アートとマジックを隔てるもの:『KUAD ANNUAL 2019』について


 

若林 恵

コオロギを吐くカラダ

「人類学者のように考えよう」(Think Like an Anthropologist)、というタイトルのついた英国の文化人類学者によるエッセイに、こんなエピソードが載っている。

その学者はアフリカのジンバブエで出会ったある男に「クリケットは好きか?」と聞かれて、「もちろん」と答える。「じゃ、ご馳走してあげるからうちに来い」と、ある男。学者さんは、そのクリケットはスポーツ競技のことだと思っているので、ご馳走してやるってどういうことだろうと訝しみつつ男についてゆく。その男の家に着くと、ボウルのなかに大量のコオロギがあるのを見せられる。しまった、と気づいたけれど、もう遅い。ここではコオロギはご馳走なのだ。もてなしをむげにするわけにはいかない。そこで無理やり口にほうりこみ、噛み、飲み込むのだけれども、3秒後にはそれを戻してしまう。

この他愛もないエピソードを、著者は本の冒頭におき、「文化」というものがどういうものかを人に説明するときに、このエピソードを語って聞かせるのだと書いている。人の身体的な反応というものすら文化的に拘束されたものであって、コオロギを食べ物とみなしていない文化に育った人の身体は、コオロギを当たり前に食べている人の身体とは、その「食材」をめぐって違う反応を示す。文化というものが、コオロギを平気で食べられる体や、食べてもすぐにそれを吐き出してしまう体をつくる。

「わたしがコオロギを吐いたのは、わたしの身体が文化的なもの、もしくは文化化されたものだからだ」


近代合理主義の立場からすれば、アフリカ人だろうが、西洋人だろうが、日本人だろうが、人間の身体を人間の身体たらしめている機構は変わらない。生物学的には同じメカニズムで作動していることになるのだが、実際にはそうではない。コオロギを吐く体と、吐かない体とがある。その違いを重大事とみなすのか、取るに足らない「文化的な事象」とみなすのかは結構大きな問題で、アートとはどういうものなのかを考える上でも、重要な論点を孕んでいるように思う。

 
「アート」という名のユートピア

数年前に、メディアアートという領域でも活動をしている工学系エンジニアが集まって、アートについて論じあうというようなシンポジウムを見に行ったことがある。

彼らは基本、人間の身体というものを、機械的なメカニズムによってつくられた一種のマシンと考えていて、そのメカニズムに外部から手を加えてやると、その機能に拡張がおきるという考えにしたがって作品をつくっていて、そうした拡張が起きることをもって自身の作品を「アート」を呼んで差し支えないものと考えているらしいことが、話が進むうちにわかってきた。機械であるところの身体に外部から機械を接続すると機能拡張や認識の拡張が起きる。そうした認識の拡張をおこすことこそがアートの役割である。ゆえに、自分たちがやっていることもアートである。というのが、そこでのおよその了解事項となっていた。

さらに話が進むうちにわかってきたのは、彼らのなかではアートは工学実験とほぼ同義のものらしく、アートも、工学、もしくは科学の実験と同じように、ある種の純粋空間のなかで行われる創造的な営みだというふうに考えられているということだった。社会や文化などという、実体も掴めず計量化もできないあやふやなものとは関わりたくないからこそ、彼らが、計測不能なノイズの入らない実験室を職場として選んだことは想像に難くないが、彼らのそうしたロマンチックな指向は、アートというものもまた、ばい菌だらけの社会というものから孤絶したところで純粋な想像力/創造力が発露される空間であると考えたがっているように聞こえた。

そうした考えは、アートにおいても科学においても、社会を超越した常識外れのもの、ぶっとんだものこそが称揚されるべきだと言い募るところによく表れる。子どもっぽい夢想がいかに価値であるかをことさら言いたがる科学者や工学者のなかには、抜きがたく「創造というものの純粋性」への信仰がある。そして、それこそが彼らのアート観を支える信仰ともなっている。

とはいえ、そうしたアート観がそこまで特殊かといえばそんなこともない。むしろ世間並とも言える。アートといえば創造力、創造力といえばぶっ飛んだ思いつき、ぶっとんだ思いつきといえば社会から孤絶した自由人、自由人といえばアーティストといったような連想はいまだに世間で十分に幅を利かせているし、下手をすればアートを志すような若者の間にだって、そうしたアート観は継承されているかもしれない。アートを独創性や反社会性を競うゲームであると考えている人は、いまだに決して少なくない。

というような状況そのものが、実はアートというものの枠組みを拘束しているのであれば、その状況そのものに対する批判がまずはなされなければ、認識の拡張なんていうものがアートとして表現されうるはずもない。かつ、そうした批判的視点を獲得するためには、冒頭で語ったような「文化」、そしてそれによって編み上げられた「社会」というものを考慮に入れなくてはならないはずなのだが、文化や社会というものにそもそも興味がなければ、どうにもならない。いくらアートに憧れたところで、現状アートと呼ばれている枠組みのなかでアートとして流通するかもしれない「商品」をつくりだすのが関の山ではないかと思ってしまうのだが、余計なお世話だと言われればそうかもしれない。

 
民主化と奇術

工学的思考から見たら人間の目というのはメカニカルな装置としては、当然だれしもがものの遠近というものを知覚することができると考えてしまうけれども、そういう「光学装置」をずっと顔の正面にふたつ持っていたにもかかわらず、人間というものは、そこから見えるものに遠近があるということを把握するためには、遠近法の発明を待たねばならなかったというのは、ありきたりな話ではあるけれど、やはり示唆に富んでいる。同じ「眼」をもっていながら、過去の人といまの私たちとでは、まったく違ったものの見方をしている。コオロギを吐いてしまうカラダと、それを美味しく食べてしまうカラダくらいに、それは違うものだ。

認識の拡張を言うなら、そうやって認識すらしないままに社会のなかに張り巡らされた多種多様な文化のコード(そこには「科学」というものがもたらしたコードも含まれる)が書き換えられたり、上書きされたりしなければ、本質的には拡張にはならないように思うし、それこそがまさに、アート、とりわけ現代アートが果敢に挑んできたことだったように思える。別の言い方をするなら、それは、いまの社会、いまの自分たちを拘束している「あたりまえ」を疑い、批判し、それを外から眺めるための、抜け穴を探すといった行為に近いかもしれない。

そして、それは言うほど簡単ではない。これだけ複雑化した社会においてはなおさらだ。日に日に多様化し複雑さを増し多層化しつつ細分化していく社会を読み解いて、そのありようを批評的に概観することは、もはやひとりの天才による一発の思いつきで成されるようなものではなく、むしろ地道で慎重な思考と作業とを要するものとならざるをえない。現代アートが複雑で難解に見えるのは、そこで取り扱われている世界が、それだけ複雑で難解なものであるということのシンプルな反映でしかないはずだ。「難しい」とアートを責めてみたところで意味はない。

ところが「アートは普遍的で誰にもわかるはずだ」という民主的なアート観が根強く信仰される社会においては、「アート」は誰が見ても驚きを与えてくれる「奇術」と同義のようなものに、次第になっていく。そしてアートは、ますます「いまの世界」と乖離していくことになってしまう。現在アート、とりわけメディアアートと呼ばれるもののなかには「マジック」と呼んだほうがよさそうなものも、たくさん含まれているように思えるけれど、それもまた余計なお世話か。

 

片岡真実氏(Photo: Daniel Boud)

キュレーターの圧

というようなことを、アートの門外漢で、どちらかというと「イノベーション界隈(苦笑)」の自分が偉そうに書くのはなんともおこがましい話なのだが、自分なりに感じてきた「アート」という領域をめぐる落ち着かなさをこうして表明してもいいかなと思うにいたったのは、『KUAD ANNUAL 2019』という企画展に招ばれ、そのキュレーションを担当した片岡真実さんとお話しできたことが直接のきっかけだった。端的に言うと、彼女のアートというものに対する考え方にとても強く共感したのだ。

『KUAD ANNUAL』というのは簡単に言うと、京都造形芸術大学の「卒展」なのだけれども、卒業生全員がなんのコンテキストもない空間にそれぞれの作品を並べただけの見本市のような卒展のあり方に異議を唱え、片岡さんが与えたテーマに共鳴した卒業生の有志が、審査と片岡さんのメンタリングを経て、企画展を開催するというもので、言うなれば、それは実地のアーティスト・インキュベーション・プログラムと言っていい。今年で2回目となるその企画展は、昨年は「シュレディンガーの猫」、今年は「宇宙船地球号」というテーマで開催され、自分はその展覧会を、東京上野の東京都美術館で拝見したが、何に共感したかといえば、片岡さんが、アートというものが果たすべき使命というものを明確に指し示した上で、その上で、アーティストがどのようなやり方で作品をつくっていくべきであるかを、おそらくはかなりの圧をもって、ぎゅうぎゅうと学生たちに強いたところにある。

ぎゅうぎゅうと学生たちに圧をかけた、というのはあくまでも想像だが、ふんわりと夢見がちな「創造力」や「感性」を拠り所にしているだけではアーティストの仕事は果たせないという問題意識を、彼女が相当に強く学生たちに根付かせようとした痕跡は、作品だけではなく制作の背後で行ったリサーチそのものをも展示させるというやり方を通して見ることができた。

2018年の展覧会のカタログのなかで片岡さんは、こんなことを書いている。

「これからの時代を生きるアーティストやデザイナーには、政治、経済、社会、宗教など多様な価値観が多層的、多元的に存在する世界のなかで、自身の立ち位置を見出す洞察力や判断力が求められる」


あるいは、別のインタビューでこうも語っている。

「現代アートは学校の図画工作の世界とは一線を画すものです。創作技術を高度化していくことももちろん重要ではありますが、美術史、社会史、人類史、政治もふまえた歴史を学ぶことはとても重要です。歴史をふまえ、物理、数学、医学など、あらゆる分野に接触しながら世界のあり方を発見していく、総合的なフィールドこそが現代アートであると最近は特に強く考えるようになりました。深みと広がりをもったコンセプトから始まり、リサーチを経てアートへと昇華していくことが重要です」


 
求められるスキル

アートはもはや社会や世界から孤絶したロマンチックなユートピアではなく、むしろ世界の複雑さと正面から向き合う「覚悟」を要するものだと彼女は語る。「絵を描くのが好きなので美術をやっていきたい」といった姿勢を、否定はしないまでも、それとアートの仕事は別物だときっぱりと言い切り、そして暗に、アート教育が相変わらず「図画工作」の延長にしかないことを手厳しく批判する。

彼女のメンタリングを受けたことで、今年の「卒展」には、地球規模のエコロジー、領土問題と格差、戦争の遺産、人間をも含む生命、街の歴史、といった大きなテーマに真摯に向きあった意欲作が24作品並ぶこととなった。デカいテーマを選んだからといって、それで自動的にいい作品になるというわけではもちろんない。リサーチは的確かつ包括的になされねばならないし、そこから取り出された問題系が的確に整理され、言語化されねばならない上、さらにそれを視覚言語や空間言語といった非言語を通して統合してみせなくてはならないのだ。言うまでもなく、その全プロセスを遂行するためには、読解のスキル、概念化のスキル、整理のスキル、そしてそれを統合するためのスキルなどが包括的に求められることになる。

もしかしたら参加した学生たちは、「そういうのが苦手だから美術を選んだのになあ」とぼやいたかもしれない。けれども、パーソナルな興味関心からのみ生まれた表現を自由にさせているだけでは、ただのモラトリアムの空間、せいぜいカルチャースクールにしかならないと考え、こうしたプログラムを実施した学校側の危機意識は正しい。アーティストにいま必要とされているのが、「多様な価値観が多層的、多元的に存在する世界のなかで、自身の立ち位置を見出す洞察力や判断力」であるのなら、アート教育を担う機関が「図画工作」を教えているばかりでは、その役割を果たしているとは言えない。

斉藤七海《聖なる樹》


塚本淳《The Circle》


丹羽優太《大鯰列島図襖絵》


桑原ひな乃《0711’18 02 08’19》


米村優人《合体彫人ビウティギーン》


下寺孝典《移動する屋台ピット》《バンコク式屋台》《伏見マール》


(展示風景撮影:顧剣亨)

 
世界を理解し、共有する者

『KUAD ANNUAL』という試みから発せられるメッセージを、自分は胸のすくものとして受けとった。そして教育機関の真っ当な危機意識を受けて、決して華やかではないけれど深い意義をもち、同時にプロ仕様でもある高度なプログラムに落とし込み、実行できるキュレーターがいることを嬉しく思った。

海外のアート作品を見ていると、もはやアーティストという存在は、表現者というよりも、むしろ文化人類学者に近いような存在になっているように思える。「時代」と「文化」の鋭敏な観察者であり、読解者。ただしアーティストは、論文を書くかわりに作品をつくる。そんなことを、片岡さんにお会いした際に話してみた。しばらくしてから片岡さんからメールが届いて、こんなことが書いてあった。

「社会科学や文化人類学に限らず、歴史学、科学、物理学、医学など、分類されて発展してきたあらゆる知の領域を通して『世界』を理解し、それを視覚的、体感的な表現を通して他者と共有することが、今日の現代アートと言われているものには求められていると感じています」


アーティストは、そんな大変なことをやる人たちなのだ。世界にそうやってひとりで立ち向かうのだ。リスペクトしないわけにはいかないじゃないか。

(2019年4月12日公開)


 
 
わかばやし・けい
1971年生まれ。編集者。ロンドン、ニューヨークで幼少期を過ごす。早稲田大学第一文学部フランス文学科を卒業後、平凡社に入社し、『月刊太陽』編集部に所属。2000年にフリー編集者として独立する。以後、雑誌、書籍、展覧会の図録などの編集を多数手がけ、音楽ジャーナリストとしても活動。2012年に『WIRED』日本版編集長に就任、2017年退任。2018年、黒鳥社(blkswn publishers)を設立する。著書に、『さよなら未来――エディターズ・クロニクル 2010-2017』(岩波書店)、『NEXT GENERATION BANK 次世代銀行は世界をこう変える (blkswn paper vol. 1)』(黒鳥社)などがある。
 
 

『KUAD ANNUAL 2019 宇宙船地球号』は、2019年2月23日~26日まで、東京都美術館で開催されました。