プロフィール

浅田 彰(あさだ・あきら)
1957年、神戸市生まれ。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。
同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。
著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。

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トランプから/トランプへ(5)マクロンとトランプ

2018年11月03日

世界で愛聴されるシャンソン歌手の最後の一人だったと言えるだろうシャルル・アズナヴールが、最後の来日公演から半月もたたぬ10月1日に94年の生涯を閉じ、パリの廃兵院で行われた国葬ではフランスのマクロン大統領がアルメニアのパシニャン首相に続いて弔辞を述べた。そう、アズナヴールはパリ生まれでも両親はアルメニア人であり、アルメニア人のアトム・エゴヤン監督注1の「アララトの聖母」(2002年)でトルコによるアルメニア人虐殺の映画化を目指す監督を演ずるなど、出自を強く意識していた。彼の葬儀は、EU(ヨーロッパ連合)の中心的存在であるフランスが、近年距離を増すトルコにあらためてアルメニア人虐殺の責任を認めるよう迫る機会でもあったと言えよう。

しかし、他者に過去と直面するよう求めるのなら、自らも過去と直面せねばならない。少し前の9月13日、マクロンはアルジェリア独立戦争渦中の1957年に25歳で殺された共産党員の独立運動家モーリス・オーダンの87歳になる未亡人ジョゼットを訪ね注2、彼の死はフランスがかつて独立派に対し組織的に行った拷問によるものであることを大統領として初めて認め謝罪した。(他方、大統領選挙で争ったマリーヌ・ル・ペンの父であり国民戦線の創設者であるジャン=マリー・ル・ペンは、志願してアルジェリアに行き拷問にも手を染めたと言われる人物だ。党を引き継いだ娘は極端なイメージを払拭するため父を除名し、後に党名も国民連合に変えたものの、本質は変わっていないと見るべきだろう。)大統領選挙前にアルジェリアを訪れ、フランスの植民地主義は「人道に対する罪」である、と発言して謝罪に追い込まれたマクロンにとって、これは長年の課題を果たす第一歩なのではないか。注3

経済官僚からロチルド(ロスチャイルド)家の投資銀行の副社長をへてオランド前大統領から36歳の若さで経済相に抜擢されたマクロン(1977年生)は、大統領になってからも新自由主義寄りの「改革」を進め、「ユピテル(ジュピター)的」姿勢――戦前の日本なら「超然内閣」と言われたような――への国民の反発もあって支持率が急落、遅ればせながら貧困層対策に力を入れ始めている。しかし、かつてこの欄でも述べたように、彼はもともと哲学を志し、ポール・リクール(1913-2005 )が最晩年に『記憶・歴史・忘却』(原著2000年;邦訳・新曜社)をまとめる手助けをしたほどだった(序言にはマクロンへの謝辞が含まれる)――哲学への道は険しく、結局は行政や金融に転身することになるのだが。注4リクールの本の題名が示唆するように、歴史は記憶から自然に生まれるのではなく、無意識の、あるいは意図的な忘却との闘いの中で書かれるものであり、それを措いて赦しと和解はない。マクロンは師リクールの教えを忘れず、現代のヨーロッパでもポピュリズムとともに横行し始めた歴史の忘却や捏造に抵抗しようとしているのだ。

面白いことに、そのマクロンとトランプが2017年に初めて相互訪問した頃は、既成の政治家たちをダーク・ホースとして追い抜き大統領になった者同士の間に一時的な蜜月関係が見られた。しかし、実際は対極的な二人が本当に意気投合できるわけもなく、事実いまでは二人の関係は冷え切っているようだ。トランプの脳裏に残った記憶は、パリ祭の華やかな軍事パレードだけ。「ワシントンでも派手な軍事パレードをやろう」と言ってペンタゴンを困らせているのだから、救いがたいと言うほかはない。

 

注1 エゴヤン
『アララトの聖母』で中心的な位置を占めるのが母を虐殺で失ったアルメニア人画家アーシル・ゴーキーである点も興味深いが、映画としては盛り沢山に過ぎるところもある。他方、リクールのタイトルを借りればまさしく「記憶・歴史・忘却」の問題を扱った『Remember(思い出せ)』(邦題『手紙は憶えている』;2015年)は、簡潔にして効果的な語りのエコノミーで観る者を驚かせる問題作である。

アメリカの老人ホームにホロコーストを生き延びた二人のユダヤ人がいるのだが、90歳を超えて、一人は車椅子生活、もう一人は認知症で記憶が薄れ毎朝愛妻がもう死んでいることを思い出すのも一苦労というありさまだ。しかし、彼らは強制収容所で自分たちを虐待し家族を殺したナチスの生き残りがアメリカにいるのを突き止め、死ぬ前に自分たちの手で復讐を果たそうと決意する。そこで、車椅子の老人が詳細な手紙に必要な情報を記し、認知症の老人がそれを頼りに仇と同じ名の数名の容疑者を捜し歩いて復讐を実行しようとするのだ。認知症による忘却にもかかわらず他人の手紙を頼りに過去の罪の清算を求めるというのは、「記憶・歴史・忘却」をめぐるきわめて今日的なアレゴリーと言えよう。面白いのは、認知症の老人がピアノの前に座ると指が覚えている曲を自然に奏でる、という設定だ。病院で女性が弾いているのはモシュコフスキーの曲だと言い当て、「ピアノ教師が『最も偉大な作曲家はメンデルスゾーン、マイヤーベア、モシュコフスキーだ』と言ってたんでね」(むろんみなユダヤ人作曲家だ)と説明して、自分もメンデルスゾーンの曲(ピアノ協奏曲第1番第2楽章)をひとくさり弾いてみせる(老優クリストファー・プラマーのピアノがことのほか素晴らしい)。しかし、ついに仇の家にたどり着いたとき、ピアノの上に置いてあった楽譜をきっかけとしてではあれ、彼が流れるように自然に奏でるのは、「イゾルデの愛の死」――ヒトラーの愛した作曲家ヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の一節だった… ここで止めておけば、最後のあざとくも鮮やかなどんでん返しをスポイルすることはないと思うが、ともあれ一見の価値のある問題作である。

蛇足だが、「イゾルデの愛の死」(リストによるピアノ編曲版)の最近の注目すべき録音として、イゴール・レヴィットが親友の交通事故死の衝撃を乗り越えて発表した2枚組CD「Igor Levit, Life」(SONY 88985424452)を挙げておこう。一昔前のヴィルトゥオーゾの好んだ曲を現代的な感覚で弾くところが面白く、「イゾルデの愛の死」というクライマックスの後、フェルッチョ・ブゾーニの「子守唄」をへて、ビル・エヴァンスの「Peace Piece」で締めくくるという構成も、なかなか洒落ている。

 
注2 オーダンとヴィラ―ニ
モーリス・オーダンは数学者で、娘のミシェルも数学者になって2007年にレジオン・ドヌール勲章を与えられたが、父の死の真相の解明を求める母の手紙を黙殺したニコラ・サルコジ大統領(国民運動連合)に抗議して受け取りを拒否した。マクロンの与党「共和国前進!」の国会議員でありフィールズ賞を受賞した数学者であるセドリック・ヴィラーニは、オーダン事件についてマクロンと協議し、今回の謝罪にいたる露払いの役を務めた。なお、マクロンに先だって、前任者フランソワ・オランドが2012年にアルジェリアのオーダンの記念碑の前で真相を究明すると表明、2014年には大統領として初めてオーダンが「失踪」したのではなく取り調べ中に死亡したことを認めている。

 
注3 シラクとマクロン
2002年の大統領選挙で、社会党のリオネル・ジョスパン候補を抑えて国民戦線のジャン=マリー・ル・ペン候補が決選投票に残ったとき、例外的事態への非常対応として国民戦線以外のすべての政党が左右の対立を超えて共和国連合のジャック・シラク候補(1995年から大統領)を支持し、彼が大統領に再選されるという事件があった。

2017年の大統領選挙で、フランソワ・オランド大統領の与党だった社会党をはじめとする既成政党が四分五裂の壊滅状態となり、決選投票で新党「共和国前進!」(左右の対立を超える党「前進!」として前年に結党され、後に党名を変更)を率いるエマニュエル・マクロン候補が国民連合のマリーヌ・ル・ペン候補を抑えて大統領に選出されたが、これは2002年に続いて第五共和制の既成の政治の構図が行き詰ったことを示す事件だった。

そのシラクは、1995年、ヴェル・ディヴの追悼式典で、かつてドイツ占領下のフランスのヴィシー政府がナチスのユダヤ人迫害に協力した責任を大統領として初めて認め謝罪した(1942年にパリ市とその周辺で一斉検挙された約13000人のユダヤ人のうち約8000人が、冬季競輪場[Vélodrome d’Hiver]、略してヴェル・ディヴ[Vél’ d’Hiv]に詰め込まれ、その多くがアウシュヴィッツをはじめとするナチスの強制収容所に送られて殺されたので、このときの犠牲者をヴェル・ディヴで追悼することになっている。1992年にはフランソワ・ミッテラン大統領[社会党]が初めてヴェル・ディヴの慰霊碑に献花したが、自身ヴィシー政府で働いていた彼がフランス政府の責任を認めることはなかった)。「フランス人すべてがドイツに抵抗し、最後に勝利した」というナショナリスティックな神話を解体し、戦時下のフランス政府の国家犯罪を認めるのに、半世紀以上の時を要したことになる。今回やはり半世紀以上前のアルジェリア独立戦争のときのフランス政府の国家犯罪を認めたマクロンの謝罪は、その次の一歩と位置付けられるだろう。

この二つの出来事のリンクとして、モーリス・パポンに触れておこう。ヴィシー政府にあってユダヤ人移送に大きな役割を果たした彼は、戦後も公職を歴任し、1961年10月17日にパリで約30000人のアルジェリア人による反仏デモが起こったときは、パリ警視総監として大規模な治安部隊による鎮圧を強行、200人を超える死者を出したと言われる。その後ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の予算相まで務めたそのパポンも、1983年に「人道に対する罪」で起訴され、1998年に有罪を宣告された。87歳の時である。彼は2007年に96歳で死んだ。
 

注4 リクールとマクロン
自分の学生だったマクロンをリクールに紹介した現代思想史家フランソワ・ドッスが『哲学者と大統領 リクールとマクロン』で二人の関係を詳しく紹介している(François Dosse, ”Le philosophe et le président : Ricoeur & Macron“, Stock, 2017)。ただし、リクールとのかかわりによってマクロンに箔をつけ、その政策を正当化しようとする試みには、当然批判も多いことを付け加えておかねばならない。


 
(このコラムの短縮版は2018年10月27日の日本経済新聞に「半歩遅れの読書術」として掲載された。)