プロフィール

福永 信(ふくなが・しん)
1972年生まれ。
著書に、『アクロバット前夜』(2001/新装版『アクロバット前夜90°』2009)、『あっぷあっぷ』(2004/共著)『コップとコッペパンとペン』(2007)、『星座から見た地球』(2010)、『一一一一一』(2011)、『こんにちは美術』(2012/編著)、『三姉妹とその友達』(2013)、『星座と文学』(2014)、『小説の家』(2016/編著)。

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関西の80年代展

2018年11月12日

もう35年ほど趣味で美術鑑賞をしていると、時に、美術館に対し、文句のひとつも言いたくなることがある。特に金がなくイライラしている時なのであるが、入場料を返せとは思わないが(いくら駄作でも商売なら金は取るべきだ)、国立国際美術館で開催中のニュー・ウェイブ 現代美術の80年代展は大変ザツな展覧会であり、この際文句を言いたい……。

まずザツだと思ったのは、全78点の出品作のうち、34点が自館コレクション(所蔵作品)であるということである。いささかコレクション混入度が高すぎるのではないか。しかも、別のフロアではコレクション展も同時開催しているのであり、観客が多く目撃するのは今回収蔵作品なのである。両者はもっと棲みわけるべきではないかと思う。半年前に全館コレクション展示の視覚芸術百態:19のテーマによる196の作品展も行われたばかりなのだし……(もしかしたら、スタッフ間の意思疎通がうまくいってないのだろうか。私にできることがあれば、相談に乗るけれども……)。

ところで、その同時開催のコレクション展の方が構成がしっかりしていることも、全体としてのザツさを際立たせている。この「コレクション2:80年代の時代精神から」と題された所蔵作品展は、配布資料に、企画者(福元崇志)による展示の意図が明確に書かれている。一方、「80年代」展の観客への配布資料に企画者(安來正博)の言葉はない。作品リストが載ってるだけ。ウェブサイトには多少の説明があるが「美術は時代を映し出す鏡のような存在ではないでしょうか」とは、能天気な見解ではないか(その能天気さがいかにも80年代だと、若い観客に誤解されかねない)。会場には一応ステートメントはあるが、会場だけの掲示でなく、もっと明確な文章が配布資料に必要だと思う。観客が「読者」としてその展覧会を振り返ることが大事だからだ。ウェブサイトには「美術は時代を映し出す鏡のような存在ではないでしょうか」の後に、「当時の美術を見ることで、私たちはその時代の人々が何を考え、何を楽しみ、社会をどのように捉え、人生をどう生きていたのかを知ることができます。そして、それは今を生きる私たちに、きっと多くの示唆を与えてくれることでしょう」と続くがこの文章では絶対ボツだ。土器とか木簡じゃないんだし……しかも一見丁寧な文章のようで、現在からの上から目線であり、偉そうだ。一言相談してくれたら、私が全面的に書き直すのだが……。

「80年代」展は、1980年代の10年間を、「80–81」「82–83」「84–85」というふうに、2年ごと、全5パートで区切り、当時の作品の「実物」を飾る、いわば年表の文法を借りた展示構成である。各セクションの冒頭には、例えばバブル景気、昭和の終わり、阪神淡路大震災といった誰もが知っている日本社会のトピックが示されるが、展示されている作品群との関係が曖昧だ。関連付けるならご自由に、というような態度であり、これでは観客に対し失礼だし、作品がかわいそうだ。そもそも作者にとって、社会事象、事件など、全然関係がないかもしれないのだ。もし、時代との関係を作品に見つめるなら、ちゃんとした文章で補助線を引かなければ、どの作品にも当てはまるいい加減な見解になってしまう。つまり、この展覧会には配布資料だけでなく圧倒的に言葉が足りない、ラクしすぎなのだ。例えば山部泰司や関口敦仁の作品のキャプションの解説に、フジヤマゲイシャを組織したというようなことが書かれているが、肝心の「フジヤマゲイシャ」の解説はない。会場の最後のスペースに、当時の展覧会案内や書籍などが資料として展示されているが、まともな解説がない。「フジヤマゲイシャ」を知らない観客にはミステリアスな時代の遺物として映るだけだと思う。昨年、京都市立芸術大学ギャラリー @KCUAで開催された1980年代再考のためのアーカイバル・プラクティス展を見ておけば良かったのだが……。

さて、資料展示で終わりか、と、思ったら出口付近に「80年代年表」が掲示してあり、これにはたまげた……80年代の作品群が身をもって、「84–85」「86–87」「88–89」というふうに、順序を乱さず、「実物」の年表よろしく並んでいたというのに、今まで我々が会場で見てきたのはなんだったのか……と思ったのである。最後に単なる年表が来るというのは、オチとしてひどい……この最後を飾る年表の掲示はあまりに蛇足だ。事前に相談してくれたら、これはまずい、外せとアドバイスしたのだが……。

今、世田谷文学館では筒井康隆展をやっているが、これは会場全体が年表、筒井康隆の年譜になっている。会場デザインはトラフ建築設計事務所で、とてもいい展示だった。TAKAIYAMAinc. の装丁によるカタログも、丸ごと本ぜんたいが、年譜になっていて会場デザインと息が合っている。この「80年代」展のカタログとは雲泥の差だ。「80年代」展は、美術館での展覧会なのだから、美術館のカタログとして文学館に負けていられないはずと思うのだが。一言、言ってくれたら面白いカタログのアイデアを提供したのだが……。

ところで筒井康隆の2歳下の横尾忠則は、国立国際美術館の「80年代」展にもコレクション展にも出品しているが、横尾忠則現代美術館で開催中の横尾忠則 在庫一掃大放出展は、まったくお買い得な展覧会で面白い。というのは「横尾忠則現代美術館でこれまで展示したことのない作品」だけで全77点が構成されているというのだ(国立国際美術館のコレクション展への皮肉のように思えてくる)。しかも77点中35点が80年代の作品であり、「一人80年代展」のおもむきもある。画家転向第1回展出品作や、それ以前の可愛らしいお花や蝶々を描いた作品、筒井の長編小説のために描いた作品など、傑作珍作が、観客を不思議な世界へと誘う。電球、電飾が絵の周囲を飾る懐かしのイルミネーション絵画もある。私が初めて横尾忠則の絵を見たのは80年代のこのシリーズであり、懐かしかった(ミシマを描いた作品だったと思う)。各作品の横には、画家の直筆コメントが付いているのだが、配布資料にも、リストと共に、英訳付きでコメントが全部収録されている(「80年代」展への皮肉のように思えてくる)。そして、このコメントがまた面白い。横尾忠則現代美術館は国立国際美術館よりも小規模なはずだが、展覧会のクオリティは完全に逆転している。こんな面白いことを考えられる学芸員(山本淳夫)には、ぜひ今度相談に乗ってもらいたい……。

森村泰昌も「80年代」展の出品者だが、「もうひとつの80年代」と銘打たれてもいる彼の個人美術館モリムラ@ミュージアムの開館記念展、これも小さい規模ながら、国立国際美術館の今回の企画力に大きな差をつけていた。単に当時の「実物」があるといった(「80年代」展の構成みたいな)ものではなく、日本の80年代とはなんだったか、と、こちらに体感させるリアルな場所になっていたと思う。特に最初のセルフポートレイト作品展「菫色のモナムール、其の他」(1986)の再現展示は素晴らしかった。自身の80年代を振り返る映像もあるのだがこれも良くできていて、当時の記録映像を混ぜながら語る約13分の映像のラストで、森村は、美術がその時代を反映しているということはなく、ズレているんですよ、と言っていた。まるで、「美術は時代を映し出す鏡のような存在ではないでしょうか」への作家からのアンサーのようではないか。パイプ椅子を並べる(美術館にありがちな)上映ではなく映像上映用のミニシアターをちゃんと頑張って作っているのも、すごい……。