プロフィール

小崎 哲哉(おざき・てつや)
1955年、東京生まれ。
ウェブマガジン『REALTOKYO』及び『REALKYOTO』発行人兼編集長。
写真集『百年の愚行』などを企画編集し、アジア太平洋地域をカバーする現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員、同大大学院講師。同志社大学講師。
あいちトリエンナーレ2013の舞台芸術統括プロデューサーも務める。

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PARASOPHIAへの期待と不安

2014年04月06日
某月某日

PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015、第2回記者会見。全体の2割に当たるという8名の参加作家が発表された。残りのほぼすべては9月末に明かされるという。

河本ディレクター(左)とデルコン館長


・蔡國強
・ヘフナー/ザックス
・石橋義正
・ピピロッティ・リスト
・ウィリアム・ケントリッジ
・スーザン・フィリップス
・ドミニク・ゴンザレス=フォルステル
・やなぎみわ

これまで行われた「オープンリサーチプログラム」などからある程度は予想された顔ぶれだが、国際芸術祭に招聘するアーティストとして、まずは堂々たる陣容と言えるだろう。「都市のスケールに見合った大きすぎない展覧会」(河本信治ディレクター)を目指して40作家に絞るというのも、予算の制約ゆえかもしれないが、真っ当な方針であり、好感が持てる。

蔡國強「農民ダ・ヴィンチ」 2013 サンパウロ、ブラジル銀行文化センター呉玉禄によるロボットファクトリーの展示の一部。「アクションペインティングをするジャクソン・ポロック」「しゃがんでいるジャクソン・ポロック」ロボットと蔡國強
Photo by Joana França


だが、河本ディレクターが再三にわたって強調する「京都らしさ」が何を指すのか、いまひとつ具体的に見えてこない。海外作家の現地滞在制作やサイトスペシフィックな作品づくりは、すでに多くの国際展が試みている。石橋ややなぎといった京都出身の作家、リストやケントリッジといった京都にゆかりのある作家を選んだからといって、京都的な特徴が浮かび上がってくるとは必ずしも言えないだろう。

その疑問を河本ディレクターにぶつけたところ「確かに抽象的かもしれません」という答が戻ってきた。「京都における現代アートの歴史を反映した企画は?」という問いには「想定しているが、いまは言えない」。ただし「東アジアの若い商業映画監督に通底するものとして京都からの影響がある。それを何らかの形で取り上げたい」というコメントが出た。京都市美術館以外の会場を紹介する際、京都文化博物館旧館の名を挙げつつ「映画の部分を(文博に)担ってもらうかもしれない」という発言もあったから、それと重ねて推測すれば、水面下で面白い企画が進行中なのかもしれない。PARASOPHIAの英文正式名称は、和文の「現代芸術」に当たる部分が「Contemporary Culture」、つまり「現代文化」となっている。現代アートとは限らない何かが行われる可能性はある。

William Kentridge, NO, IT IS, 2012. Photo by Cathy Carver, courtesy of Marian Goodman Gallery, New York. © William Kentridge


とはいうものの、やはり京都の現代アート史にも触れるべきではないだろうか。関西ニューウェーブ以来、いや、もしかするとそれ以前から、日本の現代アートは一貫して「西高東低」である。京都人を含む関西人がケチ、もといコスト意識が高いためか作品が売れず、商業ギャラリーと市場は東京に集中しているが、実力ある作家は関西、とりわけ京都市立芸術大学ほか、いわゆる京都5芸大を擁する古都を出自とする者が少なくない。だがその事実は、海外はもとより、国内、首都圏、そしてほかならぬ地元でも案外知られていない。

事実上京都で初めての本格的国際展は、その事実を知らしめ、京都ブランドを確立するための絶好の機会ではないだろうか。石橋ややなぎ以外にも、白髪一雄や草間彌生から、ダムタイプや中原浩大を経て、名和晃平、束芋、宮永愛子、金氏徹平らまで。すでに国際的に知られた名前も多いが、それらを統合し、歴史的な文脈に位置付けることが、京都の、関西の、日本の、アジアの、そして世界のアートシーンに大きく寄与する。伝統と革新を共存させてきた、古都の文化的な懐の深さも強調されることだろう。というより単純に、質量ともに莫大で、個性の際立った「京都アート」の集大成的展覧会をこの目で観たい。

Susan Philipsz, Study for Strings, 2012. Installation view at Kassel Hauptbahnhof, Kassel. Photo by Eoghan McTigue, courtesy of the artist, Galerie Isabella Bortolozzi, Berlin and Tanya Bonakdar Gallery, New York. © Susan Philipsz


記者会見の後に京都国立近代美術館で、テート・モダンの館長クリス・デルコン氏のレクチャーが行われた。氏の話の中で、上述したことに関連して印象に残ったことがふたつある。ひとつは、年間200万という当初の想定来場者数を大きく超え、530万人(2012年)が訪れるようになった現在、テート・モダンは美学的な経験の場というよりも、他者と過ごす社会的・社交的な場となっており、今後は美術館全般がその方向に向かうべきだということ。したがって、アート+食、ファッション、デザイン、映画など、他ジャンルとの組み合わせが重要になるということが指摘された。

現代美術館ではダントツのテート・モダンに比べると、日本でトップの森美術館の年間動員数は100万強に過ぎない。しかも森美のチケットは六本木ヒルズの展望台と抱き合わせであり、実際の入場者数はまさに比較にならない。だがそれよりも、収蔵作品の質と量、ロンドンあるいはヨーロッパという地の利や歴史が背景にあっての見解と理解すべきだろう。芯に「美学的な経験」を保証する作品群や知識や歴史があるからこそ、大衆化とともに「社会的・社交的な場」という要請が生じる。オリンピックの芸術監督にザ・芸能界のプロデューサーが選ばれることに象徴的だが、非西洋国家における現代アートは、彼の地のとば口にすら至っていない。京都においても、まずは「美学的な経験」を保証するために、自らの歴史を振り返るべきではないだろうか。

やなぎみわ演劇プロジェクト『1924 人間機械』 2012


その点で示唆に富み、印象的だったふたつ目のことが、デルコン氏が会場と交わした質疑応答にあった。質問は「もの派や具体など、日本の戦後現代アートが海外で関心を集めている理由は何か?」。氏はユーモアを込めて「まず皮肉を交えて言えば、現代アートは蛸かスポンジのようにあらゆるものを吸い尽くす存在であり、アート市場とともに常にフレッシュなものを求めている。日本のアートはその『フレッシュなもの』だった」と答え、さらに言葉を継いだ。「皮肉を抑えて言えば、グローバルな時代になったとはいえ、各国には多様な文化がある。その多様性に世界が気が付いたのだ」。これは皮肉云々というより本音と建前と呼ぶべきだろうが、続けて氏はこんなコメントを加えた。曰く「皆さん方の作家を外に流出させないで下さい。地元でこそ行うべきことがあるんです」

PARASOPHIAは「地元でこそ行うべきこと」を行いうるか。そうすることによって地元と世界のアートシーンに寄与することができるか。外部からこの街に移り住んだ者として、そして曲がりなりにも世界のアートシーンやアート史に関心を抱き、注目してきた者として「残り8割」に期待せざるを得ない。他の都市と同じような国際展に興味はない。