やなぎみわ 演出・美術『日輪の翼』新宮公演レビュー


『日輪の翼』新宮公演(photo: Kenryou GU)



斎藤 環

2016年8月6日、講師として招かれ初めて訪れた熊野大学での講義の後、やなぎみわの演出による『日輪の翼』新宮公演を観た。

「舞台」となった和歌山県新宮港緑地は、新宮港に面した小高い造成地で、熊野の山懐に国道や郊外量販店などの照明を見晴るかす絶好のロケーション。盛夏とあって暑さが懸念されたが、日没後はほどよく海風も吹いて野外公演には絶好の夜となった。

『日輪の翼』新宮公演(photo: OMOTE Nobutada)



劇の冒頭、満員の観衆の耳に響くのは、無数の鳥の囀りである。演劇においてことのほか「声」に重きをおいてきたやなぎみわらしい演出だ。中上健次の読者なら、ただちにあの「金色の鳥」を連想するだろう。

それにつけても特筆すべきは、その舞台装置である移動舞台車(ステージトレーラー)である。この装置こそは、今回の公演の発端にしてコアなのだ。タイワニーズ・キャバレーとも呼ばれる台湾特有のトレーラーに魅せられたやなぎは、これを演劇の舞台装置として使用すべく、借金を負ってまで日本に輸入し、自ら背景となる夏芙蓉をデザインした。これ自体が見事なアート作品ともいえるこの「デコトラ」は、2014年のヨコハマトリエンナーレが最初のお披露目となった。

『日輪の翼』新宮公演(photo: OMOTE Nobutada)



トリエンナーレでは私が指名されてトークイベントを行ったのだが、そのさいのテーマは「ヤンキー」だった。

ヤンキーとは何か。ごく簡単に言えば、日本独自の不良文化のことであり、アメリカ人とは直接の関係はない。改造車や特攻服、デコトラやデコチャリに代表される「バッドセンスの美学」と、気合いと絆で困難を乗り切り成り上がるという「規範意識」のアマルガムである。詳しくは拙著『世界が土曜の夜の夢なら』(角川文庫)を参照されたい。

私がトリエンナーレで目撃したのは、毒々しくも美麗なデコトラが、文字通り「開花」するさまだった。もちろん原作の冷凍トレーラーはデコトラではない。しかし、中上文学の功績のひとつは、ヤンキー的リアルを初めて小説世界に導入したことだ。やなぎは中上のヤンキー要素を巧みに抽出・翻案し、その作品にこのうえなく似つかわしい舞台装置をしつらえたのだ。

閑話休題、やなぎの演劇は、縦軸は『日輪の翼』に依拠しながらも、『紀伊物語」の「聖餐」や、『千年の愉楽」からの引用が織り込まれつつ展開する。住み慣れた「路地」を追われた5人(原作は7人)の老婆が、やはり「路地」出身の若者であるツヨシらが運転する冷凍トレーラーに乗って、日本全国を放浪する。伊勢、一宮、諏訪、出羽、恐山、そして皇居へ。オバらは行く先々で御詠歌を唱えオカイサンを炊く。その一方で若者らは、女漁りに奔走する。トレーラーはひとたび走れば「怖しい鉄の夜叉鬼人」としてのファルスとなり、停止すれば「ほの暖い女の子宮」となる。土砂降りの雨のキャンプ場では円を描くように蛇行し、「自分の尾を咥えようとグルグル廻って遊んでいる蛇」に例えられもする。

巻上公一による音楽も素晴らしいが、絶好のタイミングで挿入される「兄妹心中」、そして中上自身の歌唱による「アンコ椿は恋の花」には完全にしてやられた。歌や踊りはもとより、ポールダンスと見世物風のアクロバットなどが随所に盛り込まれ、不意にミュージカル風にもなったりする。少しでも強風が吹けば成立しないその舞台は、固有の土地と時間というあやういバランスの上で開花した、カーニバル的な混沌そのものだった。

『日輪の翼』新宮公演(photo: Kenryou GU)



私はかつて、やなぎみわの創造性について次のように記した。
「シンプルなコンセプトを文脈的に突き詰め、それがコンセプチュアルな反転を起こすところまで辿り着いてから反転することを繰り返す。それゆえ彼女の作品遍歴を辿ることは、時間の無時間性、固有名の匿名性、フェティッシュのヴァーチュアリティ、自我の他者性、関係の物語性を理解するためのショート・トリップとなるだろう」と。

本作における5人の老婆が、彼女の代表作「マイ・グランドマザーズ」の反復に見えるのは偶然ではない。彼女の創造的反復のサイクルは、『日輪の翼』の構造に見事に一致したのだ。猥雑と崇高、土着と普遍、私小説と神話、そうした両義性に開かれた物語構造に。さらに、彼女の演劇の揮発性の美は、自立した作品でもある移動舞台車というフェティッシュによって支えられていることも付け加えておこう。

ステージトレーラーは、そのまま移動式の路地であり、中上の言う「うつほ」でもある。被差別部落に生まれた中上は、その出自ゆえに紀州サーガを書き得たと誤解されている。しかし柄谷行人が指摘するように、実は中上こそが「無根拠」なのである。彼の言う「路地」に、ヴァナキュラーな実体はない。だからこそ路地は遍在する。夏芙蓉が香り金色の鳥が囀る、ひとつの「拡張現実」として。

中上は路地を「うつほ」あるいは「ゾーンとしてのボーダー」と呼んだ。そこに単純な「境界線」はなく、中に入ったと思ったら外に出てしまうような「空間」であると。つまり「うつほ」である。そこは単なるカオスではない。聖と俗、性と暴力、父性と母性、そうした対立構造がもたらすバイブレーションがうつほにこもる。そう、差異のバイブレーションだ。中上が言うように、それはあらゆる文化の母胎であると同時に、差別を生み出す源でもある。

路地=うつほを根拠づけようとすると差別となる。しかし、ただ無根拠化するだけでは何も生まれない。あたかも根拠があるかのように振る舞いながら、自らの根拠を根こそぎにするような表現を反復し続けること。それもまた中上作品の軌跡ではなかったか。ここにもフェイクの伝統に依拠しつつ、セルフパロディによって変貌し続けるヤンキー文化との近縁性がみてとれる。

だから本作にはカーテンコールがない。その英断には最大限の拍手を送りたい。オバたちが去ったあと、トレーラーはすべての舞台装置を呑み込んで、蛇行しつつ去って行く。路地の後に残された更地に、ツヨシの「これからまた、俺ら旅じゃ」のセリフがいつまでも残響する。そう、旅は続き、鳥は囀り、物語は終わらない。まさに野外演劇でしか起こりえない奇跡的瞬間に立ちあった。初めて訪れた熊野で、この瞬間を目撃できた幸運に感謝したい。

中上がそうであったように、やなぎの演劇も進化し続けることだろう。なろうことなら、いつかふたたび熊野の地で、その進化の先を見届ける機会があることを願っている。

『日輪の翼』新宮公演(photo: OMOTE Nobutada)


 

(2016年8月26日公開)


 
 

さいとう・たまき
1961年岩手県生まれ。精神科医。批評家。著書に『ひきこもり文化論』『オープンダイアローグとは何か』『母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』『関係する女 所有する男』『生き延びるためのラカン』『戦闘美少女の精神分析』などがある。

 
 

(公演情報)
やなぎみわステージトレーラープロジェクト『日輪の翼』

クリエイティブ・センター大阪(名村造船所跡地)
 2016年9月2日・3日・4日

香川県 高松港周辺
 2016年8月27日・28日

和歌山県 新宮港緑地
 2016年8月6日(*終了)

横浜赤レンガ倉庫(KAAT神奈川芸術劇場プロデュース)
 2016年6月24日・25日・26日(*終了)