Review

クロード・レジ『夢と錯乱』


Photo: Pascal Victor



真部優子

真っ暗な闇の中に、何やら不可解な動きをしているひとりの男性の姿がぼんやりと見えてくる。いくら目を凝らしても、あまりの闇の深さに、すぐそこに存在しているはずの彼の姿をはっきり捉えることはできない。まさに夢でも見ているかのように、現実味を欠いた感覚に陥る。これがクロード・レジ演出『夢と錯乱』の冒頭シーンだ。

次第に男性の身体が輪郭を表し始める。とはいえ、彼の顔はほとんど見えず、何の特徴もない服装をしていることが何となく分かるのみだ。暗がりの中、彼は夭折したオーストリアの詩人ゲオルク・トラークルの詩「夢と錯乱」を口にし始める。悲痛なトーンを帯びた、体の底から絞り出す声が反響すると同時に、大きな機械が作動しているような低い不穏な音が場内を満たしている。舞台は灰色のアーチ型トンネル状になっており、舞台奥は真っ黒。そんな閉塞感の漂う空間の中、彼の身体は相変わらずゆっくりと奇怪な動きをしながら、舞台上を移動している。

1時間ほどのこの作品において、これ以上のことは終盤で赤い光が射し込むほかは特に起こらない。作品の鑑賞が叶わなかった読者は、あまりに禁欲的で退屈な作品だと思われるかもしれない。しかしこの作品にはおそらくあの場にいた者にしか分からない、絶対的な魅力があった。

Photo: Pascal Victor



まず、トラークルの詩がどのようなものであったかを説明しなければならない。トラークルは厳格なキリスト教信者の両親のもとで育ったが、妹と近親相姦の関係にあったと言われる。そのような詩人の自伝的要素の強い本作は、罪の意識に苛まれる者の苦悩する姿が浮かび上がるようである。しかし(トラークルの作品のほとんどに共通する特質だが、)この作品の主人公を指す主語は「私」ではなく「彼」なのだ。詩人自身の体験が基になっていると考えられる部分が多いのに、三人称で語られていく。例えば、「甘美な責苦が彼の肉を焦がした」というように。

これによって、ひとつの疑問が浮かぶのではないだろうか。「舞台上の男性(ヤン・ブードー)は一体誰を演じているのだろうか」と。舞台上の男性、つまり「彼」についての詩を語りながら、不可解な動きを続ける俳優は。言うまでもなく、この作品はただの詩の朗読ではない。ときに感情の昂ぶりをこらえきれないかのような激しいトーンの声を出し、終始緩慢な動きを続ける彼の身体は、ただの朗読からは大きく逸脱する。何かを演じているように見えてしまうのだ。かといって、先にも述べたように主語が「私」ではないために、トラークル(に準じた人物)の心情吐露的なモノローグにも成り得ない。

もう一度問おう。「舞台上の男性は誰なのか」。この問いにこそ、本作が他の追随を許さないほど優れた作品である理由が秘められているように思う。筆者の答えを先に述べてしまおう。彼が演じていたのはいかなる人物でもない。それは「トラークルの絶望に苛まれる意識そのもの」である。どういうことか。本作『夢と錯乱』はそのタイトル通り、トラークルの抱えていた許されない恋愛という現実(「妹が知らせる言いようのない罪」)と、悪夢的な妄想が入り混じったテクストとなっている。悪夢的な妄想とは例えば、父が亡くなる場面で手でちぎるパンからは血が流れ、妹は青年の姿となってくだかれた鏡の中に消えゆく、といったものだ。つまり「夢と錯乱」というテクストは、トラークルの現実を下敷きとしたトラークルの悪夢なのだ。だからこそ、主語はトラークル自身を指してしまう「私」ではなく、あくまでもトラークルの悪夢の中の“準”トラークルを指す「彼」なのである。「彼」は現実がベースとなって生み出された悪夢を生きる、トラークル自身の“分身”なのだ。

とするとこの詩の語り手は、悪夢を見ている生身のトラークル自身の「意識」であると言えないだろうか。言わば、このテクストはスクリーンに映し出された悪夢、そしてその中に閉じ込められた自身の“分身”を、観客席で黙って見つめるほかない生身のトラークルの「意識」によって内省的に語られたものなのである。よって、このテクストを語る舞台上の男性が演じていたのは、トラークルの「意識」そのものである。その意識というのはもちろん、現実と二重写しになった悪夢に苛まれる、苦悩と絶望に満ちたものだ。それはそのまま、舞台上で悲愴な声を絞り出しながら、無意味な動作を繰り返すほかない男性の姿に重なる。

そう、あの場で私たち観客は、今からおよそ100年前の詩人の「絶望そのもの」が俳優の演技によって文字通り息を吹き返し、ありありと現前するのを目の当たりにしたのである。そして「絶望」は最後にこう語る。「彼は石となって空無の中へ堕ちていった そして夜がこの呪われた種族を飲み込んだ」と。この悪夢の中の「彼」、つまりトラークルの“分身”の死が暗示的に示される。この詩の成立した同年、1914年にはトラークル自身も27歳という若さで、彼の“分身”を追うかのように事故とも自殺とも思われる死を遂げる。

「絶望」を演じきった俳優は、未だ悪夢的な世界に放り込まれたままの観客に拍手を促す。そして、真っ直ぐ舞台の後方へ去っていく。舞台の奥は黒塗りの壁ではないのか、そんな疑問がよぎった瞬間、彼は途方もなく深い闇に飲まれていった。先ほどまで「絶望」が現前していた舞台のすぐ後ろには、漆黒の“無”がぽっかりと口を開けていたのである。「絶望」はいわば死の淵に立っていたのだ。

Photo: Pascal Victor



 
 

まなべ・ゆうこ
京都大学総合人間学部在籍。現代美術や映画、現代演劇、コンテンポラリーダンス、音楽、現代文学など、ジャンルを問わず、現在の表現行為に対して批評をしていきたい。

 
 

画像提供:舞台芸術研究センター

(2018年5月28日公開)


 
クロード・レジ『夢と錯乱』Rêve et Folie は、2018年5月5日・6日に
 京都芸術劇場・春秋座特設客席にて上演されました。