プロフィール

石谷 治寛(いしたに・はるひろ)
京都大学人間・環境学研究科博士後期課程修了。
博士(人間・環境学)。
現在、甲南大学人間科学研究所博士研究員。
京都造形芸術大学他講師。
美術史、アート・メディエーター。
著書に、『幻視とレアリスム――クールベからピサロへ 近代フランス絵画の再考』(人文書院、二〇一一)。
共著に、『見る、撮る、魅せる、アジア・アフリカ!』(新宿書房、二〇〇六)、『ジョルジョ・モランディの手紙』(みすず書房、二〇一一)、『アートセラピー再考――芸術学と臨床の現場から』(平凡社、二〇一三)。共訳書に、クレーリー『知覚の宙吊り』(平凡社、二〇〇五)など。
論文に、「アートとセラピーの書きかえられた記憶――マイク・ケリー《エデュケーショナル・コンプレックス》と偽りの記憶症候群」(甲南大学人間科学研究所紀要、二〇一二年)。「理性の眠りは怪物を生みだすか?――インカ・ショニバレの船と布地」『表象05』(月曜社、二〇一一)など。

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アート・メディエーターと「サビニの女たちの仲裁」

2013年04月20日

日本語ではまだ、アート・メディエーターという語は聞きなれない。むしろ、アート・コーディネーターやアート・マネージメント、あるいはエデュケーターや批評家という言葉で、芸術作品や行為と、観客を結びつける役割の人々のことを指すことが多い。フランスでは1990年代から、文化行政のなかで文化媒介者(Médiation culturelle)の存在が課題となり、美術館での教育普及やアート・コーディネーターの実践者を表す言葉となってきた。日本では、科学の分野で、専門性を市民社会のなかに活かす実践者の役割をサイエンス・メディエーターという言葉で表すようになってきている。

マニフェスタ・ビエンナーレでは、芸術祭と並行してアート・メディエーターの養成に力をいれており、アート・メディエーターにも幾つかのタイプに分類されることを明確にしている(関心のある方は以下のPDFの英語アンケートに答えてみて欲しい「あなたはどんなアート・メディエーターですか?」)。それによれば、アート・メディエーターは、アートによる美的享受や個人の学習から、社会参加、制度批評、社会変革までを促進するさまざまな役割を担う。これにセラピューティックな(治療的な)メディエーションを加えることもできるだろう。フランスではグループでのアートセラピーを指す時に、セラピーという言葉よりメディエーションという言葉を使う傾向も近年みられる。歴史を遡るならば、1970年代から自ら統合失調の患者に精神療法に由来する独自の施術を行ったブラジル出身のリジア・クラークは施術者をメディエーターと呼んでいた(拙論「セラピストとしての芸術家――リジア・クラークと移行対象」『アートセラピー再考――芸術学と臨床の現場から』を参照)。メディエーションの概念や実践の世界的な広がりが、1970年代における南米経由の文化闘争に由来するかもしれないという仮説は魅惑的である。

メディエーターはまた、家族や社会的な紛争を、法の前で調停する技法を身につけた専門職を表す言葉でもあり、家族カウンセリングの分野での離婚調停者や平和構築のための紛争仲裁者、最近では医療過誤をめぐる係争の調停を担う役割にも使われている。語源をたどれば、medi-という接頭語は中間を表す言葉で媒体やメディアという言葉とも関連が深い。メディエーターはその人自身がメディアにもなる。この言葉は、SNSの時代に顕在化してきた中間領域で働く人々の役割を明確にするだろう。欧米のアートセラピストも近年はその方法を、個人の病の診療だけでなく、文化的な紛争調停やコミュニティー・オーガナイズのツールなどにも応用しはじめてきていることを踏まえれば、メディエーションという言葉は、上記のさまざまな活動を包括する概念と言える。メディエーターという語は、緩やかな専門性を結びつけながら明確な職業的な責任を担うコーディネーター業務のひとつの側面に存在感を付与することができるように思われる。私はといえば、芸術の研究者であると同時に教育者でもあり、アートを社会変革や分析のツールとして活用する方法、異なる専門分野を結びつける方法を模索していきたいと、最近ますます思いはじめている。

ところで、こうしたメディエーターの役割を考える時に、私は――美術史家としてのくせのようなものであるが――、ダヴィッドによる《サビニの女たちの仲裁》(1795年、ルーヴル美術館蔵)の図像を思い起こさずにはいられない。この絵画は、テルミドール反動に際して、ロベスピエールの友人であった急進派のダヴィッドによって、一年余りの幽閉の中で構想されたとされる。この絵画は1795年の画家の釈放の後、大革命の10年後の1799年に完成された。ダヴィッドはこれを注文なしに自主的に制作し、完成後アトリエで入場料を取って展示し、公衆に開かれた美術展の先駆けになった。前回の投稿で触れたネグリの言葉を用いるならば、近代最初の芸術家個人による〈公〉のアート作品であると言っても良いかもしれない。絵画に描かれる物語の詳細は、プッサンらの先例でもよく知られているものなので、ここであえて繰り返さないが、ローマを建国した男たちに隣町サビニの女たちが略奪婚され、数年後、姉妹を奪われ復讐しに攻めてきたサビニの男たちに対して、当の犠牲者の女たちが仲裁に入るという物語である。仲裁の結果として、ローマとサビニが和解したあと、両部族はローマの優位を前提として統一される。それゆえ、この絵画は、紛争調停だけでなく、国民統合、同化や家族の絆、混血の寓意ともなり、家父長的な核家族を社会構造の支えとする総裁政府時代の政治的文化的な戦略とも合致していくと見なされている(詳しくは鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』を参照)。

家族主義のもとで平和のために自己犠牲を払うサビニの女たちのヒロイズムは、近代の性的分業の枠組みを超えていないし、ここに描かれる媒介者の役割は、暴力を内在した合議民主主義を補完する尖兵となりかねない。しかしサビニの女たちは、国家と資本主義の暴力に「もうたくさんだ」と声をあげようとするために立ち上がった人々の勇気をも伝えている。略奪された悲劇的な犠牲者、ないし、それでもなお勝者の妻に安住する一面的なイメージでは捉えきれないように思える。ここで、この図式を、西洋中心主義とその周縁国や、ましてや東京と福島といった現実の諸関係になぞらえるつもりもない。

しかし、いまや生政治の時代と呼ばれ、何らかの闘争に誰もが自らを投企せざるを得ないご時世である。アラブの春やアノニマスや占拠運動の熱狂が過ぎた後の時期のメディエーターたちは、この「サビニの女たち」のジレンマを生きざるを得ないが、暴力の行使に加わるわけでも、その暴力をバルコニーの高みから眺めて、批判や喝采しながら、賭け事や投機の対象としているだけでもない。メディエーターは、現場の生ける目撃者になり、積極的に敵対者の関係性を変容させるために働きかけていく。その自己統治や媒介の技法は、核家族や核国家が生み出す孤立を超えた、新しい関係性や物語構築のための基盤ともいえるものにもなる、のではないだろうか。