プロフィール

池田 剛介(いけだ・こうすけ)
1980年生まれ。美術作家。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。
自然現象、生態系、エネルギーへの関心をめぐりながら制作活動を行う。近年の展示に「Malformed Objects-無数の異なる身体のためのブリコラージュ」(山本現代、2017)、「Regeneration Movement」(国立台湾美術館、2016)、「あいちトリエンナーレ2013」など。近年の論考に「虚構としてのフォームへ」(『早稲田文学』 2017年初夏号)、「干渉性の美学へむけて」(『現代思想』2014年1月号)など。

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「モノと占拠」ツイートレクチャー

2018年06月06日

以下のテキストは、先日行われた京都市立芸術大学での新入生を対象としたワークショップ「モノと占拠」の際に、通常行われるレクチャーに代わるものとして、Twitterの授業用アカウント(@sougoukisoS)から3日間かけてポストされた。池田による談話を小説家の福永信氏がTwitter仕様に編集。今回、ブログへの再掲にあたり池田が加筆・修正を行なった。

1日目

1)池田です。これから3日間かけて「モノと占拠」という言葉のもとに、みなさんとワークショップというか、実際に体を動かして、大学の敷地をウロウロと散策しながら、ある具体的な場所を「占拠」してもらいたいと思います。よろしくお願いします。

2)「占拠」ってなんだろう、と思ったかもしれません。それについてこれからレクチャーします。ただ、実際に僕が皆さんの前でしゃべるんじゃなくて、ちょっと変わっているんですが、Twitterを通じてお話したいと思うんです。

3)Twitterでのレクチャーですから連投することになります。かなり長いですが(笑)、ぜひついてきてほしいと思います。レクチャーの合間に、課題を別途ツイートします。【課題】というしるしをつけておきますから、これを見逃さないでください。

4)【課題】のツイートが来たら、その課題をやってください。先生達に質問してもいいですが、先生達も今日はみなさんと同じ、ワークショップの参加者です。同じ課題をこなす仲間ですから、「今、忙しいよ!」とか言ってとりあってくれないかも。その場合は、自分達で考えてください。

5)ではレクチャーを始めましょう。みなさんは京芸の1年生になったわけですが、京大には行ったことがありますか? 百万遍のあたりですが、まだでしたら、ぜひ行ってみてください。写真にあるようにタテカンがたくさん立っていますが、これが今、問題になっています。


 

6)京都の景観を守るという京都市の条例に抵触するのではないかという話がきっかけになっていて、今年の5月以降、大学の外へ向けてのタテカンを認めず、敷地内でも、大きさを決めて、指定された場所に設置せよ、という話になっている。当然、それに反発する声も出てきています。

7)タテカンは、情報を伝えるためのものです。木の板などを使って、その表面に、言葉や絵を描いて設置する。遠くからも目立つようにするので、大きいしカラフルだったりします。風などで倒れたりしないように固定もしないといけないし大変なんですよ。この大きいのは最近見つけた、ちょっと可愛いやつです。


 

8)そんなふうにしてこしらえたタテカンは、言葉を書くので言語表現でもあります。絵も描くのでビジュアル表現でもある。今、このレクチャーはTwitterを通して語りかけていますが、スマホやパソコンからも言葉やイメージを発信することができるわけですね。では、それとタテカンとでは、どう違うのでしょうか。

9)Twitterもそうですが、SNSというのは基本的に見たいものが流れてくるし、見たくないものはブロックすればいい。書き込んだ情報は世界中から見ることができるし、「いいね!」のような友達からのリアクションも、すぐに見える。便利ですよね。

10)SNSでの情報発信との違いをひとつだけ言うと、モノとしての存在感が挙げられるかと思います。タテカンというのは板などで作ったブツです。なんだか堂々と立ち上がっている。この情報化の時代に、分厚いパネルに書かれた言葉が、モノとして立ち上がっているわけなんです。

11)確かにSNS全盛の時代に、タテカンは時代錯誤なもののように見えるかもしれません。どうもタテカンというのは、空気を読めていない感じがしないでしょうか?(笑) 京都市の景観条例に引っかかるというのは、「もっと京都の空気を読め」ということでもあると思います。

12)タテカンは、50年くらい前までは、たぶんツールとしてすごく意味があった。それが、今となってはある意味、時代錯誤であるかもしれないものとして残っている。こういう「今ここ」の空気に沿わないものを管理してしまおう、わけのわからないものは取り除こう、という動きが強まっているように思うんです。

13)公的な空間、つまりみんなのための空間が管理に覆い尽くされて、そこから外れたら、すべて責任を個人に押し付けられてしまう。自己責任というやつですね。人々が自由に集い、ワイワイと好き勝手に存在を主張できる、そうした領域が失われていっている。

14)タテカンというのは、そういう公的な領域の中に、学生たちが様々な疑問や主張を投げかけていく、そんな空間を象徴する存在でもあると思うんです。公の権力による管理から少し外れた、でも家のような私的な領域でもない、なんというか、空き地のような場所。

15)そこで今日の課題である「占拠」の話と繋がるんですが、こういう公による管理によってフラットに均質化されるのではない、人々が好きに主張を書き込みできる空間について、僕が強いインパクトを受けたのは、今から4年前の2014年の台湾での経験でした。みなさんの多くが中学か高校の時だと思います。

16)たまたま展覧会に呼んでもらって初めて台湾に行っていて、ちょうどそのタイミングで起きた「ひまわり学生運動」と呼ばれる大きなデモに遭遇することになりました。台湾の大学生たちが台湾の国会議事堂(立法院)を24日間占拠して、自分たちの空間に変化させたんですね。

17)イメージできますか。お隣の、沖縄の少し先にあるような国で、学生が国会議事堂の中に立てこもって、そこから世界中に自分たちのメッセージを発信し続けたんです。それを支持しようと50万人もの市民が、建物の周囲を取り囲んでいる。もう世界が違って見えるわけです。

18)僕はその占拠中の立法院に入れてもらうことができて衝撃を受けました。その時の写真をこれから少し見てもらおうと思います。イスを積み上げて、ロープで固定してるんですが、これは、結び目もしっかりしてるんです。聞いた話では、登山部の人たちがやったらしいですね。


 

19)黄色いダクトが見えますね。占拠中、建物内を閉め切っていて換気ができないので、ダクトを持ち込んで、換気をしているんですね。インターネット回線や電気ケーブルはテープで壁に留めてある。インスタレーションと言ってしまいたくなるような光景です。

20)立法院の内部では、情報発信するエリアだったりとか、救護のためのエリアであったり、全体の方向を考えるエリアとか、翻訳班があったり、自分たちで新たな秩序を作っていくんですね。仮の秩序ができているのが興味深かった。細かい工夫があるんですよ。メチャメチャなカオスとかでは全然ない。


 

21)重要なのは、すべてがテープとか、ロープとか、仮固定の状態なんです。私たちが政治的なアクションとしてイメージするのは破壊行動だったりするかもしれませんが、そうではなくて、きちんと元に戻せるようになっている。空間やモノに対する配慮があって、これはすごく重要なことだと思いました。

22)占拠というと、人間が主体になった政治行動と考えられることが多いと思います。当たり前ですが、デモなんかは基本的に、人間がなんらかの要求を主張するものです。もちろんそうやって、人々が現れることは重要なわけですが、台湾でとくに印象深かったのが、人と共にあるモノたちの現れでした。

23)モノたちへの配慮があり、モノたちの存在のあり方が、日常とは違って見えてくる。こうした台湾での経験が今回のワークショップの着想源になっています。これくらいが1日目のレクチャーですかね。読んでくれてありがとう。続きはまた明日、ツイートします。

2日目

24)2日目は少し概念的な話をしようと思っています。申し訳ないけど今日はちょっと長いです(笑)。まず、ハンナ・アレントという女性の哲学者の話をします。政治についての重要な洞察を残した人で、彼女には、たくさん著作があるのですが、『人間の条件』という代表作があります。

25)その中で、基本的に古代ギリシャの生活のあり方を念頭に置きながら、「公的領域」と「私的領域」を区別しています。私的領域というのは家の中で起こるような、食事や寝ること、家事や奴隷労働なんかも、もっぱら生きるために必要なこととして、私的領域にあると考えられます。

26)私的領域は、隠れた領域とみなされています。家や家族の問題は、外からは見えない、クローズドな親密さを持った領域の中にあるわけです。それに対して公的な領域というのは、隠れるのとは反対に、人々が「現れる」空間として考えられています。

27)人々が自分のアイデンティティを持って現れ、見られて、言葉が聞かれることが公的な領域で行われる。言葉を使って何かを主張したり、人と人とをつなぎながら政治活動を実践していく、そういう領域。今回、占拠することを「モノと共に現われる」と僕は言っていますが、それはアレントの言う「現われ」という言葉を意識しています。

28)つまり動物としての人間が必要としているような、食べるとか寝るとか、そういうものから切り離されて、もっと自由な主体として、言葉を使って議論し、政治的実践が行われる場として、「公的領域」が想定されているんですね。そうしたものが純粋な意味での政治である、と。

29)こういうアレントの議論は鋭い洞察を含んでいるのですが、様々な批判も加えられています。市民のための自由な領域なんて言ったって、奴隷や、女性、子供なんかを除外した成人男性のための空間じゃないか。多くものを排除する仕方で、自由な言論空間が成立するなどと言えるのか、というふうに。

30)最近翻訳が出たんですが、ジュディス・バトラーという人が『アセンブリ』という本を書いています。やはり女性の哲学者なんですけど、もともとLGBTと言われる性的マイノリティやジェンダー問題なんかの研究者です。この本は、2011年のニューヨークでの占拠運動(オキュパイ・ウォールストリート)や、同時期の中東での大きなデモなどの経験を踏まえて書かれた本です。

ジュディス・バトラー『アセンブリ——行為遂行性・複数性・政治』佐藤嘉幸、清水知子訳、青土社、2018年



31)もしかしたら、アセンブリ(assembly)というのは、中学とか高校とかで、朝礼という意味でアッセンブリアワーなんていうふうに使っていたかもしれません。そもそもこの言葉は集会、人が集まるという意味ですね。同時に、議会という意味で使われます。まあでも単に人が集まる、ということでもある。

32)バトラーは、アレントの議論を踏まえながらも、公的領域にあるような言論の次元のみが重要なのではなく、むしろ占拠のような場で、様々なアイデンティティを持った人々の身体が現われる、そのことを重視するんです。必ずしも言葉を持たないかもしれない人々の、モノとしての身体が、公的な場に現れること。

33)例えば、デモなんかでシュプレヒコールをあげている場面を見かけますよね。「なんとかやめろ!オー!」みたいなやつです。最近ではSEALDsなどが、ラップとか使ってやってるけれども、やはりそれも言葉ですよね。言葉を揃えて発声する。言葉は政治的な主張を構成する上で非常に大きな要素なんです。

34)その重要性はよくわかるんですが、いきなり自分のことを言うと、みんなで一緒に、声を揃えて何かを言ったりするのが、僕はとても苦手です。おそらくそういう感覚というのは、芸大や美大に来た人たちには多いんじゃないでしょうか。たぶんみんな、好き勝手なことをしたくて美大に来ているわけでしょう(笑)。

35)話を戻すと、バトラーは、ある意味ではモノとして人間が現れることを重視しているんですね。必ずしも言葉を持ち得なくても、身体的にある場を占拠することで、そこは政治的な意味を持ち得るんだ、と。さらに言うと、ここには占拠の場に身体的に現われていない人も含まれる。

36)例えば、ネットなどは、公的領域と私的領域を曖昧にしているわけですね。自分の部屋とかにいてそれが世界に繋がるわけだから。福永信さんは今、「在宅」でこのレクチャーをツイートしているんですが(笑)、そういう「現われない」という仕方での「現われ」も可能かもしれない。

37)先に言ったように、バトラーの場合、そもそも性的マイノリティなどの問題が出発点にあって、個別の存在のまま人間が、いかに連帯できるのか、ということを考えている。バラバラな個別性を尊重した上で、マイノリティたちがどのように連帯できるのか、と。

38)その時に、身体というのは、共通して可傷性、つまり傷つき得る性質や不安定性を持つものでもあって、つまり必然的にある種の弱さや危うさを抱え込んでしまうわけです。そうした身体というものが共通に持つ、弱さや不確かさを、バラバラな個別の存在が連帯し得る、その準拠点として考えようとしているわけです。

39)単純化して言うと、一方でアレントは公的領域における言語的実践を重視し、他方でバトラーは身体的な次元の現れに注目する、と。実のところ、ここまでのアレントとバトラーの話というのは長い前振りで(笑)、このワークショップを通じて考えてみたいのは、本当はここからなんですね。

40)アレントは、人間の行為のあり方を、「活動(action)」、「仕事(work)」、「労働(labor)」の3つに分けて考えています。「労働」というのは、人間が生きていく上で必要なもの、アレントの時代では工場での流れ作業なんかが典型的ですが、これは先ほど言ったように私的領域と結びついている行為なわけです。

41)一方、「活動」というのは、公的領域に現われて、政治活動、言論活動を行うような、そうした行為です。生活の必要から切り離されて、言語によって自由に議論していくというような。アレントの考える政治とは、こうした公的領域の中での言論や実践に他ならないわけですね。

42)ではその間に位置する「仕事(work)」とは何か。workというのは、「作品」という意味でもあります。職人であるとか、工作人であるとか、モノを作る人の行為を指す言葉なんです。「仕事」とは何か、というのをここでは考えたい。

43)たとえば職人によって生み出されたモノは、市場に出回るわけですが、アレントはこの市場もある種の公的領域と言っています。モノを作った人が市場という場に現れて、モノが経済の中に流通する、と。同時に、そうした経済というのは、エコノミーという言葉がギリシャ語で「家政」を意味するオイコスという言葉と結びついているように、家のこと、つまり私的領域と強く結びついたものでもある。

44)つまり「仕事」というのは、アレントの「公的領域」、「私的領域」の区分で言えば、その両方に足を踏み入れている。なんというか、非常に中途半端なものなんです。

45)ここで仕事について、ふたつの点に注目したいと思います。アレントは、仕事には唯一、「耐久性」がある、と言います。これが1点目。もうひとつには、仕事は「世界を樹立する」と言っています。仕事というものが耐朽性を持つこと、そして世界を形作ること。

46)まず「耐朽性」についてですが、実は「活動」と「労働」には共通するところがあって、それは、どちらも耐久性がない、つまりその場限りのもの、ということなんですね。「労働」は、ベルトコンベヤーでの流れ作業や家事労働をイメージして貰えばわかりやすいんですが、それは制作者による成果物として形に残らない、すぐに消費されてしまうものとも言えるでしょう。

47)同時に、実は「活動」にも耐久性がない。純粋な政治が言語的な現れだとしたら、それが公的な場に現れ、聞かれているその瞬間だけ成立しているわけです。しかし、「仕事」は、職人や工作人によるモノの制作ですから、生み出されるモノに一定の耐久性がある。少し別の言いかたでは、仕事は唯一、終わりを持つ、とも言われます。他方、「労働」にも「活動」にも、終わりがない。

48)では、ふたつめの「世界を樹立する」というのは、どういうことでしょうか? 耐朽性の話とも関連するのですが、容易に消費されないモノに取り囲まれることで、人間が日々を生きるための安定した環境、つまり生きるための住処が作られる、というふうに言われる。

49)そもそも自然というのは、始まりも終わりもなく循環しているわけですね。その中で大きく見れば人間の生も、その運動の中で、生まれては死んで、という流動性の中にある。だけれど、そうした生命的な循環に抗うのが、モノによって形作られる「世界」なわけです。

50)人工的に作られた耐朽性のあるモノによって、生命の流動的なプロセスから切り離された、人間の住処としての空間が可能になる。そうした場を「世界」と言っている。自然の持つ生命的なプロセスから少し離脱して、モノによって人間の生きる寄る辺を作ること、これが「仕事」の重要な役割なわけです。

51)この観点を踏まえて、もう一度、台湾での占拠を見てみましょう。港千尋さんがこの太陽花学運についての『革命のつくり方』という本を出されていて、写真をいろいろ撮っているんですが、その中にある一枚の写真を見てみたいと思います。これは占拠された立法院の外の様子を撮影したものです。

撮影:港千尋



52)政府機関の周辺に張り巡らされた頑丈な鉄の柵があって、その上に段ボールを敷いてソファにしているんですね。普段、道路として公的な用途を担って使われている空間を、自分たちが生きるための、その場に存在するための場所に作り直すこと。これは人間がモノたちと共に現われるというイメージとして面白いんじゃないかなと思います。

53)さっきバトラーは、ニューヨークでの占拠運動などを通じて、アレントの言う「活動」のみならず、そこに見られる身体的な次元を重視していると言いました。例えば『アセンブリ』には、公共の場で寝ていること、それ自体がどんな演説よりも雄弁に、デモの主張するところを物語っていた、というような印象深い一節があります。

54)台湾の占拠を見てみると、こうしたバトラーの言葉の意味が良くわかると同時に、もう一つ、実はそこには「仕事」としてモノを作ることこそが重要なポイントしてあるんじゃないかと考えたくなる。このイメージの他にも、すでにお見せしたように台湾の占拠の中には様々な制作物が溢れていました。

55)モノを作り出す「仕事」から政治的なものについて考え直すこと。政治というのは基本的に、人間による実践や人間同士の連帯と考えられていた。でもむしろここで、モノとの協働や同盟関係について考えることもできるかもしれません。

56)人間とモノの間に新たな連帯可能性を見出すこと。モノとモノとの間に別様の連結を発見すること。あるいは一歩踏み込んで、それをモノたちによる連帯可能性と言ってもいいかもしれません。人間の「仕事」を通じて立ち上がる、モノたちの現われの場としての占拠。

57)では、モノと共に現れることによって何が実現しているのか。先ほど、「仕事」は世界を形成すると言いました。人間の、あるいは自然の生命的な絶え間ない流れに抵抗し、その場に留まって安定的な住処となるような、そうした時空を形成することである、と。

58)この台湾での写真は、仕事によって可能となる、人間が生きるための住処としての「世界」のあり方を示しているようにも思います。だけれど同時に、「仕事」とは、一定の永続性、耐朽性を持つものとされていた点についてはどうでしょうか。

59)ここでの「仕事」は、アレントの言う耐久性や永続性を実現するものではない、いわば「仮設的な仕事」と言えるかと思います。ある仕方で世界を形成していながら、未だ仮設的であること。おそらくアレントの言う「仕事」に接近しながらもズレてしまう、まさに私たちに残されている問題だと言えるでしょう。

60)公共的な空間の只中で、私たちが生きていくための住処としての世界を仮設的に形成する、そうした「仕事」とは何か。それは結論というより、問いかけです。かなり長くなりましたが2日目のレクチャーはこれくらいにして、残りは明日にしましょう。今日でおおよその話は出しましたので、明日は少し捕捉的な話をして終わりにします。

3日目

61)昨日まで、アレントやバトラーの議論を通じて、占拠とは何かについて考えてきました。二日目までの結論として、ひとまずそれを、モノと共に世界を形作る「仕事」として、しかもそれが仮設的な仕方で行われている点について見てきました。

62)占拠を例にあげて考えてきましたが、ここで「仕事」を意味するworkが、「作品」という意味を持っていたことを思い起こしてほしいと思います。モノによって耐久性のある世界を作るというのは、作品を作ることそのものと言えるでしょう。絵画であれ、工芸やインスタレーションであれ、なんらかの仕事を通じて一つの「世界」を形成することだと言えると思います。

63)モノを通じて世界を形成するというのは、京芸に入学したみなさんが、これから直面することだと思います。ですから、今回「占拠」という言葉を通じて考えているような、モノを使って仮の住処を形成する、ということは、みなさんがこれから取り組んでいくような作品制作と決して無縁ではないと思うんです。

64)美大のようなところに学びに来るのは、終わりなき労働に従事するためのものではないし、アレント的な意味での政治のような公的領域での活動を行うためでもなく、そういう労働にも活動に還元されない何かをするために美大に来たのだろう、と思うんです。仕事=作品には、そのためのヒントがある。

65)ここから先は補足です。皆さんは作品を作るぞ、という気持ちで大学に来ているかもしれないけれども、実は今のアートの世界では、こうした「作品」の領域が弱くなっているとすら言えると思うんですね。特に現代美術という世界では、「作品を作る」ということ自体が、実は忌避されているとすら言える。どういうことでしょうか。

66)作品を作るというのは旧来型のアーティストの特権に過ぎない、そうした作品は結局のところアートマーケットで流通し消費されることになる、というわけで早々と否定され、より現実的な問題へと直接的に働きかける「活動」の方へと向かう、そういう側面が強くなっているんだと思います。

67)しばしば話題になるリレーショナルアートや地域アートと呼ばれるものは、今言ったような観点から出てきていると思えるんですね。そこでは、アーティストがものづくりの特権に居直っているのはよろしくない、というわけで、アーティストと観客の区別をなくしてフラットな場を作りましょうとか、関係性を作ることがしばしば目的化される。

68)それは、「アートはどういう効果を持つのか」ということが重視されるということでもある。人が集まって商店街が活性化するとか。地域にリサーチを通じて何がしかの貢献をするとか。それってきわめて「活動」的なんですね。アレントの言う意味での政治的実践なわけです。

69)地域アートの問題というのは、こうしてしばしば「活動」的でありながら、同時に、ものすごく「労働」しなくちゃいけない、ということなんですね。定賃金でその場限りのイベントを盛り上げなければならないという最悪の奴隷労働ですよ(笑)。そこでは「仕事=作品」こそが抜けている。

70)しかもここの「労働」というのは、芸術祭のようにいろんな地域に出かけて行って、その都度、期間限定でアーティストとなることなわけですね。これは現代の非正規労働、あるいは派遣労働の姿そのものです。様々な場所で、その都度フレキシブルな主体であることを求められる、そうした現代的な労働の姿と正確に重なっているわけです。

71)そうした「活動-労働」としてのアートは、初めはそれこそ耐朽性ある「作品」に従事する、アーティストの特権性への批判から始まったのかもしれないのだけれども、今や、資本主義が求める労働形態を単に追認してるだけにもなりかねないんですよね。きわめて「今ここ」という時代に乗っている。

72)最初の話に戻るんですが、こうした「今ここ」という時代の流動性を相対化するためにも、タテカンの話で言ったモノの問題や時代錯誤性について考えることができるのかもしれない。芸術において制作や作品とは何か、これはあまりにも漠然としているように見えかねない問題ですが、今回のような議論を通じて改めて考えることもできると思います。

73)このツイートが発信される頃には、課題はほとんど終わってると思いますが(笑)、今回ここで行なったことは、皆さんがこの大学でやっていく制作活動と、何らかの仕方で関わっていくだろう、そうなってくれるとありがたいなと思っています。長々と連投失礼しました。

(収録:2018年4月9日 HAPSスタジオにて)