プロフィール

福永 信(ふくなが・しん)
1972年生まれ。
著書に、『アクロバット前夜』(2001/新装版『アクロバット前夜90°』2009)、『あっぷあっぷ』(2004/共著)『コップとコッペパンとペン』(2007)、『星座から見た地球』(2010)、『一一一一一』(2011)、『こんにちは美術』(2012/編著)、『三姉妹とその友達』(2013)、『星座と文学』(2014)。

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木村友紀×落合多武

2013年01月11日

知り合いでもない人の家の中に入る機会はめったにない。

しかしギャラリーというのは、そんな場所である。あのう、ごめんください。そんな言葉も出そうになるくらいだ。だから、いつも、少し緊張するというかいつでもテレくさいのだが、それでいい。

パブリックな、みんなに開かれている(はずの)美術館では味わえない、プラヴェートな空気がギャラリーにはびゅうびゅう流れている。とにかく作品との距離が近い。なまなましい緊張感を前に、自分が判断するしかない、贅沢な瞬間がある。美術館に収蔵されてしまってからでは、もう遅い。

 

だからとにかく駆けつけるべき展覧会が、今、その名もタカ・イシイギャラリー京都、小山登美夫ギャラリー京都という、ふたりの男の名を冠したギャラリーで、同時に2つ開催されている(同じ建物に同居しているギャラリーだ)。会期は、もうあと1週間くらい。

木村友紀の個展『Interior 6L01~107T』、もう1つは落合多武の個展『Meadow Traveler,Madeleine Severin(牧草地の旅行者、マデリーン・セヴェリン)』。落合多武は京都初個展、木村友紀の京都での個展は99年以来というから、じつに貴重な機会だ。

 

まずは落合多武が、こんなお洒落なギャラリーに俺入っていいのかなぁ、と思いながら階段をあがってドキドキしているわれわれの緊張を、ほどいてくれるだろう。

そこに並ぶ絵が、まるで友人のように気さくに出迎えてくれるからだ。前髪くるりんの子の絵(「face red code」)が、ようこそ。と、歓迎してくれる。それから、次々に、「face red code」を含め全部で7点もの背丈を超えるほどの絵が目にとびこんでくる。星空/宇宙を描いた絵(「stars」)はあまりにでかすぎて、床に垂れ、余った分が折り畳まれているほどだ。

 

星空や宇宙のような大きな対象は大きな絵で描く。そして大きな絵は、大きな空間に置く。そんなあんまりにもといえばあんまりな見せ方がなんだか可愛らしい(そして落合多武は、小さい部屋では小さい作品を展示している)。どの絵を見ても、つい、可愛いなんて常套句が口をついて出てしまうが、それでいい。落合多武の絵は、そんなことでわれわれを立ち止まらせたりしないからだ。実際、どんな絵具で描いているのかなぁって、わくわくした気持ちが、抑えきれなくて絵の表面すれすれまで、近づいていく。

漂白剤によって描かれた、ファブリックを脱色することでかたちづくられる、絵の不思議なおもしろさ。前髪くるりんの子が描かれた、コーデュロイ生地の上の方(髪の生えぎわ)の色の発色をもっと見たくて自然に背伸びしてしまう。「stars」の、ずっと上の星を見たくて、もっとうんと背伸びをしてしまう。目線を上へ引き上げるのは、われわれ自身を子供のように小さく感じさせるためかもしれない。

 

落合多武といえば、ワタリウム美術館での個展が記憶に新しいが(『スパイと失敗とその登場について』/2010)、それよりずっと前、東京都現代美術館、MOTアニュアルの第3回展『フィクション?』(2002)で見たときの不意打ちのような感覚は忘れられない。というのは、パブリックな場所であるはずの美術館が、落合多武の展示場所だけ、プライヴェートな場になっていたから。

壁にテープで貼っただけの絵とか写真とか、まるで自分の部屋みたいで、というか展示作業の途中におじゃましちゃったみたいな、これから何か、とっておきの出来事が始まる前のわくわくする感覚が、そこらじゅうにあふれていて感動したが(今回の展示では、大きな絵にむろん目がすぐいくんだけれども、フロアの真ん中にドンと置いてあるテーブルは無視できない。何やらゲームであそんだあと、おかたづけを忘れたような、そんな痕跡がテーブルには残されている。これは、初日に行われた、ニシジマアツシ[階下のフロアで同時開催中の落合・木村企画によるミステリアスなグループ展「足りないOのために“KYTO”」に〈音楽磁力〉を利用したナイスな音響作品を出品している。同展の出品者はほかに大木裕之、伊藤りょう子]考案によるイヴェントのときのものだそうであるが、そういえば『フィクション?』の落合多武展示スペースにもテーブルがあった。そこにはメモのような素描がたくさん置いてあって展示作業の途中っぽさに拍車をかけていた)、あれから10年が過ぎてもまったく変わらない。前髪くるりんの子も10年前と雰囲気が変わってない。前へとすすむ日常的な時間など信じてないみたいだ。

 

落合多武の絵は子供のときの思い出をなぞるような絵ではなく、今、まさに生じているたのしさのなかにわれわれを連れ込む。そこに描かれるのは作者本人にしかわからないものをも含むプライヴェートな空間だが、まったく狭くない。それは、日常われわれを取り巻く時間にさからって、横へ横へと逸脱していくような、まだこんなこともできる、あんなこともできると、たのしさのひろがりを発見していくからである(小さい部屋での素描は、まさにわれわれを連れていくような、一緒に旅するような、目的地へ向かうための地図だった)。個展はその発見の成果であり、絵の大きさは、その発見したひろがりの面積だろう。

 

木村友紀『Interior 6L01~107T』はプライヴェートそのものというか、ほんとうに知り合いでもなんでもない人の家の中が撮影された写真を素材にしたインスタレーションだ。

L字のかたちを基本にした板の組み合わせでフロアを区切る空間構成は、(すでに本サイトのRK PICKSで小崎哲哉が書いているように)迷路のようである。曲がり角だけを生産しているともいえるそれらの板は、木目かと思えば白(ギャラリーの壁の色でもある)に塗られ、そこに、その誰の家の内部かわからないモノクロ写真を展示していく。数えてみれば写真は9点だけなのだが、板のうらおもてを使った木目と白の組み合わせの連続と反転、また写真が分散していることから、もっとたくさんの板で区切られ、もっとたくさんの写真に囲まれているような印象が残る。このとき、われわれは見事にこの「迷路」の住人=迷子になっているというわけだ。

 

むろんそこはギャラリーのなかのひとつのスペースであって、すべてが出口であり入口であるような、そんなスカスカした場所にすぎない。くだんのモノクロ写真にしたところで、とりわけ興味深い内容が写っているわけでもない。

写真からわかるのは家の内部を写したものであること、欧米のどこかの家庭であろうこと、それがひと昔ふた昔前くらいの時代に見えること、その全部の写真がおそらく同一の家の内部を写しているだろうということだ。また、人がほとんど写っていないことから(1点だけ、カーテン越しに腕が鏡に写っている写真がある)、記念写真でもなさそうだし、何の目的で撮影されたものかわからない。撮影した者が誰なのか、それもわからない。

 

かつて、その写真は、意味を持っていた。そこに暮らしていた人のプラヴェートな記録としての意味を、つまりは目的を持っていた。

それが今、木村友紀の手にわたり、彼女がいわば探偵役となって推理、写真を再配置していくことで、かつての家の間取りがおぼろげながら見えてくる(ような気がする)。しかし、誰かであり、どこかであることだけが確かであるという、微妙なところで解決が宙づりになったまま、写真の外側、木目と白の板の平面の上を、われわれの視線はずっとすべって、視線そのものが迷子になっていく。木村友紀は、いつまでも匿名のままのプライヴェートな空間を、不思議さを含ませながら(鏡が一緒に写り込んだ写真がやけにある等)、再構成している。

 

この9枚の写真が写すのは、殺人現場でもないし、有名人の家でもない(たぶん、ないのだろう)。そこにあるのは、ほんとうに個人的な記録そのものであるはずだ。だが、そうであると実感するには、そこには、その「個人」を受け止める者がいなくてはならない。写真に写っているのは誰の家か、それを受け止める「誰か」がいなければ、その「個人」は(撮影者、その家の生活者、あるいは、あの腕の人物は)、いつまでも匿名のままだ。

われわれが、何を/誰を見ているのか、わかっていないように、写真の側でもわれわれをまったく受け止めてくれない。われわれのことなど知ったことではない、というふうに、厳然と存在して、そこにある。親密さを感じていいほどに近い距離で写真を見ながら(板で区切られているため、これらの写真を遠くから見ることはできない)、見ているはずのわれわれこそ、名前のない存在になっているような、そんな気持ちに一瞬だけ、なる。迷子とは自分を見失うことである。そして、その一瞬、プライヴェートもパブリックも、そんな人間が頭の中でこしらえた(が、しかし、なかなか消えない)境界線は、ご破算になる。

 

 

会場/小山登美夫ギャラリー京都 タカ・イシイギャラリー京都

2012年11月30日(金)-2013年1月19日(土)

開廊時間11時-19時/日、月、祝、休業/入場無料