「岡崎和郎/大西伸明 Born Twice」展レビュー

型と極薄(「岡崎和郎/大西伸明 Born Twice」)

Kazuo Okazaki and Nobuyuki Onishi: Born Twice


平芳幸浩

「オブジェによる表現の深さと広がり」、「独特なオブジェの世界」、「再生の力」。京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで開かれている、岡崎和郎と大西伸明による二人展「Born Twice」の説明文には、このような言葉が並ぶ。確かに岡崎和郎はオブジェ作家と認識されているし、彼の「御物補遺」という概念はオブジェを巡る思想と結びついている。大西の作品も素材のほとんどは樹脂やアクリルであるが、その形は鉛筆でありドラム缶でありコップである点でオブジェのような姿をしている。しかし、この「オブジェ」という便利だが意味が判然としない言葉、目の前にある「物体」を「芸術」とみなす場合に漠然と呼び出されてくる言葉が、どうもこの二人の作品にはしっくりこないのである。それは、オブジェという言葉が持っている「物体/客体」の実体性ゆえのことである。岡崎の作品においても大西の作品においても、私たちが注視しなければならないのは、実体としてのオブジェそのものではなく、そのオブジェの物理的外延が存在することによって生じるこの世界のうちの間(あわい)、ほとんど知覚できないような微かで静かな変化、だがオブジェを媒介とすることで紛れもなくそこにある裂開、ではなかろうか。

「岡崎和郎/大西伸明 Born Twice」会場風景


岡崎和郎《HISASHI》


大西伸明《Enpitsu》



それゆえに、岡崎と大西に共通しているところがあるとすれば、それは実体としてのオブジェの佇まいなどといったものではなく、両者の作品の根底に型(mold=鋳型)があるということである。あくまでオブジェの観点で言うならば、二人が並び立っているのは、オブジェの外観(appearance)の地平ではなく、その出現(apparition)の地平だとでも言えばいいか。岡崎は、中空の物体の内部に石膏などを注入し、その熱で外側の素材を破裂/溶融させ、中空を塊として取り出す。版画を出自とする大西は、版による転写を立体に展開させ、物体を型取りしてその雌型から物体の「形」を引き摺り出してくる。どちらも「結果として」現れるオブジェは、もとの物体とそっくりである。だがそれは、そっくりであっても、いやそっくりであるがゆえに元の物体とは違う。この世界にあるオブジェ(客体/物体)が型となることで、虚と実、内と外、裏と表、凹と凸は入れ替わり、この世界はクルクルと反転し続ける。この反転によって生じるのは、世界の転倒ではなく、もとの物体単体では感知しえなかったような世界の可能性であろう。それはかつてデュシャンがアンフラマンス(inframince)と呼んだものでもある。

左:大西伸明《Koppu》 | 右:岡崎和郎《グラス》



アンフラマンスはデュシャンの造語で、日本語では「極薄」と訳されてきたが、極めて薄いというのではなく、薄い(mince)をずっと下方に(infra)超えているという意味を指す。つまり、人が「薄い」とさえ知覚/認識できないような微細な差異やズレのようなものを指す。人が立ち去った後の椅子のぬくもりやズボンの両脚のこすれで生じる音、タバコの煙とそれを吐く口の二つの匂いといったような、残存や遅延といった効果としてしか垣間見ることができないものであり、それ自体として実体性を持つようなものではない。

このアンフラマンス(極薄)という様態は、型を通すことで生じる移行と密接に結びついている。たとえばデュシャンは次のように記している。

「大量生産による[同じ鋳型から出た]二つの物体の差(寸法上の)は、最大限(?)の正確さが得られたとき、極薄である。」


「同じ鋳型(?)で型打ちされた二つの形は、たがいに極薄の分離値だけ異なる。/すべての“同一物”は、どれほど同一であっても、(そして同一であればあるほど)、この極薄の分離的差異に近づく。」


同じ型から取られたものは、型を共有するから「同じ」なのではなく、型を共有するがゆえに「極薄」なのである。岡崎や大西の作品において反転の果てに生じるのはこの「極薄」なのだ。このアンフラマンスという現象/効果は、個別の実体の集積という不連続で把握される世界に潜在する「可能なもの」の出現へとつながるであろう。「可能なものは成ることを内包する−あるものから他のものへの移行は極薄において起こる」のである。岡崎と大西は、デュシャンがアンフラマンスという概念で探ろうとしたように、記号で分節化されたこの象徴世界では把捉できない可能なものが潜む現実へと手を伸ばそうとしているのだ。

大西伸明《Venus de Miro》


岡崎和郎《水の器》



だからと言って岡崎や大西がデュシャンの影響を受けていると言いたいわけではない。岡崎は戦後日本における数少ない真正のデュシャンピアンであると筆者は信じているが、岡崎が「御物補遺」の思想に到達するのは、デュシャンのアンフラマンスのノートが公表される10年以上前のことであるし、大西もまたデュシャンにかぶれて今の方法論に至ったわけではない。そうではなくて、デュシャンもまた、型と極薄において、岡崎や大西と同じ地平に立っているということだ。デュシャンがアンフラマンスと呼んだものを、大西は「真空」と呼び、岡崎は「補遺」と呼んだのである。

「御物補遺」において岡崎はオブジェの空隙を別のオブジェで補っているのではない。オブジェと同一のオブジェを提示することで、オブジェとオブジェの間の不連続を可能なもののアンフラマンス的分離によって補い続けているのである。

左:大西伸明《Denkyu》 | 右:岡崎和郎《電球/機》



さて、この展覧会はもう一つのアンフラマンス的分離で包まれている。それは40歳以上の年齢差を持つ作家二人の「相似性の実際的近似」である。両者の作品をよく知っている者でさえも(よく知っていればいるほど)どちらの作品か判然としない場面に直面する、そんな展覧会なのだ。デュシャンは「二人の人間は同一性の例にならず、反対に極薄の評価しうる差異から遠ざかる」と記したが、この二人は稀有な例外かもしれない。

 
ひらよし・ゆきひろ
京都工芸繊維大学美術工芸資料館准教授

(2015年12月03日公開)


画像提供:京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA



『岡崎和郎/大西伸明 Born Twice』
京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA 2015年11月21日〜12月6日(日)