プロフィール

小崎 哲哉(おざき・てつや)
1955年、東京生まれ。
ウェブマガジン『REALTOKYO』及び『REALKYOTO』発行人兼編集長。
写真集『百年の愚行』などを企画編集し、アジア太平洋地域をカバーする現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員、同大大学院講師。同志社大学講師。
あいちトリエンナーレ2013の舞台芸術統括プロデューサーも務める。

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衆議院議員 長尾たかし先生へ

2019年11月10日

謹啓

現代アートに関わる仕事をしている小崎と申します。この度は、現代アートに関する画期的なご発言・ご行動を示して下さいまして誠にありがとうございました。あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」(以下、「不自由展」)について、先生と同じく深い見識に基づいて発言された和田政宗参議院議員、菅義偉官房長官、柴山昌彦(前)文部科学大臣、河村たかし名古屋市長、松井一郎大阪市長、吉村洋文大阪府知事、黒岩祐治神奈川県知事、さらには今回先生と並んで外務省に貴重なご指導をされた大西宏幸衆議院議員ら諸先生方に対してと同様に、心より感謝申し上げる次第です。

●素晴らしい透視能力と迅速な行動力

杉田水脈先生や西村眞悟先生らとともに「朝日新聞を糺す国会議員の会」に所属していらっしゃるだけあって、既存のマスコミではなく、匿名でツイッターなどに投稿する心の病んだ気の毒な方々の意見を取り入れて即座に行動に移すあたり、下々に目を配り、情報源が何であれ迅速に反応するポリシーをお持ちかと存じます。また、芸術文化についての関心も知識もない政治家がほとんどの現代日本において、先生のようにアートに通じた方は希有の存在であろうと拝察します。

長尾先生をはじめ諸先生方は、何よりも、実際にアート作品を観ずしてずばりと評価を下されるのがすごい。私のような凡夫や、世界中の自称「アートの専門家」は誠に鈍くさく、いちいち作品や展覧会を実見しない限り、当該作品や展覧会について発言することはできかねると考えておりました。今回、オーストリアで開催中の『Japan Unlimited』について、先生は会場に赴くことなく「日本とオーストリアとの間の150周年の友好、これをお祝いするに、それに資する展示物かと」と喝破されました。天眼・心眼・慧眼と申しますか、透視力と申しますか、素晴らしい超能力に感服いたしております。

「資するかどうか」を、ほかの誰にも諮らず、ご自身で判断される潔さにも瞠目いたしました。文化芸術基本法は前文に「文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し,文化芸術活動を行う者の自主性を尊重する」と謳っています。二国間の友好のためには、同法も憲法第二十一条も無視することを厭わない果敢なご姿勢にも感銘を受けました。

また、先生は2019年10月30日に、「不快感しか覚えない作品?」とツイートされました。先生のようなアートをよくご存じの方には釈迦に説法かと存じますが、現代アートの父とされるアーティスト、マルセル・デュシャンは、現代アートを「網膜ではなく灰色の物質に訴えかけるもの」と定義しました。目で見るのではなく、脳で読む快感に資するのが現代アートであるというわけですが、先生の「不快感」発言は、「網膜ではなく脳」とする現代アートの百年以上に及ぶ解釈に異を唱え、「網膜に戻れ!」とする革命的にして挑戦的なご主張です。これも、控えめに申し上げて画期的なものと存じます。

「作品」の後に疑問符が付されていることにも注目いたしました。この疑問符には、「観ていないから不快感しか覚えない作品かどうかわからない」ではなく、「そもそも作品の名に値しないのではないか」という、やはり天眼に基づいた強い疑念が込められているかと存じます。『Japan Unlimited』は現代アートの専門家が企画し、作品を選定し、会田誠を筆頭に日欧の中堅以上の現代アート作家が参加し、現代アートに特化した会場で開催されている正真正銘の現代アート展であります。一方、先生の、専門家とされる人々を盲信せず、逆に真っ向から批判する反骨・反権威のご姿勢は、アート史にたびたび見られる前衛的な姿勢にほかならない。先生が、アートに関する固定概念を打破しようという強いご意志と独自の深い見識を備えていらっしゃる、これはもうひとつの証左であると言えるでしょう。

上に引いた「資するかどうか」についてのご発言は、先生が出演された文化人放送局スペシャル「生田のいくバズ」で拝聴いたしました。「文化人放送局」を名乗るだけあって、先生のような真の文化人の方々が多数ご出演なさっているようですが、中でも先生が群を抜いた現代アート通でいらっしゃることはすぐにわかりました。『Japan Unlimited』に「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」(以下、「名乗る男」)という作品を出展したアーティストについて「かの有名な会田誠さん」とすぐに名前を挙げられ、やはり『Japan Unlimited』に参加しているアーティストコレクティブ、Chim↑Pomにも言及されました。「チンポム」ではなく「チンポン」と発音されていたようですが、アートワールドを含む国際社会に通用する見事な発音かと存じます。

実際、会田誠は国際的にも著名であり、昨年から今年に掛けてフランスで開催された『ジャポニスム2018』の「先駆け」とされる『ジャパノラマ 1970年以降の新しい日本のアート』展にも参加・出展しています。ご存じの通り『ジャポニスム2018』は、安倍晋三首相が推進した日仏友好160年を記念する大型日本文化紹介事業であり、独立行政法人、国際交流基金が主催したものですが、同法人は外務省が所管しており、今回、先生のご尽力によって『Japan Unlimited』の「公認」を取り消した在オーストリア日本国大使館とは兄弟か従兄弟のような存在でございます。

他方、菅官房長官は2018年8月に、外務省の秋葉事務次官と王毅外相の会談をめぐって、中国側が産経新聞社(!)の取材を認めなかったことについて、「極めて遺憾であり、中国側に抗議した」と述べています。曰く「表現の自由を含む自由、基本的人権の尊重、法の支配は国際社会における普遍的価値であり、いかなる国においてもその保障は重要だ」(これも産経新聞から)。そして「外交ルートを通じて中国外交部に抗議した」そうです(これはNHK)が、外交ルートとは即ち外務省マターだったということです。会田誠を海外展に参加させたり、会田が参加した展覧会をいったん公認したり取り消したり……と外務省は方針がぶれっぱなしです。長尾先生は決してぶれない! 菅官房長官の「表現の自由は普遍的価値である」という毅然とした方針に、こちらも毅然として立ち向かっていらっしゃる。官邸あるいは国会で両雄が相対する場面を想像するとワクワクします。

●近現代史上、最も著名な政治家との共通点

『Japan Unlimited』展の話に戻れば、彼の国オーストリアは、「退廃芸術」展を主催した史上希有な政治家を生んだ国でもあります。1937年にドイツで開催された同展は、パブロ・ピカソ、ピエト・モンドリアン、アンリ・マティスら、キュビスムや表現主義や野獣派の巨匠に烙印を圧した展覧会として、アート史に燦然と輝いています。長尾先生がこの展覧会の開催を指示した同国出身の非常に著名な政治家と同様の行動を取られたことは、規模ははるかにしみったれているとはいえ、この歴史的人物への熱い共感を示し、日墺友好150周年をお祝いしたいという意図から発されたものと拝察します。

『Japan Unlimited』のキュレーター、マルチェロ・ファラベゴリ氏は「日本を悪く言うのが目的ではなく、日本社会が複雑で多くの問題があることを示したかった」と述べています。昨今の現代アートは、複雑な近現代史と混沌とする世界情勢を反映して、現実の多種多様な問題を取り上げる作品を是としています。そもそも現代アートは多義的な芸術であり、多様な解釈を許すものであるわけですが、それを否定し、単純で一義的なアートを主唱されるのは、既成観念に挑戦する、やはり画期的なご姿勢です。

会田誠本人はツイッターに、「名乗る男」は「何かのプロパガンダからはほど遠い作品である」と書いています。また、「僕が拵えたかった架空の首相は、僕の考えに従って、非常にジレンマに満ちた人物にしたかった。そこで現実の安倍首相との対応関係を考えるのは不要な制限を自ら設けることだった。自由に人物を作るために、安倍首相からは離れた」とか、「この作品は安倍首相が国連で演説するより前に作った。安倍首相の英語力の高低は昔も今も特に興味はない」とも述べています。

これに対して先生は、「生田のいくバズ」で「完全に政治的プロパガンダですよ」と断じられました。情報戦略アナリストの山岡鉄秀先生が「安倍総理を扮した人が出てきて」と作品を説明しはじめたときには「けっこう似てるんですよ、これが(笑)」ともおっしゃいました(私もそう思います〔笑〕)。「アーティスト側から言うと安倍総理ではないと」という大使館の説明を承知していらしたにもかかわらず、作品を一義的に解釈されたわけですが、「現代アートは多義的な芸術であり、その多義的なメッセージやコンセプトを読み解いていくのが鑑賞行為である」という従来の思い込みを払拭する、これは画期的なご提案かと存じます(山岡先生の「安倍総理を扮した」は本来なら「安倍総理に扮した」でしょうが、情報戦略的に日本語の可能性を拓こうとされているのだと拝察いたします。そういえば安倍首相や麻生太郎副首相も積極的に日本語の可能性を拓こうとされており、これも「美しい日本」実現のためのご努力であろうと感服いたしております)。

話がいささかズレますが、国会でのご答弁を見る限り、貴党の先生方は日本語の新たな可能性に果敢に取り組んでいらっしゃるようにお見受けします。つい先ごろの「桜を見る会」についての野党議員の質問に際しても、安倍首相も、「教育再生担当」だという萩生田光一文部科学相も、現代日本語とはまったくかけ離れた言語空間を創出されていました。日本語コミュニケーションに異次元を導入されたと申しても過言ではないかと存じます。「質問に正面から答えない」「追及されたらのらりくらりかわす」「『責任はすべて私にある』とだけ答えて実際には何もしない」など、次代を担う子供や若者に新たな倫理観を植え付けようとすることも含め、真に画期的であると言えるでしょう。竹下登元首相以来の「言語明瞭・意味不明瞭」という党に連綿と伝わる伝統かもしれませんが、いずれにせよ、現代アート、現代文学、現代演劇も顔負けの不条理なパフォーマンス会場と化しているのですから、全国民は国会中継を必ず観るよう、法制化を図るべきかと存じます。

その安倍首相は、2019年10月15日の参議院予算委員会で、あいちトリエンナーレの補助金不交付について「これは、表現の自由とともに、公金の支出について、それが正しいかどうか、いわば税金を使うわけでございますから……」と語っておられます(https://www.youtube.com/watch?v=KTPbsGya6eYの6:02:56以降)。菅官房長官も、萩生田文科相も、天皇陛下の即位に際して内閣が献上したイルカの彫刻をつくった宮田亮平文化庁長官も、一貫して「手続上のミスであり、表現の自由とはいささかも関係ない」と言い続けてきました。だから明らかに閣内不一致答弁ですし、何よりも「これは実は表現の自由の問題なんだ」という本音が出たという点で非常に興味深い。なぜ野党もマスコミもそこを突っ込まないのか不思議に感じております。

ともあれ、首相答弁の「表現の自由とともに」を「『桜を見る会』の支出額増加とともに」に差し替えてみるのは一興かと存じます。「これは、『桜を見る会』の支出額増加とともに、公金の支出について、それが正しいかどうか、いわば税金を使うわけでございますから……」。2017年4月15日に「地元大阪支援者の皆様をご招待、お招きしました」とツイートした長尾先生も、安倍首相とご同様にお考えかと拝察いたします。

●三島由紀夫の価値観を共有する

「不自由展」に関しては、長尾先生は2019年8月2日に「正式に確認しておりませんが、陛下の御真影を焼くという作品があるそうです」とツイートされました。高須克弥氏や百田尚樹氏と同様に、多くのフォロワーに先駆け、その後の電凸や脅迫ファクスを喚起したという点で、これも瞠目すべき迅速なご行動。確認をせずに即座に反応するという、反射神経の鋭さを表す事例であるかと存じます。2017年9月5日付の産経新聞によれば、民放が偏向報道しているとネットメディアが根拠なく投稿した内容をご自身のツイッターに引用して拡散を呼びかけ、後に謝罪の上、削除していらっしゃいます。まったくぶれない一貫したご態度に感服いたしました(朝日新聞にも同様の記事が掲載されましたが、先生のお好みを尊重・忖度して産経を参照いたしました)。

8月5日には「昭和天皇の御真影を焼く行為。問答無用!芸術とは言えない!この表現の自由は断じて認められない!憲法第二十一条?それよりも第一条を心得よ!」とツイートしていらっしゃいます。大浦信行作品との関連がよくわかりませんが、論理の飛躍にやはり画期的なものを感じます。ちなみに貴党・自由民主党は、平成二十四年に発表した日本国憲法改正草案において、現行憲法第一条の「天皇は、日本国の象徴であり」を「天皇は、日本国の元首であり」と変えることを提唱しています。党の改正案ではなく現行憲法を支持されるところに、「我が道を行く」という気概を感じたことを申し添えます。

さて、「現代アートは多義的ではなく一義的である」という見方は、冒頭にお名前を連ねた先生方や、長尾先生が懇意にしていらっしゃる「日本会議国会議員懇談会」「神道政治連盟国会議員懇談会」「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」「文化芸術懇話会」「朝日新聞を糺す国会議員の会」「日本の尊厳と国益を護る会」の会員の方々が等しく共有されている画期的な解釈かと存じます。

参考までに先生のご主張をウィキペディアからコピペしてみました。ほかの先生方も、概ねこうしたご意見をお持ちかと拝察します。


*憲法9条の改正に賛成。憲法9条の1項と2項を残して自衛隊の存在を明記する改憲に賛成。安全保障・治安集団的自衛権の行使に賛成。敵基地攻撃能力の保有に賛成。特定秘密保護法は必要。

*経済・財政TPP参加に慎重な姿勢。カジノの解禁に賛成。年金の給付水準が下がるのは、負担増が耐えられない為やむをえない。原発は必要。

*歴史認識「村山談話」及び「河野談話」を見直すべき。首相の靖国神社参拝は問題ない。選挙制度・政党外国人参政権に反対。選択的夫婦別姓制度に反対。受動喫煙問題受動喫煙防止を目的に飲食店などの建物内を原則禁煙とする健康増進法改正に反対。

*人権擁護法案に反対。ヘイトスピーチを法律で規制することに反対。「道徳」を小中学校の授業で教える事に賛成。

多数・多様な意見を尊重する立憲民主国家から、ただひとつの主張のみを尊重し、他は排除・排斥する「神の国」へ。その方向性と軌を一にし、やはりいささかもぶれるところがない。その心意気に応じて、芸術文化に関して言えば、文部科学省、文化庁、日本芸術文化振興会、外務省、国際交流基金など、本来は立憲民主国家のために、すなわち国民に奉仕すべき諸団体が神の国に奉仕するようになりつつあります。先生方のご尽力の結果かと存じます。

また、先生は折に付け、三島由紀夫に対する痛切な思いを吐露されています(奇しくも会田誠は、十代のころに三島を愛読し、最も大きい影響を受けたと告白しています)。以下、勝手ながら、2005年の憂国忌に公開された先生のブログから引用・転載いたします。

三島がバルコニーから撒いた檄文を読むと今こそ彼のメッセージを感じ取り日本人を取り戻さなければならないと思う。
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われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。
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毎年私はこの檄文を読み心新たにする。


この檄文は三島が割腹自殺した1970年11月25日に読み上げられたものであります(会田誠が妻子とともに「会田家」名義で発表し、2015年に「名乗る男」とともに東京都現代美術館から撤去要請された作品「檄」は、まさにこの檄文に取材しています)。三島は同年7月、「果たし得ていない約束-私の中の二十五年」というエッセイを産経新聞に寄稿しています。その後、ちくま文庫版『文化防衛論』に収録されたこの文章は、以下の一文で結ばれています。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。

長尾先生や諸先生方のおかげで、現在の日本はこの予言通りの国になっています。憂国忌の檄文にあるように、「矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ」ている様は、例えば『Japan Unlimited』展に出展された鳥光桃代の「Business as Habitual」に見て取れるでしょう。このアニメーションの中で、福島の原発事故後に記者会見で謝罪する東京電力の役員たちは「空中に昇っていく」そうです(私は作品を実見しておらず、先生のような天眼も備えていないので、先生が糺そうとされている朝日新聞〔2019年11月7日付〕の表現に頼ることをお赦し下さい)。「保身、権力欲、偽善」の塊であるからこそ、「からっぽ」となり、浮遊する存在となっているのではないでしょうか。

「果たし得ていない約束」の表現で言えば、「富裕な」「抜目がない」はさておき、「無機的な」「からっぽな」「ニュートラルな」「中間色の」は「一義的」とほぼ同義かと存じます。さすがは三島! さすがは諸先生方! もっとも三島は、いちばん最後に「それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」と書いています。諸先生方と口をきく気にもなれなくなっている? やや不思議な気もいたしますが、いずれにせよ「死人に口なし」でございましょう。

●さらなる現代アートのご理解のために

長尾先生と諸先生方が熱烈に支持される現政権は、これまでに文系不要論を現実のものとし(2015年に、当時の下村博文文科相が通達を出し、「誤解」と釈明されました)、首相のオトモダチである学園運営者が新設を希望した獣医学部をすぐに認可し(落選して議員職を失った「浪人時代」に同学園の運営する千葉科学大で客員教授を務め、後に首相、学園理事長とバーベキューを楽しんだ萩生田官房副長官=現文科相が大活躍されました)、面倒くさそうな大学入学共通テストへの英語民間試験導入を積極的に進めようとし(これは、ベネッセとことのほか仲が良いと囁かれる下村先生のご提案)、文化芸術関連の役所や団体に圧力をかけ、公文書を隠したり、捨てたり、塗りつぶしたりして、国民や野党やマスコミによる多義的な解釈をなるべく避け、日本を「一義的」な「美しい国」にするために尽力されてきました。ときには間違いもあるかもしれませんが、大丈夫、何かあっても安倍首相が背後にいらっしゃいます。「すべての責任は私にある」や「状況は完全にコントロールされている」という自信に満ちたご発言はもとより、再三にわたって「私は立法府の長」と述べられている方ですから、いざとなったら責任を取る法律をつくって下さるに違いありません。激務が心配されますが、経済産業大臣をお辞めになった菅原一秀先生がローヤルゼリー(大)を送って励ましていらっしゃるので、きっと大丈夫でしょう。

ところで、先生は田母神俊雄先生と同じく「コミンテルン陰謀説」を唱えていらっしゃるそうですね。私が現状のアート界と認識を同じくする「多義性」は否定されてしまいましたが、ご存じの通り、現代アートのもうひとつの特色とされるのは「想像力(の刺激)」です。コミンテルン陰謀説は、私のような凡夫には理解も想像も不可能ですが、長尾先生や田母神先生のような方は豊かな想像力をお持ちなのですから、もしかするとアーティストに向いていらっしゃるのかもしれません。

私は昨年、『現代アートとは何か』という書物を上梓いたしました。既存の、古臭い、多義的な解釈を求める現代アートについて記した書物でございます。多義性はさておき、想像力については、長尾先生をはじめとする諸先生方にもご支持いただけるのではないかと愚考しております。文末に宣伝めいて恐縮ですが、見識あるみなさまにぜひご一読いただき、日本の文化芸術シーンの一層の発展に役立てていただければ光栄に存じます。

敬具