国際芸術祭のあるべき姿(2)


▶「国際芸術祭のあるべき姿(1)」


インタビュー:
河本信治(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015アーティスティックディレクター)

聞き手・構成:小崎哲哉(編集部)
写真:かなもりゆうこ(編集部)

「難解」と見なされ、実際に難解な現代アートにはどのようにアプローチすればよいのか。美術館で普段開催されるグループ展と国際展との違いとは? そしてPARASOPHIAは今後どんな道を歩んでゆくのか。第2回は、観客への補助線の引き方に関する問いから始まった。(このインタビューは開幕前に行いました。諸事情により公開が遅れたことをお詫びします)

Photo: Kanamori Yuko


 

●わかりやすいコードは提示しない

—— いまおっしゃったような、互いに重なり合っている裏テーマや作家の方向性についてはカタログに書くんですか。

いや、書かないです。構造的に作家リストがすべてだと思っています。その作家が、いま言ったようないろんな部分で、ああ重なったりこう重なったりして、すべての作家が重なってると思うんです。一致はしないんですね。

—— 記者会見では「わかりやすいコードは提示しない」ともおっしゃっていました。

読んでわかるようなものをみんなが求めたら、観なきゃいいじゃないかということになる。そのパラドックスを展覧会自体の中に込めていきたいな、ということについてはちょっと触れたんですけど、話すと長くなるのでやめました(笑)。

—— 「わかりやすいコードは提示しない」というのは、レクチャーのために招聘したロゲール=マルティン・ビュルゲルとも共通する点かもしれませんね。彼がキュレーションしたドクメンタ12(2007年)は「わからない奴はわからなくていい。わかる奴だけついて来い」という姿勢で「史上最低のアート展」などとメディアに酷評されました。

ただ、入場者はすごく多かったんですね、あれは。彼は本当にすごかったと思います。「お金が要るんだったら用意する」「その分チケットを売ればいいんだから、それは我らの仕事だ」って。めちゃカッコよかったです。

—— まぁ、何と言ってもドクメンタだし、艾未未(アイ・ウェイウェイ)が話題になったことも大きかったと思いますが……。いずれにせよ、キュレーターの重要な仕事のひとつは「観客の理解に資する補助線をどのように引くか」ということだと僕は考えています。現代アートを観る楽しみとは作品を「読む」楽しみですから、すべてを解説したらぶちこわしです。でも、補助線がゼロだったら文字どおり取り付く島がない。その辺りのさじ加減がキュレーターの腕の見せ所だと思うんですが、河本さんは補助線をどのように引くのでしょう。ビュルゲルよりはちゃんと引くんですか。

僕はものすごく気配りの人だと思うんです。例えば、ガイドブックは絶対に無料である必要がある。内容的にはチームの人たちに書いてもらったんで、不完全で読みにくいかもしれない。でも「わからない」と思った人たちが踏み込んで質問に来てくれたら、それにきちんと対応していくような体制は作りたい。

—— 具体的にはどうするんですか。

ボランティアの監視スタッフからエデュケーションチームにつないでもらい、いちばん適した対応をしていきます。これが難しいんですよ。うまく機能するかどうかわからないし、興味を示す人が既存の美術館のエデュケーションシステムに馴染みすぎていたら、ちょっとつらいところがあると思うんです。

—— いま伺っただけでもふたつ問題があると思います。ひとつは物理的にシフトをどうするか。エデュケーションチームのスタッフが大量にいればいいですけど……。

ただ、まんべんなくサービスするのは不可能だというのが出発点で、ほんとにオンデマンドなんですよ。だから、まず踏み込んでもらう。「これ何ですか?」と聞いてもらう。そういう人に対応するような工夫がすべてで、質問しない人に同じサービスをする余力は無いというところから出発するんです。

—— そこがもうひとつでね、つまりオンデマンドというのは正しい姿勢だと思うんですが、「何を聞いたらいいかわからない」という観客も来ますよね。

おっしゃってることは正論だと思うんですよ。だけどそれをたかがひとつの展覧会にかぶせるか? という反省はあってもいいんじゃないかな。つまり、ジャーナリストも含め、解読のスキルを磨いていくとか、リテラシーを高めていくようなことだと思うんですね。知らない者に対してどう対応していくか。基本的には「未知なものに出くわしたときに、それに対してどう反応するか」というところに行きつくと思う。そういうものを日常的に考えている状態で美術に出会うときと、そういうものが全部ケアされていて何も考えずに突然美術に出会って「なんとかしてくれ」というときと、レベルというか位相が違うと思うんです。ひとつの展覧会に、ここまで遡って世話をしろというような要求は、やっぱりどこかおかしいと思いますね。
 

●国際展はアートファンを増やさない?

—— 建畠晢さんに伺ったんですが、横浜トリエンナーレが35万人動員しようが、あいちが57万人動員しようが、国際展終了後に美術館を訪れるのは、開幕前と同じく1万人かそこらだという。「アートフェスティバルは現代アートのファンを増やさない」とおっしゃるんです。でも僕は、それはペシミスティック過ぎると思います。「芸術祭」というくらいでお祭り的な要素があり、普段は美術館に来ない人が来る。その全員がコアなファンになることはあり得ないとしても、何パーセントかが「何か引っかかるものがある」と思えばいい。そのフックを作るための努力を、アート業界はほんとにしているんでしょうか。

それについてはまったく同感です。それはほんとに業界の問題だと思うんですよ。突き詰めていけば50年代まで遡って、要するに業界の人って啓蒙が好きなんだなって。

—— 好きなんですかね。

そのレベルに留まるのが心地良いんだと思いますよ。

—— いや、啓蒙のやり方が問題なんじゃありませんか。

僕は、あまり世話されると気持ち悪くて放っておいてくれ、というほうなんで。

—— もちろん熱意がある観客は自分で答を見つけていくでしょうが、それだといつまで経ってもファンは増えないでしょう。さらに気になるのは、スポンサーがどれほど現代アートを理解した上で支援を行っているか。今回、運営組織委員会の中核を成す京都経済同友会の方々、京都市や京都府の担当者の理解度は高いんでしょうか。

彼らが馴染んでいる「カタカナアート」とは違うものがあるんだ、というのは少し理解していると思います。

—— 「カタカナアート」とは?

例えば、刺繍のような手芸も含めてアートと呼ばれるような風潮の中で、スペクタクルで目立つものが「現代アート」と思っている人たちがいる。でも「これは何に価値があるの?」みたいな反応で、それが8割くらいを占めるような印象です。ただ、そこである種の体感的な質の判断が自動的になされるじゃないですか。知識を得て終わりじゃなくて、実はクオリティ判断が入っているという……。そういう別の層があるということが少しはわかってきたんじゃないかな、という気はします。

—— 「少しは」なんですか。そこが継続にはいちばん重要な点だと思いますが。自分がわかってないものに対して人はお金を出しませんよね。

そこがポイントだと思うんです。自分の知らないものが世の中にあることを「僕にはわからない」というあきらめを持って受け入れる態度が必要だと思うんですよ。絶対にわからないものがあるけど、それがお隣さんに住んでてもいいな、というふうな態度。

—— でも、「わからないから支援は打ち切る」と言われたら終わりじゃないですか。

たとえが良くないかもしれませんが、フランスの田舎町に知らない版画家が住んでいて作品を作ってるというのが、70年代に結構あったんです。「あいつ、何も作らないし村に貢献もしないけど、まぁ、ああいうのが村にいてもいいよな」というような、そういう許容度の広さというか。

—— アーティストが原理的にそういう存在だというのはわかります。僕は「アーティストはお地蔵さんか修行僧のような存在。作品を買うのは普通の経済行為じゃなくて、お供えかお布施のようなもの」と思っています。でも、それを教えることも、作品を理解するための適切な補助線引きも、これまで業界の人たちはあまりやって来なかった。

それはまったく同意です。それを画一的にやらずに、個人の手持ちの芸としていろんなメソッドを持ってやる分には、何の反対もありません。いまのエデュケーションをやっている人を、基本的に僕が好きじゃないのは、そこなんですよ。

—— 単純に「作家のモチベーションは何種類かある」「作品にはコンセプトとレイヤーというものが埋め込まれている」ということを教えるだけでいいと思いますよ。僕は実際に大学でそうしていますが、学生は食いついてきます。そこで、「自分の力でモチベーションを推測し、レイヤーを探し、コンセプトを考えてごらん」と言う。エデュケーターは、個々の作品について「これのテーマはこれこれで、美術史的にはこうで……」ってやるじゃないですか。そうじゃない方法というか、それ以前のことです。

少なくとも教育以前の問題としてすごく感じるのは、自分の知らないことに出くわしたとき、腹を立てる人が多い。それは「許せない」からだと思うんですね、そうとしか考えられない(笑)。そこを貫くものは何なのかと思ったら、たぶん「他人に対する嫉妬」ではないか、という気がするのですよ。

—— それはどうか僕にはわかりませんが、ともあれ、自分の頭で考えることを悟らせる方法はあると思います。それはこういう機会にこそやるべきじゃないでしょうか。

その通りだと思いますけど、たかがこれにそこまで求めないで下さいよ、ほんとに(笑)。

 

●国際展と美術館でのグループ展の違い

—— 話は変わりますが、ハラルド・ゼーマンがやった『ドクメンタ5』(1972)のようなインパクトを持つ展覧会は、もうありえないとお考えですか。ご存じの通り、ヨーゼフ・ボイスらが参加し、ハプニングやパフォーマンスアートも導入され、現代アート史の分岐点となったと評される国際展です。

作家も揃ってて、社会基盤の成長期で、政治的にもヴェトナム戦争などいろんな必然が重なっていました。僕はカタログも買って持っているし、現場は観れなかったけれども、後でベルンのクンストハレで開催された『態度が形になるとき』(1969)の動画なんかも出るようになって、みんな「ゼーマン、ゼーマン」と言うようになって、あのときの展覧会を評価しなければ美術史が語れないみたいになって。

—— 『態度が形になるとき』は、2013年にプラダがスポンサードして再現されましたね。

さすが、(キュレーターの)ジェルマーノ・チェラントという感じがしますけど。

—— 企画者のチェラントは、カタログの文章でもはしゃいでいましたね。会場(再)構成を担当したレム・コールハースの冷静さと対照的でした。僕はあの展覧会をいま再現することの意味がわからなかった。完全な再現がありえないのは当然として、作品数もコンテクストの説明も非常に中途半端。ちょっと寂しかったですね。

展覧会自体は、ほんとにもう情けないものがありました。
たぶんそこに至る過程として「国際展は美術館でやる巨大なグループ展とどう違うか」ということがあると思うんです。美術館にいると、どんなめちゃくちゃやろうと、結局「ヒストリー・オブ・モダンアート」「ヒストリー・オブ・モダンアートミュージアム」というようなナラティブとシステムに無縁でいることは不可能なんですよ。絶えずそれを参照し、批判しなければならない。

で、国際展をやるときに何がいいかというと、そのコンテクストを無視して、いま自分が興味のあるイデオロギーと、同じイデオロギーの下に作品を作っている作家への共感だけで作れるという絶大な自由度がある。そのときに「モダンアートの歴史」や「美術館の歴史」が抱えている問題が、さっきの解読とか理解とかというものに関わってくると思うんです。傍らで、MoMAシステム、つまり「エデュケーションはビジネスとして持たざるを得ない」というのは、年を取ってから「必然だ」と思うようになりましたね。

だから、それと違う形でやる展覧会に、世界や社会の問題のすべてを担う必要は無いと思うんですよ。必要だというのはよくわかるし、できたらいいとは思うけど、それをもし意識してやったら、とても自己肥大になって、押し付けがましくて、グロテスクな思考になるんじゃないかな、という気がするんです。

—— それはわかります。先ほどからくだくだしく言っているのは、それよりもはるかに基本的なことです。

とても難しいんですよね。ほんとに前から理想と思うのは、ガチガチに難しい中身をものすごく普通の外見にして、普通に人が来るようになる展覧会というのが底の深いいい展覧会だなと思うんですけど。40〜50日で、美術館だと2、3万人が適正な観客数だろうと思うんです。それ以上になったらもう興行だし。

—— 数はどうでもいいんですよね。その内の歩留まりというか、初めて現代アートを観た人、あるいはそんなに関心がなかった人が関心を持つようになっていけばいい。そういう人たちがアートシーンを支えてゆくのだから、その数がいちばん重要です。

展覧会に来て、反発して文句を言ってもいいし、嫌悪してもいいけど、「テキストを読んだからわかった」「何も無かったら何もわからない、けしからん」とか言って、そういうところから誰かが引き上げる、サルベージされるほど悲惨なことはないですよ。それぐらいは自分で1、2段は登れると思うんですよ、普通。

—— いや、それは案外わからないですよ。ただ、もったいないなと思うのは、ちょっとだけ引っかかるところがあれば自力で登れるんだけど、どっちに手を伸ばしたらいいかわからない人がいますよね。そういう人に、ほんとにわずかなヒントだけ与える。本人が気がつかないくらいがよくて、自力で上がったとなると自信が付いて、その人はずっと進んでいけるじゃないですか。それがさっき言った「さじ加減」ということです。まぁ、言うは易し、というのはわかっていますが。
 

●PARASOPHIAは「アプリケーション」

—— 河本さんは京都国立近代美術館を辞められてから、キュレーターとしてフリーランスというお立場ですよね。今後のPARASOPHIAはどうなるんでしょうか。次回以降があるかどうかわからないという話ですが、第2回も担当したいとお考えですか。

何も考えてないです。最初に言ったみたいに、僕は基本設計に興味があったんですね。ある方向性みたいなものが出来ればいいし、それを拒絶されるならば仕方がないし、読み替えられて変形していっても仕方がない。でも、いまこの時点で、自分が与えられた条件と予算の中で何をやるかというと、比較的みなさんのお役に立てる部分が多いかなと思ったんです。もちろん、市民を巻き込んでお祭りにするほうがいいという意見もあるだろうけど、税金の使い方として、たぶんそんなに間違ってない。それなりにモデスト(穏当)な形に収めるにはどうしたらいいか、ということは割と考えていたところなんです。

で、この形を作っておいて、それが将来、変わっていくのは大歓迎。何度も言いますけど、PARASOPHIAというのは展覧会ではありますが、基本的にはプログラムだと思うんですよ。OSというと厚かましいから、アプリケーションと言うべきかな(笑)。それがシェアウェアの形で何人かに共有されたときに、各々のフィールドで展開されていく。出力の形態は違うけども、基本的なPARASOPHIAの思考構造というものが蔓延していく。ウィルスがわっと増えるような感じのイメージで、そういう意味では15年前の横浜トリエンナーレのときとあまり変わってないな、と思うんです。

—— 基本設計という点で、組織委員会や行政からの評価はどうだったんでしょう。

今回の最大の美点は、民間の先行投資による妄想に、行政が支援に留まって指導もしない、ただ見守っているだけ、という形に見えるように持っていったことと思います。それが不満でいろんな介入があるんだけれども、それを優秀な出向者が防いでくれている状態なんです。最終的にその形が周りから評価されて、「京都ってやっぱりすごいね」というふうに行政サイドの人が褒められるような状態が少しは作れたと思うんですね。金は出すけど口は出さないのがいかに格好いいか……(笑)。この部分が大きかった。

—— 今回のPARASOPHIAは、キュレーターとしてご自分の最後の仕事というような意識はおありなんですか。

そんなのあんまり意識してないですね。特にやめたという気もないし、やりたい気もないんですけども。たぶんこういう状態でやるように仕向けられたのも自然かな、という気がするんで、この後どうするということは、ほとんど考えていません。

—— 最後に、まだ観ていない観客・読者に対してメッセージをいただけますか。

観てもらえばいいな、というぐらいですね(笑)。来れなかったらウェブサイトで様子を見てくれても、それはそのレベルで意味のあることだと思うし、興味を持って、ウェブを見て、現場に来てもらってもいいし。それから、来なくても、この変な作家なんだろうというふうな調べ方をしてくれてもいいし、と思いますね。

(2015年2月26日、設営中のPARASOPHIA主会場・京都市美術館で取材/

6月12日公開)


▶「国際芸術祭のあるべき姿(1)」




こうもと・しんじ
PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015 アーティスティックディレクター。京都工芸繊維大学大学院工芸学研究科修士課程意匠工芸学専攻修了。1981年より京都国立近代美術館研究員。2006–10年まで同館学芸課長。『横浜トリエンナーレ2001 メガ・ウェイヴ:新たな総合に向けて』共同ディレクター。2003年に第50回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展金獅子賞パビリオン部門国際審査委員ならびにドクメンタ12総合ディレクター選考委員を務める。主な企画展に『アゲインスト・ネーチャー:80年代の日本美術』(1989)、『プロジェクト・フォー・サバイバル——1970年以降の現代美術再訪』(1996)、『ウィリアム・ケントリッジ——歩きながら歴史を考える:そしてドローイングは動き始めた……』(2009)がある。

 


【特集】PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭 2015(関連記事)

Interview:
河本信治
(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015アーティスティックディレクター)
▶ 国際芸術祭のあるべき姿(1)
▶ 国際芸術祭のあるべき姿(2)

Review:
▶ 浅田 彰「パラパラソフィア——京都国際現代芸術祭2015の傍らで」
▶ 福永 信「第1回京都国際現代芸術祭のために」
▶ 高橋 悟「PARASOPHIA 〜 制度を使ったEngagement 」

Blog:
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド①―「でも、」を待ちながら」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド②―京都のグローカル・エコノミーをたどる」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド③―(反)帝国主義のミュージアム〈1F〉」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド④―喪失への祈りとガスの記憶〈2F〉」
▶ 小崎哲哉「『私の鶯』と、なぜか鳴かないPARASOPHIA」
▶ 福永 信「パスポートを取り上げろ! パラソフィア・レヴュー補遺」
▶ 小崎哲哉「たったひとりの国際展」
▶ 長澤トマソンの絵日記・Paragraphie & Sophiakyoto Part 1
▶ 長澤トマソンの絵日記・Paragraphie & Sophiakyoto Part 2

外部リンク:
Parasophia Conversations 03:「美術館を超える展覧会は可能か」(2015.03.08)
(アンドレアス・バイティン、ロジャー M. ビュルゲル、高橋悟、河本信治、神谷幸江)
 記録映像ハイライトはこちら▶YouTube: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
Creators@Kamogawa 座談会『PARASOPHIA クロスレビュー』(2015.03.28)
(クリス・ビアル、ミヒャエル・ハンスマイヤー、ヤン・クロップフライシュ、
 ゲジーネ・シュミット、港 千尋、原 久子/司会:小崎哲哉)
 記録映像ハイライトはこちら▶YouTube: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川

 

▶ 公式サイト:PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭 2015
〈2015年3月7日(土)–5月10日(日)〉