大阪市立東洋陶磁美術館 特別展『台北 國立故宮博物院−北宋汝窯青磁水仙盆』展評


青磁無紋水仙盆 汝窯/北宋・11世紀末~12世紀初 高6.7cm、口径23.0×16.4cm
台北 國立故宮博物院(写真:六田知弘)



清水 穣

越窯、耀州窯、定窯、汝窯、鈞窯、南宋官窯、哥窯、龍泉窯、磁州窯、建窯、吉州窯・・・思いつくままに挙げても両手に余る中国名窯の数々の品は、現在にいたるまで陶磁の美の絶対的規範として伝世してきた。それらの名窯が頂点を極めるのが宋代(北宋〜金〜南宋)であり、とりわけ北宋末期の青磁・白磁は、その後の時代の東洋陶磁にとって、失われた理想郷の輝きを永遠に留める存在といって過言ではない。本展は、その宋代名窯の頂点とされる汝窯のなかでも、「神品」とされる無紋(無貫入のこと)の青磁水仙盆を、台北故宮から世界で初めて将来し、それを中心に現存する全6点の水仙盆のうち5点(台北故宮蔵4点、東洋陶磁美術館蔵1点)、さらに清時代の倣汝窯水仙盆1点を加えて、展示するものである。

青磁水仙盆 汝窯/北宋・11世紀末~12世紀初 高5.7cm、口径23.1×15.2㎝
台北 國立故宮博物院(写真:六田知弘)


青磁水仙盆 汝窯/北宋・11世紀末~12世紀初 高6.8cm、口径23.1×15.8cm
台北 國立故宮博物院(写真:六田知弘)


青磁水仙盆 汝窯/北宋・11世紀末~12世紀初 高6.4cm、口径26.4×18.6cm
台北 國立故宮博物院(写真:六田知弘)


青磁水仙盆 汝窯/北宋・11世紀末~12世紀初 高5.6cm、口径22.0×15.5cm
大阪市立東洋陶磁美術館(写真:六田知弘)


倣汝窯青磁水仙盆 景徳鎮官窯/清・雍正~乾隆年間(18世紀) 高6.8cm、口径23.3×16.8cm
台北 國立故宮博物院(写真:六田知弘)



一般に陶磁器の研究には3つのアプローチがあるだろう。1)ある窯やある伝世品をめぐる関連文献を徹底的に調査する文献研究、2)その窯の窯址を発掘して、陶片や出土品、窯構造や窯道具などから時代考証を行う考古学的研究、3)伝世品、出土品や陶片といった物自体の物性を分析する物理学的研究である。

とはいえ、2)は、何しろ窯址の場所がすべて中華人民共和国という、(昔も今も)外国人が簡単にアクセスできる国ではないため捗らない。また宋代の信頼できる伝世品といえば重文、国宝級の古陶磁であるので、3)はほぼ不可能。畢竟、従来の研究は専ら1)と、戦前の萌芽的な2)と、あとは様々な伝世品をできる限り見て触って目を肥やすという「目利き」に頼ったものであった。青山二郎の放言によれば、中国陶磁は「見ればわかる、それだけのもの」であった。

宋代陶磁の研究は、80年代後半から中国の学者たちが2)の考古学的発掘を積極的かつ大々的に推し進めたことで、新しい局面を迎える。それまで謎だった窯址の場所が特定され、それぞれの名窯の窯址で、10年20年がかりで何次にも分けて、精密な発掘調査が行われた。膨大な出土資料や考古学的データの分析は21世紀にかけて実を結び始め、伝世品と文献によって形成されてきた従来の認識を衝撃的に裏切るような、飛躍的に新しい知見が拓かれてきた。

解像度という言葉があるが、解像度が上がるとそれまではっきりとしていた「像」が「解」体する。考古学的調査の成果によって、陶磁史研究の解像度が上がった結果、従来の宋磁像が解体しつつあるわけである。例えば「汝窯」という1つの像が、幾重にも複数化する。窯址が清涼寺(地名)に特定されたかと思うと、発掘成果からは汝窯内部の発生〜成熟〜衰退の諸段階や、伝世品には見られない意外な影響関係が見つかり、さらに付近で類似の窯址が発見されて、「汝窯」とされてきた伝世品に対して「類汝窯」とか「汝州窯」という一定の幅を想定せざるを得なくなり、さらに汝窯の前後に、それに先立つ青磁の系譜とその後の影響史が広がるというふうに。

東洋陶磁美術館は、この宋代陶磁史研究のスリリングな展開を、アクチュアルに、そして連続して伝えている国内唯一の美術館である。それは2009年、あっと驚く陶片のみによる大胆な展覧会、汝窯陶片展(「北宋汝窯青磁 — 考古発掘成果展」2009.12.05 – 2010.03.28)に始まり、汝窯青磁を受け継ごうとしながらも別の美意識へと変化していく南宋官窯の陶片展(「幻の名窯 南宋修内司官窯 — 杭州老虎洞窯址発掘成果展」 2010.08.07 – 11.28)、青磁の歴史の絢爛たる最後の下り坂を見せる龍泉窯の陶片展(「碧緑の華・明代龍泉窯青磁 — 大窯楓洞岩窯址発掘成果展」2011.09.10 – 12.25)、そして宋代の白磁の展開に注目した定窯の陶片展(「定窯・優雅なる白の世界
−窯址発掘成果展」2013.11.23 – 2014.03.23)を経て、本展へとつながっている。

一向に改善の兆しの見えない近年の日・中・台関係にも関わらず、過去8年間に渡って学術的・人的交流を積み重ねてきた出川哲朗館長と小林仁学芸員による連続国際交流展は、汝窯の陶片に始まり汝窯の神品で閉じる一つの円環を結ぶこととなった。これは、2)の考古学的研究が一区切りついて、1)、3)のアプローチと連動するようになり、あらためて研究対象として個々の伝世品が再検討の俎上に上るようになったということでもある。それに応じて、本展への考えるヒントとして、伝世の安宅コレクションによる「宋磁の美」展が併催され、そこでは、時期を合わせたかのように最近国内で発見された汝窯の青磁盞も初公開されている。


東洋陶磁美術館の国際交流展の常であるが、今回も宋磁研究の最新の成果が、図録論文や記念講演会というかたちで発表されている。筆者にとって目新しかった知見や工夫、それでもなお残る謎について述べたい。

まず、釉色について。青磁が汝窯を頂点とするなら、その理想の色は「天青色」である。これは周知のように五代後周の皇帝柴栄(世宗)が「雨過天青雲破処(雨上がりの雲の破れ目から見える青い天)」の色を求めて焼かせたという、伝説の柴窯の色であり、北宋はその息子の幼年皇帝が禅譲して出来た王朝であった。「宋磁の美」展で、汝窯盞の隣に五代耀州窯(黄堡窯)の少し青灰緑色の青磁皿が展示してあったのは、五代黄堡窯から汝窯への何らかの連続性を示唆するものだろうか。

天青色は色としては、しっとりとした明るいブルーグレーということになろうが、汝窯の伝世品のうち、この理想色を実現できているものは極少数である。それは、香灰胎と呼ばれるややピンクがかったベージュ色の胎土と、基本成分は鉄で、不純物(瑪瑙を混ぜたと伝わる)の多く混ざった釉薬(不純物の周囲には極小の気泡が出来、その気泡によって釉薬を通過する光が乱反射を起こして青の色合いに影響するそう)から生まれる、きわめて不安定なバランスの上に成り立つ発色であった。この天青色は、融けすぎない釉薬(乾隆帝の詩句中にある「火氣すべて無く」)が、潤いのある深みを生み(「葆光あり」)、失透性のブルーグレーのなかに紫やピンクを含む、なんとも微妙な色調であって、残念ながら写真では本当に伝わらない。

「神品」を含む汝窯水仙盆自体はすでに台北故宮で見たことがあったが、台北故宮は建物が古く、照明が暗く、ついでに観客の民度が低いので、せっかくの実物に感動できなかったのであった。今回、東洋陶磁美術館のLED照明による自然な光の下で、初めて本当に美しい天青色を目にしたという印象である。その隣に並べられた館蔵水仙盆の自称「天青」色のくすみ具合が、なんとも痛かったことは事実であるが。

次に「水仙盆」という名称について。これは比較的新しい名称で1933年に初出とのことである。それ以前は「官窯盆」「腰圓洗」「楕円冬青瓷洗」等々、様々に称されていた。清の乾隆帝が汝窯水仙盆3点の底面に彫らせた御製の漢詩では「猧食盆(猧(わ):ペキニーズ犬のこと)」と呼ばれ、朝廷の文書中には「猫食盆」として登場する。それで半可通の(漢詩をちゃんと読まない)筆者などは、漠然と水仙盆のことを「実は犬か猫の餌皿?」などと思っていたが、御製の詩を正確に読み解けば(図録参照)、乾隆帝は唐代の逸話(ペットのペキニーズが、玄宗皇帝の負け碁の盤面を崩して、飼恩に報いた)を引いてそう呼んだだけであり、他の詩では犬猫の餌皿に使用したという伝説を却けている。

ではこの器が北宋宮廷で何に用いられていたのかと言えば、結局のところわからない。いくつかの清朝の絵画資料では、良く似た器を盆栽の盆に使っていたようだが、釉色を追求した官窯クラスの盆に土を入れて色を隠すような真似をするだろうかという疑念は当然である(図録小林論文参照)。水仙の水耕栽培に用いていた可能性はあるかもしれないが(会場内には現代の倣製品と造花を用いてそれを例示してある)。

そして今回謎に思った1つが、この乾隆帝の御製詩であった。満州族の皇帝が漢文化の頂点たる「神品」に自分の詩を刻み込む行為は、一種の象徴的征服と言えようし、その際どうやら乾隆帝は汝窯を官窯と同一視し、そのまま修内司(南宋)官窯の品であると誤解していたらしいのだが、それはそれでよい。わからないのは乾隆帝が、清代官窯(「御窯廠」)で作られた倣製品「倣汝窯水仙盆」(1点は今回展示されている台北故宮蔵、1点は北京故宮蔵)の底面にも御製詩を彫らせていることである(乾隆37年と43年)。しかもその詩は官窯を主題としている。北京故宮の呂成龍研究員は、乾隆期の倣製水仙盆なら「乾隆年製」という印が青花で記されているから、その印を欠くこの2点は雍正期の品であり、乾隆帝は優れた鑑賞家であっても鑑定家ではなかったので、父雍正帝が作らせた「清雍正・倣汝窯水仙盆」を2点とも宋代の本物と見誤ったのだろうと述べている。印の有無で、雍正・乾隆を分けるという基準は明快である。

だが本展企画者は「倣汝窯水仙盆」の制作時期を「清雍正〜乾隆期」とし、ぼかした言い方をしている。これは印の有無を重視せず、雍正6年から乾隆21年まで監督(「督陶官」)を務めた唐英による品だということだろう。乾隆帝が詩を刻ませたのは唐英の死後20年以上も後だが、自分で作らせたものを本物と取り違えるようなことはあるまい。従って呂研究員の「作らせたのは雍正帝」という説がやはりわかりやすい。

では企画者たちは、なぜぼかした言い方をするのか。「〜乾隆期」とあるからには、印の有無が絶対的基準ではない、と。つまりこの2点は乾隆帝が命じて唐窯(唐英の窯)で焼かせた。当然、20年経とうが乾隆帝は見誤るはずはないから、残る可能性は、乾隆帝がそれを唐英の作品と知りつつ、「官窯」を主題にした詩を彫らせたと言うことである。その場合、当然この「官窯」は、宋代官窯からの流れを今に受け継ぐ唐窯のことであろうから、この詩は一種の唐英回顧であり、遅ればせながらの追悼辞なのではあるまいか。すると台北故宮蔵の倣水仙盆に刻まれた最後の詩句「聲聞、情に過ぐるは君子の恥(名声が実情を上回ることを君子は恥と見なす)、光を和らげて俗に混じるは幽人の懐(光を和らげて世俗に交わるのは、隠者の奥床しさだ)」は、乾隆帝の自らへの戒め(名声も実情も一致している汝窯に、自分は匹敵しているか)と、自分のために作った倣水仙盆を、本物の汝窯の光を和らげてあえて世俗の倣製品として仕上げたことは、今は亡き唐英(=幽人)の奥床しさだったのだなあ、という風に解釈できるだろう。あなたは汝窯に匹敵していません、あなたのためには、汝窯の光を和ませて俗に混じわらせました、という唐英のメッセージを皇帝は20年経って理解した・・・ここまで妄想するともはや小説である。

図録の出川論文も指摘するように、倣製水仙盆の裏の目址は黒い。景徳鎮の土は白いから、これは後から黒く色付けしたということである。唐英は倣製にあたって本物の宋代水仙盆を見せてもらっているから、当然その目址が香灰色であることを知らないはずはない。たとえ清代の人々が汝窯を南宋官窯(胎土は黒)と混同していたとしても、目址の色に混同はありえない。つまり、唐英はあえて本物とは違う色で倣製品の目址を黒くしたのだということになる。清代官窯を代表する天才ディレクターは、倣製品を倣製品として作ったのだ。和光混俗とはそのことである・・・誰か、小説を書きませんか。

青磁無紋水仙盆の付属品 紫檀描金台座 
台北 國立故宮博物院(写真:六田知弘)


青磁無紋水仙盆の付属品 乾隆帝筆「御筆書畫合璧」
台北 國立故宮博物院(写真:六田知弘)



 
しみず・みのる
同志社大学教授。著書に『日々是写真』『プルラモン―単数にして複数の存在』『陶芸考ー現代日本の陶芸家たち』など。

 
 

〈展覧会情報〉
大阪市立東洋陶磁美術館 特別展『台北 國立故宮博物院−北宋汝窯青磁水仙盆』
2016年12月10日(土)~2017年3月26日(日)

(2016年12月18日公開)