プロフィール

福永 信(ふくなが・しん)
1972年生まれ。
著書に、『アクロバット前夜』(2001/新装版『アクロバット前夜90°』2009)、『あっぷあっぷ』(2004/共著)『コップとコッペパンとペン』(2007)、『星座から見た地球』(2010)、『一一一一一』(2011)、『こんにちは美術』(2012/編著)、『三姉妹とその友達』(2013)、『星座と文学』(2014)、『小説の家』(2016/編著)。

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法貴信也のアッセンブリッジ・ナゴヤ2017(10日まで)

2017年12月03日

撮影:岡田 和奈佳


法貴信也の最高の展示が名古屋で開催中だ(10日まで。木、金、土、日曜の開催)。ほんとは「法貴信也の」と冠する必要はあんまりない。こんな展示のやり方があったのか!と、誰もがそう思うはずであり、絵が好きなら、これを見逃すと相当悔しい思いをすることになるからである。あるいは、ここを訪れると、誰もが絵を好きになってしまうだろう。
大小合わせて60点近く、法貴信也のこれまでの個展の中でもっとも多い点数が出品されており、新作を含め、未発表ばかりである。会場である旧・名古屋税関港寮の2階の半分を法貴信也の展示が独占している。廊下から部屋に入るのは一度きり、しかし「外」へは何度も出る、フシギな、展示構成である。
本展示が見逃せないのは、作者自身によるこのインスタレーションのアイデアによく現れている。今後の法貴信也の変化の最初を目の当たりにしていると言えるからである。別に「法貴信也の」と言わなくてもいい。絵というジャンルへの期待値が、これを見た者は、一気に高くなるだろう。志の低い画家が、もしこの展示を見たなら、「法貴よ、余計なことをしてくれる」と思うだろう。

撮影:怡土鉄夫


すでに述べたように旧・名古屋税関港寮(税関の職員研修のために使用されていた寮)が、展示会場になっている。アッセンブリッジ・ナゴヤ2017という、徒歩圏内で体験できる、コンパクトな芸術祭があるのだが、そこでの出し物である。法貴の他に一柳慧や冨井大裕らが参加している。「パノラマ庭園-タイム・シークエンス−」という総題が付いている。
法貴信也は、場所の下見か何かで最初にこの場所を訪れた時に、自身の小さな絵を1枚持参したという。それは「まあ、一応持ってくか」程度で、そんなに「こうしよう」というつもりで持って行ったわけではなかったそうだが、この元々寮だったこの場所に入って、試しにというか、絵がかかってる風にというか、ちょっと壁に絵をあててみた、その瞬間「あ、これは違うな」と思ったという。もしここで展示をするとして、このまま直接、壁に絵をかけたら間違うだろうな、「これは、ないな」と瞬間的に思ったというのである。この元々の場所を「活かす」展示をしたら間違うだろう、ということである。
普通なら、というか神経の弱い僕なら、まんまとトラップにはまって、「元々寮だったこの場所を活かして展示」とか「リサーチしてみるかな」と思ってしまうところだが、さすが自分の絵のことしか考えてない法貴さんだ。絵だけが問題であり、後のことは小さいことだと思っているのである。いや、そう思っているかどうかはほんとはわからないが、前から知っている僕が言うのだから絵のことだけ考えているのは間違いない。そして、そう言わんばかりの展示をここで実現したのである。嘘だと思うなら見てみるといい。ここはすでに現役の寮ではないが、もはや「元々寮だった場所」でもない。法貴信也のアイデアによって、「絵の見るためだけの場所」に変貌している。法貴信也の絵にはメッセージ性は皆無だが、ひとつだけ、「絵のことだけ考えろ。他に余った時間はない」というのが、彼の絵から受け取られるメッセージである。

撮影:怡土鉄夫


法貴信也が美術館やギャラリーといったホワイトキューブ以外で展示したのはこれが初めてだ(ホテルでのイベント的な展示などはあるが)。今回の展示構成は、「見る順番」がほとんど確定されている。曲がり角が多く、おばけ屋敷に近い。むろん部屋は明るいのであるが、ほんとのおばけ屋敷よりも怖い。
怖いというのは、「絵の臓器」ともいうべきものが露出しているから。もちろん、法貴信也の絵はグロテスクではないから(黒の間から見える色の美しさ!)、比喩だとしても「絵の臓器」というのはあんまり適切でないかもしれない。ただ、内臓というものが普通見えないように、絵の「見えないところ」を法貴信也は描いているのは確かだ。内臓は見えないが折り重なって存在しており、それなしに人は存在しえない。彼が描くのもそんな「内臓」みたいに思える。昔保坂和志がどこかで「例えで語る奴は頭が悪い」と言っていたがたぶんそれは僕のような者のことを言うのだろう。それでもしつこく例えるのだが、もしかすると、グラフィティの方が、法貴信也と親和性があるかもしれない。それは「重ね描き」と「消去」の世界観が似ているだけではない。身のこなしの軽さというか、その多産なところもそうだし(法貴は発表こそ慎重だが絵は日々アトリエでたくさん描いている)、本当は底抜けに明るい。そしてラクガキと文字通り紙一重のところがある。
だからおばけ屋敷というよりも、ここはストリートなのだといっていい。人は、心のスケボーに乗って、部屋から外へ、また部屋にジャンプして侵入、角を曲がって、また外へ出て、ターンして、最後の部屋まで、あらゆる心の変化を、法貴信也の展示構成の中で、楽しむことができる。

撮影:岡田 和奈佳


展示では、元々の寮の壁はほとんど使われていない。絵は、元々の部屋に触れてないと言っていい。「部屋の内臓」ともいうべき「元々寮だった場所」という設定をあっさりと初期化し、壁を建て、曲がり角を作り、部屋全体を細分化して、新たに「部屋」を作り直すこと。同時に、作り直すことであらわになる、隠しようのない「元々寮だった場所」のわずかな痕跡(畳とか、鴨居とか)が、「新たに作り直すこと」をも作り直す。それは、法貴信也の描く絵そのものによく似ている。絵というジャンルが「元々」持っている隠しようもない歴史の記憶と、それを初期化し、新たに作り直そうとする意志との、果てしない追いかけっこ。絵を見ること、描くこと、その真剣な「遊び」の分かちがたさを、改めて気付かせてくれるのがこの展示だ。
やはり、ここは、子供達の大好きな、おばけ屋敷であり、同時に、子供達の大好きな道に延々とラクガキをするような、ストリートなのだ。

撮影:怡土鉄夫


写真提供:アッセンブリッジ・ナゴヤ実行委員会

 
 
Assembridge NAGOYA 2017 現代美術展
「パノラマ庭園 ータイム・シークエンスー」
日時:2017年10月14日(土)-12月10日(日)
会期中の木曜、金曜、土曜、日曜開催
会場:名古屋港~築地口エリア一帯
HP:http://assembridge.nagoya/