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変則がもたらすもの。『変則のファンタジー』から考えるKYOTO EXPERIMENTの10年

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2019





島貫泰介
 

2つの『変則のファンタジー』

「KYOTO EXPERIMENT 2019 | 京都国際舞台芸術祭 2019」のプログラムの一つとして、京都芸術劇場 春秋座で観たサイレン・チョン・ウニョンの『変則のファンタジー_韓国版』は、『変則のファンタジー_日本版』として2018年のTPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜)ですでに上演されたことのある作品だが、その再演ではない。今回の『韓国版』は16年に同国で初演されたものに限りなく近く、『日本版』は諸般の理由で大きなアレンジを加えたものだった。この2つのバージョンのいくつかの差異を指摘するところから、この評を書き進めていこうと思う。

『韓国版』と『日本版』は、光復(1945年8月15日の、日本による植民地支配からの解放を意味する言葉)間もない韓国で生まれた男性装を特徴の一つとする芸能「女性国劇(ヨソン・グック)」と、各国で活動するゲイコーラスグループの劇場空間における交錯を作品の中心に据えているが、『韓国版』ではソウル拠点のゲイコーラスグループ「G_Voice」のメンバー数十名が女性国劇の男役ナム・ウンジンとともに出演し、直線的に進む時間に沿って、ある種のレビューショーを繰り広げる。いっぽう『日本版』ではG_Voiceに代わって日本人のゲイ男性複数名が登場し、彼らへのインタビュー映像を交えた複数的な時間のなかで、よりドキュメンタリー的な現前性を強める構成になっている。

この差異は特にラストシーンに顕著だ。滅びゆく芸能の継承者として不遇をかこつ男役の女性と、強固な父系血縁の家族主義が根ざす韓国社会で生きるG_Voiceのメンバーたちが、彼らの持ち歌である「Congratulations!」を一緒に歌い踊る祝祭的な前者に対して、後者はインタビュー映像に登場していた人々がじつは最初から客席にいたことがメロウな合唱とともに「可視化」されて終わる。後者が「マイノリティの存在に気づかされるマジョリティ=観客」という、やや教条的な構成に至った理由について、作・演出のチョン・ウニョンは、『日本版』では日本国内のゲイコーラスグループに出演を打診するもその大半から断られ、最終的に社会運動に関わるゲイ男性たちが出演することになったことも影響したと、今回のポストパフォーマンストークで語っている。

そもそも、これまでに台湾、日本、インドでの上演を重ね、各地ごとの社会的背景や時事性を取り込むことで内容を変えてきた『変則のファンタジー』にとって、そのつどの作品内容の変更・調整は消極的選択ではないと私は考えるが、上記した『日本版』での制作事情などが『韓国版』にあったパワフルさを縮減させる一因になったのも事実だ。また、『日本版』が上演された「KAAT 神奈川芸術劇場」のブラックボックスのニュートラルでクールな性質が、芸能やショーがはらむ猥雑さ、身体的・環境的なノイズを過剰にカットしてしまう側面もあっただろう(ちなみに韓国での初演で使用された劇場は、客席がアクティングスペースを半円形に囲むギリシャ劇場の形式だったそうで、そこでチョン・ウニョンはG_Voiceのコロス的性質に焦点をあてる演出を選択したという)。

そういった経緯・変遷を踏まえると、今回の『韓国版』は、総合的な芸術大学が運営する劇場であるにもかかわらず、主に歌舞伎の上演を想定してつくられた春秋座のサイトスペシフィシティを遺憾なく発揮する仕上がりになっていたと思われる。





 

クィア性と劇場

趣味としてのコーラス活動を超え、韓国におけるLGBTQ運動のアイコンともなっているG_Voiceのチャーミングかつポジティブなパフォーマンスは『韓国版』の魅力の大きな部分を占めるが、ここで注目したいのは後半で印象的に使われる春秋座備え付けの花道である。2016年の日本滞在時、神戸で宝塚歌劇団、東京で歌舞伎のリサーチを行ったチョン・ウニョンは、今回の公演に際して制作された速報誌『KEXニュース 8』のインタビューで次のように語っている。

 

「京都芸術劇場 春秋座」が歌舞伎専用の劇場でもあるという状況をどう活かすことができるかを念頭におきながら作りました。その中で、普段は大物だけが立つことのできる劇場の花道に、あえて、現在は失われつつあるジャンルである「ヨソン・グック(女性国劇)」の男役であるナム・ウンジンを立たせたいと思いました。彼女を、一瞬でもスターにさせたいと思ったんです。

 

作品中盤、ナム・ウンジンは、男役になることを夢見て衝動的に飛び込んだ女性国劇の世界で生きることの辛苦を吐露する。芸能としての衰退。狭いジャンルゆえの人間関係の窮屈さ、師匠との確執。アルバイトでなんとか持ちこたえているだけの貧窮した生活。しかし、舞台に上がることで得られる「ファンタジー」を切望する気持ちを捨てることなどできないと彼女は語り、まるで夢を叶えるように花道に歩みを進め、その上に設えられた鏡のオブジェの前で男役への変身を果たす。そして音響と美術と照明をアイドルのライブ並みにフル活用した怒涛のクライマックス=レビューショーへとなだれ込むと、花道はG_Voiceたちが歌い踊るステージへとその役割を変容させる。

ここでチョン・ウニョンが目論んだのは、クィア性を潜ませつつも男性中心的に築かれてきた歌舞伎の制度に介入し、女性国劇、ゲイコーラスという別種のクィアカルチャーによってそれを創造的に解体する政治的身振りだろう。もちろん現在の商業化された歌舞伎や、春秋座で日常的に上演される現代劇などによって、この花道に宿る男性性はすでに一定以上は無効化されているわけだが、ド派手な舞台効果をともなって執拗に反復される『変則のファンタジー』の祝福(Congratulations!)の身振りは、観客だけでなくアーティストや劇場関係者も忘却してしまいがちな、(特に近代以降の)劇場や舞台芸術の男性的な権威性を、歓喜とともに暴露するのだ。







しかし、忘却してはならないことはまだある。この熱狂的なクライマックスを「革命の遂行」とポジティブに受け止めることも可能だが、ナム・ウンジンやG-Voiceを取り巻く社会が好転したわけではないのだ。それは女性国劇の苦難によってだけでなく、劇中の「日本刀を構えて殺陣を稽古する」映像が暗示する、日本による植民地支配の副産物としての女性国劇の複雑なアイデンティティによっても明らかになる。また、G-Voiceのパートで舞台上から降りてくるいくつもの円形の白い蛍光灯は、韓国都市部で頻繁に目にするキリスト教会の赤く光る十字架(への心理的な距離の遠さ)を連想させる。儒教とキリスト教的価値観が奇妙に癒着した韓国社会において、既存の家族主義と一定の距離を持たざるをえないセクシュアルマイノリティへの偏見は日本と同様にいまだに強く、それゆえの抑圧をG_Voiceのメンバーたちも経験してきた(彼らの活動を追ったドキュメンタリー映画『Weekends』(2016年)では、『韓国版』のなかで言及されている福音主義クリスチャンから糞を投げつけられ「死ね!」と罵倒されるシーンが克明に収められている)。

 


さらに加えるならば、韓国の男性上位的な家族主義の制度は、植民地時代に日本経由で導入された「戸主制」によって強化されたという側面もある。『変則のファンタジー』に描かれた2つの抑圧が日本に由来するものでもあることを、日本の観客は留意するべきである。

 

誰もが変身できる空間

しかし、この作品はクィアによる告発や社会制度批判だけで評されるべきではないことも強調しておきたい。

これは私の個人的な経験に基づく受容ではあるのだが、春秋座の花道で歌い踊るナム・ウンジンやG_Voiceの姿から想起していたのは、2017年と18年に春秋座で特別に行われた「都をどり」の光景である。京都最大の花街である祇園甲部所属の芸妓・舞妓が出演する春の京都の風物詩である都をどりは、本拠地である祇園甲部歌舞練場が耐震改修工事を行うために、この2年間は特別興行として春秋座で開催されていた(今年からは改修された南座で開催)。

花街文化も、ある種のクィア性と閉鎖性をともなう特異な文化事象であるが、今日の芸妓・舞妓各人の初源的な欲望は「自分ではない何者かになりたい」という変身願望でもあるだろう。そのあらわれの晴れの舞台である「都をどり」が、さまざまな理由によって春秋座に移しかえられたことで、花街文化のみならず、現代における劇場が持つ機能と役割が顕在化されていると当時私は感じたのだが、その精神は、期せずして今回の『韓国版』にも引き継がれている。





繰り返すが、それは「自分ではない何者かになりたい」という願望であり、また「劇場とは(性や所属に関わらず)誰もが何かに変身しうる場所」であるという可能性の提示である。この可能性の射程は、古典芸能、商業演劇、KYOTO EXPERIMENTで上演されるような実験的なパフォーマンスのみならず、この数年で爆発的な人気を獲得している2.5次元演劇・ミュージカルにも届くものだ。また、変身することの恍惚は、演者から観客の意識にも伝播する。「Theater」の原語がギリシャ演劇では客席を指し示し、また理想の観客像を演じることで物語と観客を橋渡しするコロスがギリシャ演劇の中軸であったように、舞台芸術の成否は作り手と受け手の協働・共謀に委ねられている。その意味において、『韓国版』ラストの「Congratulations!」は劇場に集ったすべての人々のみならず、劇場自体をも祝福しているのだ。

そしてもう一つ付け加えておきたいのは、本作が10年間続いた橋本裕介ディレクション体制によるKYOTO EXPERIMENTの最終作に選ばれたことの意義である。

 

KYOTO EXPERIMENTの10年

2004年に京都芸術センターでスタートしたプログラム「演劇計画」を改組するかたちで2010年に始まったKYOTO EXPERIMENTは、早い段階から16年にリニューアルオープンしたロームシアター京都と相乗的に構想・計画されてきたと聞く。その過程で、橋本はインディペンデント的な性格を持つ舞台制作者と、公共機関に属する公務員としての2つのアイデンティティ(橋本の2019年11月における肩書きはロームシアター京都/KYOTO EXPERIMENT プログラムディレクターである)を引き受けながら、挑戦的・実験的な精神を持った芸術祭と、市民に還元されるべき公共の福祉と公益性を担う公共劇場の両方に属し、2010年代の舞台芸術のシーンの一翼を担ってきた。

ちなみに私は17年の京都移住以来、いくつかの仕事で関わりを持ってきたこともあり(KYOTO EXPERIMENTの配布物の一部編集業務などに携わっている)、橋本の評価を中立的に行える者では毛頭ないが、であるにせよ同氏の功績は高く評価されるべきだと考える。また、その任期最後の年に「あいちトリエンナーレ 2019」に端を発する文化庁による補助金不交付問題が起こり、2000年代から続いてきた舞台芸術界の助成金依存体制のパラダイムシフトを意識せざるをえない事態が訪れたことも示唆的であろう。KYOTO EXPERIMENTは次回の2020年度からアーティストの塚原悠也(contact Gonzo)、制作者のジュリエット・礼子・ナップ、川崎陽子による複数名のディレクション体制へと以降するが、継続的・安定的な運営のためのファンドレイジングや、表現の自律性・批評性を守るための環境形成は大きく厳しい課題である。そこでは「劇場空間は誰のものか?」「劇場を『開く』とは何を意味するか?」といった議論が積極的に交わされ、その試行と成果が実践的に積み上げられていく必要がある。KYOTO EXPERIMENTの10年は輝かしい10年間であったが、そのレガシーを後の時代に展望をもって引き継いでいけるかどうかは、若い世代の制作者・アーティスト、そしてそれを異なるレイヤーから支えることになる橋本やその上の世代に課せられた大きな責務である。そして、もちろんライター/編集者としての私や、批評家、ジャーナリスト、メディアにも性格の異なる責務の遂行が求められている。

やや回り道の評となってしまったが、再び『変則のファンタジー』に話を戻そう。上記した橋本の10年間のあゆみを踏まえたとき、一種の「劇場(とは誰のものか)論」としても読み解くことのできる春秋座での『韓国版』上演には、劇場である春秋座、国際舞台芸術祭であるKYOTO EXPERIMENTにとって大きな意義がある。

歌舞伎を主軸としつつも、学生や国内外のアーティストによる現代作品なども柔軟に上演する春秋座も、近年は現代美術など舞台芸術以外の作品もプログラムに組み込むKYOTO EXPERIMENTも、商業面で自立可能な作品を除いて、本質的に「どんなものでも受け入れる公器」としての多面性と寛容さを有している。この寛容は、都市共同体における公共の概念とも結びつく。『韓国版』は、その性質を作品の側からあらためて照射するものでもあった。作品それ自体としての強度を保ちながら、その批評性を広く社会や文化にも届けることのできる芸術としての『変則のファンタジー』は、KYOTO EXPERIMENTを次の5年、10年へと送り出す、導き手でもあったのだ。

 

最後に

もはや『変則のファンタジー』への評は書き尽くした感があるが、足早に今年のKYOTO EXPERIMENTを総括して終えたい。

「世界の響き ―エコロジカルな時代へ」と題し、昨今ヨーロッパを中心に話題となる気候変動や、思弁的実在論以降の世界認識、ヨーロッパ周縁部の価値観への眼差し、植民地主義の再考……といった「国際芸術祭の流行」に素朴に乗っかったようなプログラムが当初は意識されたようだが、全体を見てみるとそういったシラける欧米中心的な知の礼賛や教条性よりも、表現を介した「没入」と「変身」のプロセスに関心を寄せる作品に、私は心惹かれた(汎アジア的な変身の感覚の共有?)。

特筆すべきは、舞台美術に巨額の予算を投じ、フェイクの宗教儀式をつくりながら演劇的イメージによってそれを見事に混濁・反転させた庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』から、夜の平安神宮で強迫的な反復運動を繰り返したブシェラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』へ、という一連の流れは、没入への批判的省察とシンプルであるがゆえに強度のある没入の実践の両方を体感させてくれた。これは時間と空間を多くの者がともにする芸術である舞台芸術・身体表現のポテンシャルを巧みに扱ったという意味で、『変則のファンタジー』と並ぶ好プログラムであった。

この他にもチョイ・カファイ『存在の耐えられない暗黒』やアミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループ『Hearing』、神里雄大/岡崎藝術座『ニオノウミにて』も、なんらかの変化・変身の先に想定される「結論」ありきではない、プロセスの豊かさと政治性に重きを置くという点で共感を持って鑑賞した。

これまでのKYOTO EXPERIMENTは橋本個人の志向、あるいは優れたダンサー(コレオグラファーではないことは強調したい)に恵まれた京都の人的環境をふまえてか、ダンスあるいはダンス的なるものがもたらす悦楽や狂乱に重きを置く10年間であったと思う。その意味でも、変則(普通の規則・規定にはずれていること。通常のしかたでないこと)を謳う『変則のファンタジー』が、今年最後の上演作であったことは示唆的であろう。

 
しまぬき・たいすけ
美術ライター&編集者。1980年生まれ。京都&東京在住。『CINRA.net』『美術手帖』などでインタビュー記事、コラムなどを執筆するほか、編集も行う。

撮影:守屋友樹 画像提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

(2019年11月27日公開)

 


KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2019(2019年10月5日-27日)

サイレン・チョン・ウニョン「変則のファンタジー_韓国版」は、2019年10月26日・27日、京都芸術劇場 春秋座にて上演されました。