浅田 彰×黒瀬陽平「ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」[第3ラウンド]1

 
僕の思いつきの疑問に対する丁寧な返答に感謝します。黒瀬さんがきちんとものを考えてアート活動を展開していることがこれで一般の読者に伝わるとすれば、それだけでも意味があるでしょう。
黒瀬さんの返答に対し、さらに疑問を重ねる必要はないようにも思うのですが、いくつかの点だけ再確認しておきます。

 
1.クールベ 久松知子が、クールベの《オルナンの埋葬》に基づく作品に続き、《画家のアトリエ》に基づく作品を制作中だと知って、期待を抱かされました。黒瀬さんがそれを論じるかどうかは別として、期待して待ちたいと思います(ひとつだけ言っておけば、クールベについては、マイケル・フリードのフォーマリスティックな分析のみならず、T.J.クラークの歴史的研究も押さえておくべきでしょう。両者がきちんと読まれるべきだというのが『批評空間 別冊特集 モダニズムのハード・コア』のメッセージの一つだったのですが、クラークの主要著書の翻訳がまだ出ていないのはどうしたことでしょう)。

ギュスターヴ・クールベ《画家のアトリエ》
キャンバスに油彩、1855年


(『批評空間』[編集:浅田彰、柄谷行人])
(第2期臨時増刊号)
『モダニズムのハード・コア―現代美術批評の地平』
[共同編集:浅田彰・岡崎乾二郎・松浦寿夫 ]
1995年、太田出版


ついでに思い出せば、ポンピドー・センターで開催された『前衛芸術の日本』展(1986-1987)のシンポジウムに蓮實重彦・柄谷行人・中上健次とともに参加した、ちょうどそのとき、中上健次を興奮させた学生デモの盛り上がりにコアビタシオン(保革共存)相手である右派のシラク首相が手を焼いているのを尻目に、左派のミッテラン大統領がオルセー美術館の開館式を執り行ったのでしたが、当時の関係者の話では、右派のジスカール・デスタン前大統領はオルセー美術館を(つまり19世紀フランス美術を)本当はドラクロワの《民衆を率いる自由の女神》から(つまり1830年革命で成立した金融ブルジョワジー支配から)始めたがったのに対し、ミッテラン大統領はクールベの《オルナンの埋葬》から(つまり1848年の社会主義革命から)始めるよう主張し、実際にドーミエ(七月王政批判)とクールベ(1848年革命)が起点に置かれることになった、ということでした。美術史がそこまで政治的な意味をもつことが日本には十分に伝わっていないように思っていたのですが、久松知子のような若い画学生がオルセー美術館を訪ねてまさにそのポイントに敏感に反応したというのは嬉しい驚きです。

ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》
キャンバスに油彩、1830年


ギュスターヴ・クールベ《オルナンの埋葬》
キャンバスに油彩、1849-50年


 
2−1.矢代幸雄史観と「復興」 日本文化を、外からの衝撃とそれを内部化する反応の連続として、またそれによって形成された独特な二重構造として分析するというのは、ありふれているとはいえ有効な見方だと思います。柄谷行人と僕が『批評空間』を編集していた時代でいえば、磯崎新の「和様化」論や柄谷行人の「日本精神分析」(漢字かな交用をパラダイムとする)がその典型でしょう。矢代幸雄の美術史をそのような観点から見直すことも、確かに可能だと思います(どのくらい興味深い結果になるかは僕にはわかりませんが)。それを踏まえた日本美術史の見直しという黒瀬さんのプロジェクトには期待しているとだけ言っておきましょう。

『TALK 橋本治対談集 』
2010年、武田ランダムハウスジャパン

ただ、それを「日本的イコノロジーの復興」と呼ぶのは適切でしょうか? それだと「そもそも『日本的イコノロジー』というものがあった、失われたそれを復興しよう」という反動的な解釈は避けがたいのではないでしょうか?(それに対し、「そもそも最初に『もどき』があった」と[ある意味でデリダ的に]考えるのが磯崎新のヴィジョンでした)。もしかすると、日本文化をカタストロフィーとそこからの「復興」の連続として見る福嶋亮大の『復興文化論』(青土社)を踏まえているのかもしれませんが、僕にはミスリーディングなタイトルに見えて仕方がないのです。

ここでは細部に立ち入るのは控えますが、ついでにひとつだけ言うと、柄谷行人の視点から見ても、「狩野派は、たんに構築的だったからではなく、唐絵・漢画とやまと絵を(つまりは漢字的な構築とかな的な『自然』を)うまく両立させたからこそ、あれほどの影響力をもったのだ」という橋本治の『ひらがな日本美術史』[新潮社]の見方は、矢代幸雄などより鋭いように思います(これについては橋本治本人とも『TALK 橋本治対談集』[武田ランダムハウスジャパン]所収の対談で議論しました)。

 
2−2 「前面性」と「2次元性」 その矢代幸雄の「前面性」という概念を借りて、仏像などを含む日本の宗教美術を特徴づけるというのは、やや大雑把に過ぎるとはいえ、ある程度まで納得できる見方だと思います。ただ、僕の疑問は、「日本の仏像や神像について、おおむね正面性が強いということは言えるとしても、『二次元的である』とまで言い切れるか、あるいはまた、キャラクターは二次元でなければいけない、言い換えれば三次元的なキャラクターはキャラクターたり得ない、と言い切れるか」というものでした。黒瀬さんの返答を踏まえてもなお、この疑問は残ります。日本の宗教美術が二次元的であり、したがってマンガやアニメの二次元性とつながると決めつけるのは、やはりかなり乱暴な議論ではないでしょうか?

 
2−3 聖俗の切断/共存 一神教、とくにキリスト教の世界で、現世と来世、俗なる空間と聖なる空間は截然と切断されており、ひとつの絵画空間の中でそれらを描こうとすると矛盾や緊張が生ずる、他方、アニミズムや多神教の世界、とくに日本では、現世と来世、俗なる空間と聖なる空間は連続しており、ひとつの絵画空間の中にあっけらかんと共存し得る、という見方は、やはり大雑把すぎるものの、比較文化論的な第一次近似としては理解できます(ちなみに、ストイキッツァの取り上げるスペインの神秘主義的幻視絵画は霊的なものを肉のごとき生々しさをもって体感させようとする特殊な例であり、極端な例だからこそ一般的な特徴が鋭く表れているという見方も可能であるにせよ、西洋の宗教美術一般に関して言えば、二つの空間がさしたる矛盾も緊張もなしに共存している例を挙げることは難しくありません。ともかく、一般論として、「西洋では…東洋では…」「西洋では…日本では…」といった紋切り型にはつねに一定の疑いをもつべきである一方、そういう比較文化論的な議論をするなら平均的な例を挙げて比較検討したほうがいいでしょう)。

ただ、僕が問題にしていたのは、久松知子の《日本の美術を埋葬する》を、生者と死者が共存するプレモダンな日本的空間と称するものに回収する見方が、本当に適切なのか、ということでした。そもそも、黒瀬さんはそのような日本的空間の例として来迎図を挙げていますが、阿弥陀と聖衆がいまここで往生しようとする者の家に来迎するというその構図は多くの場合きわめてダイナミックかつ立体的(左上の天上から右下の現世に舞い降りる構図をあえてそう形容するなら)であり、久松作品のスタティックな平板性とは異質であるように思われます。そうした点も含め、僕はいまもって久松作品をプレモダンな日本的空間に回収することに懐疑的です。

久松知子《日本の美術を埋葬する》
パネルにアクリル、岩絵具、2014年


 
詳しく展開すればきりがありませんが、このように、僕は黒瀬さんの返答に納得させられたわけではありません。それでも、黒瀬さんの『Little Akihabara Market』展のテクストが単なる思い付きではなく、それなりに広く深い思考に裏打ちされていることがあらためてよくわかったし、そのことが多くの読者に伝わるとすれば、この意見交換には十分な意味があったと言うべきでしょう。

本来はここで一応の締めくくりにしてもいいはずですが、実はこの間に『Little Akihabara Market』展に先立つ『福島第一原発観光地化計画展2013 「フクシマ」へ門を開く』展の図録(ゲンロン通信 ♯12)が届き、そこに掲載された黒瀬さんの「『当事者性』の美学」を読んで新たにいろいろと考えたので、話の順序が前後してしまいますが、2点に絞って疑問を呈することにします。

「フクシマ」へ門を開く:福島第一原発観光地化計画展2013
図録特別号、2014年、株式会社ゲンロン出版部


 
1.「当事者性」の美学 黒瀬さんのテクストの前半の主題は、タイトルに掲げられた「『当事者性』の美学」で、それが展覧会の複雑な構成に即して詳しく説明されるわけですが、ここでの議論に必要な要点だけを再確認しておけばおおむね下記のようになるでしょう。

・展覧会第二会場でフィーチャーされるのは東日本大震災直後に描かれた梅沢和木(カオス*ラウンジのメンバー)の《うたわれてきてしまったもの》(2011)だが、それは、ネット上の画像掲示板で匿名のユーザーたちによって生み出されたキャラクターを無断で引用・変形したものであったため、そして黒瀬さんの推測では自閉的なオタク文化の虚構空間に震災の現実を重ね合わせるものであったため、激しい「炎上」を引き起こした。「直接の被災者ではないカオス*ラウンジ」は「自らの炎上の『当事者性』を介することで震災について考えた」。

・第二会場を訪れる観客は、死角のない監視カメラ(新津保建秀の作品の一部)に撮影され、その映像が後に新津保作品や梅沢作品に使用されることに同意するよう求められるが、「同意書へサインをし、自らの肖像権を放棄して、梅沢作品の一部となることを容認するということは、部分的にであっても、梅沢やカオス*ラウンジの活動に『参加する』ことを意味している。[…]同意書にサインをして第二会場に立ち入る者は、もはやただの観客ではなく、炎上の『当事者』である。」

・さらに、観客は第二会場で「原発麻雀」——「プレイヤーがそれぞれ国内の電力会社となり、より甚大な原発事故を起こすことで、保証金や賠償金を取りあうゲーム」をプレイすることで、「東京電力の『当事者性』」を身に帯びる。

・こうして「自覚された自らの『当事者性』」と「他者の『当事者性』」を幾重にも重ね合わせる展覧会の構成は、「フクシマの未来に立ち会うことができるのは無関係な観客であることを自ら放棄した『当事者』のみである」という基本コンセプトに基づいている。

 
ここで黒瀬さんは、当事者性を重視した上で、ゲームでのロール・プレイングのようなある意味で出鱈目とも言える仕方で当事者性を開かれた連帯(「復興へ向けた連帯」)へとつなげることを考えているようです。
他方、僕の基本的な考えは、当事者性の論理は社会学的・社会政策的には重要でも、文化的にはむしろ障害になる、というものです。迂回することになりますが、重要な問題なので、簡単に説明しておきましょう。

マイノリティの(自己)理解と(自己)解放のために当事者性の論理が決定的に重要であることは言うまでもありません。たとえば性的マイノリティのように、当事者自身が性的マイノリティであることを恥ずべき倒錯であると信じこまされてきたような場合、当事者が自己を肯定し、社会に向けて自己を主張できるようになるには、当事者同士のピア・カウンセリングが何よりも有効でしょう。

ただ、この論理を一方的に推し進めると、隘路に陥る危険があります。女性−レズビアンの女性−アフリカ系のレズビアンの女性−不法移民のアフリカ系のレズビアンの女性…のことは当事者にしかわからない。この論理を徹底すると、挙句の果てには、「私のことは当事者である私にしかわからない」ということになってしまう。これはコミュニケーションの否定です。そもそも本当は私のことは私にはわからない。私にとって私とは謎であり、他者とのコミュニケーションの中でそのつど部分的に明らかになっていくものだったはずです。

マイノリティの当事者性に配慮することが政治的に正しいというポリティカル・コレクトネス(P.C.)の論理がアートの世界でも強調された時期がありますが、そういう意味で僕は一貫してポリティカル・コレクトネスの過度の強調に反対し、むしろ、公衆(パブリック)、つまり「無関係な観客」が、知りもしない作家の作品を何の遠慮もなく批評できるという近代文化の原則を擁護してきました。「当事者性」にこだわらない、ある意味で無責任な、開かれたコミュニケーションこそ、文化にとって(そして本当は社会学的・社会政策的にも)最終的に最も重要なのではないでしょうか。

たしかに僕は同意書にサインして第二会場に入りましたが、カオス*ラウンジの「炎上」の「当事者」になったつもりはまったくありません。ゲームが嫌いなので「原発麻雀」はプレイしませんでしたから、東京電力の「当事者性」とも無縁のままです(もちろん、日本の住民として原発文明の中で生きてきたわけですから、原発問題の当事者ではありますが)。そのような「無関係な観客」として展覧会を見、また黒瀬さんのテクストを読んだとき、そこでなぜ「当事者性」がこうまで強調されているのか、よくわかりませんでした。また逆に「当事者性」を本気で重視するのなら、東日本大震災とカオス*ラウンジの「炎上」を、またそれぞれの「当事者性」を重ねるとか、「原発麻雀」をプレイすることで東京電力の「当事者性」を身に帯びるとかいうのは、いくらなんでも軽率に過ぎるのではないでしょうか(黒瀬さんのテクストでは「当事者性」という言葉はつねに括弧に入っているので、この括弧はもしかすると「…ナンチャッテ」というアイロニカルな距離感の暗黙の表現なのかもしれませんが)。そうやって顰蹙を買う危険を冒してまで「当事者性」にこだわらなければならないのは一体なぜでしょうか。テクストの終わりの方では

震災後の新しいポリティカル・アートである「当事者性の美学」は、80年代の日本において一時的な流行の後に潰えた「PC(ポリティカル・コレクトネス)アート」を、「当時とは違うかたちでやりなおす」ものであると言えるかもしれない。さらに美術評論的に補足しておけば、「当事者性の美学」は、「関係性の美学」(ニコラ・ブリオー)に対するオルタナティヴにもなりうるだろう。

と書かれているものの、もう少し詳しい説明がないと納得するのは難しい——少なくともそれまでは僕は懐疑的なままにとどまるでしょう。

 
2.高橋由一の螺旋展画閣と広義のミュージアム さて、黒瀬さんのテクストの後半は、高橋由一の螺旋展画閣構想に遡った上で、広義の「ミュージアム」の可能性を考えるというものです。論点は多岐にわたりますが、再びここでの議論に必要な要点だけを再確認しておけばおおむね下記のようになるでしょう。

・明治以後の日本では「ミュージアム」は「博物館」と「美術館」の二つに分割されてしまった。

・しかし、明治初期に高橋由一の構想した螺旋展画閣(1881)は、一方で西洋の油彩画によって世界のすべてをとらえようとする美術館(美術館を博物館に従属するものとみなす当時の常識とは逆の、博物館を内包する美術館)であると同時に、他方で江戸時代の栄螺堂(さざえどう)と呼ばれる建築形式を採用した土着的で自然に開かれた見世物小屋でもあるという両面を備えた、総合的「ミュージアム」だった。

・そのような両面性(人工的イメージによる世界の閉じ込めと自然の想像的取り込み)は、むしろ、テーマパーク——とくに虚構を現実から隔離する東京ディズニーランドに対して虚構の海と現実の東京湾を重ね合わせる東京ディズニーシーや、オタクの「趣都」であり「聖地」である秋葉原などに体現されることになった(ここで、この意見交換の最初の方で取り上げた《都市ソラリス》展での東京ディズニーシー論につながる)。

・福島第一原発観光地化計画は、そのような意味で「史上最大規模の総合的『ミュージアム』」を目指すことになる。

美術館と博物館の分割(黒瀬さんの言う「古美術を扱う博物館と、近現代美術を扱う美術館」という役割分担のみならず、自然史ミュージアムと芸術史ミュージアムというより大きな分割まで含め)を超えて総合的な文化施設としてのミュージアムを目指そうとする動きは、日本のみならず世界中にあり、一定の歴史的必然性をもっていると思います。ただ、高橋由一の螺旋展画閣構想をその起点に置くというのはどうでしょうか。高橋由一についてはこの意見交換でも触れたことがあるので、この機会にもう少し詳しく考えておくことにします。

もちろん、幕末から明治初期を生きた高橋由一の中に伝統的な日本的感性と新しい西洋美術の衝突を見る従来の見方(高階秀爾に代表され、黒瀬さんの依拠する北澤憲昭にも見られる)は自然な見方であって、かなりの程度まで正しいでしょう。それは承知の上で、僕は(また、はるかに精密な仕方で岡﨑乾二郎も)高橋由一を西洋/東洋の比較文化史にとらわれない真っ当なモダニストとして見直せないかと考えてきました。先にワーグマン/高橋をドーミエ/クールベに擬したのも、その一環です。

もちろん、ナポレオンIII世の第二帝政を批判し、1855年、体制側の万国博覧会に対抗して単独で個展(そこで《オルナンの埋葬》や《画家のアトリエ》が展示された)を開催した、そして1871年のパリ・コミューンで人民委員を務め、その敗北後、スイスに亡命して死ぬことになるクールベに対し、明治維新前後を生きた高橋由一は、琴平山博覧会(1879)に37点もの作品を出品したり(その多くはいまも金刀比羅宮で見られる)、東北各県で自由民権運動を弾圧しつつ土木工事を進めた東北の小ナポレオンIII世とも言うべき県令・三島通庸の下でその土木事業を記録したりしている(螺旋展画閣建設の斡旋を依頼したこともある)。体制側の——というか体制/反体制がはっきりしない時代のクールベと言うべきかもしれない。ただ、それらの作品自体はいたって真っ当なレアリスム絵画と見ることができるというのが僕の考えです。

螺旋展画閣構想についても同じことが言えるでしょう。確かに、高橋由一は美術が見世物だった時代に生きた。展画閣の栄螺堂という形式も、いまのわれわれの目にはいかにも古い土着的なものに見える。しかし、高橋由一が(西洋の油彩画の理念を追求する一方で)意図的に土着的な見世物小屋の形式として栄螺堂を採用したことを示すテクストや証言は、僕の記憶にはありません(あらためて調べ直したわけではないので見落としがあるかもしれませんが)。むしろ、螺旋展画閣はF.L.ライト設計の螺旋状のコースをもつグッゲンハイム美術館を先取りするものだと言うことだってできなくはないでしょう。ちょうどいま、兵庫県立美術館で、『美術館の夢』展(2002年)のときにつくられた螺旋展画閣の模型(中谷礼仁・田中昭臣制作)が展示されていますが、高橋由一の簡単な構想図から推定して余計なディテールを付け加えることなくつくられた模型だから当然とはいえ、きわめて整然とした姿で、決して土俗的な印象は与えません(なお、黒瀬さんが引用している通り、中谷・田中両氏は栄螺堂の多くに「建物の内部に自然を想像的に取り込もうとする意図」が見られると言っていますが、高橋由一がそういう要素を取り込もうとしていたことを示す証拠はないはずで、両氏のつくった模型にもそのような要素は付け加えられていません)。

はっきりと認めておきますが、高橋由一については、黒瀬さんの方が高階秀爾から北澤憲昭にいたる主流派の常識に沿っており、僕の見方の方が少数派の多少とも乱暴な異論ということになるでしょう。しかし、その立場からあえて言うなら、黒瀬さんの議論は比較文化論の定型をあまりに無批判に前提し、「近代における美術の自律性の神話を超え、美術館と博物館を、また、それらとテーマ・パークやゲーム・センターを融合させて、聖俗の混在するプレモダンな祝祭空間のポストモダンな再生に向かって進もう」というポストモダニズム右派の紋切型をあまりに無批判に反復しているように見えます。あえて高橋由一を出発点に置いた黒瀬さんの壮大な構想を評価しつつ、「それならばこういう見方もできるのではないか」という異論(必ずしも正論ではなく)を提示してみた——それが黒瀬さんにとって何らかのヒントになるとすれば幸いです。

 
『Little Akihabara Market』展のテクストがそうだったように、『福島第一原発観光地化計画展 2013 「フクシマ」へ門を開く』展のテクスト「『当事者性』の美学」も、重要な問題を真っ向からしかも明確に論ずるものでした。それを評価するからこそ、このような疑問を投げかけるのだということを、あらためて強調しておきます。

ここで内輪の話をばらしてしまうのはフェアではないかもしれません。ただ、一連のやりとりの中でいちばん印象的だったのは、「もちろん僕は日本的イコノロジーなどというものを本気で信じているわけではない」という黒瀬さんの発言でした。「日本的共同体」とその文化を本気で「復興」しようなどと考えるナイーヴな反動家たちと黒瀬さんではおよそレヴェルが違うと思っていたので、この発言に驚くことはありません。ただ、「日本的イコノロジー」が「動員」のための「ネタ」(カール・シュミットのロマン主義批判の用語で言えば「原因・大義」causaではなく「機会」occasio)として有効そうだから使ってみるまでだというアイロニーとシニシズムは、素朴な「復興」論者のナイヴテと同じくらい危険なもののように思えてなりません。

この意見交換のはじめの方で「近代の超克」に触れましたが、よく知られているように、太平洋戦争開戦後に行われたこの題名の座談会の参加者たちを、竹内好は京都学派・『文学界』グループ・日本浪漫派に分類しています。その枠組で言えば、西洋との対比で「日本的イコノロジーの復興」を目指すというという黒瀬さんのタテマエ上の大義causa が広い意味で京都学派的だとすれば(京都学派の遠い源泉のひとつが岡倉天心であることを考えるとそれは不思議ではありません)、「日本的イコノロジー」は「動員」のための「ネタ」occasio に過ぎないという黒瀬さんのホンネ(?)は日本浪漫派に接近しすぎているように思えるのです——もちろん、「だから、少なくとも『文学界』グループのように近代をもっと勉強しなさい」などと言うつもりは毛頭ありませんが。

こうした点も含め、またあらためて意見交換の機会がもてれば、と期待しつつ、とりあえず筆を置きます。

(あさだ・あきら 京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長)

 

(2014年7月18日公開)



〈C O N T E N T S〉
浅田 彰×黒瀬陽平「ポストモダン・ジャパンの行方――意見交換」[第1ラウンド]1&2
(Text by 浅田 彰:『都市ソラリス』の余白に/『都市ソラリス』の余白の余白に)
[第1ラウンド]3
(Text by 黒瀬陽平:「接続」と「切断」の設計:浅田さんへの応答として)
[第2ラウンド]1
(〈CHAOS*LOUNGEより再掲〉Text by 黒瀬陽平:日本的イコノロジーの復興)
(Text by 浅田 彰 黒瀬陽平へ——『LITTLE AKIHABARA MARKET』の余白に)
[第2ラウンド]2 (Text by 黒瀬陽平 「日本的イコノロジー」を支える絵画空間)
[第3ラウンド]1 (Text by 浅田 彰 黒瀬陽平へ——「『当事者性』の美学」の余白に)