プロフィール

椿 昇(つばき・のぼる)
1953年京都市生まれ 現代美術家/京都造形芸術大学美術工芸学科長
1989年:「アゲインスト・ネーチャー」展/1993年:「エマージェンシー」ベニスビエンナーレ・アペルト/2001年:「The Insect World」横浜トリエンナーレ/2003年:「国連少年」展、水戸芸術館個展/2005年:占領下の物語Ⅱ美術担当、マサチューセッツ工科大学レジデンス/2009年:「GOLD/WHITE/BLACK」展、京都国立近代美術館個展/2010年:瀬戸内国際芸術祭で2つのプロジェクト制作。2011年:「ノスタルジア」展、ソウル、上海。2012年「PREHISTORIC_PH」展、霧島アートの森個展。

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1月11日

2013年01月07日

人生で何度か見逃したら後悔しただろうなという映画に出逢うことがある。明日を含めてあと4日チャンスが用意されているのでぜひご覧いただきたい。特に建築やデザインやアートを学ぶ学生、またその関係者にはぜひ見てもらいたい映画である。「ル・コルビジェの家」がそれである。本来なら京都シネマでの上映が終了してから書くのが筋だなと思いながら、敢えてルール違反をお許しいただければと思う。

この映画は、アルゼンチンテレビ界の若き寵児ガストン・デゥプラット(1969生)とマリアノ・コーン(1975生)が現代美術キュレーターのアンドレス・ドゥプラット(1964生)の脚本を元に、映画初出演の舞台俳優ラファエル・スプレゲルブルト(1970生)とテレビ界の人気者ダニエル・アラオス(1962生)を起用して撮影した、リアルに資料価値が高いうえにユーモラス。そして完璧に救済ゼロの寓話である。

まずは南米と言われても日本からはあまりにも遠く、サッカーを通じてのみ理解不能なエリアというのが現状。北半球を東西に移動しながら、縦移動としてオーストラリア付近までは到達可能だが、まずは北米大陸まで到達したあと、またもやオーストラリアに移動するような二重苦を味わう南米の国々はあまりにも遠い。そんな状況だから、まだ南米大陸未到達の僕としては、偶然こんな機会に遭遇でもしない限り、彼らを知ることは不可能に近かった。

そこに突きつけられたのがこの映画である。内容を詳しく語ることは控えたいが、歴史遺産とも言うべきラプラタ市にあるクルチェット邸に住むミラノで成功を収めたプロダクト・デザイナー(レオナルド)一家(もちろんお約束どおりに我儘一人娘を擁するバラバラファミリー)と、となりに住む人間臭い厄介者(ビクトル)とのシリアスな近隣トラブルが、延々と北から射す光に包まれたクルチェット邸で繰り広げられる。

映画は、ドーンドーンという響きで始まった。いきなり中庭を挟んで数メートルのところにある外壁をビクトルがハンマーで破壊する音だ。もちろんそれは彼の家の壁だが、ことクルチェット邸となると話は文化装置としてややこしくなる。ほんの少し太陽を分けてくれと言うビクトル、いっそのことコルビジェに聞いてくれというレオナルド。もしもあなたがクリエーター一味に属しているとすれば、共時性のサイコなダイナミズムに息を飲みながら、作る側として背負わざるを得ない歴史という通時性にチクチクと刺され続ける美しき拷問のスタートがやって来る。

恐らく大多数の鑑賞者は、脚本を書いたキュレーター氏の悪意にまんまと嵌められ、人間臭くヒューマンなビクトルにどんどん思い入れをつのらせ、いつしかこの男が隣人であれば、少しの明かり取りくらいなら許したいと思うようになるし、少しの時間ならカフェで雑談もありかなと思うようになる。そんな観客のセンチメントに無慈悲でキャピタルなクライマックスが待っているのである。

郊外のモールとシネコンが押し寄せる地方都市で、この映画が見れたこと自体が奇跡に近い。シティー・オブ・ゴッドのような解釈可能な仕上げを拒み、腐ったキャピタリズムとタンゴを踊り、抽象度の高い残酷な仕打ちをケレン味なく表現する彼らに、ジャーナリズムとアートの健全な関係を視た。翻って、はかない浄土を求めて現実を直視しない温帯モンスーン人の我々に、この映画は根源的な所で理解不能なのではと思う。心底理解できない何かが横たわっていることを理解できたことを成果としたい。

1月7日

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