伊藤存と村松美賀子の共著『標本の本 ―京都大学総合博物館の収蔵室から』(青幻舎)


福永信

伊藤存の幻の傑作『ペーパーエピソード』は検索してもひっかからない。大きなヘビがシカをのみこんでいる、その白い骨格を、白いぺらぺらの紙を器用に細かく切りぬいて作ってある。作者の祖父が、兵士として中国にわたっていたとき、実際に森で見たエピソードがもとになっているという。次々と戦友が死んでいくなか、大きな獲物をのみこみ、おそらくそのために死んでしまった(共倒れになった)ヘビを目の当たりにした若い祖父は、それをみずからの身に起こるかもしれない状況に重ねただろう。祖父が若い兵士として遭遇したその光景が、事実かどうかほんとはわからない。もしかしたら極限状態で見た幻だったのかも。しかし、それはながい時を経て、話となって祖父の口から孫の耳へと届き、頭蓋骨のなかの脳のなかに入り込み、見てないはずの光景を浮かび上がらせ、手の関節を小刻みに動かし、作品となって地上に実体化し、現実の空気にゆらゆらとゆれている(空調のわずかな流れでもゆれてしまうほどだ)。

伊藤存〈ペーパー エピソード/Paper Episode〉2005年 紙(上1点は全景/下3点は部分)撮影:市川靖史



子供の頃、動物や植物、昆虫、宇宙の図鑑を見ることは、たんに「見る」ではすまなかった。図鑑を開くことはそのまま、扉を開くことと同じで、その向こう側に入っていけた。図鑑を見ることは、その世界に入り込む、直接的な体験だった。それが、大人になるともう、扉は開かなくなる。鍵がかかってしまう。図鑑を開いてもそこにあるのはたんなる写真、どこかよそよそしい。図鑑の世界で体験したことは、二次的なものとして、本当の体験とは、はっきり区別されてしまう。

『標本の本 ―京都大学総合博物館の収蔵室から』



この本を企画するにあたって、編集者の村松美賀子が伊藤存を誘ったのは、伊藤存が、地球上の生き物に対して、その生き物がすでに遠い過去に死んでしまっていても、たとえ他人の記憶の底に眠っているような曖昧な生き物だったとしても、分けへだてなく、目の前で今、出会っているかのように、イキイキとした気配を感じとることができる男だからだろう(『ペーパーエピソード』がそうだったように)。だからこの本を見ていると、生きて呼吸をしている生き物はまったくいないはずなのに、まるでイキイキした生のあふれる世界を探検している気持ちになる。ムササビやキツネは歓迎のポーズで出迎え、ヘビは瓶詰になって行列を作り、ネコは神経だけの存在となって気配を消し、シカは毛皮になって折り畳まれて行儀よく眠りにつく(かと思えば少し先のページでバラバラの骨だけになって横たわっている)。シカをのみこんだヘビの骨もきっとどこかにいるのでは、そう思われるほど、無数の標本が、静かにぼくらを待っていてくれる。村松美賀子の抑制され、選び抜かれた言葉が、ぼくら読者に、文字に気をとられることなく写真をもっと見るようにと、やさしくうながす。たしかに、この本の写真は、どれもが、じかにさわれるし、におうし、遠慮なくどこまでも近づくことができるような、直接的な体験をしたかのような気持ちにさせる。読者は「京大博物館の地下の収蔵室って、非公開なんだけど、ぼく入ったことあるよ」と嘘をついてもバレないかもしれない。子供のときに図鑑を見てたのと同じ力で、その扉を開け、向こう側、本の世界に入っていくことができる。

本のいちばん後ろ、「フィールドにて」と題された終章で、伊藤存は、博物館の地下から這い上がり、アカネズミの研究者と共に、河川敷に駆け出す。標本を見るだけではおさまらず、標本化される過程を直視する、実力行使に出たのである。しかしそこは、動物なんか一匹も見えない、フサフサと草の生える河川敷。ハニーアーモンドをエサにワナをしかけるも、アカネズミよりも積極的にナメクジが捕獲される。厳しい現実がここにある。だが研究者は、生い茂る草のあいだに残る、アカネズミの通るトンネルのような小さな道を感じている。この河川敷には、じつにたくさんの生き物達が生息していることに、ふと、伊藤存は気付く。

漫然と眺めていた河川敷はもはや、穏やかなフサフサ地帯ではない。ハニーアーモンドに対して、時にアカネズミよりも迅速な行動をとるナメクジの隠された能力。アカネズミトンネルの存在は、イタチなどの捕食者の存在を物語る。そう考えると、ここはそうぞうしい場所だ。植物の種がズボンの裾にくっ付いていた。植物ももはや黙ってはいない。(156ページ)


様々な生き物達が、この河川敷のどこかで常に動いているが、それを人間はほとんど見ることができない(見ようとしない)。伊藤存は、絵のスケッチだけでなく、言葉によって河川敷での体験を描いていく。文章として「自然」が捕獲され、保存される。文字のなかで、イキイキとした生き物達の存在が感じられる。文章ももはや黙ってはいない。

 

『標本の本 ―京都大学総合博物館の収蔵室から』(青幻舎 2013年3月)
企画・構成・文 村松美賀子
構成・絵と文 伊藤存
アートディレクション:原田祐馬
協力:京都大学総合博物館

 

ふくなが・しん
1972年生まれ。著書に『アクロバット前夜』(2001年/新装版『アクロバット前夜90°』2009年)、『コップとコッペパンとペン』(2007年)、『星座から見た地球』(2010年)、『一一一一一』(2011年)。村瀬恭子との共著に『あっぷあっぷ』(2004年)。編著として『こんにちは美術』全3巻(2012年)。

 

(2013年7月3日公開)