プロフィール

小崎 哲哉(おざき・てつや)
1955年、東京生まれ。
ウェブマガジン『REALTOKYO』及び『REALKYOTO』発行人兼編集長。
写真集『百年の愚行』などを企画編集し、アジア太平洋地域をカバーする現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員、同大大学院講師。同志社大学講師。
あいちトリエンナーレ2013の舞台芸術統括プロデューサーも務める。

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一見○○、実は××

2013年11月29日

低次元の雑事に時間を取られ、ブログが書けないでいた。以下、10月上旬から月末までに観たもの・聴いたもの・参加したもの(中原浩大展と維新派公演以外)。

某日:『Asia Cruise』展(台北・關渡美術館)。台中韓日4人のキュレーターが台湾アーティスト各数人を選ぶグループ展。キム・スンヒさんがキュレーションした呉季璁の作品が、LED光源によって日常的なオブジェの影を見せるという点で、一見したところクワクボリョウタ作品とそっくり。クワクボ作品の存在は知っているとのことで、そういえばクワクボ君も、以前に「同じアイディアの作家がいるんです」と言っていた。2人展を開いたらいいんじゃないだろうか。金島隆弘さんが選んだ作家のひとり徐玫瑩は工芸の巨匠。植物の枝などを模した作品は金色に輝き、聖性さえ感じられて異彩を放っていた。

某日:同展シンポジウムに参加。例によって東アジア4ヶ国間のデジタルアーカイブ構想について話す。10年間この話ばかりしているけれど、なかなか前に進まない(苦笑)。

某日:庭劇団ペニノ『大きなトランクの中の箱』(立誠小学校)。これまでのペニノの集大成的作品。ファリックシンボルだらけの舞台美術と、父親=王様役の役者の笑顔に誰もが驚いた/戦いたことだろう。一見悪趣味な妄想世界だが、主宰のタニノクロウは現役の精神科医とあって、「妄想」には裏付けがあると思う。夢(悪夢)に出てきそう。

某日:ビリー・カウィー 『”Art of Movement” and “Dark Rain”』(京都芸術センター)。3D映像とリアルなダンサーとの共演。立体視用の眼鏡を掛けると映像が本物に見えてくる。同時にリアルなダンサーから現実感がなくなる。不思議と言うべきか当然と見なすべきか。

某日:大友良英&「あまちゃん」スペシャルビッグバンド コンサート(同志社大学 寒梅館ハーディホール)。テレビの「あまちゃん」は、最初は大友の音楽を聴こうと思って見始め、ぐいぐいとドラマに引き込まれ、我に返って巧みに創られた音楽に感心し、またもやドラマに……という好循環で、結局全回観てしまった。コンサートは純粋に音楽を楽しんだ。Sachiko Mが歌った「潮騒のメモリー」はうれしいサプライズ。

某日:ARICA+金氏徹平『しあわせな日々』(愛知芸術文化センター小ホール)。故・太田省吾が書いた沈黙劇『水の駅』の伝説的女優・安藤朋子が2時間近くぶっ通しで喋り続ける(名演!)。倉石信乃によるカタカナ固有名詞の一切出てこない新訳は、だからこそ原文に忠実な訳文となっている(原作上演時と異なる時空間・状況ゆえ)。台詞に絡むイトケンの音響も、この時代によく合っている(残響を伴わない発話は現代にはもはや存在しない)。金氏徹平の一見瓦礫のような小山=舞台美術は、しかし実はそうではなく、穴やチューブなどベケット的モチーフに満ちあふれている(小山全体が実は楽器でもある)。泉下のベケットと太田さんに見せたかった。2月に横浜で再演される。

金氏徹平が作成した『しあわせな日々』の舞台美術(部分)



某日:建畠晢氏との対談「ベケットへ/ベケットから」(愛知芸術文化センター)。『ダブリンの緑』という珠玉のエッセイも書いている建畠さんは根っからのジョイス贔屓かと思ったら、実は指導教授が安堂信也氏で卒論はベケットだったという。そこで対談をお願いした次第だが「無駄口と繰り返しが多いのがベケットの特徴」「話は突然終わる」など、さすがに名言多数。もっと話していただけばよかったと反省するも後の祭り。

某日:ダヴィッド・ヴァムパック ワークショップ(京都芸術センター)。透け透けの衣裳を着けたり、体中にクリームを塗って踊ったり、振付に過呼吸を持ち込んだりする、一見奇態な振付家/ダンサーのトーク(コスチュームデザイナーのラシェル・ガルシアとの対談)。終了後に一緒に飲みに行って『百年の愚行』(”One Hundred Years of Idiocy”の話をしたら、『L’idiotie』(愚行/ばかばかしさ)という本を薦められる。言うまでもないことだが、ダンスへのばかばかしさの導入は、観客を非日常的異世界に連れ込むための戦術でもある。帰宅してすぐに本を注文した。

某日:椹木野衣キュレーション『未来の体温』展(山本現代&アラタニウラノ)。故・東谷隆司を偲ぶ展覧会。歌手マドンナから自らが生まれたという、一見むちゃくちゃな設定の作品が展示されていた。若き日の故人が、椹木さんに20年以上前に見せたものだという。キュレーターに限らず、表現者はすべからく「孕む者・生む者」であるだろう。けれど東谷君は「孕まれ・生まれ」たくもあったのにちがいない。あらためて、合掌。(白坂ゆりによるレビューがREALTOKYOに掲載されている)

某日:ミケランジェロ・ピストレット レクチャー(Social Kitchen)。世界文化賞受賞を機に来日したアーティストの講演。大学の授業があってほんの一部しか聴けなかったが、自身が設立・運営する「Cittadellarte-Fondazione Pistoletto」について話したとのこと。公式サイトによれば「『アーティストの新しい役割は、アートを、社会を形成する人間の活動の全領域と直接に相互作用するものと定めること』というマニフェストの具体的な行動」として設立されたという。バウハウス的な、あるいはブラックマウンテンカレッジ的な活動だろうか。Social Kitchenは立ち見で60人ほどしか入れない小さな空間だから、なぜ世界的巨匠がこんな場所に? と失礼ながら主宰の須川咲子さんに尋ねてみたら、ほかならぬ須川さんが「Cittadellarte」で学んでいたからと聞いて納得。Social Kitchen自体、ピストレットの影響で作ったもので、「いずれ日本に来たら寄る」という約束を、旧師が律儀に守ったということらしい。やはり、すべては人間関係から始まる。

ピストレット氏と須川さん。ピンぼけごめんなさい



某日:ジェコ・シオンポ『Terima Kos (Room Exit)』(愛知芸術文化センター小ホール)。ダンサーの若さと体力が、すさまじくエネルギッシュな舞台を生み出していた。一見力任せだがもちろんそうではなく、計算の行き届いた振付の結果だ。アニマルダンスとヒップホップ、つまり自然と都会、通時と共時の幸福な結合。こうした世界に「現代アートへの目配り」(中日新聞)などまったく不要である。

某日:池田亮司『superposition』ゲネプロ(京都芸術劇場春秋座)。あいちトリエンナーレの仕事と重なって本番が観られず、やむなくゲネプロを観る。池田作品としては初めてパフォーマーが登場するが、台詞を発話するわけでも、ダンスを踊るわけでもない。黙々とモールス信号を打ち、暗号を解読し、データを用いてゲームのようなインタラクション/インタープレイを行い、超小型カメラが彼らの手の動きや視線が捉えるものを映し出す。公式ウェブサイトには「人間が実在の本質を原子スケールでどのように把握しているかについてのプロジェクト。量子力学の数学的概念に触発されている」とあるが、そもそも「どのように把握しているか」を芸術表現で明らかにするのは無理というものだろう。だが、人間の処理能力をはるかに凌駕する夥しい情報量は、量子論で言う不確定性原理に支配される「原子スケール」の世界を観客に想像させるに足るものだった。途中のやや叙情的な映像はなくもがなの感があったが、タイトル通り重層的な光と音の連なりは圧倒的。特に、音叉が発する音波を映像として見せるシーンは、データの可視化/可聴化を骨子とするこの作品の中で、最も美しいものだったと思う。

某日:アートプロジェクト『依代』(下鴨神社)。大舩真言が神社に奉納した作品を観る。細殿に斜めに置かれ、一見立体物のようだが実は円形の日本画。巨大な卵のように見えて神々しく、青黒く光る様から「宇宙卵」という言葉を連想した。


某日:マチルド・モニエ『ピュディック・アシッド』/『エクスタシス』(愛知芸術文化センター小ホール)。1980年代に発表されたモニエ(+ジャン=フランソワ・デュルール)の処女作を再制作。音楽はクルト・ワイルばかりが強調されるが、実はバーナード・ハーマンが書いたヒッチコック『サイコ』のサウンドトラックが利いている。それも含め、お洒落でユーモラスな展開の中に、性差や他者とのコミュニケーションの不可能性などシリアスな主題が潜められている。ダンサー、ジョナタン・プランラの技術も秀逸。

某日:渡辺英司『名称の庭』展(七ツ寺共同スタジオ)。図鑑などに印刷・収録された2次元の植物が、切り抜かれ、屹立させられて(つまり2・5次元となって?)伝説的演劇空間の床を埋め尽くす。トリエンナーレの企画と呼応したもので、夜ともなれば渡辺のインスタレーションは一部を残して取り払われ、ベケット作品やベケット関連作品が上演された(12月に、京都・アトリエ劇研に巡回)。全体の企画は、題して『クール・ガイア』。演劇・ダンス作品は未見だが、渡辺のインスタレーションはクールそのもの。


某日:fukuiiii企画『就活魔女☆とろみ』(アトリエ劇研)。戦いのさなかに実の姉を見殺しにし、そのトラウマで無気力症に陥った魔法少女が復活を遂げるまでの物語。いかにもアニメ的な設定や展開には目をつぶるとして、2時間45分は長すぎるし、魔法少女が大人気の企業に逆転就職して大団円という結末はかなり情けない。格差社会と同調圧力の時代を批判するなら、最後はやはりフリーランスとして成功させなくちゃ。主人公やそのヒモの男のダメダメっぷりなど、キャラクターの書き分けは悪くない、というかなかなかいい。若い作家の今後に期待したい。

某日:マチルド・モニエとの対談(京都芸術センター)。旧作の映像を観ながら制作意図などを聞く。2010年制作の『Soapéra』は、泡を使っている点が名和晃平のあいちトリエンナーレ出展作『Foam』と共通する。名和作品のコンセプトは「揺れる大地」から発想した(おそらくは)「流動・生成」で全然違うけれど、モニエに名古屋で「ちょっと似ている」と言ったら興味を抱いて、納屋橋会場まで観に行っていた。そういえばかつて、寺田みさこ『愛音』(2007年)の舞台美術を手がけた高嶺格が、やはり泡を使っていたことを想い出した。一見みんな似ているけれど、実はまったく異なる。面白い。