マラルメのパネル——マラルメ・プロジェクトⅢについて


佐藤雄一

マラルメ・プロジェクトⅢ(於京都芸術劇場春秋座 2012年7月22日)でステファヌ・マラルメ『イジチュール』が上演されました。『イジチュール』を上演?――それは、すこしでもマラルメにふれたことがあるひとならば、非常にスリリング、いや無謀にさえおもえるこころみでしょう。

それはちがう、とこの舞台の企画者のひとり渡邊守章は切り返します。曰く、マラルメは「聖務・典礼」(『ディヴァガシオン』所収)にみられるよう、カトリックの典礼や音楽劇のような未来の祝祭的群衆劇のヴィジョンをもっていた、彼の一見密室的な詩のなかにもそのような潜在的な演劇性が読みこめるのだ。曰く、『イジチュール』はそのうしろ背にハムレットをにおわすような「芝居」であり、いうなれば日本の能のようなものだ…

マラルメ・プロジェクトⅢ 『イジチュール』の夜へ 2012年7月 京都芸術劇場春秋座©京都造形芸術大学舞台芸術研究センター 撮影:清水俊洋



けれども、わたしはそれを耳にしてもなお、『イジチュール』の上演が実現するのかという疑いを消せませんでした。マラルメのなかでも、とりわけ抽象的で秘教的なこのテクストをほんとうに上演できるのだろうか、と。たとえば、『イジチュール』は、セリフを発する登場人物さえはっきりしているわけではありません。一見モノローグの語り手であるようにみえるイジチュール(ラテン語の副詞で「かくして、そのあとで」「したがって」の意)も毒薬を飲んで自殺するのですから、説話の構造上、語り手としての資格はない。代わりに、大文字ではじまる抽象的な普通名詞「夜Nuit」「深夜Minuit」「影Ombre」が、セリフを発する登場人物としての資格を得ることになります。このように、きわめてイメージが想像しがたい登場人物らによる「小話(コント)」は、戯曲的な言語態で書かれているとはいえ、「上演」には不向きな想像しがたいイメージで埋め尽くされてゆきます。したがって読み手は、たとえば「パネル」という単語を目にしたとき、次のような困惑をおさえることができなくなる――パネル? 「己れ自身を軸にして、目くるめく不動性のうちに、延々と回転し続」けながら幻覚を映じる「黒檀ののパネル Les panneaux de la Nuit ébénéenne」なるものはいったいなんなのか?

マラルメ・プロジェクトⅢ 『イジチュール』の夜へ 2012年7月 京都芸術劇場春秋座©京都造形芸術大学舞台芸術研究センター 撮影:清水俊洋



いったいなんなのか? と残響を耳にこびりつかせ、困惑をますますこじらせる頭でっかち読み手に肩透かしをくらわせるように、マラルメ・プロジェクトでは「パネル」が拍子抜けするほどあっさりとそのすがたをあらわします。歌舞伎の上演を前提にした春秋座は、廻り舞台(歌舞伎においてスムースに場面転換できるように、舞台上で回転する円盤状の装置)があり、そこに映像を映したパネル2枚(半透明スクリーンが張られている)が文字通り「延々と回転し続け」るのです。

これは一本とられた、と感じた何人かの観客は、闇にどっぷりつかって観劇しながら、悔し紛れに、終演後のホワイエで人と話すつもりのコメントを次のように練るかもしれません――「なるほど、マラルメのパネルを廻り舞台で見立てているのね」「あるいは翻案というかインタープリテーションというか」「心臓音や蝋燭がイジチュールをなぞっていることなんかはわかりやすいけれども」「よくよく注意するとそこかしこに翻案があふれてるというわけね」「高谷史郎がパネルに映したアルゴリズム制御の何十万もの星屑も――おなじみの――マラルメの宇宙的ヴィジョン、たとえば『骰子一擲』の〈原初の海泡écumes originelles〉をハイパーメディアで翻案したという趣だし」「坂本龍一が繰り返すドビュッシー的な旋律も、マラルメを音楽に翻案したドビュッシーをさらに舞台空間に翻案したともいえるでしょ」「エロディアードを読むときパネルに映った風景は地中海沿岸のものでもしかしてシチリアかなと思ったけど、その風景とヌードのダンサーと複雑にオーヴァーラップさせることで『半獣神の午後』も翻案してるというわけね」「そういう意味でもドビュッシー的だといえるだろうな」「イジチュールと題された舞台だけれども、エロディアードも半獣神もあるし前録りされた渡邊守章御大のコメンタリ―もインサートされる、まあ筑摩書房の『マラルメ全集』を舞台上に翻案したというか」「寺田みさこと白井剛の能や狂言のような動きをみて渡邊御大のお能のラシーヌを思い出した」……

そんな具合に、終演後のホワイエでの話題を華やがせるような「翻案」が舞台上にみちあふれています。それは、おそらくマラルメ・プロジェクトの発起人であり、渡邊守章とともに舞台上で朗読もする、浅田彰のコーディネートによるところが大きいのでしょう。ブリリアントな参謀浅田彰が仕掛けたさまざまなポテンシャルにみちた場において、けれども、おもてみには中途半端なスノッブが、上に書いたような凡庸なおしゃべりをする、あえて意地悪くいえばそのような趣がなくもない。

マラルメ・プロジェクトⅢ 『イジチュール』の夜へ 2012年7月 京都芸術劇場春秋座©京都造形芸術大学舞台芸術研究センター 撮影:清水俊洋



とはいえ、もちろん、マラルメ・プロジェクトはおしゃべりに奉仕するだけのものではありません。そしてなによりマラルメ・プロジェクトⅢ、あるいはマラルメの強度はそのようなスノッブなおしゃべりを突き抜けたような宇宙的な狂気にあるはずです。舞台上の「翻案」も元ネタ当てをしただけでは深刻な片手落ちになるでしょう。とりわけ「パネル」の翻案にはマラルメの狂気と共ぶれした本質的射程がある、とわたしは考えます。そこに踏み込むために、ここからはいささか乱暴な勇み足をしてみましょう。

マラルメ・プロジェクトⅢ 『イジチュール』の夜へ 2012年7月 京都芸術劇場春秋座
©京都造形芸術大学舞台芸術研究センター 撮影:清水俊洋




2枚のパネルは映像を映しながら、舞台上で手前から奥、奥から手前という回転を自動的に反復します。パネルは絶えず動き続けますから、観客が映像をみる角度も、つねにずれていきます。パネルの映像はやがて視界から消えて、しばらくするとまた別の映像を映しながら戻ってきます。もちろん、映像それ自体も刻々と変化するので、さまざまなレイヤーでイメージの偏差があり、その偏差によって、機械的な反復にあるいびつさがもたらされたような印象を与えます。

回転するパネルは舞台上では物質的な障害物でもあり(その威圧感は非常に巨大な回転ドアを通るときなどを想像するとわかりやすいでしょう)、それをよけつつ、ときに映像と同期しながら踊る白井剛、寺田みさこは見事というほかない。けれども、パネルの回転の特有のいびつさがスリリングな印象をもたらし、ダンサーの身体か、なにかきわめて緩慢に廻るスクリューに巻き込まれそうになるようなかんじさえうけます。観客は、あたかもホラー映画をみて俳優と同じように身をすくめるひとのように、自分の身体もなにかに圧されているかのような感覚になり、自分のまわりに漂う劇場の闇が独特の物質感をおびて迫りはじめ、ときおり流れる鼓動の音は闇の心臓の音のようにさえ思える……

偏差をはらんだ反復が物質的な存在感をもって迫る――「パネル」のもたらす感覚についてそう要約するとき、それは同時に『イジチュール』というテクストの性格そのものを言い当てた記述でもあります。どういうことか。

マラルメ・プロジェクトⅢ 『イジチュール』の夜へ 2012年7月 京都芸術劇場春秋座©京都造形芸術大学舞台芸術研究センター 撮影:清水俊洋



『イジチュール』は観念的であると同時にとても常同的で体感的なテクストでもあります。「無限Infini」「観念Idée」「パネルpanneaux」「摩擦音frôlement」「鼓動battement」そして「登場人物」である「Nuit」「深夜Minuit」「Ombre」といった言葉がなんどもなんども執拗に繰り返されます。そのオブセッショナルな反復も「絶対Absolu」と「虚無Rien」という両極をめぐって、いびつにぐるぐるまわる思考の歪力をうけて、偏差をおびはじめる。ボニオ版『イジチュール』の最後の言葉を借りれば、「中心の静謐」に達することがない「振動する円環」のように、ズレをはらんだ回転がそこにはあらわれる。言葉を、観念を、読み手を、あるいは宇宙のものすべてを巻き込むような勢いで、回転は続く。

そのとき書物は、「パネルの回転」がもたらすのとちょうど同じ感覚、鼓動をもった劇場の闇に圧されるような体感をもたらすことになるでしょう。『イジチュール』に反復してきた言葉を借りていえば「夜」「深夜」「影」という、輪郭が「無限」にむかって「雲散霧消」しそうな「観念」そのものの登場人物が、「鼓動」をもち、少しエロティックな「摩擦音」(frôlementは衣擦れという意味もある)さえ出す「彼」や「彼女」として出現し、舞台俳優のような存在感で読み手に迫ってきます。

劇場のような書物? それはまったく正しい。けれどいそいで付け加えないといけないのは、マラルメのもたらす鼓動は書物、劇場はもちろん、音楽(ブーレーズ、ドビュッシーの偏差をはらんだリズム!)、インスターレーションなどありとあらゆるものに召還可能なのではないかという可能性です。あるいはマラルメの翻訳について語るデリダにならっていえば「(…)あらゆるリズムの鼓動は、可能な支持体あるいは質料的表面が何であっても、可能な限り保存される」(『弔鐘』、ガリレ社、1974年、174ページ)のかもしれない。

いずれにせよ、マラルメ・プロジェクトⅢという書物を翻案した舞台は、その翻案によってさまざまなポテンシャルを示したといえるでしょう。そのひとつを、きわめて乱暴に要約すると次のようになるでしょうか――マラルメを読むとは、その暗号を解読する(近年ではカンタン・メイヤスーがマラルメの数字を暗号として読んでいきます)こと以上に、その偏差をはらんだ肉感的な反復を、(寺田みさこ、白井剛よろしく)あるときはよけ、あるときは同期することで、マラルメとともに踊ることではないか。そこがたとえ書物であっても、劇場であっても、どこであっても。

マラルメ・プロジェクトⅢ 『イジチュール』の夜へ 2012年7月 京都芸術劇場春秋座©京都造形芸術大学舞台芸術研究センター 撮影:清水俊洋



 



 

今年で3回を数えるマラルメ・プロジェクト。次回はどう展開するのか。個人的には、ブーレーズ『レポン』(1981~84)のように観客を360度ぐるっと囲む音響でみてみたいとも思います。いずれにせよ、マラルメ・プロジェクトというそれ自体偏差をはらんだ反復が、これからも新たな体感をもたらしてくれることへの期待は隠せません。

マラルメ・プロジェクトⅢ 『イジチュール』の夜へ 2012年7月 京都芸術劇場春秋座©京都造形芸術大学舞台芸術研究センター 撮影:清水俊洋



佐藤雄一
1983 年生まれの詩人。 2007 年、第45 回現代詩手帖賞受賞。詩歌SNS「しいか」+こえサイファー代表。

 

(2012年9月17日公開)