ARICA+金氏徹平『しあわせな日々』 劇評

首まで上がってきた不条理の水位(ARICA+金氏徹平『しあわせな日々』)

京都芸術劇場 春秋座 2014年11月29日・30日


沢田眉香子

「ゴミ屋敷」は、ワイドショーの人気ネタである。家敷地の中に収まらず、猛然と窓や門からはみ出し、隣家に迫ったりしているゴミの山には「屋敷」と呼ばせてしまう迫力がある。怠惰ゆえにゴミが溜まった「汚部屋」とはちがって、「屋敷」のゴミは、主がせっせと詰め込み、積み上げたものだ。屋敷の主は、怠惰どころか本人の規則に沿って、勤勉にゴミ集めと詰め込み作業に従事している。

根本敬はエッセイ『人生解毒波止場』で、あるゴミ屋敷の女主人に取材して、ゴミを集める理由を聞いている。女は「大切なものを探しているの。何かって? それは私にしかわからないですよ。大切なものを探すのに毎日とても忙しくて、こんな話していられないんですよ」と答えている。大切なものとは何だろう? きっと彼女自身、それを探しているから、仕事はずっと終わらないのだ。

「屋敷」の主たちの熱心な仕事ぶりはワイドショーで常軌を逸したものとしてレポートされる。しかし、テレビを消してワイドショーの「こちら側」であることをやめた時、ふと疑問が胸をよぎる事がないだろうか。「いったい誰が、自分の人生をゴミの山でないと断言できるのか?」。「屋敷」の主たちが「大切なもの」に向かって一心不乱にはげむ仕事と、その先に何かいい事があると信じて盲目的に没頭する我々の仕事と、どこがどう違うのか? 徹夜残業で開発された最新式の家電も、雑誌を賑わすエッジィなファッションも「見る人が見ればゴミ」なのである。

さて、『しあわせな日々』の舞台である。すがすがしい朝日を浴びて、気持ち良く目を覚ますのは、1人の中年女。神様に感謝の言葉を告げ見栄を切るように丁寧に歯を磨き、高らかに宣言する。「今日は、素晴らしい日!」。まるで熟年女性雑誌のライフスタイル特集の見出しそのままの「ポジティブで心豊かな暮らし」ではないか。だがしかし、その彼女の身体は、なぜか腰までゴミに埋まっているのだ。

ARICA+金氏徹平《しあわせな日々》
2014年11月29日・30日 京都芸術劇場 春秋座(撮影:清水俊洋)



「何で?」という疑問は、安藤朋子のキビキビとした独りごとによって払拭される。歯ブラシの上の文字に関心を払ったり、もののありように感動したりするささやかな日常。生活に必要なものは手が届くところに揃っている。人様に笑われない容姿を保つための化粧品と、なにか切迫した状況で自分の生命を決定できるピストル。女は、言葉と所作のすべてで「わたしは満ち足りている」と訴える。ワイドショーはゴミ屋敷の主人を「イッちゃってる」と断じて我々を「そうでない」側にいるのだと安心させる。が、ゴミに埋もれながら満ち足りて暮らし、疑問や憐憫を寄せ付けない女、という舞台上の不条理は、観客を宙吊りにする。

女が多幸感に満ちた世界の住人=「イッちゃってる」人でない事は、言葉に混じる小さな疑問や不安から見て取れる。記憶から何かが消えるたび「…なんだっけ?」と首を傾げ、「今あるモノが、なくなったらどうしよう」と不安に声をくもらせる。しかし、そのたび自分を鼓舞するように「また、始めればいい!」と言い聞かせる。いずれ人生に押し寄せてくる何かに、女は確かにおびえているが、それを迎え撃つ覚悟もあるのだと断言する。「どうにもならない理由で頑張れない時は、あの日が来るのを待つだけ」。

ARICA+金氏徹平《しあわせな日々》
2014年11月29日・30日 京都芸術劇場 春秋座(撮影:清水俊洋)



女は「イッちゃってる」状態と紙一重で揺れている。「宙吊り」でそれを見ている観客もまた揺れるのだが、その振り幅は、次第に大きくなって行く。契機となるのは「声」だ。彼は夫らしき人物に、日々とりとめのないことを話しかけるのだが、それに応える声は、言葉の輪郭を持たない異様なノイズとして返って来る。対話は成立せず、機械的に歪んだ声が、ただただ不穏な空気として舞台を圧迫する。この声はどこから来るのか。彼女が語りかけている「夫」なのか、あるいは女の内面の狂気なのか。不気味な声の重苦しさに、女は感情を昂らせ、それまで舞台上で見せた世界の緊張と均衡が揺れる。女はいよいよ「紙一重」の防波堤を守ることができなくなり、力なくゴミの中に首まで埋まってしまう。それでも、女は朝日に向かって叫ぶ。「ようこそ、神様の光!」。

ARICA+金氏徹平《しあわせな日々》
2014年11月29日・30日 京都芸術劇場 春秋座(撮影:清水俊洋)



サミュエル・ベケットの『しあわせな日々』が書かれたのは1961年。原作では女が埋まっている場所は、大戦後のヨーロッパの焦土をイメージした「焼け野原」と設定されている。ARICAの藤田康城は、それを現代の孤独な女性が住む場所をイメージした「ゴミ屋敷」に置き換えた。つくられて明日ゴミになるような大量の消費物の中で何か大切なものを求めて右往左往している我々にとって、ゴミの山は焦土のように空しい。人は毎日身だしなみをととのえ、伴侶に語りかけ、神仏に感謝して自分を律しながら人生を送ろうとするが、その緊張の糸が切れたとき、価値と信じていたものがゴミとなって自分を首まで埋めてしまう。「豊かな世界」はそんな脅威と紙一重なのだ。

ARICA+金氏徹平《しあわせな日々》
2014年11月29日・30日 京都芸術劇場 春秋座(撮影:清水俊洋)



さらに周到な仕掛けがある。舞台の上の「ゴミの山」は、現代アーティストの金氏徹平によるものだ。一見ゴミに見える金氏の作品の素材は廃物ではない。作品は、ひとつひとつのもののディテールが文脈をなし、意味を描くコンセプチュアルな仕事だ。「見る人が見ればゴミではない」という危うさをもつ金氏の作品を、この劇の背景として持って来た洒落心も、紙一重のシャープさだ。

実はベケットを観るのは今回が初めてだった。これまでいろんな舞台をかじって来たが、不条理劇だけには近づかなかった。日常の遠くの対岸にワザワザ出かけてワザワザ深刻ぶっているように思えたからだ。しかし、この舞台に描かれる「不条理」は、拍子抜けするほど現実的だ。時代や状況を超えて観客にリアリティを感じさせるのは名作の所以でもある。そして、これをリアルだと思えたのは、対岸と見えた不条理がいまや現実としてひたひたと迫り、いよいよ我々の首元にまでその水位をあげてきたからでもあるのだろう。

 

さわだ・みかこ
編集・著述業。1966年生まれ。『Lmagazine』(京阪神エルマガジン社)編集長を経て独立。京都を拠点に活動している。著書に『京都うつわさんぽ』(光村推古書院)、共著に『京都こっとうさんぽ』(同)、『京都こっとうを買いに』(えるまがMOOK)などがある。

 

(2014年12月12日公開)



ARICA+金氏徹平『しあわせな日々』
京都芸術劇場 春秋座 2014年11月29日・30日