プロフィール

小崎 哲哉(おざき・てつや)
1955年、東京生まれ。
ウェブマガジン『REALTOKYO』及び『REALKYOTO』発行人兼編集長。
写真集『百年の愚行』などを企画編集し、アジア太平洋地域をカバーする現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員、同大大学院講師。同志社大学講師。
あいちトリエンナーレ2013の舞台芸術統括プロデューサーも務める。

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ルイス・ガレーの『El lugar imposible(不可能な場所)』

2016年11月11日

床には石灰で、禅寺の庭の白砂のような模様が描かれている。腰にタオルを巻いただけの男が何人か寝そべっている。作・演出のルイス・ガレーは前回のKEXにも招かれ、今回は滞在制作を行ったというから、ロームシアター京都のノースホールを枯山水と銭湯に見立てたのかもしれない。そう思って見渡すと、なるほど池のようにも浴槽のようにも見える楕円形や円形のエリアがいくつかあって、数人ずつパフォーマーが配されている。真ん中に穴が開いた、銭湯でよく見るプラスティックの丸椅子もあちこちに置かれている。観客は石灰が付かないように靴をカバーで覆い、池泉回遊式庭園を巡るように会場内を観て歩く。パフォーマンスとインスタレーションが一緒になったような公演だ。

ルイス・ガレー『El lugar imposible(不可能な場所)』 2016 ロームシアター京都
撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局(以下、すべて)


ホールに入ってすぐのところには、小山に埋められた女性がいる。サミュエル・ベケットの『しあわせな日々』を連想したが、そうではなく小山は富士山に見立てたもので、女性は山の神を表しているのだろう。その奥には、読経や声明のように聞こえる不思議な節を唱和する男女が座っている。ミネラルウォーターのペットボトル群に囲まれ、全員が頭にボトルを載せている。『Brutus』『Men’s Club』『CanCam』などのファッション雑誌が散らばっていて、よく聞くとみんなばらばらに記事を読み上げているのだった。


富士山と声明男女の左手には、的への距離は短いものの、弓道場のようなスペースが設えられている。ときおり(記憶違いでなければ全部で6回)、若い男性弓道家が現れて弓を引き絞る。的に矢が突き刺さるたびに「パン!」という乾いた音が会場内に響きわたる。


真ん中のいちばん大きな円形の「池/浴槽」では、ふたりの男が座ってピンポンをしている。「卓球の試合」ではなく「ピンポン遊び」と呼ぶほうがふさわしい、ユル〜い玉のやり取り。会場にはこれも緩やかな電子音楽が流されているけれど、「声明」の声に掻き消され、メトロノームのようなピンポン球の音もあってよく聞こえない。実際には銭湯でないにもかかわらず、あたりに湯気が漂っているような気がしてくる。


声明男女の右隣では、10代前半とおぼしき4人の少女がバレエの練習に励んでいる。壁に向かって縦1列に並び、ゆっくりと基本的な動きを繰り返す。アン・ドゥ・トロワ……という声が聞こえてきそうだ。その隣では、男が鍼の治療を受けている。鍼灸師はおそらくプロだろう。実際に体に鍼を打っていて、男は気持ちよさそうにベッドに横たわったままでいる。さらにその奥には、小さな電光掲示板の前で、踊りとも筋トレとも付かない動きを延々と続ける男がいる。電光掲示板には、SNSのチャットのような謎のテキストが、日時とともに途切れることなく表示されている。


その右側、「富士山」から見ていちばん奥に当たるところでは、多数のコインを便座のような形に並べて外と区切ったスペースで、4人の男女が組み体操のような奇妙な動きを繰り返している。全員がサラリーマンっぽいスーツ姿。眼鏡には5円玉が貼り付けてある。背後の壁には火炎形の装飾物が祭壇のように飾られていて、近づいて見ると人の背ほどに積み上げられた缶コーヒーの空き缶だった。手前には、スーツを着たのと、バスタオルを体に巻き付けただけの女性パフォーマーがふたり。スーツ女はしばらくしてから床に倒れ込み、終演まで立ち上がらなかった。


その横には、裸の全身を真っ黒に塗った女性が、女性器のような形の「池/浴槽」に寝そべりつつ煙草を吸っている。すぐ脇に男性が控えていて、女性が煙草を吸い終わると間髪を入れずもう1本を差し出し、火を点ける。女性は終演までに何本の煙草を吸ったのだろうか。その奥に、やはり寝そべったままスマホを操作し続ける男子がひとり。さらにその奥に、三味線の女性師匠と、師匠に稽古を付けてもらっているビキニブリーフの若い男子が相対している。近くには鏡に向かって孤独に踊り続けるダンサーたちや、無表情にバトンを操るジャグラーが……。


現代日本社会の、優れた点描だと思う。着飾ることにうつつを抜かす若者がいる。カルトにハマる者もいる。稽古事に熱心な親子もいる。拝金主義の「社蓄」となって過労死するほど働く者もいる。働くからには癒しの時間もなければならない。もしくは死なないように体を鍛えなければならない。それでも死ぬ者は死ぬ。「24時間戦えますか」などという古いCMソングが思い出される。人間どころではなく、24時間×365日間×数十年間稼働し続ける発電所がある。火力であれば煙を、原子力であれば事故が起こった際に放射性物質を放出するだろう。若者は自宅に引きこもって現実社会とは関わらない。外に出たとしても、他者とのコミュニケーションよりもネットの仮想世界を選ぶ。形骸化した伝統が残る一方、ぬるま湯のような社会で動物化した人間が欲望を垂れ流す。アベノミクスの6本の矢など、効率だけが目的と化した社会で、時を刻む音ばかりがそこかしこに鳴り響く。

ベケットの『人べらし役』という小説を連想した。「捜すには広すぎ、逃げるには狭すぎる」閉じられた空間の中で、200人ほどの「失われし者」が失われたものを求めてさまよい歩くという話である。小山は富士山や他の火山でもあったのだろうが、やはり『しあわせな日々』の引用であり、したがってベケット的世界観の象徴であったのかもしれない。

唯一の問題は100分という尺である。長すぎる。ベケットは「長い間立ち尽くした末 倒れろ倒れろ 心配ない もうおまえは立ち上がれない。(中略)徐々に あるいはスイッチを押すように また終わるため ついに闇がまた訪れるから この何らかの闇 何らかの灰にだけ可能な闇。(中略)その灰 一つの最後の終わりの大地と空 一つの終わりがなくてはならないなら それが絶対に必要なら」(『また終わるために』宇野邦一訳)と書いている。「スイッチを押すように」唐突に終わるべきではなかったか。

会場の奥、「社蓄ダンス」のすぐ横に、バックヤードにつながるドアがあった。男性パフォーマーが、数度(たしか4度)にわたってこのドアを出入りする。背後から強烈な照明が浴びせられ、会場内からはよく見えない「外」から入ってくる「訪問者」は、キャリーバッグを引きずり、最初はスーツ姿でネクタイまできちんと締めていた。2回目にはネクタイを取り、スーツとシャツのボタンも外している。3回目はビキニブリーフだけの「パンイチ」。4回目は予想通り全裸だったが、大きな卵状のオブジェを背負っていた。目をしっかりと見開き、会場内をゆっくりと歩き回り、入ったのと同じ、光がまばゆいドアから出てゆく。異邦から日本を訪れた作者の分身だろうか。だとしたらあの卵は、作品の暗喩だったのだろうか。このシーンも無くてもよい。3回だけで終わっていいと思った。

しかし、終わりは「絶対に必要」ではないのかもしれない。この国の(この世界の)日常はだらだらとだらしなく続き、果てしなく繰り返される。だからこの作品も、100分どころか、可能であれば24時間ぶっ通して、現実世界と並行して永遠に上演されるべきなのかもしれない。我々は銭湯のようにぬくぬくとして、禅寺の庭のように美しくも空疎な、そして外界と隔絶された現実の中で生きている。上演が終わって外に出たとき、湯冷めしたかのように体が震えた。

『El lugar imposible(不可能な場所)』は2016年10月28日、29日、30日にロームシアター京都 ノースホールにて世界初演された。作・演出・製作:ルイス・ガレー。共同製作:KYOTO EXPERIMENT。本稿は10月29日の公演に基づいて書かれている。