろうとすれば、写真機を持っていて写真が上手でしかもオンナ好きのおじさんがいれば、これを利用しない手はないであろう。アラーキーはそんな便利な道具なのである。[中略]実はこういうカラクリのことをもっともよく知っているのがアラーキー自身なのかもしれないと私はひそかに思う。いつか自分は自分の撮っている女の子達に殺されて、捨てられるだろうということを知っていて、徹底的に行くところまで行くことに彼は決めたのかもしれない、やがては彼女達が写真機を持つことになる。いや事実持ち始めた。そうなればアラーキーという道具は廃棄処分にされる。」

実に正確な分析だと思う。荒木さんは彼女たちにとって、確かに素晴らしい「セルフポートレイト」を撮ってくれる「便利な道具」だったのだ。

そして荒木さんの側にも、彼女たちを「こう撮りたい」という強固なイメージがあった。それは「娼婦」である。荒木家の菩提寺で、生家の前にあった浄閑寺は、身寄りのない吉原の遊女が亡くなるとその遺骸が投げ込まれたということで、「投げ込み寺」の異名を持つ。そのことが荒木さんの深層心理に作用していただけでなく、戦前から戦後にかけて、「娼婦」のイメージは、男たちの性的なファンタジーの大きな部分を占めていた。なかにし礼が作詞した「時には娼婦のように」(1978年)を思い出していただければいいだろう。「時には娼婦のように/淫らな女になりな/真っ赤な口紅つけて/黒い靴下をはいて/大きく脚をひろげて/片目をつぶってみせな」。ちなみに、なかにし礼は1938年生まれ。1940年生まれの荒木さんとは同世代である。

荒木さんは、その「娼婦」のイメージをモデルたちに重ね合わせようとした。そして彼女たちの中にも、それに呼応できる身体的な記憶のようなものがまだ備わっていた。かつて日本映画について、「女優は娼婦役、男優は兵隊役をやらせると見事にはまる」とよく言われた。娼婦や兵士から滲み出る悲哀感は、日本社会の貧しさの名残りといえる。それは高度経済成長期を経て、バブルが弾けた1990年代にも、まだかろうじて共有可能なイメージとして残っていたのではないだろうか。

 

 

だが「時代は変わった」。森村泰昌の予見の通り、モデルたちは「写真機」を持ち始めた。デジタル化の進行、カメラ付き携帯の出現により、「写真機を持っていなくて、写真技術もない人間」など、もはやどこにもいなくなった。インスタグラムのようなSNSには、彼女たちの自己実現、自己表現の成果があふれかえっている。荒木さんを「便利な道具」として使う必要など、まったくなくなったのだ。当然ながら、「娼婦」のイメージも喚起力を失い、もはやただのアナクロにしか見えなくなった。

もう一つ、デジタル化の時代において顕著になったのは、「ヌードになる」という選択が、以前よりも危険な行為になってしまったことだ。一度だけの冒険のはずだったのに、ネット上で「拡散」することで、思わぬトラブルがふりかかってくるようになる。彼女たちは、脱ぐことの快楽と危険性とを天秤にかけ、脱がない方を選ぶようになった。

2000年代になると、荒木さんに撮られたいというモデル志望の女性たちが、少しずつ減っていく。KaoRiさんの文章を読んでやや驚いたのは、彼女が2001年から16年まで、何と16年間も荒木さんのモデルを務めていたということだ。以前は長くても2〜3年ではなかっただろうか。それだけ次々に、荒木さんの好みのモデルがあらわれてきたということだし、彼女たちも自己実現の欲求が満たされれば、さっさと姿を消していた。KaoRiさんが、あれほど長く荒木さんの「ミューズ」であり続けたのは、代わりがいなかったというのが最も大きな理由だろう。荒木さんも70歳を超え、病気がちになって、夜の街に出没して、女性たちとコンタクトをとる機会が少なくなったということもありそうだ。

残念なことにその16年間で、荒木さんとKaoRiさん、写真家とモデルとの間の関係のギャップは、修復不可能なほどに大きくなってしまった。荒木さんはこれまでと同じように、自らのオブセッションとしての「娼婦」のイメージをKaoRiさんに投影しようとし続け、KaoRiさんは荒木さんの意のままに動かされ、「モノ扱い」されることに強い違和感と嫌悪感を覚え始める。そこでうまく関係を切ることができれば、KaoRiさんがあれほど苦しむことはなかったはずだが、そうはいかなかった。そのことについていえば、両者ともに写真を撮り、撮られることに強い執着があったということだろう。

 

 

もう一つ、荒木さんの「私写真」のあり方が、2000年以降に微妙に変質したことを指摘しておきたい。「私写真」とは、1970年代に荒木さんや深瀬昌久さんが作りあげた、身近な他者との関係の機微を細やかに、日記のように綴っていく写真のスタイルである。その後も多くのフォロアーを生み、日本の写真表現の大きな流れを形成していった。ただ注意しければならないのは、荒木さんの「私写真」には、当初からかなり特異なバイアスがかかっていたということだ。いわば「虚実皮膜」。荒木さんはいつでもリアルな日常の出来事と、虚構の演出された出来事とをない交ぜにして提示していった。荒木さんの『荒木経惟の偽日記』(1981年)という写真集のタイトルを借りれば、「偽私写真」ということになる。

その「偽私写真」の世界を構築するために重要な働きをしたのが、登場人物のキャラクター化である。1980年代の『写真時代』の頃から、荒木さんは徹底したキャラクター化を推し進めていった。妻の「ヨーコ」(荒木陽子)、編集者の「スエー」(末井昭)、モデルの「レナちゃん」、「三千院京子」、「IZUMI」(鈴木いづみ)、そして最大のキャラクターが「アラーキー」だったことはいうまでもない。それはたしかにフェイクな世界である。だがフェイクが逆にリアルを引き出し、照らし出す力を持っていることを荒木さんはよく知っていた。

つまり、荒木流の「私写真」には、「アラーキー」を座長として上演される荒木一座の顔見せ興行という側面があった。そこでは、キャラクター化した出演者たちを自在に操り、「虚実皮膜」の芝居小屋を見事に運営していく手腕が求められる。1990年代には荒木一座の出し物はより洗練され、多くの人たちを愉しませることができるようになった。ところが、2000年代になると、出演者たちの個性を見抜き、新たなキャラクターを創出していく荒木さんの能力には、少しずつ翳りが見えてくる。それはそうだろう。荒木一座を、そして「アラーキー」というキャラクターを維持していくには、信じられないほどのエネルギーの持続が必要になるからだ。

KaoRiさんはいうまでもなく荒木一座の主演女優だった。だが、彼女が登場した頃には、演目は固定化し、繰り返しが目立つようになっていた。「娼婦」のイメージがパターン化されてくるのもその頃からだ。とはいえ、荒木さんの「私写真」は、それでもなお充分に面白かった。ワイズ出版から刊行されている、その年の「私日記」をまとめた写真集シリーズをみれば、写真を撮り、選び、並べていくその手際が、いまなお余人の追随を許さないものであることがわかる。だが残念なことに、KaoRiさんにふさわしい役柄を与え続けることは、荒木さんにはもうむずかしくなっていたのだろう。

 

さて、最初に書いたように、KaoRiさんの文章の内容は、至極真っ当なものだと思う。それが広く公開されたことで、事態がいい方向に動くことを心から願っている。

ただ、僕がいま危惧しているのは、KaoRiさんの告発によって、彼女を撮影した写真だけでなく、荒木さんの仕事のすべてが否定的に見られてしまうことだ。少なくとも荒木さんのヌード写真を、これまでのようにイノセントに見ることはできなくなるかもしれない。それでも、「アラーキー」を完全に殺してしまうのは、あまりにももったいないと思う。ヌードや緊縛、「娼婦」のイメージの写真は、巨大なオーケストラを思わせる「荒木世界」の一要素に過ぎない。むろん、とても重要なイメージ群であるのだが、森羅万象を呑み込み、生と死とを一望におさめる荒木さんの写真の世界は、それ以上に大きく広がっている。

さらにいえば、ヌードや緊縛、「娼婦」のイメージそのものも、全否定したくはない。荒木さんがこれまで繰り広げてきたヌード撮影のセッションの中には、「こう撮りたい」という写真家と、「こう撮られたい」というモデルのエゴとがぶつかり合い、火花を散らす、文字通り魂を揺さぶられるものが少なくなかった。KaoRiさんの写真も含めて、それらが今後、展示や出版できなくなるということはどうしても避けたい。

確かに荒木さんには、戦前生まれの男性にありがちな「男尊女卑」の言動がないとはいえない。だが、それは女性に対する畏怖(敬愛と恐怖が混じりあった)の裏返しなのではないだろうか。時にマッチョに傾きがちな女性観を突き抜けた、人間という存在の不可思議さを丸ごと鷲づかみにしたような荒木さんの写真のあり方に、僕はどうしても惹きつけられてしまう。

考えてみれば、1980年代以前の荒木さんは、知る人ぞ知るのマイナーな存在だった。90年代以降、その評価はマイナス札を全部そろえるとプラスになるように逆転して、「権威」となり「国民的写真家」になった。そのことが、逆に異常事態だったのかもしれない。いまのネガティブな状況に向き合って、ふたたび偉大なるマイナーの王道を歩むのも悪くないとも思う。いつでも新作を見たいと思う写真家はそれほど多くないが、僕にとって、荒木さんはその一人だった。これから先もそうだろう。

 
[追記]
KaoRiさんが新しい文章「これからの話」を投稿した。
https://note.mu/kaori_la_danse/n/n87637ae05198

そこでこんなふうに書いている。
「私は、今後も私の写真の展示販売を継続するという荒木さんの意思を尊重して、その中で今の私にできることをしたかっただけで、評価を落とすためのものではないと信じています。荒木さんの写真は、私の写真だけではありませんし、素晴らしい作品がたくさんあります。[中略]ピカソだってロダンだってウォーホールだって、スキャンダルがあっても、今まで語り継がれる芸術家です。でも、芸術の名の下に人間をモノ扱いするのは、もうこれで終わりにしてほしいというのが私の願いです。だから、その背景があって今後も写真を展示販売するのであれば、それは何かを提起するものになると思います。美術史の中で「時代」を感じさせるものになってもらえたら、と思っています。だから作品を排除するかしないかは、美術館、美術関係者のみなさまに全てお任せしたいと思います。」

その通りだと思う。荒木さんの作品については、そのバックグラウンドを理解した上で、一人ひとりがあらためてその評価の基準を定め直すべきだろう。僕自身についていえば、たとえ「スキャンダルがあっても」、荒木経惟が写真というジャンルにおける稀代の表現者であるという評価に変わりはない。

 
写真提供:飯沢耕太郎

 
 

いいざわ・こうたろう
1954年、宮城県生まれ。写真評論家。1977年、日本大学芸術学部写真学科卒業、1984年、筑波大学大学院芸術学研究科修了。主な著書に『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書、1996)、『私写真論』(筑摩書房、2000)、『デジグラフィ』(中央公論新社、2004)、『増補 戦後写真史ノート』(岩波現代文庫、2008)、『アフターマス―震災後の写真』(菱田雄介との共著、NTT出版、2011)、『キーワードで読む現代日本写真』(フィルムアート社、2017)ほか。

 

(2018年4月25日公開)