Review

集団と個、多声と単声

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018


“Kanagawa Shizue”, Photo by Shingo Kanagawa
(KYOTO EXPERIMENT 2018のメインビジュアルになった写真家・金川晋吾の写真作品より)


 
島貫泰介

今年の「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018(以下、KEX)」が女性をテーマとすると発表し、女性アーティストあるいは女性を主要なメンバーとする集団のみで構成したプログラムを公表した後、数人の知人からそのことへの否定的な意見を聞いた。あえて「男性」を排除して「女性」に限定すること自体が後進的ではないか、男性がいたとしても(いるからこそ)女性をテーマにすることも可能なのではないか、というのが主な主張だ。

たしかにそのとおりなのだが、今回のKEXは当初から女性特集であることを全面に押し出そうとしたのではなかった。例えば前回のKEXでは、2018年を予告する企画としてロベルタ・リマ、田中奈緒子ら今回の参加作家をはじめ、登壇者が全員女性というシンポジウムがあったのだが、そのタイトルは直接的にフェミニズムやジェンダーイシューを想起させるものではなかったと記憶している。おそらく広報的な判断で(#Me Too運動が世界的に注目され、日本でもハラスメントにかかわる事例・事件が頻出した2018年と、今回のKEXを照応させる意図を持って)「女性特集」的なフォーカスの仕方が、後から選択されたというのが実情だったのではないかと思う。

そのような推測に基づいて今年のプログラムを振り返ると、KEXが取り扱おうとしていたもう一つのテーマが浮かび上がってくる。おそらくそれは「集団性」あるいは「コミュニティ」についてだ。

 

ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』2018年 ロームシアター京都(撮影:松見拓也)


第1週目の目玉作品であるジゼル・ヴィエンヌの『CROWD』は、集団性と、それを構成する最小単位としての個の関係についての作品だ。ある野外レイヴパーティーの一夜をスローモーションで再構築するというアイデアは、熱狂と情動が支配するパーティーの時間を微分し、群衆のなかに埋没してしまいがちな個の存在を取り戻そうとするものだ。作品自体はここから大きく飛躍することなく、集団と個を巡る図解の洗練されたプレゼンテーションで終わってしまうのが物足りないが、ともあれここで示された集団性に関する分析は、そのほかの作品について思考するための尺度として有効だろう。

セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』2018年 ロームシアター京都(撮影:松見拓也)


ポワント(爪先立ち)を保ったまま、クラブカルチャーにまつわるダンスを延々と踊る『DUB LOVE』は、ブエノスアイレス出身のセシリア・ベンゴレアと、パリで舞踊学を学んだフランソワ・シェニョーの共同作品で、それぞれの知性と身体性を持ち寄ったキメラ的な野蛮さが痛快だ。また、ロベルタ・リマがcontact Gonzo塚原悠也と臨んだ『水の象(かたち)』の、宙づりになって水を浴びせかけられる、頭上に吊るした大量のドライアイスの冷気を真下で十数分間受け続けるといったペインフルなパフォーマンスでは、一歩間違えれば大怪我につながる危険を、2人のアーティストが有する系統の異なる技術と、互いへの厚い信頼によって退けていくプロセスが感動的ですらあった。

ロベルタ・リマ『水の象(かたち)』2018年 京都芸術センター(撮影:守屋友樹)


多くの場合、複数の、あるいは異分野のアーティストらが協働するプロジェクトはすでに予定調和的であり、そうやって生じた結果が仮に芳しくなかったとしても、我々は「その出会いにこそ意味があったのだ」という、あらゆるトラブルを先回りして肯定する妥協にすぐに落着してしまう。だが、この2つのプロジェクトが示唆するのは、他人同士が同じ時間と空間を共有していくうえでの、きわめて具体的な生存のための技法である。

延々と続くポワントの苦痛をコレオグラファーとダンサーが分かち合う。リマに対して容赦なく水を浴びせかける塚原が、ドライアイスで満たされた金たらいに自ら身を投じる。例えばそのような受苦の等価交換もまた、テンポラリーなコミュニティの結束を補う術=イニシエーションだ。これは、観客参加型の形式を採用した、手塚夏子、ヴェヌーリ・ペレラ、ソ・ヨンランが結成するFloating Bottle Project (通訳として樅山智子も参加)の『Dive into the point 点にダイブする』にも通じるだろう。ただしこちらのイニシエーションは、集団性が持つ暴力性と、それを嫌悪しつつも気づけば身を投じてしまう個の帰属願望の暴露装置として機能するのだが。

手塚夏子/Floating Bottle, Floating Bottle Project vol.2『Dive into the point 点にダイブする』
2018年 ロームシアター京都(撮影:守屋友樹)


 

このような「集団性」と「コミュニティ」に関する問いは、今回の参加作品の多くに共通するが、特に筆者が印象に残った2つを挙げたい。横浜でも公演のあったウースターグループ『タウンホール事件』と、She She Pop『フィフティ・グレード・オブ・シェイム』だ。共にユニークなメソッドとアイデアが光る傑出した作品だが、それ以上に感銘を受けたのは、上演において垣間見られる両コミュニティの風通しのよさである。以下は、KEXが毎年発行しているオフィシャルブックレットからの引用。

ウースターグループは、60年代的な場を共有する集団創造という理念と、70年代以降的な個人の発想を重視したパフォーマンスという、本来相容れないとも思える芸術的特質を保持したまま、長期にわたり活動を継続していくことになる。(内野儀「パフォーミング・ガレージとその時代—ウースターグループの起源について」より)

ヒエラルキーのない関係性で実験的な創作に臨むドイツのパフォーマンス集団、She She Pop[…](同ブックレット、作品解説より)


アメリカとドイツそれぞれの社会・時代状況を反映するかたちでスタートした2つのコミュニティは、演出家、俳優、技術スタッフのあいだに上下の関係を持ち込まず、オープンな議論と実践を通して作品をつくり出すのだという。その成果は、「緩さ」として上演に現れる。

ウースターグループ『タウンホール事件』クリス・ヘジダスとD・A・ペネベイカーによる映画『タウン・ブラッディ・ホール』に基づく/2018年 京都芸術劇場 春秋座(撮影:井上嘉和)


She She Pop『フィフティ・グレード・オブ・シェイム』
2018年 京都府立府民ホール “アルティ”(撮影:井上嘉和)


例えば『フィフティ・グレード・オブ・シェイム』では、思わぬ演技の綻びをもファニーなドラマツルギーに回収してしまう巧みな設計が成されているが、それによってパフォーマーが得る自由は、どんな作品にもつきまとうミッション遂行の息苦しさを退ける。そして、開かれた庭を散歩するかのような気負いのない各々の歩みは、作品に多声的な印象をもたらすのだ。

「多声性」は、今回のKEXの海外招聘作品の多くに共通する。『タウンホール事件』が扱う70年代のフェミニズム運動の録画・録音された声も、ロラ・アリアス『MINEFIELD—記憶の地雷原』が響かせる反戦の歌声も、そのテーマの重さ・大きさゆえに個々の声を包摂し、霧消させてしまう危うさを持つ。だが、その全体を構成する個々の自由なあり様は、ハーモニーの完全性を揺るがせる。

『MINEFIELD』にイギリス陣営の一人として登場するグルカ人男性は、残りの5人が「英語」で反戦を歌った後、おそらくグルカ人以外は理解できない言葉と文字で、自らの心情を語る(字幕も表示されないので、観客も理解できない)。1982年に勃発したフォークランド紛争/マルビナス戦争の記憶に囚われながら、しかし戦争を終わったものとして語ることのできる5人とは異なり、世界を転々としながら新たな時代の戦争経済に関わる人生を送ってきた男性。英語でもスペイン語でもない言語を母語とする彼の声を置き去りにすることなく、もちろん包摂することなく最後に届けようとした同作の多声性は忘れがたい。

ロラ・アリアス『MINEFIELD―記憶の地雷原』2018年 京都芸術劇場 春秋座(撮影:松見拓也)


 

では、日本人アーティストたちの作品が放った声はどのようなものだったろうか?

各作品が扱う主題の射程は個々に異なるが、それらは総じて単声的であったように思う。日本人が持つ民族的な純血性への盲信と、それに由来する、アーティストと作品のアイデンティティを過度に同一視する傾向が、作品の「単声性」を補強してしまうのは「悪い場所」としての日本の宿痾でもあるだろう。しかし、その独自性を逆手に取り転回させる可能性を、いくつかの作品、そしてKEXのメインビジュアルに採用された写真家・金川晋吾の作品から発見することもできる。

失踪癖のある実父を撮った作品で木村伊兵衛賞候補ともなった金川は、2010年からもう一つのシリーズを継続している。20年以上行方をくらましていた伯母と再会したことから始まった「Kanagawa Shizue」に収まっているのは、ほとんど他人同士と言ってよい被写体と撮影者との心的・社会的な距離の隔たりだ。特に強い印象を与えるのが、被写体が振り返った瞬間をとらえた一枚である。鋭い一瞥。見知らぬ人間=金川への警戒はあっても、「お前はいったい何者だ?」と誰何するような意思はそこにない。情報を読み取ることのできない黒目がちな瞳は、まるで野生動物のようだ。

“Kanagawa Shizue”, Photo by Shingo Kanagawa


これまでの彼女の人生の苦難を手前勝手に想像するのは容易いが、同時に感じるのはそれとはまるで逆の自由さでもある。失踪という手段によって他者との接点を断ち切り、誰も知らない約20年を過ごした彼女は、誰にでもついて回るレッテルとは無縁な時間も過ごしたことだろう。どんな暮らしをしているのか? 働いているのか? 結婚して子どもはいるのか? そんな詮索の及ばない場所、孤絶の時間に彼女は生きていた。そこには、単声性の自由があったのではないだろうか?

 
単声性が、自由のための術となる。この仮説を実証するものではないが、市原佐都子/Qの『毛美子不毛話』『妖精の問題』は、自らの意思で声を発することの困難と必要を、ジョン・グムヒョンの『リハビリ トレーニング』はそのための訓練の一例を伝えている。

医療用のトレーニングに使われる男性型の人形を相手にした介護訓練がやがてセックスの模倣へと変化していく後者は、複数の介護用器具を組み合わせた迂遠な方法で人形を操作するために、恐ろしく煩雑な手順を愚直にこなしていく。そのために上演は約3時間という長さに及んでしまうのだが、介護訓練の模倣、セックスの模倣の双方にかけられるプロセスが、省略や飛躍のない地続きの時間のなかで等価に扱われることの意義を考えたい。

性的な欲望とそれによってもたらされる時間と空間は、社会的な規範によって多くは秘匿され、それはときにパートナーへの過剰な性幻想を私たちに植え付けもする。その幻想を取り払い、セックスが私たちの身体の日常において生起する「状況」でもあるのだと認識することは、例えば男性向けアダルトビデオや成人マンガの「男性に都合のよい」性描写が虚構であると告げるだろう。

ジョン・グムヒョン『リハビリ・トレーニング』2018年 ロームシアター京都(撮影:前谷開)


また、市原の『妖精の問題』は、俳優による一人芝居という形式を援用して「落語」「独唱」「怪しげなセミナー」といったモノローグの試みを行いながら、2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件に応答する作品だ。雑駁にまとめれば、社会的弱者が自分よりも劣る弱者を見つけては抑圧・差別する社会、そしてそこに潜む仄暗い愉悦に抗いきることのできない社会の戯画化を通して、自らの悪の凡庸さと対面する作品だが、ラストシーンの独白が心に残る。

劇中映像に登場した中年女性が舞台に現れ、弱々しい声と身振りで自らの境遇を吐露し、しかしありったけの想像力によって自らの生を肯定してみせる。自らの声で、自らについて語る自由は、生の尊厳そのものだ。最後に示されたその声は、『MINEFIELD』のグルカ人男性の最後の声とも、おそらくつながっている。

市原佐都子/Q『毛美子不毛話』2018年 京都芸術センター(撮影:前谷開)


市原佐都子/Q『妖精の問題』2018年 京都芸術センター(撮影:前谷開)


 

集団が発する多くの声と、個が発する単一の声。たぶんその両方が重要で、両方が接し合う界面の厚みを少しずつ広げていくことこそが、自由を得る術なのではないかと筆者は思う。その意味で、今回のKEXで、唯一観客参加型の試みを行ったFloating Bottle Projectについて最後に触れておきたい。

3つにグループ分けされた参加者が、「だるまさんが転んだ」を模したゲームで競い合う『Dive into the point 点にダイブする』は、冒頭で手塚とペレラが語るように、近代化の過程と、そこで起きる支配構造の強化をなぞる実験として構想されている。ルールに従ってゲームに参加しても、見学に徹しても、途中離脱しても許されるのは実験だからこそだが、それぞれが選んだ地点から見えるものは大きく変わる。 

外から俯瞰して見えるのは集団心理の滑稽さや、作品そのものの退屈さかもしれないし、内側に留まって得られる近視眼的な体験と疲労は、支配されることの不快と快をもたらすかもしれない。あるいは内/外という二分法ではなく、もう少し広いグラデーションのなかで気楽な模索をすることもできる。筆者自身は、得点を頑張って求めるのも、逆らって下位グループに転落するのも嫌だったので、スタート地点でのらりくらりやりすごす方法を探ることに専心してみたのだが、監視するリーダーやサブリーダーの視界から逃れるために他のプレイヤーを盾にしてみたり、ときに露骨に命令に従ってみなかったりするのは楽しかった(最終的には下位グループに落とされてしまったけれど。そうなるとリーダーたちの視界にそもそも入らなくなるので、底辺から這い上がるのはきわめて困難になってしまう。社会の底辺で生きる弱者に、権力がサービスを与える理由なんてないのだ)。

これはあくまで実験の楽しみ方の一つにすぎないが、そこから発見することもある。劇場において、作品が立ち上がる舞台とオーディエンスが鑑賞する客席の関係はおおむね固定的だが、もしかすると自分が座る客席の位置やあり方を選ぶ自由だってあるかもしれない。そのことで被る益も不利益も甘んじて受け入れなければならないとすれば、それは昨今流行の「自己責任論」とも重なってくるだろう。

しかし、ともあれこれは「実験(experiment)」なのだ。大人であること、子どもであること。妻であること、夫であること。母であること、父であること。家族であること、他人であること。富めること、貧しいこと。当事者であること、「当事者性がない」と言われたりすること。そういった諸々の集団的な規範から離れたときの可能性を探る実験の精神は、KYOTO EXPERIMENTの全体を貫いている。

手塚夏子/Floating Bottle, Floating Bottle Project vol.2『Dive into the point 点にダイブする』
2018年 ロームシアター京都(撮影:守屋友樹)


 

しまぬき・たいすけ
美術ライター&編集者。1980年生まれ。京都&東京在住。『CINRA.net』『美術手帖』などでインタビュー記事、コラムなどを執筆するほか、編集も行う。

 
画像提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

 
 

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018
会期:2018年10月6日(土)—10月28日(日)
会場:ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、京都府立府民ホール “ アルティ ”、元離宮二条城、ほか

(2018年11月12日公開)