見立てと想像力——千利休とマルセル・デュシャンへのオマージュ展
トークイベント 1:藤本由紀夫×セシル・アンドリュ



 
トーク:藤本由紀夫×セシル・アンドリュ
司会:小崎哲哉

小崎 最初にこの展覧会の成り立ちについてお話しします。ご存じかと思いますが、「ニュイ・ブランシュ」というパリで最初に始まったフェスティバルがあります。京都でも2011年から開催されていて、主催者のアンステュチュ・フランセ関西に、展覧会をキュレーションしてくれと頼まれました。何をやろうかと考えたときに、真っ先に浮かんだ名前が「マルセル・デュシャン」です。

フランス人アーティストのデュシャンは、いまからちょうど100年前の1917年に「Fountain(泉)」という革命的な作品を発表しました。当時はニューヨークに居たんですが、そのへんで買ってきた男性用小便器に偽のサインを入れ、「これはアート作品だ」と言って公募展に応募したんです。100年前は美術というと絵画や彫刻しかない、写真ですらまだ認められるかどうかという時代です。そんな時代に便器が出てきたんで、ほとんどスキャンダルと言っていいような事態になりました。でもそれにはオチがあって、実はデュシャンはその公募展の審査員のひとりで、拒否されることを見越して応募していた。このときに「何でもあり」の現代アートが誕生したわけです。

というわけで「デュシャン」をテーマにすることはすんなり決まったんですが、京都でやるのだから、誰か相方がほしい。そこで「千利休」の名前が思い浮かびました。利休は言うまでもなく茶の湯の創始者で、「見立て」という概念を発明した人としても知られています。魚を入れる魚籠を花入れに、水を汲む釣瓶を水指に見立てたわけです。

ところで先ほど説明したデュシャンの便器は、本人自らが「レディメイド」と呼ぶものです。レディメイドは、アーティストがつくるのではなく、大量生産の既製品から何かを選び、コンセプトを与え、名付けることによって成立する作品です。これは利休の見立てと瓜ふたつではないか。そう思って展覧会タイトルに「見立て」と入れました。

利休とデュシャンにはもうひとつ共通点があります。長くなるので詳細な説明は省きますが、ふたりとも「想像力が大切である」と考えて茶席を設えたり、作品をつくったりしているんです。現代アートとは、作品を見て何かの像が観た人の頭の中に浮かぶ、そうして初めて完結する行いであるとデュシャンが言っています。そこでタイトルに「想像力」という言葉も入れたんですが、個人的にはこちらのほうが「見立て」よりも重要だと考えています。

今回は8作家に参加していただいていますが、いちばん最初に「絶対この方にお願いしよう、断られたらやめよう」と思ったのが藤本由紀夫さんです。藤本さんは日本を代表する現代アーティストのひとりであると同時に、「デュシャンピアン」でいらっしゃいます。何て訳すんですかね。「デュシャン主義者」? 「デュシャン好き」?

藤本 「デュシャン・ストーカー」かな(笑)。

 

小崎 そのデュシャン・ストーカーの筆頭である藤本さんに(笑)、ぜひ参加していただきたいとお願いしました。そうしたらすぐにご快諾いただいて、これだったらできるのではないかと思って始めた次第です。「ニュイ・ブランシュ KYOTO」ですから、京都にゆかりのある日本人作家を6名、そしてフランス人作家を2名。フランスからはジェスティーヌ・エマールさんと、もうひとり、ここにいらっしゃるセシル・アンドリュさんに来ていただきました。

セシルさんはフランスのご出身ですが、大学院のときに荒川修作の作品に触れて日本文化に目覚め、同時にご自分の作品も大きく変わったそうです。その後、東京大学に留学され、言語と美学を学び、美学への関心がどんどん深まっていく。そして、日本の美学研究者と一緒になられ、金沢に30数年お住まいです。

では、最初に藤本さんに自作解説をお願いしたいと思います。

 
自分にとっての茶室をつくってみたかった

藤本 最初にこの展覧会の構想を小崎さんから伺って、「デュシャンと利休で」って言われたときに、真っ先に思い浮かんだのが赤瀬川原平でした。彼は「路上観察学」で一世を風靡した人で、街角にそれだけ残された階段とか、マンホールの隙間からちょっと出ている草とか、そういうものを見つけて写真に収め、名付ける、ということをグループでやっていたんです。それを「超芸術トマソン」と名付けていましたが、要は、何の役にも立たないけれど、それを切り取ることによって何かの価値を見つけるということですね。

同じころに、勅使河原宏が映画『利休』を監督することになり、脚本を赤瀬川原平に頼みました。赤瀬川は後に、その経験をもとに『千利休——無言の前衛』というエッセイを書くんですが、脚本の依頼が来たときにびっくりしたそうです。お茶の世界を一切知らないのになぜ自分に? って。そこで考えたのは、日常生活でお茶を飲むのは普通だけど、それを切り取ってわざわざ「お茶」という世界をつくってお茶を飲む、すなわち日常の何でもないことを切り取るところが路上観察学と一緒だということ。そして、普通の芸術作品には作者がいるけど、超芸術作品には作者がいないということ。何がいるかというと「工作者」、つまり何かつくった人がいるけど、その人はまったく意識せずにつくっちゃったということです。それが超芸術になるのは「観察者が芸術にする」。それがまさに、街のちょっとしたところを見つけてきたトマソンなんですよね。

これは実は、100年前に便器を出品して拒否されたときのデュシャンの考え方とまったく一緒なんです。小崎さんが言ったように、彼はどうも拒否されることを予期していたみたいで、すぐさま翌月に「リチャード・マット事件」という特集を掲載した『ザ・ブラインド・マン』という雑誌を発行しました。そこに書かれている記事が、未だに確証はないんですけど、どう見てもデュシャンしか書けない文章。以下のような趣旨です。「マット氏が参加料を払えば誰でも出品できる展覧会に出したけど拒否された。なぜ拒否されたのかというと、ひとつは『つくってないから芸術じゃない』ということ。ふたつ目は『便器という汚らわしいものは芸術にはふさわしくない』ということが考えられる」。その後がすごいんですけど、「芸術とは何か」ということを言い出すんです。それで、「便器という物が重要じゃなくて、彼がそれを選んだこと、それこそが大事だ」と主張するんですね。

びっくりしたのは、当時デュシャンは30歳になる直前なんですけど、その年齢で「アートとは選ぶことだ」と言い切ったということです。でも、それってまさに「利休」だなと思って……。そういうところから、「じゃあ、茶室をつくろう」と思ったんですね。

藤本由紀夫「Abode of Fancy」ミクストメディアインスタレーション 2017年(協力:クマグスク)



タイトルは「Abode of Fancy」。岡倉天心の『茶の本』に書かれていた、数寄屋について英語で解説している文章から取りました。天心は数寄屋には3つの意味があると言っていて、ひとつは大好きの「好き」=Fancyですね。自分の好みでつくるということ。ふたつ目は空いているの「空き」=Vacancy。もうひとつがよく言われる「数奇」=Asymmetry(アシンメトリー/非対称)、要は完成させないということです。それが自分がやっていることと近いなと思って。特にVacancy、つまり「何もない」というのは、僕の作品って取り去るほうなんですが、そこと通じるかなと。

小崎 引き算ですね。

藤本 引き算して何が見えてくるか? 今回は「好き放題」、つまり自分がいいと思うものをつくってみようと思って、教室を茶室にすることにしました。まずは、茶室って別にお茶を飲むためのものじゃなくてもいいだろうと。次に、立ってると辛いからベンチを置いて。それで「あとは何も要らないや」と思ったんですね。ベンチに座って、窓を開けているといろんな音が聞こえてきて……。そこで思い浮かんだのが、デュシャンが1913年に作曲した「音楽的誤植」です。デュシャンは偶然というものを大事にしていて、いわゆる「チャンスオペレーション」でつくった音楽です。そのつくり方を自分なりに真似して、コンピューターでプログラミングして音にしたものがあったので、それを置いて……。僕にとっては「完全に自分にとっての茶室」をつくってみたというのが今回の作品です。

小崎 ありがとうございます。ひとつ補足しますと、藤本さんが最初におっしゃった赤瀬川さんが脚本を書いた勅使河原宏さんの映画『利休』ですが、これは冒頭のシーンがすごい。ステートメントにも書きましたが「朝顔の茶会」という有名な挿話から始まるんです。

利休屋敷に朝顔が咲き誇っていることが評判になり、茶頭として利休を召し抱えていた秀吉の耳にも届いて「わしも行くぞ」と言って朝早く行くんですね。ところが行ってみると朝顔は一輪もない。どうしたんだろうと思って茶室に入って躙り口から見上げると、床の花入れにたった一輪だけ生けてある。これは利休がミニマリストであったことの証としてよく引かれる話ですが、「残りの花を想像してごらんなさい」ということでもありますよね。

利休にはもうひとつ逸話があって、若いころに茶会に呼ばれた先輩茶人がびっくりして茶会記に書き残しているんですが、花入れに花が生けてなくて、ただ水だけが入っている。これの解釈はふたとおりしかなくて、「オレの花入れはすごいだろう、どや!」というのと、もうひとつは「そこには無い花を想像しろ」のどちらかだと思いますが、筒井紘一さんのような専門家は後者だと言っています。

デュシャンも伝統的な絵画について「昔の絵はみんな網膜に訴えかけるものだった」と批判しています。「でも、そうじゃない。芸術は本来、脳に訴えかけるべきだ」と言ってるんですね。利休とデュシャンは、ふたりとも芸術における想像力の役割を強調していたんだと思います。
 では、続いてセシル・アンドリュさんに自作の解説をお願いします。

 

 
言葉を言葉以前の状態に戻す

アンドリュ 私はもともと書かれている言葉に興味がありました。そして、日本に来たときには、まず言葉を覚えることが第一の課題でした。少しずつ日本語が読めるようになったんですが、なぜか読むときに文章を読みながら修正液で消して、「読んで」「消して」という行為を始めたんですね。これが実質的に私の最初の作品としてつくったものです。いまは金沢21世紀美術館のコレクションに入っています。

ですから、自然にあるいは偶然に、言葉が自分のアートの制作に入ってきたんです。どうしてそんなに言葉に興味があるかというと、言葉はヒューマニティのベースだから、それがおそらく第一の理由です。いちばん身近なものであるからこそ、その大切さをほとんど認識せずに生きているのではないかと思います。

そして、私がいまつくっている作品は、政治的、社会的なメッセージが含まれているものではないんですけど、いまこの世の中で起こっている大きな事件を考えると、多くの人が、言葉の大切さというものを少しずつ忘れるようになったのではないかという気がします。だから、言葉の大切さを何らかの形で体験できる作品をつくりたいと考えて、言葉を使って制作することを始めたんです。そういったことがあるので、「小学校でインスタレーションをするのはどうでしょうか」と言われたときに、大喜びだったんです。小学校というところは教育が始まる最初の時期で、言葉を身に付けるところだからです。

セシル・アンドリュ「Éclosion/孵化」ミクストメディアインスタレーション 2017年



それで、「学校や教室は温室のように守られている空間であって、その安全な場所で子供たちを育てる」という見方があると思って、小さな温室の床に苗帽子(保温、防風、防虫などの目的で植物を覆う透明なカバー)を並べていくという作品を思いつきました。苗帽子は200個並べたんですが、原稿用紙のイメージでマス目状の配置を決めました。私はフランスで生まれて育ったもので、左右対称が好きなんですね(笑)。あとは言葉を苗帽子のなかにどういう形で入れるかということですが、あまり入れると重いので、軽くて楽しいイメージにしたいと思って、苗帽子と苗帽子を重ねて、その間に切断した辞書の断片を卵の殻のように薄く入れています。

藤本さんが使われたデュシャンの音楽はもともと、音を紙に書いて、帽子に入れて混ぜて……。

藤本 そう、くじ引きをして、並べたんです。

アンドリュ そうですよね。それって、私と同じことをやってるんじゃないかな、ということに気づいたんですね。結局、私は言葉を言葉以前の状態に戻すということをしているんです。もっと簡単に言うと、分解して、自分の想像力を使って新しく自由に組み立てる。学校に入ったばかりの希望に満ちた1年生が、自分なりに少しずつ作文を書いたり、読んだりする。そこで終わるのではないので、私はそういうことも考えて苗帽子を選んだんですね。苗帽子はもともと穴が開いているんです。空気が出たり入ったりしないといけないので。だから、先ほど「卵」という言葉も使ったんですが、卵が成長して孵化する。子供たちも教育を受けて、また次のステップへ進むので、囲まれたイメージと同時に開放的なものをつくろうと思いました。

他の作品と比べると、アナログで物理的なものが床にボンっと置かれて、べったりするような感じではありますけど、気持ちとしてはできるだけ軽くて想像力を促すものをつくろうと思ったんです。あと、子供たちにとってこれから言葉との関係がどうなるかということも考えています。いまは言葉と新しいメディアとか、色々と複雑な状況になってきましたし、そう言いながらやっぱり言葉をなくすことはできない、その大切さを忘れてはいけないと思っていて、そういうことも感じていただけたらうれしいです。

 

小崎 苗帽子は以前にも使ったことがあるんですか。

アンドリュ いえ、私がいちばん好きなお店はホームセンターなんですね(笑)。あるとき、たまたま目に入ったんです。だから、たまたまこの素材を使いました。

小崎 見事に子供用の帽子に見えますよね。

アンドリュ そうなんです。

小崎 藤本さんはセシルさんの作品をご覧になって、いかがでしたか。

藤本 最初に観た印象が「かっこいい!」(笑)。あの苗帽子っていうものを初めて見たんです。だから何かわからなくて、「何かかっこいいものが並んでいるな」と。実は僕は最初にデュシャンを観たのが、彼の「瓶乾燥器」という作品の写真だったんですね。何も知らずに最初の印象が「かっこいい!」だった。今回もそれを思い出して、「すごいかっこいいもんつくってる」と思ったら、それは売ってるやつなんですね。

アンドリュ 売ってました(笑)。

藤本 それと、もうひとつは、あれだけの面積で教室にいっぱい置かれてるのに、軽い印象を受けたんですね。これ1ミリ浮いてたらすごい楽しそうだな、というような軽い印象が僕には気持ち良かったのと、今日、教室でじっと観ていて、辞書が細かくなっているので、どういう辞書かなと思って、ものすごく近づいて見て、そのときにひとつ発見したのが、「新」の下に「神」があったんですよ。「新しい神」(笑)。それって「シン」と「シン」だから読み方で繋がっているわけですよね。それってもしも英語とかだったら「New」と「God」っていうのは辞書では横に並ばないですよね。漢字の読みでたまたまで、でも「新しい神」ってなんかすごいな、と思って(笑)。これは日本語で漢字だからこそ偶然に切り取られたというのが、自分で面白くて。

デュシャンも呆れるくらい言葉遊びばっかりやっていて、文字も並べ替えたりとかしています。そういうところから何かがまた偶然に結びついて、我々が新しいイメージを抱くことができる。そういうことを大事にしていたと思うので。ああいう作品を細かく観ていくと、自分でまた何か見えてくるのがすごく面白かったですね。

セシル・アンドリュ「Éclosion/孵化」ミクストメディアインスタレーション 2017年



小崎 セシルさんは藤本さんの作品はいかがでしたか。

アンドリュ 藤本さんは、椅子を教室のど真ん中に斜めに、とてもダイナミックな置き方をしていて、ベンチがひとつだけですけど、空間全体にすごく動きがあるように見えました。それから、もちろん音の存在ですね。最初に解説は読んでいなかったんですが、いちばん初めに頭に浮かんだのはジョン・ケージです。「動きを感じる」と言いましたが、3つの小さなスピーカーが隅にあって、連続的に音が流れているわけではないものの、何もなくてすごく静かでありながら、とてもダイナミックな空間ですね。それから、外と中の関係が密着したものになっていて、そういう意味で私の作品とは正反対ですね。それから「listen / silent」。こういう2つの言葉を読むと、荒川修作やコンセプチュアルアーティストのコスースの作品が頭に浮かぶんですが。そんなふうに、本当に色々と考えさせるすごく楽しい作品だと思いました。

小崎 デュシャンの音楽はそれこそケージに影響を与えたと言われていますが、本人が確か2人の妹さんと一緒につくった曲ですよね。

藤本 はい、いわゆる「作曲」を偶然のシステムで行うことが彼の実験だったみたいです。でも、偶然でつくったからあの1回の結果が大事なんじゃなくて、くじ引きして並べるってことが大事だと僕は思って。あ、これだったら自分でもつくれるなと思って、実際にコンピューターでプログラムして自動的に音が出るようにしてずぅ~っと部屋に流しといたら、全然不自然じゃないんですよね。あ、偶然って別にデタラメになることじゃないんだ、と思ったんですね。偶然だから、ひょっとしたら「ドミソ」っていうようなすごくきれいな和音になるときもあるかもしれないし。

藤本由紀夫/デュシャンの「音楽的誤植」を元にコンピューターでプログラミングし音を作成



小崎 「偶然性」と「言葉」がおふたりに共通する関心事のようですね。

 
「触覚」と想像力

質問者 セシルさんに質問ですが、辞書を使われるということですけど、いまはインターネットで文字もたくさん読めるじゃないですか。そういうのはどう思われますか。

アンドリュ 私は書いてある文字、できるだけ物質性の高いものが欲しいんですね。だから紙に印刷されたもの、自分の手で触ることができるものを求めたいと思っています。我々の言葉との関係は新しい技術で大きく変わったと思いますけど、それゆえに原稿用紙のイメージを取り入れようと思ったんですね。鉛筆を使って自分の手で書くときには、書くことそれ自体にもっと集中できると思います。いまはスクリーンに現れる言葉は、すぐにコピー&ペーストできるし、非常に簡単で扱いやすいものになっています。私にとっては、言葉は皮膚のようなものです。皮膚は身体を守るものでありながら、皮膚を通して吸収するという外と中の中間のもの。私は言葉をそういうふうに感じているんです。小学校ではどう教えているのかわかりませんが、タブレットやコンピューターにも、もちろんメリットがあります。でも、子供の知的な発達のために良いかどうか、個人的には大きな疑問を持っています。やっぱりまず手で書いて、その行為を意識することは違うんです。

小崎 いまのお話を伺っていて思い出したんですが、藤本さんが素晴らしい作品をつくっています。「phono/graph」という書物状の作品で、判型の大きな紙を50枚でしたっけ?

藤本 50枚100頁ですけど、紙の種類が25種類あって、もうほとんどテキストがなくて、「紙をめくる」ときの手の触覚とめくるときの音。それだけをメインにした作品です。

小崎 風も起こるし、紙の匂いもしますよね。

藤本 小さい本だと普段ページをめくるってことを全然意識してないんだけど、大きくするとけっこう力が要るし、サァーっという音がするんですね。それから手触りが変わる。それって楽器を演奏するのに似てるなと。本を読むことは、文字によって意味を受け取るだけじゃなくて、触って自分なりに演奏するように、それこそ鑑賞者が積極的に関わることで「読書」になるんだなぁ、と思ったんです。

 

アンドリュ やっぱりそういう体験というか、感触的なことはとても大事ですよね。

藤本 そうですよね。だって言葉って元々は身体から出たもので、それを記号にして見える形にして、それを保存するために粘土とか紙を使ってきて、そこまでは身体の延長だった。だから、いまデジタルの時代になると、身体の延長って一体何なんだろう? ということをちゃんと考えないといけない。デジタルの環境にとって、それにふさわしい読書の仕方を自分たちで見つけていくべきで。そこで大事なキーワードになるのが「触覚」ですよね。言葉にどうやって触れるか、っていうことをみんな考えるべき。僕もそこがすごく興味があるところですね。

小崎 ありがとうございます。とてもいいお話が伺えたと思います。いまの「触覚」のお話もそうですし、「想像力」も。

この展覧会で校舎の中に入っていくと、皆さん必ず小学校時代の思い出があるでしょうから、何かしら思い出されると思います。藤本さんやセシルさんの部屋に入ると、風だったり、音だったり、必ずしも視覚だけではなく、何かを感じられると思います。素晴らしい作品をつくって下さったことに、企画者として本当に感謝しています。

(2017年10月7日、元淳風小学校/2018年2月22日公開)


元淳風小学校 2階の廊下より
3年い組の教室にて藤本由紀夫の展示/1年い組の教室にてセシル・アンドリュの展示


 
 

ふじもと・ゆきお
1950年、愛知県生まれ。1975年、大阪芸術大学音楽学科卒業。70年代よりエレクトロニクスを利用したパフォーマンス、インスタレーション、80年代半ばよりサウンドオブジェの制作を行う。音を形で表現した作品や、空間を利用した独自のテクノロジーアートを発表。「here & there」「separation & conjunction」「revolution& gravity」「silent & listen」といったキーワードで、日常の何気ない物事に注目し、「聞く」という体験を通して、「音」という存在の不思議を表出し、新たな認識へと開いていくような活動も行っている。2001年と2007年に、第49回および第52回ヴェネツィア・ビエンナーレに出展。

 
Cécile ANDRIEU
1956年、シャルルヴィル・メジエール生まれ。金沢在住。エクス・アン・プロヴァンス大学大学院での修士論文のテーマとなった荒川修作の作品により、日本文化に開眼する。1982年より、日本政府留学生として東京大学で言語および美学を学び、人と言葉の関係に焦点を当てた芸術制作(オブジェ、インスタレーション)に打ち込む。1986年、ソルボンヌ・パリ第一大学人間科学芸術学博士号取得。主な個展に『CULTURE 2』(下山芸術の森発電所美術館、2010年)、『DÉ-CONSTRUCTION』(Gallery HAM、2016年)。主なグループ展に『豊穣なるもの 現代美術in豊川』(豊川信金旧いなり支店、2014年)など。作品は、金沢21世紀美術館などに収蔵されている。

 
おざき・てつや
1955年、東京都生まれ。REALKYOTO発行人兼編集長。『見立てと想像力——千利休とマルセル・デュシャンへのオマージュ』展企画者。

 
 

『見立てと想像力——千利休とマルセル・デュシャンへのオマージュ』展は、2017年10月6日〜22日まで、京都市立(元)淳風小学校で開催されました。

 
ポートレート撮影:かなもりゆうこ
作品撮影:守屋友樹
録音起こし&編集協力:かなもりゆうこ+真部優子

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