Interview: Komori Haruka

インタビュー:小森はるか(『息の跡』監督・撮影・編集)

 
聞き手:福嶋真砂代

「暮らすうちに、いろんな人の記憶を知り、毎日同じ風景の中にいることで、身体に馴染んできた」

小森はるか監督


ドキュメンタリー『息の跡』の監督、小森はるかさんは、キャリーバッグを引っ張り「ネットカフェで寝るのは限界かも」とインタビューの場所に現れた。現在は仙台を拠点としているため、極力節約の東京滞在なのだろう。小柄な彼女がこんなに骨太な作品を生みだす機動力と強さを見たような気がした。2011年東北大震災後、アーティストの瀬尾夏美さんと共にボランティアのために東北を訪れ、翌年にはふたりで引っ越した。岩手県内陸部の住田町に、以前は学生寮だった一室を借りて、アルバイトをしながら陸前高田の「佐藤たね屋」に通い、撮影をした。店主の佐藤貞一さんがいい声で朗々と唱える「ケセンダマシイ」を耳に、小森さんの中にもケセンダマシイの種が育っていたのかもしれない。「歳なんぼだっけ。27、8?」「23」「まだそんなもんか! まるで豆粒だな」「豆粒って…。」そんな佐藤さんと小森さんの飾らないやりとりがたまらない味を出す。記録者として、表現者として、そしてひとりの人間として受け入れられ、過ごした”充実しすぎた日々”のこと、柔らかくも鋭敏な感性でじっくり人間をフォーカスした作品について、率直に語ってくれました。

 
◆あなたたちの本当の役割はカメラなんでしょ?
―― 撮影のきっかけは、被災者の方から「自分でその場所を見に行くのは辛いので記録してきて下さい」と頼まれたとか?
小森 2011年3月末にボランティアとして東北に行き、その時は「記録」することは考えずにいました。ボランティアと言っても避難所の物資の仕分けくらいしかできなくて、そんな時、宮古市の避難所のおばあちゃんに「あなたたちの本当の役割はカメラなんでしょ?」と言ってもらえて。カメラは持って行ってたし、自分たちとしてもカメラを回したかった気持ちがどっかにあったと思うんです。だけど人前で取り出すこともできないし、何のためになるかということも全くわからずにいたので、その言葉に自分たちがするべきことを教えてもらいました。他にも東京に住んでいて、被災地には行くことのできない人のかわりにお家を訪ねて、写真やビデオメッセージを撮ってくることもありました。「それならできる」という感じで始まったんです。

―― そのおばあちゃんを皮切りに人脈が広がって、地域の人たちと交流が生まれたという感じなのでしょうか。
小森 最初は本当に誰も知り合いがいなくて、ボランティアをしながら、東北に住む瀬尾の恩師のご親戚や友人の遠いご親戚の安否を尋ねて、石巻や陸前高田や沿岸部を行ったり来たりしてました。地域の人と交流するようになったのは住田町に住むようになってからです。

―― 住んでからは、人との関係性は変わりましたか?
小森 全然違いました。やはり同じ空気の中で、「明日会えなくてもまた会えるかもしれない」という距離感で一緒に暮らしていると、「会わなくても近くにいる」という感じになるんです。小さい町なので少しずつ関係が広がって、自然と知り合う人が増えていきました。あたかも自分たちが町の一員かのように「仮置き」させてもらってた感じです。

―― 瀬尾さんは写真館、小森さんはお蕎麦屋さんでアルバイトをしていたと。どうやって仕事を見つけたのですか?
小森 引っ越してすぐは、ふたりとも震災の記録を残すアーカイブプロジェクトの一環で、記録事業の現地スタッフとして仕事をしていました。その時に出会った写真館の店主の方が消防団の団長さんで、話を聞きに行ったりするうちに、写真館を手伝ってほしいと瀬尾が頼まれ、働くようになりました。でも私は写真の技術がないので、そこには行けないなと思って、しばらく地元のローカルテレビ局でアシスタントの仕事をしてました。ただ、瀬尾は町の中の写真館でどんどん地域の人たちとの関わりが増えて行くのに、自分は逆にちょっと外側の毎日ニュースを作るという場所にいて、こういう関わり方でいいのかと悩み始めました。そんな時に、写真館の店主の方から再開したばかりのお蕎麦屋さんを紹介してもらいました。震災前はお寿司屋さんだったけれど、津波で従業員の方やご家族を亡くされ、ご主人がひとりでもできるようにと始められたお蕎麦屋さんでした。「そこを手伝ったら?」と言われて働くようになったんです。働いている方は親戚の方がほとんどで、その中に自分ひとりがよそ者のアルバイトとしてお手伝いしてるという状況でした。

 
◆絶対にカメラを向けられない人がいることを忘れちゃいけない
―― 小森さんが来てくれて、お店はすごく助かったでしょうね。
小森 むしろ私のほうがお世話になっていました。朝から夜まで、工事関係者のお客さんもとても多いので忙しかったです。撮影している時間よりも、このお店にいる時間のほうがよっぽど長かったと思います。私自身は撮影が本業だけど、そういう仕事をしてる人間が受け入れてもらえるのかという心配もありました。ですが、そのことも理解してくれつつ、一人の人として接してもらい、たくさんのお話を聞かせてもらいました。それがとても嬉しかったし、充実しすぎた日々でした。撮影をすることがすべてではない、絶対にカメラを向けられない人がいることを忘れちゃいけないということも、このお店にいたから持ち続けられたのだと思います。

―― たね屋さんに「どこで仕事してんの?」って聞かれるシーンがありますね。まさにそのお蕎麦屋さんなのですね。
小森 はい、「かもんで」って答えてます。元々は漢字で「家紋」という寿司屋でしたが、今は蕎麦屋「かもん」になって、町のみなさんもよくご存知のお店です。

(C) 2016 KASAMA FILM+KOMORI HARUKA


 
◆たね屋さんとの出会い
―― たね屋さんとはどういう感じで出会い、最初の印象はどうでしたか。
小森 たね屋さんに会ったのはお蕎麦屋さんで働くもっと前です。記録事業のスタッフをしていた時に手記集を集めたりもしていたのですが、陸前高田の地元の人に「英語で手記を書いてる人がいるよ」と教えてもらいました。まだ町に知り合いもいない頃で、そんな時にたね屋さんのことを教えてもらって、遊びに…、いや、訪ねて行きました(笑)。佐藤さんは最初からあの調子で、お店のものを見せてくれたり朗読してくれたりしていたんですが、その時お客さんが「それまで辛い状況だったけど、そろそろ何か育てようかな」という感じでお店にいらっしゃいました。佐藤さんがとても優しく対応しているのを見て、「こういう人たちのためにここで種を売り、苗を作っているんだな」と思いました。それが私がお店を訪れた最初の日でしたが、このお店の日常みたいなものを一瞬にして見たような気がして、その日常の細部をちゃんと知りたいなと思うようになりました。

―― 撮っていくうちに小森さんの気持ちの変化はありましたか。
小森 わかるようになったことがたくさんあって、佐藤さんがなぜ手記を外国語で書くのかも、いっぱい理由があるし、わかるというよりも情報が増えていきました。「たね屋」さんに毎回行くたびに何かが変わっているんです。お店も改善されていくし、佐藤さんの手記もどんどん書き直されて、また新しいことを発見したとか、そんなスピードに私は追いつけない、追いつけないというか、凄すぎて毎回驚いていました。追いつきたいという気持ちもありましたが、その全部を記録することが私の役目じゃないなと思いました。そういうのは佐藤さんの手記にすべて書き残されているので、いつか本を読む人のもとへ届いていくと思いました。

―― 「たね屋の解体」は、撮影し始めた時には時期とか見えていたんですか?
小森 見えてないです。ずっとそこにあるとは最初から思っていなかったのですが、解体が近づくことがわかった時に、それを映画の終わりにするのはよくないのではないかと思いました。勝手に映画の中で悲劇的な「終わり」をつくってしまう気がしたんです。山形国際ドキュメンタリー映画祭(2015年)にかけてもらった時は、まだ解体もされていなかったので、解体するシーンで終わりにしようという気持ちはありませんでした。

(C) 2016 KASAMA FILM+KOMORI HARUKA


 
◆たね屋は悲しみの種は売らない、希望の種を見つける
―― 山形の上映の時は「たね屋」はまだあの場所にあって、上映を観たプロデューサーの秦岳志さんが佐藤さんに会いに行かれたと。小森さんも上映後に追加撮影をされたのですね。
小森 去年6月に解体が決まったのですが、劇場公開する話も決まっていて準備を進めている時期でした。記録をする者としては撮りたいと思っていたので、映画に入れるかどうかあまり考えずに撮影に行きました。佐藤さんも解体自体は進めていたんですが、撮影に来るのを待っていてくれました。解体の順番もはっきりと決まっていました。それが映像に写ることも意識されていたと思います。終わり方をしっかり作るというか、終わらせるのも手作りというか、大事なものを最後に抜くことも決めていました。

―― 井戸ですね。
小森 そうです。それから絵も最後まで残ってたし、ちゃんと順番が決まっていたんです。ひとつずつ、これを捨てるか捨てないか、悩みながら分解していく。最後の最後まで佐藤さんの手作りなんだなと、それを見た時にこの作品に残すべき記録だと思ったんです。私としては覚悟していたよりは辛くなくて、むしろその作業を見ているのがおもしろかったんです。佐藤さんが一人店を作り始めたときはどんなだったのだろうと、一つ一つに凝らした工夫、そこに費やした時間が想像できるようでした。後になって辛さは来るものなんですが、見ている時は「やっぱり佐藤さんだな」と思っていました。

―― いつも興味を絶やさず、佐藤さんがひとつひとつを”楽しみながら”進むスピリットに、何があっても人間はそうやって生きていくのだということを学んだように思います。
小森 やっぱり「たね屋」という職業だからだと思うんです。ただがんばろうとか、前向きにいきましょうということではなくて、役割として「たね屋」であることが佐藤さんの中でぶれなかった。たね屋は植物を育て、受け渡していく仕事です。震災や津波があっても芽吹いてくる植物たちを佐藤さんは町中探し歩いていました。それを見つけては慰められたと話してくれました。だから前向きでいられると。たね屋は悲しみの種は売らない、希望の種を見つけること。そしてその生き方を見せることが、亡くなった方への供養だとも話してくれました。

(C) 2016 KASAMA FILM+KOMORI HARUKA


―― 手記を慣れない外国語で書くこと自体驚きですが、曖昧さや感情的になることを避けるために英語で論理的に書くとおっしゃってたことや、そうすることで世界のどこかに記録を残したいという「たね屋」的発想も凄いです。
小森 書くうちに外国語で書く理由が増えていったり、変化していったものもあると思います。震災前に佐藤さんは英会話教室に通っていて、その教室の先生や生徒さんが津波で亡くなっているんです。その先生の最後の授業はニュージーランドの地震を題材にした授業だったらしいんです。その先生たちのことを思って英語で書く、というのも佐藤さんにとっては大事な理由だったと思います。

―― 佐藤さんのそういう過去の話なども聞かれていたんですね。どれくらいの間隔でたね屋さんに通っていたんですか?
小森 月に1、2回という感じです。お店には仕事帰りとかにちょくちょく顔を出していましたが、撮影に行くのはそのくらいの頻度でした。

―― 撮影は開店前や閉店後だったとか、何かとり決めをされたんですか。
小森 お客さんもいらっしゃるので、できるだけお店の邪魔になるようなことはしたくなかったんです。営業時間はお店の手伝いをすることもありました。撮っている時はまだ何になるとかわからなかったけど、とにかく通うと決めて月に1回くらいは撮りたいと思っていました。他の人も撮影していたのですが、いちばん続けることができたのがたね屋さんの撮影だったんです。

 
◆ 映画にするというのは手放すことなんだとも知りました
―― 『波のした、土のうえ』(2014年、瀬尾夏美との共同制作)では出演した被災者ご本人が味のあるナレーションをされていました。『息の跡』はナレーションはなくて、小森さんが時々登場して相づちを打ったりしてますね。聞いたところでは山形バージョンには小森さんはあまり登場していなくて、完成版には小森さんがかなり登場するようになったのですね。
小森 山形上映の時も「作品」ではあったのですが、まだ「記録」という意識だったのかなと思います。事象が時系列で並び、佐藤さんしか映っていないような作品でした。佐藤さんの孤高な姿が、サスペンス感があって映画としておもしろいという感想をいただいて、むしろそういう感想しかなかったんです。一方で、私は「映画」として作品が見られると思っていなかったので、そう見られることにびっくりしたのですが、佐藤さんが「独り」であることとか、特別な存在のように映ってしまうのは事実とは違うし、佐藤さんと外の人たちとの関係を、私自身がそこまで踏み込んで撮影ができていなかったわけで、そのような作品のまま一人歩きしてしまうのは違うなと思ったんです。再編集に加わってくれた秦さんにそれを話したら、秦さんは私がしゃべっているシーンを素材の中から見つけてきました。

―― たね屋さんが小森さんと交わす「将来どうするの?」みたいなやりとりも、ふたりの柔らかい関係性がよくわかる好きなシーンでした。
小森 けっこう撮影中もしゃべってしまっていましたが、表に出すつもりで意識して話してたわけじゃなかったんですよね。私が登場人物になることは最初は嫌だったんですが、佐藤さんを独りにしないほうがいいということもあり、編集途中で見てくれた人からも、こういうやりとりがあった方が面白いという意見が多かったので、最終的に残すことにしました。

―― 改訂版は自分の思っていない方向になっていった?
小森 混ざっていますね。うまい具合に混ざっていてそれがおもしろいと思いました。いわゆる”自分の作品”みたいなものにならなくてよかったなと。そういう作業がもうすでに編集していた作品でできるんだなと発見しましたし、映画にするというのは手放すことなんだとも知りました。自分の手だけでは手放せなかったと思います。

(C) 2016 KASAMA FILM+KOMORI HARUKA


 
◆いちばん難しかったのは、何かを作る者であるとか、”よそ者”であることを見失わないようにすることだった
―― お祭りや雪の中の獅子舞のシーンが美しく幻想的でした。山形バージョンにも入っていたシーンですか。
小森 お祭りのシーンは最初からありましたが、獅子舞は私が入れたいと言って、秦さんが編集してくれました。元々私は抽象的なものばかり作っていたんです。でもそれを陸前高田でやりたいという思いはなかったんです。だけど、カメラを回しているとどうしても撮ってしまう画がありました。でも記録としてどこか形に残しておきたい気持ちもあって、その素材が活きるように秦さんが構成から組み直してくれました。

―― 感じるのは、小森さんが陸前高田に行って、そこで見たものを記録するという「記録者」という役割と、何かを作りたい、表現したいというクリエイターとして欲求との狭間で葛藤があったり、辛かったりしたのではと。
小森 自分が持っている表現の方法と、記録したいという意志が合致するのだろうかという葛藤はしばらくありました。最初は合致しなかったと思うんですが、撮りたいものが明確になってきてからは、だんだん近づいてきて、今はそういった葛藤はなくなりました。

―― その場所に住んで、いろんなことを感じたり、時間が経過して、自分の中で近づいたのでしょうか。
小森 そうだと思います。まず「記録」が自分にとって一番の軸なのだと自覚しました。でも記録をするのにも、ただ撮ればいいわけではなくて、記録したいと思う瞬間に立ち会えるような身の置き方を考えなくちゃいけない。どう進んでいくのかわからない現実を前にして、身体を動かせるように四苦八苦しながら、最初はガタガタのカメラワークでした。それが暮らすうちに、いろんな人の記憶を知り、毎日同じ風景の中にいることで、身体に馴染んできたものがあるんだと思います。自分が撮りたい画でもなく、ぶっきらぼうなカメラでもなく、その場の空気に撮らされてしまうような撮影ができるようになっていった実感がありました。それは私が震災前からカメラを持ちながら実感してきた撮る喜びと通じています。どうしたら伝えられるのか、その都度、その都度考えると、撮影の方法も編集の方法も、いままで「表現」でやってきたことと交差するんだなと思いました。いちばん難しかったのは、何かを作る者であるとか、”よそ者”であることを見失わないようにすることだったと思います。瀬尾とふたりでいたからこそ、見失わずにいれたんだと思います。

―― 瀬尾さんの存在は大きいのですね。
小森 彼女は頭の回転も速くて、次にどうしたらいいかという勘が鋭くて、道を開いていってくれます。自分たちがなぜここにいるのかということも常に言語化していて、それに私は助けられていると思います。私ひとりだったらたぶんわからなくなってしまうと思うんですが。瀬尾がふたりの活動の軸を考えて、私は事務担当みたいな役割分担ができて、ふたりだけど組織みたいな感じです。

(C) 2016 KASAMA FILM+KOMORI HARUKA


―― 瀬尾さんの『息の跡』への関わりは?
小森 「息の跡」は直接制作に瀬尾が関わっているわけではないのですが、瀬尾自身は佐藤さんのことを一人称語りで書いた文章の作品を作っています。普段から、一緒に作品制作するのではなくて、同じものを見て聞いて、そこからそれぞれが作ったものを最後に合わせるというような表現なんです。そういう意味ではいつもと変わらないといいますか、全く関わりがないわけではないと思います。

―― これからもふたりで活動して行こうと?
小森 それはしばらく続けていきたいと思っています。ユニットという形ですけど、基本的には個人で、「小森はるか+瀬尾夏美」という名前で活動しています。それぞれの視点で見つめていくものがあると思いますが、重なったり離れたりしながら、二つの視点があることが大切だと思っています。様々な人とも協働しながら、表現の方法を柔軟にしていけたらと考えています。

 

この記事は『REALTOKYO CINEMA』より転載したものです。

(インタビュー:2017年2月11日/公開:2017年3月22日)

 
 
こもり・はるか
1989年静岡県生まれ。映像作家。映画美学校12期フィクション初等科修了。東京芸術大学美術学部先端芸術表現科卒業、同大学院修士課程修了。2011年3月にボランティアとして東北沿岸地域を訪れたことをきっかけに、画家で作家の瀬尾夏美と共にアートユニット「小森はるか+瀬尾夏美」での活動を開始。翌2012年、岩手県陸前高田市に拠点を移し、風景と人びとのことばの記録をテーマに制作を続ける。2015年、仙台に拠点を移し、東北で活動する仲間とともに記録を受け渡すための表現をつくる組織「一般社団法人NOOK」を設立。主な展覧会などに「3.11とアーティスト|進行形の記録(水戸芸術館)」、「Art action UK レジデンシープログラム(HUSK Gallery/ロンドン)」、「記録と想起 イメージの家を歩く(せんだいメディアテーク)」「あたらしい地面/地底のうたを聴く(ギャラリー・ハシモト)」等。現在は自主企画の展覧会「波のした、土のうえ」、「遠い火|山の終戦」を全国各地に巡回中。共著に「論集 蓮實重彦」(工藤庸子 編、羽鳥書房 刊)。本作『息の跡』が劇場長編映画デビュー作となる。

 
ふくしま・まさよ
航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』、『お隣が宇宙、同僚がロケット。』コラム執筆。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』執筆。REALTOKYO CINEMAブログ主宰。

 
 
〈インフォメーション〉
『息の跡』 http://ikinoato.com/  監督・撮影・編集:小森はるか
 出演:佐藤貞一
 2016年/93分/HD/16:9/日本/ドキュメンタリー
 配給・宣伝:東風

(劇場情報)
 2017年2月18日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次ロードショー
 第七藝術劇場 3/11〜31
 神戸アートビレッジセンター 3/18〜24(3/21休)
 名古屋シネマテーク 〜4/7まで
 ポレポレ東中野 〜3/24まで