プロフィール

福永 信(ふくなが・しん)
1972年生まれ。
著書に、『アクロバット前夜』(2001/新装版『アクロバット前夜90°』2009)、『あっぷあっぷ』(2004/共著)『コップとコッペパンとペン』(2007)、『星座から見た地球』(2010)、『一一一一一』(2011)、『こんにちは美術』(2012/編著)、『三姉妹とその友達』(2013)、『星座と文学』(2014)。

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林勇気の個展に向かって走りながら

2016年04月06日

展覧会で、映像作品を見るとき、イスが並べてある。気持ちはわかるが、残念ながら、わたしはいつもそんなイスを見ると「ダサいぜ」と自動的につぶやく者である。イス、それは日常生活に必要な道具だが、こんなところにまで持ち込まないでくれ、と、わたしは率直に思う者である。そんな親切心は余計なことだぜ、もし、これがアートならば、とおれは思う者なのである。イス、駄目だぜ、と思うのである。まず、足腰の丈夫なところを見せる。そういう心掛けがほしい。ケガや病気等の事情があるならむろん別だけれども、展示室まで歩いて来たんなら、なぜ、来たとたん座るか。どうして、あなた、座るの当然と思うか。イスに座るという行為は、従順な態度を、ときに、思いがけず表明してしまうのであり、極めて危険なのである。作者へのこびへつらいにも繋がるおそれすらあるのである。だから簡単に、人は、座ってはいけない。映像、イス、座る、当然、という昨今の流れは、映画への追随を許すことにもなる。これは阻止せねばならない。アートの世界にはイスなんて概念はないんですよ、とシネフィルに向かって言ってやれ。畏れ多くも諸君が入り込んだのはインスタレーションなるミステリアスな世界であり、そこは人間である観客にさえ、居場所をやすやすとは与えない。人間のいることが前提の指定席など最初から用意されてないのが、インスタレーションというものである。にもかかわらず、ある一点だけ、特異点のようにそのつど「見る場所」が出現するのが、インスタレーションのおっかなさなのである。歩くたびに、後ろの道がふさがれていく、崩れていくような不確定な場所しかインスタレーションにはない。つまり、イスの置き場などあり得ない。イスのあるような展示はイスターレションとでも呼んでやれ。

ところで、そんなことを言うならお前さんの好きな田中功起の展覧会場はどうだろう、近年とくにイスの出現が観察されるのではないだろうか、と思う読者はいるだろう。残念ながらわたしはまだ水戸芸術館の個展(5月15日まで)に行けてない者だが、たしかに、田中功起の展覧会場には、複数の映像展示があり、その付近にイスがあるように見えなくもないが、あったとしても、それはイスではない。イスにきわめてよく似た機能を有するがまったく別のものである。田中功起作品の映像内の登場人物達は、よく人の話を聞いたり、語ったり、ピアノを弾いたりしている人物達として有名だが、ほんとはそれ以上に、よく座っている人物達として知られている。彼ら、彼女らは何をしているのかというと、ほかでもない、座っている。「座っていること」をしている。座ることが許されているのは観客ではなく、映像の中の登場人物達である。しかし、観客は、立ち上がったところで、安心することはできない。というのは、映像作品に背景のように映りこんでいる、もう一方の登場人物達、つまり「座っている登場人物達」を取り囲む撮影者、作者を含めたスタッフらという、「立ったままの登場人物達」に自分がよく似てしまっていると、観客は気付いてしまうからだ。作品を「観察」、もしくは「見守っている」ような自分自身に……つまり、座っても、立っても、映像作品内の登場人物達と「似通った」関係を、観客は結ぶ。いわば「観客」の場所は消滅するようにできている。田中功起作品の場所には、「関係者」しか存在しえない。それは作者が巧妙に操作してそうしているのであり、インスタレーションにそもそも「人の場所」など用意されないことを徹底しているのである(そのインスタレーションの「もぬけの殻」感は、田中さんの初期の展示から一貫していると思う)。

さて、ところで、林勇気の個展(企画・平芳幸浩)のことである。これがおもしろい(京都芸術センター「電源を切ると何もみえなくなる事」/5月22日まで)。北と南のギャラリースペースに加え、2階の談話室もあるし、この16日からは和室での展示も始まるというのだからなんとも欲張りさんな個展だが、とにかく北のスペースがすばらしい。入ったとたん「かっこいいぜ」とつぶやいてしまうのは必定だし、その場を立ち去りがたい。イスもなく「人の場所」はあらかじめ用意されていないが、見ていく時間の中で、自分の場所が少しずつ出現する、そんなふうに感じることができる。遠慮することなんてないよ、そんな作者の声が聞こえてくるような気がする。毎日3度、電源が切れる。タイトルはそれを表している。文章系のタイトルというか、なんとなく田中功起を想起しないでもない。似ているというほどではないが、タイトルは人間が思っている以上にダイナミックな場所であり、慎重に創作する必要があると思うがどうだろうか。ここだけの話であるが、私もつい先週まで、今度出す本のタイトルとして「これだ」と思っていたタイトルがあって、その言葉に自信もあり、すっかりそれにするつもりだったのだが、類似の言葉が、木下古栗さんの新刊のオビにあった。もちろん早い者勝ちであり、わたしは男らしくきっぱり、「さらば」と別れを告げた者である。今週中に新しいタイトルを考えなければならないのであるがまったく思いついてない。林さんのこの個展のタイトルに感心しなかったのはその八つ当たりであるような気がだんだんしてきたが……ただ、展示がgreatだったのはすでに述べた通りである。電源は15分間するとふたたびついて映像が何もなかったかのように映り続けるというものだが、おすすめは3度めの「電源を切る」ときだ。時刻は19時45分、つまり、再開されるのは20時である。京都芸術センターの展示会場は20時閉館なので再開したとたん、終わることになる。フシギな時間の設定だと思うかもしれないが、ここには、数分だけ、ヴォランティアの人による部屋ごとの「采配」が機能する余地がある。もう閉館だけど、せっかく再開したんだから、少しだけ、どうぞ、というふうに、まるでサッカーのアディショナルタイムのような時間を、得ることができるわけだ。人によって、長さは変わるだろう。5分かもしれないし、10分かもしれない。もっと短いかもしれない。いずれにせよ、いつもと違う時間がここに出現する可能性がある。映像作品には、電源だけでなく、時間も必要であることを感じる数分間である。閉館の時間を越えたとき、むしろそこから、作品は始まるといってもいい。