対談「渡部直己×福嶋亮大」高熱の京都――テクスト論から少し離れて【京都 今昔篇】

 
構成:福永信(小説家)/福岡優子(編集者)

 
渡部直己と福嶋亮大――文学を読む鋭い目と、京都の知を探し求める圧倒的な脚力により、つかみ取られたお話からは、目から鱗がぽろぽろ落ちる、いつもと違った京都が浮かび上がってくる。
あるときは東へ西へ、またあるときは北へ上がって南へ下がり、そして郊外へ――。

没後・50年を迎えた谷崎潤一郎から、現代京都のガックリ名所案内まで、
京都を縦横無尽に熱く語る、記念すべき初対談、その後篇 ! !
 

疏水沿いを散策する福嶋亮大(左)、渡部直己(右)
Photo: Kanamori Yuko


 
● 京都にガックリ――京都「洛中落胆図」

渡部 僕は京都人じゃないのに、KBS京都テレビでここの議会をけっこう傍聴してるんだよ(笑)。府議会か市議会か忘れましたが、和服着てる首長がいました。で、京都でいま、何が問題になっているかというと、観光客の「ナイトライフ」の充実なんだそうです。夜の領分を観光化するということですね。さかんにライトアップしたりね。しかし、ライトアップしたら紅葉は枯れやすくなる。あれは、人工光を当てると傷んでしまうというのに。紅葉は陽の光の裏側から見るのが最高であることくらい、京都人は知ってるわけでしょ? だけど京都の議会は、大きな方向では、夜の時間帯にも観光客が楽しめる街作りを模索しているらしいよ。僕は京都市民じゃないけど、絶対反対(笑)。

福嶋 最近の京都って、外からの視線に対して自分を合わせているところがある。「おもてなし」と言えば聞こえはいいけど、要は自分たちの内在的価値がわからなくなってるだけですね。もちろん、外国人観光客への情報提供等はわかりやすいほうがいいけど、妙なサービス精神は百害あって一利なし。

渡部 京都へ来てまず感心したのは、ここにはちゃんと「夜」があるってことでした。特に鴨川から東は、7時過ぎるともう真っ暗。このメリハリはとても得がたいのに、その「夜」まで煌々と「観光」化するというのは、ガックリ来ますよね。二条城の金魚ショー(「アートアクアリウム城~京都・金魚の舞~」)なんて、ひどいものでした。それから、ある種の建物が明らかに過去を「偽造」しているのにも、落胆しました。かつて丸焼けになってることが明らかなのに、まるで燃えてないような格好して……伏見の寺田屋とかさ。で、そういうところに限って、言葉がべたべた空しく張りついている。素っ裸で風呂を飛び出して、2階の龍馬に危急を伝えたお龍の「恋の階段」とかね。その手の景物を僕は「洛中落胆図」と呼んでるんだけどね(笑)。例えば、比叡山に四明岳(しめいがたけ)というのがあって、僕、バカなのか高いところが好きだから、すぐに登ってしまうんですが……。

福嶋 高所がお好きなのはよく知ってます(笑)。

渡部 比叡山は、八瀬からのその登りのケーブルカーはいいんです。グイグイ行き、行くにつれて木の間から洛北の景観が広がるあの感じは、なんとも言えない。

福嶋 あれはいいですね。素晴らしい。

渡部 で、登り終えたてっぺんに、その昔、平将門が、京を睥睨して、藤原純友と密議を凝らしたという伝説の岩があるんだけど、そこがいま、有料のフラワーパークになっちゃって、その将門岩と覚しきものが、単なる花に囲まれた巨岩と化してあるのさえ許しがたいのに、その一帯がいまや、妙にお節介なNPOによって、なんと「恋人の聖地」などという、目も眩むような陳腐な場所に指定されているわけですよ(笑)。「告白」したり「プロポーズ」したりするのに最適な場所ということで、すでに全国150ヶ所以上あるスポットのひとつに、将門岩もなっちゃったわけだけど……あれはしかし、お節介を超えて逆効果じゃないんだろうか(笑)。これには、ともかく参りましたねえ。

比叡山頂の「将門岩」


 もうひとつガックリしたのは大原の寂光院です。10数年前に本尊が、放火で焼けちゃったよね。そこで復興したわけだ。でも、その本尊様、1960年代の船橋ヘルスセンターの置物みたいになっちゃってる(笑)。周りが閑雅なだけに、ものすごいミスマッチ! そこへ行くまでは、ひなびた、いい感じなのに、本尊を見たらいとも安手な。これは福嶋さんにお聞きしたいまさに「復興的な」問題なんだけど……ああいうのは、いいの?

福嶋 寂光院はしばらく行ってないんですけど、それは残念です。そもそも、文化の復興というのは本来は知に関わる問題なんですが、それがいまひとつ理解されていないと思います。
 自分の血縁者の話をするのも何ですが、僕の母方の祖父は建築家だったんですよ。大森健二という人で、寺社の修復・修繕を専門としていたんです。1950年代に千本釈迦堂(大報恩寺)の修復を担当したんですが、近世の間にいろんな装飾がくっついてきたのを取り去って、鎌倉時代の創建当時の状態に近づけるという方針でやったらしい(大森『社寺建築の技術――中世を主とした歴史・技法・意匠』参照)。だから、江戸時代の人たちが見ていた千本釈迦堂よりも、いま、我々が見ている千本釈迦堂のほうがおそらくその形態において古いんですよね。千本釈迦堂というと京都市内で最古の木造建築と言われますが、その古さは知や計算によって作られている。京都は千年の古都とか言うけど、正しく計算をしないと古さは作れません。

渡部 剥落をどこまで保存して、どこまで本気で直しちゃうかっていう基準が、どこにあるのかなあと思ってね。

福嶋 大きく言えば、作品の同一性とは何かという哲学的な問題ですね。どのバージョンに戻すかというのは、作品のアイデンティティを揺るがすもので、徒や疎かにはできない。その点で、修復作業は知と決断の間の闘いでしょう。なのに、いまの京都ではそのたいへんさが忘れられている可能性がありますね。

 
● タダが好き!

渡部 少しまた違う観点から言わせていただくとね、僕は別にケチじゃないんだけど、タダのところが好きなんですよ。京都に来て、タダのところがあれば絶対入ってみることにしてました。その、「タダの充実度」には実に感心しましたね。例えば、さっきの地図も名水もそうでしたが、3日に1度くらいの頻度でその水をもらってくる梨木神社の近くに、京都市歴史資料館があって、タダです。僕が行ったときは蛤御門の変のときの「どんどん焼け」がどういうふうに焼けたか、どんなふうにかわら版などで伝えられたか、というのを展示していました(「蛤御門の変と「どんどん焼け」――あれから150年」)。しっかりした展覧会でしたよ。最初に京都を自転車で回ったときには、京都市考古資料館に出くわして、ここもタダ。入ってみたら、それなりにきちっとしてる。石峰寺に行ったときも、あれは僕のヒキの強さか、たまたま9月10日で、その日が若冲の命日で、タダ。

福嶋 渡部さんはとにかく運のいい人ですよね(笑)。

渡部 そして、きわめつけが、琵琶湖疏水記念館。これこそ、僕の「聖地」ですよ(笑)。蹴上から平安神宮に向かって、一望に開けていて最高の場所にあるんだよ。もちろんタダです。疏水をめぐると、かならず最後は疏水記念館に入って、疏水の様子とかを復習する。何しろ、三井寺そばの取水口より山科・東山を経て松ヶ崎からずっと鴨川の先まで、辿れる限り疎水を歩きたどるほど、疎水が気に入ってしまいました。僕は疎水記念館を基点に京都にまみれた感じがあるんですが、この前、館員さんに聞いたら、2015年の6月くらいに、大津から蹴上近くまで、昔の疎水遊覧船を復活させるという計画が、滋賀県の議会にかけられてるようですよ。実現したら、東京から駆けつけますよ、必ず。こっちは、さすがにタダってわけにはいかないでしょうが(笑)。

(上)琵琶湖疏水記念館は京都市動物園前の鴨東運河に疏水が合流する地点にある
(下)正面


 
● 墓には人があらわれる

福嶋 さっき疎水と谷崎の話をされていましたが、もう1回そこに戻りましょうか。谷崎は変化を恐れないカメレオンみたいな作家ですが、物事を主知的に選んでいるんじゃなくて、欲望で選んでいる感がありますよね。

渡部 そうですね。

福嶋 欲望を喚起してくれるものへの敏感さというのが一貫してあって、それが彼の土地選びにもいくらか反映されているんでしょうね。

渡部 それがたぶん、さっき述べた「水流と文流」の関係にもなるんでしょうが、ただ、その関係が書かれたものにストレートに現れてこない。それは墓にも言えて、法然院にある谷崎の墓に行ったとき「嘘だ!」と思ったのね。『瘋癲老人日記』のような素晴らしい「気狂ヒ沙汰」を書いてしまった人間が、こんな清雅な墓に入っているのは絶対間違っている。というか、なんか許せない感じがしましたね(笑)。何が「死ンデモ予ハ感ンジテ見セル」だよ、って。あの見事な墓所も墓石も本人が選んでいるわけだから、こんな墓に収まりたい人間が、『鍵』だの『瘋癲老人日記』だの……その食えなさ加減がねえ。

福嶋 変態小説を書いていた奴が、最後は「空」「寂」と彫られた墓石のもとに埋まっているわけで、本当にふてぶてしい(笑)。ただ、谷崎本人はそうやって笑われることも織り込み済みでやっているのかもしれない。あの墓もあらためて見ると、すごく芝居がかった感じでね。

渡部 出来すぎでしょう、あれは? そこをしかし、サルが踏んづけてるわけね(笑)。僕は写真を撮るのが苦手ですけれど、サルに追っかけられながら撮ったんですよ。これ撮るの、怖かったなあ(笑)。怖くて「空」のほうしか撮れなかったけど、谷崎と松子夫人の眠ってる「寂」の墓にもちゃんと乗ってましたよ。で、望み通り踏まれてるよ、この人、ただしサルにって(笑)。そこで妙な溜飲を下げたんだけれど、その落差もまた谷崎なのかもしれませんね。「こんなに見事な墓はあるか」というような場所で、一方ではサルに踏まれることも覚悟してたかもしれない。その幅全体で、谷崎なんだね。

Photo: Watanabe Naomi


 浅田さんに教えてもらって、谷崎の記念館(芦屋市立谷崎潤一郎記念館)へ「「細雪」への招待」という小展示を見に行ったときに、神戸の岡本で、谷崎自身が設計した家の模型があって、これが、1階が中国風、2階が和風、バス・トイレが洋風という何とも幅広い代物でした。ぐちゃぐちゃなんです。そういった入り混じったものに対する彼の欲望のかたち、これが、やはりなまじじゃないんだよね。それで結果として、どんな日本人にもまして、これこそ最高の日本語の文章だと外国人に差し出せるような、『春琴抄』みたいな文章を書けるわけでしょ。これにはかなわないと、つくづくそう思いましたね。

福嶋 考えてみれば、『春琴抄』も春琴と佐助の墓の話から始まっているわけですね。佐助は日蓮宗から浄土宗に宗旨替えして、念願通りに春琴の隣に葬られる。で、『春琴抄』の結末部では京都の天龍寺の坊さんが出てきて、適当なコメントをして終わる。なので、この物語は仏教にサンドイッチされているんですね。まぁ話の中身はマゾヒストの欲望なんだけど、それを宗教的に荘厳にしてパッケージ化しちゃう(笑)。谷崎自身の墓の問題も見事に先取りしているところがあって、面白いですよね。

「あのへんでサルがこっちをにらんでたんだよ!」(渡部)
Photo: Kanamori Yuko


 
● 現実を出し抜く力

渡部 谷崎は「予覚」という言葉をよく使うんだけど、筆を執って書いていたことが、現実に起こる、彼のその予感力みたいなものに注目して、河野多恵子が『谷崎文学と肯定の欲望』という評論を書いています。志賀直哉にもありますね。志賀は「剃刀」(かみそり)という短篇を書いている。床屋がいらいらして客のノド、切っちゃう話ね。初期作品に属していて、3つの草稿と完成原稿があるんですが、最初の草稿は、「どうして殺すのか」ということを綿々と心理描写している。その心理描写が何パターンかあるんだけど、完成原稿では、心理描写の一切を省いていきなり殺す。非常に興味深い作品なんだけど(渡部『日本小説技術史』第六章参照)、もっと興味深いことには、この短篇をどうしようかって彼が悩んでいたときに、実際にふたつ隣の家の若旦那がかみそりでノドを切って死んだ。そういうことがあったわけです。かと思えば、「城の崎にて」』にも書いてあるけど、志賀は、都電ではねられて怪我をする。その前に、子供が電車にはねられるけど助かったという話(「出来事」)を彼は書いている。その話を書いたおかげでおれは怪我で済んだ、というんですね。つまり、書いちゃうと、それと似たことが現実に起こる。ほんとに力のある作家が持っているキャパシティっていうのは、そんなふうに単純な偶然性をも巻きこんでしまうんですね。近代ではこういう作家は、谷崎と志賀だけなんじゃないか。
 鏡花の「言霊信仰」は有名ですが、あれはしかし、言葉の力を単に怖がってただけで、みずから何かを呼び寄せる力はなかったようですね。中上健次は、かなり持ってた人なんですけど、彼があれだけ谷崎に惹かれていながら、京都に反発したっていうのは、おそらく彼自身の書くものと、彼自身の予覚能力というものとの間で引き裂かれていたせいかもしれない。京都に足を向けたら最後、谷崎のようには幸福な結末にはならないという「予覚」めいた警戒心みたいなものがあったと思うんだ。だから、あれほど谷崎を好いていたのに最後は、「物語のブタ」と呼び捨てて、しかも、京都には背を向ける。その感じが、谷崎と中上の間にあってここに来ている者としては、とてもよくわかりましたね。

福嶋 そうでしょうね。ただやっぱり現実を出し抜く力がないと文学と言えないですよね。

渡部 言えないね。だってね、関東大震災があったときに谷崎はちょうど箱根で罹災して、その瞬間、「しめた! これで東京がよくなるぞ」って快哉を叫んだっていうわけよ。あれは、「芸術家」というものが、いかに、異様な存在であるかという証拠で。

福嶋 いまだったらネットで炎上でしょうね(笑)。

渡部 その当時、芥川龍之介は、これからは新しい文学が発達するだろうと、非常に優等生的な発言をするわけだよ。大震災について、秀才の答を出した。そしてまさにその通りだったわけだよね。プロレタリア文学と新感覚派が出てきた。でも谷崎は、「しめた!」ですからね。これで東京がよくなる、女性たちもきれいになるだろう、これから10年も経てば顔立ちもスタイルもよくなって、でも、そのときこっちはもう歳で相手にできない、ああ、この地震がせめて10年早かったらと思った、とか、そんなバカなこと、書き残してます(「東京をおもふ」1934年)。そんな顰蹙ものの感慨を――後からかなり盛ってるんだけれど――「芸術」の名のもとにぬけぬけと正当化してしまうわけね。現代人としては、そこまで深く「芸術」を信じきれないわけだけれど、信じた者の存在は信じられる、僕はそう思ってますね。

 
● 京都の可能性

渡部 ところで、僕は福嶋さんの『復興文化論』を読んだ折、こういう教養がどっから出てくるのか、とても不思議でした。取り上げている様々な書物や事柄が、図式的じゃなくて、血肉になってるような感じがしたんだよね。まだお若いのに。これが、「京都の底力」かな、と思いました。東京育ちにこんな本は書けないでしょうね。谷崎も、そうした「京都の力」を存分に吸い込んだはずなんだよね。例えば、汚いものときれいなものが還流するとか、そういう山口昌男的な図式じゃなくて、もっと多様で豊饒な力。京都に来る前から福嶋さんの仕事はよく知っていて、一目は置いていて、「どういう人かな」と思ってました。で、実際にこうしてお会いしてみて、なるほど京都が育てるんだ、と痛感しましたよ。

福嶋 ありがとうございます。でもまぁ、僕なんてスカタンですよ。だいたい浅田さんが近所にいるのに、教養人ぶる勇気はありません(笑)。ただ、僕自身は京都的なものとはあんまり関係ないと自分では思ってるんですけどね。住んでいると自覚できないから、本当は離れないとそういうことはわからないんでしょうけど。

渡部 それはそうだと思う。

福嶋 何にせよ、文化的な伝統というのは手間暇かけて自分の五臓六腑に染み込ませていかないと、やっぱりわからないですよ。その場にいるだけで伝統に触れられるというのは幻想に過ぎない。それと、日本の伝統は確かに豊かなものではあるけれども、同時に大きな桎梏(しっこく)でもあって、その弱点も含めて考えないとダメでしょうね。
 一応中国文学を多少かじっていたこともあって、僕は文明とか文化の質というのは、歴史の傷に対する対処の仕方によって決まってくると思っているんです。やっぱり中国文学は、人間や社会が壊れやすい存在である、簡単にメチャクチャになるということが大前提なんですよ。逆に、日本文学はややもすれば傷も何もないことにして、町人的な「もののあはれ」の美でいいということになってしまうけど、それはやっぱり良くない癖ですね。もちろん、巨大な傷の前で絶句してしまうのも問題なので、「忘却」と「絶句」の中間に文学やアートの可能性がある。
 それで言うと、傷に対する対処の実例というのが京都にはいろいろあると思うんです。例えば、渡部さんたちと見に行った金福寺(左京区一乗寺)もそうですね。あのあたりにはもともと松尾芭蕉ゆかりの草庵があったわけですが、やがて廃れてしまった。そのほとんど無になってしまった場所を与謝蕪村が強引に再発見して、芭蕉庵を作り、さらには「洛東芭蕉庵再興記」という素晴らしい文章も書き残す。考えてみれば、芭蕉の俳句は歴史の痕跡を読み取り、そこでいわば小さな祭りをやるものだった。蕪村はそういうミニマリズムの系譜を引き継ぎつつ、廃墟に残ったちょっとした痕跡から芭蕉の何かを回復したわけですね。

渡部 その逆説的な回復の対処法が、普通は紋切型になっちゃうんだよ。「傷を負っているがゆえに豊かである」とかね。「けがれているがゆえに清らかだ」とかさ。そのふたつを包摂する日本の豊かさは素晴らしいとかさ、そういう話になってしまいがちだが、福嶋さんの場合、安易にそこへは行かない。かといって、ではどういう道なのか……正直、僕にはまだよく見えず、そこがまた興味深いんだけどね。

福嶋 歴史の傷というのは、錯誤を生み出すものでもありますね。蕪村が芭蕉庵を再興するといったって、別に厳密に正しい復元をやっているわけではないでしょう。たぶん彼もいろいろ勘違いして、最終的にあの庵が作られている(笑)。でも、僕は錯誤の生産性を抜きにして、日本文学は語れないと思うんです。中上さんだって、路地が壊れた後に「路地はどこにでもある」と言うわけでしょう。あれは明らかに地理錯誤だけど、良い意味でルースな錯誤に日本文学の生産性があるんじゃないか。まぁ、渡部さんがさっきおっしゃった、寂光院のいい加減な「復元」も困るわけですが。

渡部 そうね。土臭さを感じながらも、福嶋さんには一方で、その「錯誤」の風通しの良さを感じますね。土臭さに自足してると、美学の中でおどんでしまう。僕に言わせると、それは「池」なんだよ。中上の「路地」というのはおどんでいるようで、ほんとは「水流」なんです。彼はたぶん、その「池」と「水流」、両方の感受性を持っていたんだね。彼は京都に来れば自分がおどみに取りこまれると思っていたはずです。自分の持っている交通性を遮断する場所として、京都を考えていたと思います。その中上を通して、僕も久しく京都を敬遠してきました。でも、そうではないんだということ、福嶋さんの仕事を通して、あるいは、この間の体験を通して、それこそ紋切型な言葉だけど、京都の可能性は捨てたもんじゃないと感じました。「テクスト論者」がこんなことを言うと、人はびっくりするだろうけどね。……でも、谷崎がいきなり「日本回帰」したときも、みんな驚いたと思うんだよね。

福嶋 それはそうでしょうね。

渡部 おそらく周囲は理解できなかったと思う。もちろん、谷崎ほどの騒ぎではないものの、今回、僕が京都で長期滞在するってことも、たぶんハタから見たらよくわかんないと思う。「あの人、テクスチュアリティ云々はどこへ行っちゃったの?」とか。この前、奥泉光さんといとうせいこうさんと一緒にいて、さかんに京都の魅力を吹聴し、もっと歳とって俳句か漢詩にはまったら、「渡部疎水」って号はどうだろうって冗談言ったら、ふたりとも、一瞬けっこうマジに、それだけは止めてくれという顔をしてました(笑)。しかし、僕のテクスト論のためにも、この愛着自体に「何か新しい方向性が見出せるんじゃないかな」、と。ともかく、おどみじゃなくて、「流れとしての京都の力というのを、けっこう浴びたな」という気がしましたね。

福嶋 僕も渡部さんのおかげで京都について新たに気づいたこともたくさんあって、感謝しています。ただ、僕はどうも、京都のいいところは最近見えにくくなってきている気もするんですね。その中で、山科にせよ深草にせよ、京都の端にはいまなおいろいろと観るべきものがあるということは強調しておきたい。「中心と周縁」みたいな凡庸な図式になっちゃうとまずいんだけど、それでも京都の周縁でこそ中心的な価値、リアルな京都を感じられるのではないか、と。

渡部 ほかの人間が、君と同じことをいったら僕は絶対否定するはずなんだよ(笑)。だけど、君が言うと、聞いてみたくなる。この差。微妙だけど、この差は大きい。だけどその差をうまく言語化できないんだね、いまのところ。でも、これからあなたのやることや、僕の考えることの中で、それは可視化できるかもしれない。だから今後に大いに期待していると言っておきます。決して、社交辞令ではなくて(笑)。

対談する両氏と「地図」を撮影するかなもり、対談を見守る小崎編集長
2014年12月12日、渡部直己仮寓にて


(2014年12月12日取材/2015年5月22日公開)

 
 
渡部直己(わたなべ・なおみ)
1952年、東京生まれ。文芸批評家。早稲田大学文学学術院教授。著書に『日本小説技術史』、『言葉と奇蹟 泉鏡花・谷崎潤一郎・中上健次』など多数。7月に最新刊『小説技術論』(河出書房新社)を刊行予定。

 
福嶋亮大(ふくしま・りょうた)
1981年、京都生まれ。文芸批評家。立教大学文学部助教。著書に『神話が考える ネットワーク社会の文化論』、『復興文化論 日本的創造の系譜』(サントリー学芸賞受賞)。REALKYOTOに「香港デモ見聞録」を寄稿。

 
 

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