哲学者の柄谷行人さんは、「デモで社会は変わる。なぜなら、人が普通にデモをする社会に変わるからだ」と言っています。実際、昨今の反安保法制デモは、「普通の人々が普通に参加するデモ」であることに注目が集まっています。そして、〈3.11〉以降の反原発デモから、現在まで、柄谷さんの言うように、「人々が普通にデモのある社会」は、すでにある程度実現していることは、たしかであると言っていいでしょう。
ところで、こうしたデモが、旧来の動員型ではなく、「普通の人々が普通に参加するデモ」でありえているとしたら、どうしてそんなことが可能となっているのでしょうか。演劇批評家のはしくれとしてのわたしは、この点にとても関心があります。なぜなら、わたしは「劇場」というものの一つの原型が、まさに「人が集まること」にあると思っているからなのです。「劇場」というのは、つねに一種の「集会」である、という側面があります。だとすれば、「人を集合させる力」がなんであるのかに、関心を持たないわけにはいかないということです。
この点について、最近、やはり柄谷さんが、興味深い指摘を行っているのを見つけました。朝日新聞8月15日付5面に載った岩波書店の全面広告は、「戦後七〇年 憲法九条を本当に実行する」という大きなタイトルの付された、柄谷さんのインタヴューを掲載しています。そのなかで、先般のデモ等について、彼は次のように言っています。
《保守派はそれ[=憲法九条自体]を変える機会が来るのをずっと待っていたのですが、できなかった。今もできません。それは、戦後の日本人には、戦争を忌避する精神が深く根付いたからです。それは「無意識」のものです。集団的無意識ですね。これは意識的なものではないから、論理的な説得によっても、宣伝・煽動によっても変えることができない。そして、これは、社会状況が変わっても世代が変わっても残る。》
「戦争反対」を「主張」ではなく「無意識」として捉える、という視点は、わたしにはとても新鮮なものに思えました。さきほどのわたしの問題意識にあてはめるなら、そのことは、「人を集合させる力は、「(集合的な)無意識」にある」ということになります。そしてそれは、「論理的な説得にとっても、宣伝・煽動にとっても変えることができない」ほど強固なものだ、というわけです。わたしは柄谷さんのこの指摘を読んで、「普通の人が普通に集まる」ことを可能にしている原理が、少しずつわかってきたような気がしました。「劇場」に少しでも携わったことがある人なら、演劇やダンスの公演に「意識的」に人を集めようとすることが、いかに大変なことであるかを知っているでしょう。「普通の人」は、普通はかんたんに「普通に」集まったりはしないものです(嫌々集まる、ということは、わりと普通にあるかもしれませんが・・・)。
ところで、わたしはこの「原理」を、ただちに「劇場」のマーケティングに応用すべきだ、とは思いません。さしあたりは、あくまでも、演劇批評という立場から見て、無視できない指摘のように思える、という以上のことではないのです。
ただ、最近よくニュースなどでやっているように、相対的に所得の低いシングルマザーが、「本当はデモにいかないですむのなら行きたくないのだけど、やむにやまれないから行く」とか、シールズやその周辺の学生が、「本当は週末は遊びに行きたいけどやむにやまれないから行く」といった言葉に接するとき、その「やむにやまれなさ」の、言葉や論理では説明できない強さ(ある意味では、頑固さ、といってもよいかも)には、あらためて驚かされます。たぶん、この「無意識」の強さは、「憲法九条を守る」精神が国民に定着したことだけでは、説明がつかないのではないか。むしろ、〈3.11〉の放射能問題や、今年1月のシャルリ・エブド事件やISによる日本人人質殺害事件、火山噴火や数々の天災(そして東南海地震のような近い将来の不安)・・・といった、一連の積りに積もった「危機意識」が、「反安保法制」という主張のもとに爆発しているのではないか、とも感じるのです。そうした表明としても、今回のデモはとても価値のあるものであるように思えるのです。
とはいえ!――「安全が脅かされている」という不安感は、よくよく考えてみれば、安保法制を推進する側、賛成派のひとたちも、まさにそういうことを主張していた、のではなかったか・・・。
デモのざっくばらんな風景と同時に、このところの報道を見ていて、ある意味ではそれ以上に印象的だったのは、とくに「安保法制=違憲」の大合唱が始まった後(その流れに火をつけた憲法学者の長谷部教授を呼んだのが、なんと自民党だった、というところがいかにも徴候的にみえますが)、とくに安倍首相と中谷防衛相の答弁が二転三転していったことです。しかも、彼らの表情のうつろなこわばりが、わたし自身は、非常に印象に残りました。どんなにヨレヨレになりながらも、ほとんどぼんやりとこわばった表情を崩さず、二転三転しようが事務的な読み上げ口調をなかば諦めたようにくり返す彼らの態度に、こわばった無力感のようなものを感じたのです。
柄谷さんは、「無意識」は「論理的な説得にとっても、宣伝・煽動にとっても変えることができない」ほど強固なものだと言います。その意味では、まさに安保法制推進派の態度には、デモが突き動かされていたのとは別の種類の「無意識」が、安倍首相や中谷大臣の「身体」にあらわれていたのではないか。そしてその「無意識」も、どうやら「安全が脅かされている」という不安に発していたのではないか。「集団的自衛権」がアメリカとの同盟を一層強化する、と口にしている彼ら自身が、当の自分の言葉を100%信じることができずに、ひたすらうろたえていることが顕わになってしまっている。野党のツッコミに顔色を変えず、不敵な笑みをうかべてやりかえすのであれば、自覚的な確信犯であることが推察されるし、血相を変えて反論するのであれば、少なくとも答弁者が自分の言葉を信じているらしいことだけは感じることができる・・・。
しかし、考えてみれば、無力感を隠そうとするこわばった冷静さ、そして時々噴出する苛立ち(首相のヤジ?)といったしぐさのひとつひとつが、深刻な無力感という無意識に突き動かされているように、わたしには見えたのです。
いろいろ理屈はつけてみても、最終的な憲法との整合性など絶対にはなれないこと、人々を納得させる立法事実を数え上げることなど不可能なこと、・・・は、もしかすると推進派のなかでも最初から分かっていた(諦めていた?)ことなのかもしれません。そして、たとえ安保法制が成立しても、完全に安全が確保されるなどとはとても信じられないという状況に、彼ら自身が追い込まれていたのかもしれません。
かりにそうだったとしたら、政権交代すれば制度的にいくらでも改正できる、たんなる「法律」でしかない安保法制成立という事実よりも、この国の現実にとって、一層深刻なことのように思えます。なぜなら、もしかするとこの無力感という無意識は、かりに政権交代して民主党なりが政権をとったとしても、そうなった瞬間に同じようにその力にとらわれ、安保法制を改正するなど躊躇させてしまうほど強いものなのかもしれないからです。そして、いうまでもなく、この「不安」の背後には、「どんなに日米同盟を強化しても、いざというときには、アメリカは日本を守ってくれないかもしれない」という、いわば「目に見えない恐怖」が根差しているのではないでしょうか?
今回の安保法制の問題は、「安全」をめぐる、無意識Aと無意識Bの、ある意味では同じ不安に端を発するけっしてまじわることのない対立、のように、なんとなく見えてしまったのは、私だけでしょうか。
安保法制の強行採決直後に、漫画家のしりあがり寿さんが、こんなコメントを寄せていました。以下、全文を引用します。
《参院特別委の採決は、カオスの中で大切なことが決まってしまう原始的な光景に思えた。/一連の審議で感じたのは、与野党ともに正しいと信じる目的のためには手段を選ばなくなっていることだ。違憲っぽい法案を無理やり通そうとする与党は、そうでもしないと国民を守れないと思っている。一方の野党も、法案を止めることだけが国民のためだと思って議事進行を遅らせるなど国会戦術に偏っていた。/何が正しいかなんて誰にも分からない。中国の武力行使があるのか、自衛隊のリスクは高まるのか。将来が見えない中で道を選ぶには、プロセスを大事にするしかないのではないか》。(朝日新聞9月18日付3面)
わたしは、しりあがりさんの「何が正しいかなんて誰にも分からない」という意見に共感を覚えます。そして、「将来が見えない中で道を選ぶには、プロセスを大事にするしかないのではないか」という言葉にも、基本的に賛成です。その上で、将来が見えない不安定な現実のなかでこそ、「プロセスを大事にするため」に必要とされるのは、やはり「思想」なのではないかと思うのです。
わたしはこの数日間、劇作家ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)の代表的な戯曲『肝っ玉おっ母とその子供たち』を、久しぶりに読み返していました。そこには、先行きの見えないなかで、先を見通すことなどできない普通の人々がさまざまな失敗をくりかえす様が、巧みなドラマ精神によって冷徹に描かれています。まさに、「何が正しいかなんて誰にも分からない」現実が、フィクションとしての抜群の揺るぎない強度を持って書かれています。少なくともわたしたちは、この戯曲から、戦争という現実における登場人物たちのさまざまな失敗を通じて、「何が正しいかなんて誰にも分からない」現実というものに向き合うことができます。そして、どんな道を選ぶにせよ、その道を選ぶ根拠は、たとえ乏しい知識と経験しか持ち合わせていなくても、とりあえず自分で見つけてみるしかない、ということが分かってきます。おそらく、思想とは、そうしたフィクションを通じて、少しずつトレーニングしていくしかないものなのかもしれません。
ブレヒトは、「演劇を通して考えること、そしてそのことは楽しいものであること」が理解されることが必要だと言っていました。その楽しみは、思想の楽しみであり、無力感という無意識の呪縛から、私たちを解放してくれる原動力でもあるのかもしれません。
※上記に挙げたブレヒトの戯曲は、千田是也訳(白水社等)、岩渕達治訳(岩波文庫)、谷川道子訳(光文社新訳文庫、ただし邦訳タイトルは『母アンナの子連れ従軍記』)で読むことができます。