KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭2016 SPRINGプレイベント

トーク「集合知としての芸術——1960〜70年代の共同作業を出発点に」岡田利規×松本雄吉×麿赤兒


西日本最大の舞台芸術祭KEXが、3月5日から23日間にわたって開催される。開幕に先立ち、参加アーティストによるトークが行われた。いずれもが、日本の舞台芸術シーンを牽引する実力派の表現者だ。世代こそ違え、ジャンルを横断して貪欲に創作を続ける3人は、これまでどのように自らのスタイルを確立し、これからどんな作品を生み出そうとしているのだろうか。

 
岡田利規(チェルフィッチュ)×松本雄吉(維新派)×麿赤兒(大駱駝艦)
司会:橋本裕介(KYOTO EXPERIMENTプログラムディレクター)
構成:REALKYOTO編集部

写真右より 岡田利規、松本雄吉、麿赤兒、橋本裕介(撮影:編集部)


 

橋本 今回の公式プログラムでご紹介するアーティストの中に、トリシャ・ブラウン・ダンスカンパニーがあります。トリシャ・ブラウンは1960年代にニューヨークで活動を開始しましたが、当時のアメリカにおけるポストモダンダンスは、その研ぎすまされた実験精神により、従来のダンスの概念を超えてヨーロッパを含む舞台芸術界に大きな影響を与えました。彼女以外にも、イヴォンヌ・レイナーやマース・カニングハムなどのダンスアーティストに加え、ジョン・ケージ、ロバート・ラウシェンバーグら同時代の様々なジャンルの芸術家が共同作業を行って、その後の芸術、さらに社会へ大きな影響を及ぼしたことはよく知られています。

その動向とパラレルに、日本でも1960年代から、土方巽をはじめとする舞踏の先駆者たちが活動を始めます(もちろんそこには麿さんも入っています)。土方の稽古場アスベスト館や草月アートセンターといった場所を中心に、寺山修司、唐十郎、赤瀬川原平、中西夏之、加藤郁乎、澁澤龍彦、三島由紀夫ら、ダンス、演劇、音楽、映画、美術、写真、文学などさまざまな分野の、名前を挙げればきりがないほどの才能が集っていました。

これらを単にその時代に特有の現象として捉えるのではなく、人々を結びつける何かがその時代にあった、そしてそれはいまも起こりうるのではないかというようなことを考えています。いわゆる「コラボレーション」とは違う意味での「人々が出会う必然性」について、本日はお話を伺えればと思います。

 
●刺激を受けた人々との出会い

始めに麿さんから、ご自身の活動のスタイルが確立されるまでに刺激を受けた人、出会った人について教えて下さいますか。

(撮影:松見拓也)


 
麿 奈良の田舎から東京に出ていって、見るもの聞くもの会う人、全部刺激的だったわけです。その中でいろいろ巡りめぐって、ある新劇の劇団に入り、野口三千三という野口体操の人に出会い、肉体概念というものに目覚めたところがある。演出家では、もう亡くなりましたけど、竹内敏晴。次に唐十郎、そして土方巽、ときりがないですね。アートシアターという映画館に入り浸って、フェリーニだとか、いろいろな映画を観てました。新宿という街で、とにかく刺激受けっぱなしで、頭こんがらがってうろうろしていて。そこで唐と出会ったのは、ひとつの大きな曲がり角ですね。7年ぐらい一緒にやって、その間に土方に会って、彼のわけわからないカリスマ性に洗脳された。あっちこっちで洗脳されっぱなし、なりゆきでふらふらしてるだけで、何をどういう風に選んできたかはわかりません。最近では自分の体をまさぐり、いじくり回すという身体論を原点にして、そこにできるだけいるようにしています。言葉も含むんですが、言葉というのは、ああ言えばこう言う奴ばかりだし、自分の体をいじくり回すのがいちばん安心する。そういう中で体の表現方法を、コツコツと皆さんにつつかれながらやってきたという感じですかね。

橋本 続いて松本さんに、独自のスタイル「ヂャンヂャン☆オペラ」を確立するまでのことと、それに先立つ作品『少年街』を1991年にあえて東京で上演されたことについて。

(撮影:松見拓也)


松本 麿さんとは違い、僕はいままでずっと大阪でやってきました。僕の場合、具体美術協会に影響を受けたことははっきりしている。僕は1946年、戦後1年経って生まれて、高校1年くらいのときに具体美術協会が出来たんです。協会の先生がアルバイトで高校の非常勤講師をやっていて、高校を出た途端その先生が、教えてもらったことは全部忘れろ、あんなんは駄目だ、って言うんですよ。そして、一生懸命受験勉強して大学に行っても、いわゆる学生運動の時代で、全部忘れろと言う。こちらでも価値観が裏返ったというか、かなり混乱しまして。それでも、やはり自分の居場所というか所在ないのが不安なのでいろんなことをして、その内のひとつとして「ヂャンヂャン☆オペラ」に至るダンスなのか演劇なのかパフォーマンスなのかわからないようなことをやって、それを軸に世間に対峙していこうという思いがありました。

東京へ行こうと思ったのは、僕らの世代には、やっぱり地方は、大阪は駄目だなというのがありまして。一生懸命やってるのにちゃんと観てまともなことを言ってくれる人がいなくて、返答が欲しかった。主に美術評論家でしたが、東京には憧れている評論家もいましたし、麿さんもいましたし。いわゆる集合知としての友人になりうる人が大阪には少なかった。いまはいろいろいますけど、東京に行ってみんなに観てほしい、書いてほしい、同じ土俵でしゃべりたい、というのがありましたね。91年の『少年街』までに、麿さんにも助けてもらって、四谷の公会堂など小さいとこで何回かやりました。

麿 「ヂャンヂャン☆オペラ」までの試行錯誤っていうのはよく知ってますよ。

松本 寺山修司が観に来てね、批判したんですよ。僕らが白塗りでやってると「大駱駝艦の弟が大阪から来たみたいだなあ」って言ってね。それを聞いてお互いムカーっときて、あくる日、気晴らしで大駱駝艦と維新派で野球大会をしました。

岡田 僕は73年生まれで、91年には18歳。ちょうど大学受験で、受験勉強しながらラジオ聞いてたんです。そのときに放送されていた『少年街』のラジオCMで「維新派」も「ヂャンヂャン☆オペラ」って言葉も初めて聞いたんです。高校のときは全然演劇やってなかったので、観たいと思ったわけではないんですが、CMのことは強く覚えてます。

松本 当時、僕らも東京へ行ってびっくりしたね。大阪の前衛というのが来たぞというのでもの珍しかったのか、取材がすごかった。『anan』まで来ましたからね。どこかのフランス料理のレストランでインタビュー受けて、すごく場違いな感じで。そういうのがものすごいあったんですよ。そのCMは知らないけど、勝手にやってくれてたのかな。

橋本 岡田さんは、チェルフィッチュの方法論が顕在化した最初の代表作『三月の5日間』を2004年に上演され、続いて、その延長線上にダンス作品『クーラー』を発表されました。製作の背景には、演劇人以外の、ダンスのアーティストとの深い交流もあったかと思います。『三月の5日間』以後、どのような人脈に刺激を受けたのでしょう。

(撮影:松見拓也)


岡田 僕は、横浜のSTスポットという、いわゆる劇場ではない、80人ぐらい入れるのも厳しい小さな場所で活動してたんですよ。横浜という、東京からちょっと離れてる場所で活動していたことが当時の僕にはすごくよかった。いまもそうだけど、当時も東京では、ちょっと上の世代の人たちの「いまこういう人が来てるぞ」っていう感じがすごくて。この中に入り込むのは大変だな、って尻込みして僕は行かなかったんです。田舎であれば「一念発起して東京に行かないと!」って感情が湧くのかもしれませんが、横浜って、そこにいるだけである意味東京に片脚突っ込んだ状態でもあるというような、中途半端な場所なんですよね。

でもそれが僕にとっては結果的によかったと思います。当時のSTスポットは、コンテンポラリーダンスなど実験的なことをやっている人たちが集まる場所になっていたんですよ。僕はダンスにはじめから興味があったわけではなかったんです。でも、STスポットで活動していた結果、自然とそうした人たちとも知り合いになりました。中でもいちばん影響を与え合った関係になったのが手塚夏子さん。自分の作風、どんな身体を舞台上に置きたいと考えるかという意識に大きく作用しています。この出会いは例えば『三月の5日間』のスタイルにも反映されていますし、その後「ダンス作品」と銘打って『クーラー』を発表したことにも当然つながってます。岸田國士戯曲賞という「ザ・演劇」の賞をいただいたので演劇のジャンルの人とみなされるようになりましたけれど、それがなかったら、そうはなっていなかった気がします。STスポットという場所に入った結果、「君がやってるのはダンスだからダンスをやれよ」「ダンスのコンペあるから応募しろよ」とか言われて、ダンス作品を作ったり応募したりしていました。そういう環境に当時たまたまいた、というのが大きいですね。

そのときの自分は、それまでは芝居を作っていたけれどダンスも作ってみた、というのではなく、むしろ、自分がやってることの呼び方を単に変えてみただけ、っていういたずらみたいな気持ちでやっていた気がします。

 
●どれだけコンプレックスを持っているか

橋本 その当時、さまざまな人同士を結びつけていたキーワードは一体何だったのか。また、麿さんには、土方さんに師事しながら唐さんの「状況劇場」に参加するなど、踊りと演劇の両方をどのように行き来していたのかということも伺いたいと思います。

麿 唐は何をやろうがあくまでも芝居の範疇なんです。ただ、唐自身も新劇系統の分派の劇団からのあぶれ者として出てきて、当時の新劇に対するアンチな感じがあった。そこには、肉体的なコンプレックスというのがかなりあったと思うんです。太ってたりブスだったりすると芝居できないというコンプレックス。みんな二枚目で、西洋人みたいな顔してやってる新劇の連中を見ると腹立ってくるとかね。それで逆に外国映画とかで、くしゃくしゃの顔の奴とかが好きで、そういう連中に共感を持っていた。その身体のコンプレックスがキーワードですね。唐のコンプレックスの発露として「特権的肉体論」というようなもの、どれだけマイナスのコンプレックスを持っているか、その多さで競争するみたいなところがあった。

土方さんもコンプレックスをかなり持っていたと思います。彼は足の長さが左右で2cmぐらい違うらしくて、それがクラシックへのコンプレックス。クラシックというと美男子がいっぱいいるから、顔に対するコンプレックスもある。あとはやっぱり西洋に対するコンプレックス。

土方さんはどうやったら彼らに勝てるかと考えた。どうせなら真っ白けにしたらいいだろうとか、ちょっと乱暴かもしれない発案もあった。後々になって、能や歌舞伎などの伝統芸能からかっぱらってきたとか言われるけど……。それもあるかもしれないけれど、どちらかというと西洋人に負けないぞ、というコンプレックスのほうが強かったと思う。

だから土方さんの伝記で、秋田の田舎にヒトラー・ユーゲントが来たときの話とか読むと、やっぱり日本人であるというコンプレックスはどっかにあったんじゃないか。彼は戦中派ですからね、戦争に負けて、価値がバッとひっくり返っちゃったわけです。松本さんもそうだけれど、僕なんかは民主主義を享受してきた呑気なオジさんですからね。岡田さんは、また新しい危機に向かっていかなくちゃいけなくなるかもしれないけど(笑)。

それから、土方さんは一応ダンスのサラブレッドですからね。クラシックからモダンダンス、マーサ・グレアム、ドイツの表現主義のマリー・ウィグマンとかの文化的な影響をずっと受けていた。だから演劇にはそれほど興味がなくて、よくわかっていなかった。そこで唐と僕が橋渡しになって、土方さんも演劇的な方向の舞踏というか、そういうものを始めたんです。どこで線引きするのかはなかなか難しいけれど、とにかく演劇とは絶対言わない。松本さんも「俺は演劇だ、ダンスとは言わない」と言っていた時期もあったけれども、そこへいくと自分はどっちなのかという葛藤はかなりありましたね。そして、エーイまとめて面倒見ようじゃないか、となりました。

それから20年くらい経って、岡田さんの時代になってくると、簡単にジャンプしちゃうんですね。ダンスのようなのを演劇って言われたら「別にどっちでもいいんですけど」みたいなね。確かに新しい世代にはジャンプ力はあると思います。(紙を指して)我々は端から端へいくのに一生懸命になっていますけど、彼らは「こっちのほうが早い」と言って紙を折って端と端をくっつけちゃう。「ずるい!」みたいな。そういうところを今度は逆にこっちが盗みたいよね。

橋本 松本さんは、かなり初期のころから総合芸術に関心がおありだったと推察します。維新派で音楽を担当されている内橋和久さんと、また、いろいろな人たちと一緒に舞台を作るときに、どのように創作に当たっているのでしょうか。

松本 僕は演劇に特化していたわけではないので、暗中模索というか「自分のやっていること、これはどこに入るのかな」と問うていたのかもしれない。そういうときは、いろんな人の意見、例えば内橋の意見が意外と美術的に聞こえたりする。逆に美術の林田裕至君は映画の人ですが、彼の意見がすごく文学的に響いてきたり。いまだにそういうところがありますが、維新派というのがすごく浮遊的な緩い存在だったのかもわかりませんね。

内橋君にしても、麿さんにしても、存在にやられちゃう。その人が何を言うかではなく、その人を意識するだけでピッと自分の背筋が伸びる。あるいはその人に見せたいとか、その人を意識してシナリオを書くとか、何か自分の周りに置く意識の核というか、すごく中央値というような存在。

内橋君は走り続けているところがすごい。「ミュージシャンは止まったら終わりだ」と、昨日やった音楽はもう絶対やらないと言う。そろそろ還暦を超えるのにまだそれをやってると、僕もがんばらなあかんなと思います。でも彼は「やれなくなったらもうやめたらええやん」とか簡単に言うんです。その言い方もまたうれしい。そんなことを言いつつ世界中を走り回っている姿を見ていると、「しょうもないことやれへんな」と思いますよね。

もう一方では、具体美術の人たちは大阪弁で「真似したらアカンで」って言うんですよ。絶対コピーは駄目だと。僕は若いころは「これは俺がやってるんやから真似なんかしてへんで」って、大阪やから堂々と言えた。東京と違って情報量が少ないんでね。でも「果たしてそうかな?」っていうのはあって、内橋君とかメンバーとよく話してました。「パクリ」はね、これは引用だからいいんです。最近、僕は志人さんっていうラッパーの歌詞をパクったり、山下澄人という作家のパクリをやってますね。パクリまくってるんですよ。

麿 寺山さんだって「パクリの修司」って言われて有名だった。堂々とやってますからね。でも、「パクリ」って、やり方が難しいんだよね。シチュエーションを変える、ずらし方が上手いってことです。それが「もう20世紀の芸術は終わった!」という、運動的なものでもあったわけ。ちゃんとした絵を描くルノワールぐらいで止めときゃいいのに、わけのわかんないデュシャンみたいな奴が出てきたりして、我々の頭が段々おかしくなっちゃった。モナリザの顔にヒゲを描いたりしてさ。「どういうこっちゃねん! こんな失礼な」とか思うのに、「これアートだ!」なんて言われたらもう考えるしかない。そういうのはどうしたらいんだよって悩みですよね。松本さんや僕らには、世代的にもあっちこっちからわけのわからない情報が入ってくる。岡田さんはそういうの平気なの?

岡田 「ヒゲ描いていいじゃないの」って思いますね。西洋人に対する外見上のコンプレックスにしても僕らの世代にはなくて、いまだとそれを「ローカリティ」なんて言えちゃう。やっぱりそれは時代の蓄積ですよね。ほんとに「それがあった上でのいまだなあ」と思っておふたりの話を聞いて、先人にいま深く感謝の気持ちを抱いて……(会場笑)。

(撮影:編集部)



 
●演劇・ダンス・美術

橋本 岡田さんは、2006年ごろに新国立劇場で仕事をされたときに「自分が国立の劇場で上演するのは大変不思議だ。自分は常にオルタナティブな存在であったのに」というようなことをおっしゃって、自身のことを「本流ではない」と位置づけておられた。当時、どのようなことが起こっていて、どのように自分自身のことを考えていたのですか。

岡田 まず僕は、別に普通の演劇が好きだったわけじゃない。でも、何かわかんないけど演劇を始めてしまった。普通の演劇だと僕にとって面白くない。自分にとって面白いものをやりたいという、ごく素直に言うと、そういうつもりでやってきた結果がこうです、という意味で「本流じゃない」。

新国立劇場なんてオーソリティの最たるものじゃないですか。「国立」っていう形態だけじゃなくて、そこで紹介される演劇も普通の演劇が多いけど、僕はそうじゃない。自分は「ロストジェネレーション」って言われるような世代で、話が来たのも、ついこの間までフリーターだとか非正規雇用者だとか言われる立場にいながらやってた時期。でも新国立劇場に来るお客さんはそういう問題とは無縁なところで暮らしている人たちで、そういう戸惑いは自分の中ですごく大きかったし、そこに対して内容的にも手法的にもぶつけてやろうという気持ちも強かった。そういう気概の現れだと思います。

橋本 最近は美術作家との共同作業を始められて、特に金氏徹平さんが美術を担当して作品をふたつほど作られています。また、岡田さん自身が美術のコンテクストで作品を発表されることも徐々に増えています。ダンス以外のジャンルへも踏み出している最近の関心を教えてもらえますか。

岡田 麿さんがおっしゃっていた「いまの世代は簡単に飛び越えちゃう」ということが僕自身にもあります。例えば「これは演劇作品だ」「ダンス作品だ」っていうのはただのキャプションみたいなもので、「そんなの簡単に入れ替えちゃえばいいじゃん」と思っている。それは、デュシャンなんかが切り開いてきた歴史の積み重ねの結果の一側面として、そういうこと何にも気にしないでやってる僕がいる、ということなんだろうなと思います。「越境している」って気持ちはまったくありません。「自分が思っていない」だけじゃなく、他人に対しても同じで、発表する場所や、企画者やプロデューサー、キュレーターの違いとして片付けてよい、本当に何でもないことだと思ってます。ビジュアルアートの作家に舞台美術を依頼することも特別なことではなく、作品の構想時に「助けてくれる人は誰かな」って具体的に考えていって、例えば金氏徹平さんだとこういうことをやってくれるだろう、さらに僕が思っている以上の何かをやってくれるなら誰でもいい、という気持ちがある。具体に影響受けたとおっしゃっていた松本さんには、「じゃあ、なぜいま演劇やってるんですか」と聞いてみたいですね。

(撮影:松見拓也)



松本 すごく似たようなところがあるね。この前、ジュン・グエン=ハツシバっていうヴェトナムの美術作家と一緒にやったときは、良い意味で「お先なんにも見えないな」ってぐらい未知数に思えた。でも他方で、クワクボリョウタ君と一緒にやりたいな、でも合いすぎて進歩ないかな、とか思ってもいる。クワクボ君と一緒にやると「あ、自分はやっぱり演劇畑なんだな」という志向性が見えてくると思うけど、ジュン・グエン=ハツシバと一緒にやると「あれ? やっぱり自分は美術家やったんかな」とか、そっちがすごく出てきそうな気がする。だからひとつの付き合いっていうのはけっこうきついですよね。ただ、僕の場合は劇団員がいますのでね、「今回は美術やで、今回は演劇やで」って振り回すとついてきてくれん。彼らを路頭に迷わすわけにはいかない。

基本的には体とオブジェというか、距離というか。「美術は美術」というのではなく、そこに体を置けばもう少しこの体が何とかなるんじゃないかとか。例えば李禹煥さんの作品だと「ちょっとあれだと横に体を置けないな」みたいなこともあるだろうし。

麿 僕は美術家とはあんまり付き合いがないけれど、宮島達男さんとは一緒にやったな。コンピューターアートだとか言って、数字使ってるでしょ。観に行っても数字で興奮すんのかな、なんて、僕の頭はエロチシズムでしか出来てないので、そういう風に見ていっちゃう。でもつきあっていく内に、数字も色っぽくなっていくんだね。そういう目覚めをさせてもらった。美術家っていうのはいろいろ難しいこと考えてる。荒川修作さんみたいに「精神の土木工事だ」なんて言われると、よくわかるけど(笑)。

松本 あなたの舞台には、動く現代美術、彫刻みたいなものがけっこうあるよね。真鍮を円に切って天井からぶら下げる舞台装置にはびっくりした。

麿 真鍮をぶら下げるのは中西(夏之)さんの案だよ。パクったわけじゃないけど、でもまあパクったりもしましたよ。土方さんが僕の舞台をパクったこともあるしね。毎日酒飲んでると、どっちがパクったかよくわかんなくなってくるんだよ。「俺が言ってたことやってんじゃねーか!」なんて(会場笑)。

松本 僕がいちばん感動したのはね、昔、西部講堂で大駱駝艦が『蘭鋳神戯』というすごい面白い芝居をしたんだ。そのときはまだ山海塾の天児牛大も、この前死んだ室伏鴻もいたときで、みんながそれぞれのシーンを作るオムニバスになっている。その中に、誰の発案か知らないけども、福引きで使う六角形の、僕らガラガラとか言いましたけど、あれの巨大なのを作って本当に回すんですよ。ガラガラっと回ったら、中から体をピンクに、白に、赤に塗った男が、ポコーン! 当たり! ハズレ! って出てくるんですよ。これは、美術家からしたらできない美術。人間を玉にしたら、頭から落ちるかもわからないし、ケツから落ちるかもわからない。いまの身体に対して優しい世の中ではできないような。でもそれは、きれいですよね。ぽとん、ぽとん、と落ちてくるのが。

麿 福引のガラガラは俺の発案。とにかく面白いことをしようって。お腹に的描いて「当たり〜」みたいなの好きだしね。

松本 僕らと岡田君の時代の違いってね、麿さんも言ってましたけど、西洋に対する反発と、ある種のアジア主義のようなものでしょう。例えばインド哲学とか、実際ヒッピーがインドまで行ったとか、日本再発見とか。福引きのそれなんかは、まさに板に漢数字とかが描いてあって、風呂の脱衣箱みたいなデザインで和風なんですよ。だから新劇なんかであれが出てくることは絶対にないだろうという「日本」が出てる美術。いまだったら、束芋さんくらいがやりそうな世界観。

麿 西洋に対する、あいつらがこうならこっちはこうだ、みたいな。期せずしてというか、どこかにそういうアイデンティティを出すみたいなのがあったんでしょうね。

岡田 いまの時代、そういうのないなあ。

(撮影:編集部)



 
●創作環境としての都市、そして日本

橋本 冒頭で触れた1960年代の終わりから70年代の始めにかけてのニューヨークで、アートの制度化、位置付け化の確立に対抗するような形で、いまでは洒落た地域といわれるSOHOなどが興った。オルタナティブスペースムーブメントといわれる、そうした都市の変遷と時代の動向はアートとリンクしていたんじゃないかと思います。その観点から、当時の都市をどういう風に捉えていたのか、麿さんと松本さんに伺えたらと思います。

松本 東京では、花園神社界隈と、風月堂を中心とした表の堂々としたところにSOHOに近似したものがあったと思います。大阪にはね、繊維街の、半分売春宿みたいなとこがあったんですけど、そこに具体美術の人とか現代美術の人とかがけっこう行き来してた。

僕ら若いときって、日本が戦後安定してきて、大阪におって、すごく退屈やなあっていう、そういう世代なんですよね。親の世代なら、戦争があって、大阪の街は空襲があって、その話が僕にとって面白いんですよね。この退屈ないまよりも戦争のときはすごかったんだなとか。やっぱり若くて、すごくアンチ社会的なことばっかり考えてました。

原風景みたいなものがあるかもしれません。戦後生まれで、遊び場といったら焼けあとの建物の記憶もないような原っぱ。大阪で有名なのは砲兵工廠といって、アメリカ軍にやられた兵器工場で、出入りが自由だったんです。僕らにとっては、「戦争の遺物」じゃなくて「やたら大きな空き家」でね。有名なのが、開高健の「日本三文オペラ」か。手つかずでひどい場所だったんですけど、まさに瓦礫と鉄くずの山という、冒険心をかき立てるというか、子供の僕らにとってはすごく面白い場所で。「うさぎ追いし かの山」じゃなくて、美しい山河じゃなくて、そこが故郷のような感覚はあるんですね。

だから大友克洋の『AKIRA』周辺のマンガや、1980年代終わりくらいからの廃墟ブームとか、東京じゅうが瓦礫になっているような、あれが正直言って美しいと思ったんですよ。いまだに美しいと思っています。東京の汐留で野外公演をやったときは、いまの高層ビルが建つ直前のまっさらな更地で、そこから貿易センタービルと東京タワーと、あらゆる有名なモニュメントが見えて、それらが全部何かのせいで瓦礫になって、汐留に集結してきている風景が見たいという、非常に素朴な美意識で作ったんです。

いま麿さんと一緒に『レミング』という芝居を作っているんですけれども、寺山さんの『レミング』も、究極はやはり終末感というか、この世の最後を見たいという人間の非常に怖い本能が底辺にあると思うんです。いまはやっぱり、それに正直に作りたい。芸術というのは僕の場合、非常にマイナスなものを求めている不健康なものだという認識がありますので、あんまり状況に流されず、勇気をもってやろうと思います。いまやってるのは「ブラタモリ」ですね。都市の記憶というか、どんな風景でもいいから、名所旧跡でなくていいから、そこにある記憶を、身体を置いて感じて探ってみようと思って。

(撮影:松見拓也)



橋本 岡田さんは『三月の5日間』で具体的な六本木や渋谷の街を描き、最近ではコンビニを題材に取ったものなど、都市の動向と密接に関わった作品を発表されています。いま自分がいる街を、どのように見ているのか聞かせて下さい。

岡田 いわゆる抽象的な都市じゃなくて、あるひとつの特定の都市が、ある作り手にとって重要になると思うんです。例えば、ある人にとっては東京、松本さんだったら大阪、鈴木忠志さんだったら利賀という場所があり、そこと強く結びついている。もちろん外国の都市でもいいし、もっと言えば都市でなくてもいいのかもしれない。でも、いろんな人にとってのそういう場所が自分にはない。僕は演劇をやっているのに、ある特定の場所っていうものが自分にとっての特別なものになるってことがまだ起こってないんです。それは実は、演劇の作り手としてのちょっとしたコンプレックスなんです。

それは、先ほども言った横浜という場所が持つ中途半端さの両面です。そのことの良さもあると思いますけど、その逆もある。また、2007年以降、国外も含めたツアーをたくさんやるようになってきて、さらに、それまで神奈川だったんですけど震災のとき九州に引っ越した、みたいな状況があるんです。コンビニの話も描き、渋谷や六本木という場所に言及しましたけど、少なくとも自分ではすごく外から見ている目線なんです。横浜だから、いわゆる地方の人が東京を見ている見方とは違って、やっぱり外から。だから、僕にとって都市というのはそれ以上のことは言えないです。

橋本 国外での公演では、いまの日本の文化的な状況を背負っているという気持ちを持たれたりするのでしょうか。

岡田 自分から背負っているとは考えてないんですが、結果としてそういうことになってしまうので、背負わざるを得ないと思っています。自分からの気負いみたいなのはないですね。エキゾチシズムや、アイデンティティに関して自分がどう向き合うかということに関しては、紆余曲折ありました。そういう風に見られたり、扱われたりするのが最初は単純に嫌だったんですが、その次にやって来たのは「なんでこんなに嫌だと思っているんだろう」という疑問で、いろいろ考えました。どういう考えになったか言葉で言うのは難しいけど、当時むちゃくちゃ悩んでいたときに比べてシンプルになれた。それは極端に言うと「自分の作りたいものを作ればいいんだ」という言い方に近いような考えです。でもそれには時間がかかりました。

橋本 舞踏が始まったときに日本回帰というところがあり、そこで培われた表現が世界中で評価を受けるわけですが、麿さんはどういう気持ちを持たれていたのでしょうか。

麿 世界的には、むしろパリとかのほうが歴史的な都市であって、東京も含めて戦後復興した新興都市は平均的でどこも同じなんです。ところがやっぱりね、外国に行ったらよそ者ですから、その地方性というか、特に日本は「神秘的な国」と、既得権というかインプットされてるし、非常にインチキなものがあることは確かです。そういうことはわざとチラチラ出しますよ。

日本のものという何かをくっつけねえといけない。土方の原爆の問題とかで「舞踏は原爆から始まったのか」とか聞かれます。だって山海塾なんかは「動く禅」とか言われて、もうハナからコピーを付けられてるわけだ。それをパリの「ル・モンド」かなんかが書くわけでしょ。動く禅なんて見たことないねえもんだから、みんな(笑)。

それはエキゾチシズムかっていうことではなくて、パリという芸術のマーケットでは特によそ者のほうが面白いと言われてる作品が多い。アルジェリアだったりチュニジアだったり、旧植民地のところとかハンガリーの片田舎とか、みんなどこかから来た人のたまり場だ。そういう都市だ。彼らのアイデンティティからひねくれたものが出てきて面白いのがいっぱいあって。こっちから見れば、ハンガリーのどこどこの男だという話のほうが面白いし、それもエキゾチシズムですよ。そういう問題意識を彼らは持って、そしてパリに乗り込んできてその背景を取っ払おうと思ってやっているんだけれど、必ず体のどこかににじみ出てるものはありますね。むしろそういうものを我々は覗き見てるような感じになる。それじゃあ日本というものは何だ。お茶だの禅だの能だの、古典的なことに行っちゃうというのは確かにありますね。

 
●KEX2016で発表する作品について

橋本 最後にお三方に3月に発表する作品の見どころや、新作であれば構想について、ひとことずついただきたいと思います。

(撮影:松見拓也)



松本 林慎一郎君というOMS戯曲賞を2度も取っている作家と僕で初めてタッグを組んで『PORTAL』というオリジナル作品をやります。「PORTAL」というのは元々は「港(Port)」から来ていて、入り口とか穴とか、いろんな通路ですね、そういう意味合いです。

大阪の衛星都市の豊中市に、庄内地区という面白い街があるんですよ。そこを出発点にした作品で、ひとつの普遍的な都市神話というか現代的都市神話というものをやります。僕としてはやったことないような戯曲の形態なので、かなり冒険するつもりでやりたいと思ってます。4都市で公演するんですけど、京都だけ主演がラッパーの志人君に変わりまして、演劇は初めてだと思うので、これも楽しみにしています。

橋本 続いては、麿さん。

麿 『ムシノホシ』という虫の話です。昆虫に興味を持ってましてね。人類生き延びるためにはどうしたらいいだろうという、大げさなテーマで、老人の妄想ファンタジーみたいなものです。『ザ・フライ』というホラー映画で、DNA操作でハエと人間がくっついたハエ人間が出来てね。ものすごい馬鹿力で変な昆虫。うちも、そういう実験をしてます。そういう踊りです。
とにかく人類が生き延びるために、記憶を捨てるべきか。人間の持っている記憶は人間しかないだろうと。記憶がなかったら人間は生きられるか、なくても昆虫のように平気で、死とか生きるとか考えないで一生懸命働いて。だいたいね、人間は昆虫の真似をしてるんだな。昆虫は人類より何億年も大先輩。顔洗ったりセックスしたりするのも全部、彼らの生活形態のひとつですよ、あいつら先輩のおかげで、こういう風になってる。そういうファンタジーの踊りです。老いも若きも楽しめると思います。

橋本 ぜひご期待下さい。それでは岡田さん。

岡田 僕は、震災以降、それを直接的に扱う作品を2作品作っています。深刻なテーマを扱うと、もちろんお客さんに重たいものを渡すので、作ってるほうも重たくなる。気持ちが疲れたこともあって、去年はもっとチャラチャラしたコンビニの話を作ったんですが、もう1回戻ってこようと思って、やります。震災が起こった直後の、短い期間だったけれども、ある多幸感とか高揚感みたいなものが、少なくとも自分の中にあった。もし人が、そのような気持ちの状態を抱えたままの時期に亡くなったら、その幽霊は永遠にそういう多幸感のまま生きることができるだろう。そうではなく現実を生きている人間は、いろいろな経験をして気持ちは変わっていく。その間で、例えば幽霊のいまだに感じている多幸感に対して生きている人間が苛立たされたり、ある種の羨ましさを抱いたりするかもしれない。そのような仕組みでさっき言ったようなことを描きたいと思います。

今回は美術作家の久門剛史さんに舞台美術をお願いしました。彼はビジュアル、空間になるものを作ると同時に、サウンドを扱う作家でもある。3人の出演者を予定しているんですが、彼の作る音や空間を4人目の出演者というくらいの扱いをしながら、いま言ったことと結びつくような仕方で、空間を作っていこうと思っています。

橋本 今日はみなさん、どうもありがとうございました。

2015年11月9日(月)、京都芸術センターにて


 
 

おかだ・としき
1973年横浜生まれ、熊本在住。演劇作家/小説家/チェルフィッチュ主宰。活動は従来の演劇の概念を覆すとみなされ国内外で注目される。2005年『三月の5日間』で第 49 回岸田國士戯曲賞を受賞。同年7月『クーラー』で「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2005—次代を担う振付家の発掘—」最終選考会に出場。2007年デビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を新潮社より発表し、翌年第二回大江健三郎賞受賞。2012年より、岸田國士戯曲賞の審査員を務める。2013年には初の演劇論集『遡行 変形していくための演劇論』、2014年には戯曲集『現在地』を河出書房新社より刊行。2016年よりドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレ(ドイツ)のレパートリー作品の演出を3シーズンにわたって務めることが決定している。

まつもと・ゆうきち
1946年熊本県天草生まれ。維新派主宰。大阪教育大学で美術を専攻。1970年維新派を結成。1991年、東京・汐留コンテナヤードでの巨大野外公演『少年街』より、独自のスタイル「ヂャンヂャン☆オペラ」を確立。野外にこだわり、“漂流”シリーズ(1999–2002)や20世紀三部作(2007–2010)などを企画。これまで、読売演劇大賞優秀演出家賞、朝日舞台芸術賞・アーティスト賞、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。2011年には紫綬褒章受章。

まろ・あかじ
1943年生まれ、奈良県出身。1965年、唐十郎の劇団「状況劇場」に参画。唐の「特権的肉体論」を具現する役者として、その怪物的演技術により、1960–70年代の演劇界に多大な影響を及ぼす。1966年、役者として活躍しながら舞踏の創始者である土方巽に師事。1972年大駱駝艦を旗揚げし、 舞踏に大仕掛けを用いた圧倒的スペクタクル性の強い手法を導入。 天賦典式(てんぷてんしき)と名付けたその様式により日本はもちろん1982年にフランス、 アメリカ公演を敢行し、「BUTOH」の名で世界を席巻する。舞踏家、俳優、演出家としてあらゆるジャンルを越境し、舞台芸術の分野で先駆的な地位を確立している。1974年、1987年、1996年、1999年、2008年舞踊評論家協会賞受賞。2006年文化庁長官表彰受賞。

 
 

(2016年2月22日公開)


 


「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭2016 SPRING」
2016年3月5日(土)–3月27日(日)

松本雄吉×林慎一郎『PORTAL』3/12-3/13 ロームシアター京都

大駱駝艦 天賦典式『ムシノホシ』3/16-3/17 京都芸術劇場 春秋座

チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』3/17-3/21 ロームシアター京都