「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」

 


福永信

あいちトリエンナーレ2019(津田大介芸術監督)は参加アーティストの男女比をほとんど均等にするというユニークなアイデアを提案し、実現した。単純なアイデアと批判もあっただろうが、一度見てみたいと私は楽しみにしていた。なぜならそんな状態を一度も日本の巨大な展覧会は実現したことがないのであり、誰もやってないアイデアの実現というのはそれだけでとても好きだからだ。

しかし展示に対する抗議の声により、その均衡がわずか3日間で崩れ始めたのは周知のとおりだ。多数寄せられたという抗議の男女比はわからないし、会期から1週間余りで770件もの脅迫メールが届くという異常事態だが(単なる抗議、クレームではなく「脅迫」というのに驚かされる。普通、世間ではアーティストという存在の方がイカれていると思われることが多いはずだが、これでは全く逆転して世間の方が完全にイカれているではないか、しかも最悪のイカれかたで)、開幕翌日の8月2日午前6時半頃にひとりの熟年男性によってコンビニから送られたという脅迫ファックスが報道されたことが引き金になっていることはまず間違いないだろう。非常に不愉快だ。政治家を名乗る、本来なら開会式にしか出る幕のないような余計な男達の名前も複数ちらつき、参加作家男女比均衡の崩壊に加担した。集まった報道陣を前にしての、観客の心を踏みにじる発言には呆れた。「表現の不自由展・その後」自体は、展覧会内展覧会であるため男女比均等との関係は薄い。だが、中止決定の後、海外からの参加作家達が展示を取りやめ始め、その数はウェブサイトで確認しても減ることはなく今も増えている。私の好きだったタニア・ブルゲラのインスタレーション「43126」も、中止になった(8月20日現在)。国際的な社会問題に無関心な我々観客を、会場に充満したメンソールの刺激によって強制的に落涙させようという、ギャグでもありシリアスでもある強烈なアイデアによる複雑な(とはいえ会場自体は真っ白な何もない空間という)作品だった。入場時に観客の手にスタンプされる「難民」の合計を示した数字が翌日まで残る。展覧会を見た後、家に帰り、眠りを挟んで、夢ではない現実と向き合うことになるわけだ。とんちの効いた作品であり残念である。タニア・ブルゲアを含め中止を決断した作家のほとんどは「女性作家」であり、男女比の均衡は完全に崩れてしまった。

もっとも展示の中止自体、ひとつの表現行為である。強制的にシャットダウンされた「表現の不自由展・その後」以外は、展示の中止は作家ら自身の決断、いわばストライキであり、「展示を中止しているという展示」になっている。例えば早々に事態に反応し会場を閉鎖したイム・ミヌクの「ニュースの終焉」の展示室の閉められた扉には中止を表明する作家のステートメント、事務局の説明文が貼り出された。観客はそれを熱心に読んだり、写真に撮ったりしていた。皮肉なことに、展示中止をすることでこれらの「展示」は観客の注目を集めたのである。「観客」にはなり損ねたが、ステートメントを読む「読者」が生まれ、現場を活気付けていたわけだ。イム・ミヌクは「検閲」という言葉で強い非難を表明していたが、興味深いのは、その隣に貼られた本展事務局の説明文では検閲ではない旨、強調していることだった。この2種の文章をどう読み比べるかは観客にゆだねられている。

展示ストライキという手段ではなく、批判を込めて展示を再構成する作家達も出てきた。モニカ・メイヤー「The Clothesline」は当初神社の絵馬のように観客から集めたアンケートを展示していたが、現在それらは回収され白紙のアンケート用紙が切り裂かれ床にばらまかれているという(私は神社の絵馬状態のしか見ていない)。事態を受けて作者が演出を施したのであるが、私は「この手があったか」と感銘を受けた者である。また、日本の作家らによって、新たに自主スペースを立ち上げる動きもあるようだ。男女比均衡を崩そう、作品を減らそうという「脅迫」に対し、ストライキや展示再構成の作家らが「待った」をかけ、ステートメントを公表し観客を「読者」に変えることで、受け手そのものの数を増やす。また、自主スペースを立ち上げることで、作品そのもの、表現する場所や言葉の増産に乗り出す。むろん「脅迫」は絶対に許せないし、恫喝する人間を私は心底軽蔑する者だが、展覧会自体が、このように即興的に生まれた新しいアイデアによってハッスルし始めている姿を見るのは、私は好きである。減るのではない、増やすことへの積極的なアプローチは、本当に素晴らしいと私は思う。

作家らのそんな元気いっぱいな態度表明に比べ、心配なのは津田大介芸術監督の元気がないことである。私の気のせいならいいのだが、最近の発言を見ても発想が貧困になっているのではないかと懸念する。芸術監督として、脅迫事件から様々な対応に追われていて大変だと思うが、かなり早い段階で自分の至らなさを謝罪したのは、大人の対応として仕方ないのかもしれないと思うけれども、彼の読者であり、また本展の観客でもある私は、落ち着いた謝罪をする前に彼には怒ってほしかった。参加作家男女数均衡という最大のアイデアが崩されていく事態にいらだってほしかった。私の知る限り、作家の男女比均衡崩壊を招いた脅迫犯や政治家に対して、芸術監督として怒りをあらわにするところを見ていない。当初あんなに入れ込んだ、自負してもいた参加作家男女均衡のアイデアなんだから、子供じみていていいから(作家らのように)元気いっぱい、怒り狂ってほしかったなあと思う次第である。芸術はいつの時代も男女という性別にこだわり、また時に性別を果敢に越えようとすらしてきた。「男女」の壁の、越えられぬジレンマは、小説などの文芸でも繰り返し書かれてきた。男女比均衡なんてそんなことして何になるの、とか、作品が良ければ性別なんか関係ないというくそ真面目な意見もあるだろうし、男女比均衡なんて発想が貧しいという批判もあるだろうが、たとえ貧しくはあっても、それは芸術の根幹に横たわっている具体的にある境界であり、伝統的な主題でもあり、おりこうさんぶって無視することだけはしないぞという津田大介のその態度に私は率直に感動していたのである。あいちトリエンナーレ2019の良さは、このアイデアそのものだったとすら思う。たとえ3日間でも実現したのはえらいと思う。だからもっとこのアイデアが踏みにじられたことを強調してほしかった。

「表現の不自由展・その後」は中止によって注目を浴びた。CIR(調査報道センター)の作品「ボックス:独房のティーンエイジャーたち」の展示はすぐ隣で、しかしこちらは抗議としてだが、やはり展示を中止していた。その「中止」を示す立て札(?)や展示中止になった会場の暗がりは撮影スポットとなり、皮肉なことだが、なかなか賑わっていた。きっと今日もそうだろう。続く廊下を先に進んだ右手には、さっきも言ったが早々に抗議の中止を決断した作家のひとりであるイム・ミヌクの展示室があり、ここも人だかりになっていて「話題の場所」となっている。で、今からあいちトリエンナーレに行く人に忠告なのだが、ここらの「話題の場所」を見物するのもいいが、この廊下にはもうひとり、重要な作家、作品が、展示されており、その作品名は「Gesture of Rally#1805」である。展示場所はこんな廊下だし、まあふつうなら通りすぎる。私もいったん、通りすぎかけた。しかし立ち止まった。けっきょく引き返して作品を最初から鑑賞し直した。廊下を行ったり、きたり、した。内容はしょぼい。雑誌に掲載されていたオフィスの写真の片すみ、観葉植物の上に、小さく何か変なものが写り込んでいる。

作品の一部。作家はこの水色の物体の正体を探る。


それは一体何なのか。何でもないもの、たいしたものではないもの、無意味なものにはちがいない。作品は、その何でもないはずの「何」を、きまじめに追跡し、分析した一部始終であり、季節がら夏休みの自由研究みたいだが作者の真剣な手つきが、観客の苦笑を誘う。そこがたのもしい。本作は到底、脅迫や恫喝の対象にはなりえない。あまりに無意味だからだ。しかも分析の結論は宙吊りされるのであり(作品の終盤、文字どおり天井から吊るされたスピーカーから音声が出ている)、ポストモダンの典型的な作品であり新しさも微塵もないと見なす玄人筋もいるだろう。しかし私はそう思わない。本展のこの場所に展示されている限り、この作品は異様な力を発揮している。

「Gesture of Rally#1805」展示場所の廊下。
展示中止作品のステートメントを熱心に読む姿も。


本作は、さっきも少し言ったが、普通なら気にしないはずの平凡そうな写真の片すみに見つけた、たわいもない「水色の物体」を、とことん特定しようとする作品である。写真の該当箇所を拡大し、その色を正確に特定しようとし、スケッチし、立体像を作ることで形を把握しというように、徐々にその「水色の物体」を追い込んでいく。たあいのないはずであるにもかかわらず、執拗にこだわり続けることで、何か意味ありげなものに変貌していく。観客は訳も分からぬまま、感情移入の対象としてしまうわけだ。写真の一部分に拘泥し続け、水色の物体しか見ないまま、観客の中で異様に膨れ上がった知識は妄想と区別がつかなくなって本作「Gesture of Rally#1805」は唐突に終わる。作品から突き放された観客は、行き場を失い、「何これ」と苦笑を浮かべて虚しくその場を去るしかないだろう。「そこだけしか見なかった」結果、どこにも辿り着けなかったというわけだ。

気にしないでいいものを気にして、見たいものだけに注目し、そこだけにこだわり続けて、執拗に対象を追い込むその一連の流れは、脅迫メールやファックス、また抗議の電話をする者らの思考とまったく同型だろう。つまり、本作は恫喝、脅迫している者らの脳の中を、一部拡大し、探求した作品になっていると私は思う。同じ「話題の場所」にひっそりと展示されている本作によって、極めてシリアスな体験を観客はすることになったわけである。澤田華という未知の作家の放つこれらのユーモアは、作者自身やキュレーターの予想を超えた作品の効果かもしれないが、「Gesture of Rally#1805」がこの廊下にあることはとても重要である。ちょっとそろそろトイレに行きたいので以下、私がおすすめの作品を駆け足で挙げていくことにするが田中功起「抽象・家族」では、映像ばかりを見たがらないよう我々は注意したい。もちろんいつもながら映像がメインのように見えるし題名が指し示すのはその映像の内容である。会場に散らばっているのは、映像の中の痕跡であるのは間違いないが、私は会場構成、インスタレーションにこそ、この作家の視線の独自さがあると思う者である。前段として映像は必要ではあるのだが、それを見るだけで力尽きてしまっては、観客として彼の目線に追いついてないことになるはずだ。例えば石鹸は使うものであり、映像は見るものであるが、その後の状態も必ずある。石鹸は「最後まで」使われることがなく、小さくなった状態で見放され次の新しいのがやってくることがあり(泡立ちがなくなったり、薄くて折れてしまったりするから)、新旧の石鹸が積みかさなったり、くっついたり、いびつな地層のかたまりのようになる。家の洗面台の片すみでそんなカオスを見るのは日常のことであるが、時間の衝突を可視化したようなものとしても捉えることが可能だ。単に横着なだけでもあるわけだが、そんな状態(深淵な考察を誘うようでもあり、日常的な何でもない光景でもある)に視線を注ぎ続けることが、田中作品の魅力のひとつだろう。つまり、無駄でもいいから一か八かこの現実世界で色々試してみる、実践してみることとして、この作家の空間構成はあるのだろうと私は思うのである。観客の多くは本作の映像を「最後まで」見なかったかもしれない中途半端な「視聴者」である可能性が高い(私もそのひとり。映像は3本あり全体を見たらそこそこ長く、トリエンナーレは膨大な数の作家が参加している)。もちろん「その場で全部見たい」「その場で全部見たと言いたい」「自慢したい」という思いはあるが、志半ばで田中作品の映像の「視聴者」の役を降板し、椅子から立ち上がった我々は、映像の痕跡やヒントがちりばめられたインスタレーション内を、元「視聴者」としてうろつくことになる。そう、この空間構成、インスタレーションは「全部見た」「見なかった」を問わず、「視聴者」の役目を終えた後の人間達がうろつく場所なのだ。そんな場所を作って何になるのか、わからないが、映像の「視聴者」のポジションのまま、観客を放り出すことだけはこの作者はしたくなかったのだろうと思う。なぜなら、現実と映像の緩衝地帯をしばらく(ゾンビのように)うろつくことで、現実のみ、あるいは映像のみでは感じられない、新たな感じ方、考え方が生まれる可能性があるかもしれないから。見た後の時間で思い浮かぶアイデアが、あるかもしれないからだ。と、ここまで書いたところで田中功起もまた展示の再構成に踏み切るというニュースを知った。より状況に対応した空間を志向するようであり、展示空間を「使い続ける」選択をしたようだ。小さくなって泡立ちが悪くなっても最後まで石鹸を使い尽くそうという決意かもしれない。そのガッツを頼もしく思う。

あいちトリエンナーレがいいのは、こんな時期に、こんな場所で、つまり、くそ暑い中、汗を流しながら観客がマップ片手に外へ繰り出すところだ。美術館の中だけで終わらないところだ。観客は時間をかけて歩き、汗を流しながら、点在する展示場所を巡り、少しずつ目の肥えた観客に、育っていくだろう(ヤワな観客じゃなくなるだろう)。四間道・円頓寺商店街は魅力的な場所だった。ビルの2階で見たキュンチョメの作品「声枯れるまで」はまさに男女の性別、また自分の名前そのものを越えること、またその限界を肌身で感じている当事者達にインタビューする映像、音声作品だが、悩みを持ちながらもそれを明るくとらえ、「本番」の人生を遠慮なく生きている姿には、小さな感動があった。新たな書き手がいるかもしれない。文芸編集者必見だ。弓指寛治の「輝けるこども」は8年前、登校中の6名の子供達に起こったクレーン車による悲惨な事故に取材した作品群で絵の力、その絵の並ぶ「順番」と共に、文章を追う我々の目線は、特に繊細に、注意深くなっているはずだ。観客の目からは涙もこぼれるかもしれないが、それが作者の目的ではないだろう(むろん本作で悲しさを感じることは大事だ)。作者によって導かれた観客の視線は、徐々に敏感になり、研ぎ澄まされるが、それ自体が、生きていることの実感そのものである。観客は、その素朴な事実に気づく(我々はふだんそんな素朴なことを忘れている)。弓指寛治は8年前のことを忘れず、現在の観客に伝える。そして未来へと繋ぐ。作者が会期も半ばになろうとする9月から本作に関連した壁画の制作を同じ円頓寺商店街で開始するのは、「未来」を意識しているからだろう。しかも、それは「1カ月かけて制作する予定」だという(つまり、会期終わり近くまでやるわけだ)。開幕して完成、見て終わり、感動しておしまいじゃなく、作者も生きており、観客も生きているとつくづく思う。生きている者らが何をするのか、それが今回のトリエンナーレでの作者の活動を貫いているのだと思う。葛宇路(グゥ・ユルー)の作品はそのままズバリ「葛宇路」であり、自分の名前を公道の名称に勝手に付けるという破天荒なドキュメントである。こんなことが実際にあったのかと誰もが苦笑すると思う。いつの間にか「葛宇路」が通りの名称として認められてしまっているとか、道路の表示が撤去されてもネット内ではなかなか修正されずに残るとか、公共と個人の狂想曲とでもいうべきばかばかしさを見失わないところが素晴らしい。本展の現在の状況の風刺にも、図らずもなっている。葛宇路という名前が連呼され、視覚的にも反復する本作は選挙の風刺でもあり、名前、そして言葉を直接取り上げた作品であり、やはり文芸編集者必見である。

ところで早々に脅迫ファックスを執筆し送付した男は逮捕されることで名前が明らかになった。また、政治家を名乗って本展の作家男女比均衡をぶち壊した男達は日々その名前を売ることに熱心だが、彼らは一度、じっくりと(汗を流しながら)あいちトリエンナーレを鑑賞し、自らの名前から離れ、私達と同じ無名の観客になって出直せと言いたい。私は未見の豊田市方面の展示を見に9月に再び行くつもりだから、その時一緒に行ってもいい。

 
ふくなが・しん
1972年、東京生まれ。小説集に『星座から見た地球』(2010)、『一一一一一』(2011)、『実在の娘達』(2018)など。編著として、子供のための現代美術のアンソロジー『こんにちは美術』(2012)、短編小説とビジュアル表現のアンソロジー『小説の家』(2016)がある。最新作は執筆・構成を担当した図録『絵本原画ニャー! 猫が歩く絵本の世界』(2019)。

 


〈展覧会情報〉
「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」
 2019年8月1日[木]-10月14日[日] 名古屋市と豊田市の4つのエリアにて開催

(2019年8月25日公開)