―― ずっと降りっぱなしなんですね。
そうです。操作もなんにもしない。それで上半身裸の若い主人公が、客席の下手の側から出てきて、舞台の前をずっと通って、右手のほうに消えていくという。要するに動きはそれだけで、その間に、アメリカのジャーナリストの書いた収容所のテクストを、はっきり語るんだよね。だから聞いていてよくわかったということ。それと、降りているシャッターが、一種の心理的なスクリーンのようになって、そこに収容所の大量虐殺の映像、こっちの心象として出て来る映像がそこに映っているような錯覚を持つくらい、執拗にその前をゆっくりと歩く。―― それで別に観客のほうを向くわけでもない。
観客のほうを向かないでね、まっすぐにただ自分の前を向いて、ゆっくり歩くだけです。―― 下手の奥から来るときには、前のほうを向いている。それで、客席の床を歩いているときも、上手のほうを見ながら、つまり観客には横顔を見せながら自分の前を見ているという感じになるわけですね。
表情などはつくっても意味がない。それは顔でも身体でもね。ブツブツ呟いていると言うと言い過ぎだけど、朗読しているとか朗唱しているとかでもない。しかし、言っていることは非常に良くわかる。これは演出家の目で見ていると、これを俳優にやらせるのは大変だなと思った。―― 2010年に京都(春秋座)で上演された『海の讃歌(オード)』でもそうでしたが、その、朗唱されているわけでもないし、さりとて韻文の詩が読まれているような口調でもない。あの独特のリズム観っていうのが、レジの演劇における特徴と言っていいのでしょうか。
そうですね。だから彼がテクストの選択を誤ると、あるいは役者を誤ると、退屈極まりないものになってしまう。レジのそういう非常に過酷な要求に応えられるだけの意識と技術を持っていないといけないのだけど、そういう役者は、そうはいないわけです。それと、それを役者が続けてはいられない。―― 奇しくもマドレーヌ・ルノーというひとりの大名優がいて、それに対して、一方ではベケットの『しあわせな日々』や『わたしじゃない』における、ベケット対ルノーのような対決があり、一方では『イギリスの恋人』のような、レジ対ルノーという対決があったわけですね。その場合、ある意味ではどちらのケースも、大女優ルノーに、演技の限界のようなものを要求するというよく似た系譜にあるようにも思えるのですが、いかがでしょうか。
春秋座にアイルランドの劇団の『ゴドーを待ちながら』を呼んだでしょ。あれはベケットの「演出ノート」に忠実にやっているというので、私もパネルディスカッションに出ましたけれど。すごくわかりやすくはなっていたけれど、ベケットはこういうものを本当に想像していたのかという感じのするところもあった。それと、ベケットは文字通り「引き算の美学」の見本なんだけれど、「引き算の美学」と言いながら、実は結構いろんなところでちょこちょこと「足し算」もあるわけですよ。サーカスとか道化とか。だから、その辺が難しいところだね。―― たしかにベケットとレジを比べたとき、ベケットは第一に劇作家であり、レジは演出家であるという立場の違いはあると思う。ベケットにはもしかすると劇作家という立場性から来る、ある種のサービスやユーモアが強いかもしれない。俳優に無理を要求しながらも、一種の遊戯性というか、敬意を込めたちょっかいをかけているように見える部分もなくはない気がします。その意味では、レジのほうがいっそう禁欲的で過酷な感じがするんですけど。
それはやっぱり、ベケットは作家であり、フランス語と英語で書く作家であって、作家というか一種の詩人とも言えるわけだけれど。つまりベケットのあの言葉は、特にフランス語のバージョンでは、非常に美しいんだよね、言葉として。ただ、それに酔ったりしてはいけないのだけれど、ついそっちに行ってしまう。一方でクロード・レジは、そういう誘惑は全部退ける。だから『イギリスの恋人』で言うと、あれはマルグリット・デュラスの本だから、普通の心理劇のセリフではないですよね。それで、デュラスはマドレーヌ・ルノーの晩年に、せっせとルノーのために芝居を書くことになる。
その中で、レジが演出した『エデン・シネマ』は、舞台の両サイドに、カトリーヌ・セレルスとミシェル・ロンスダールというふたりの俳優が「語り手」みたいにしている。それで、主として喋っているのは彼らで、ルノーは何かをしようとしているんだけど、ほとんどセリフがない。これはまた、デュラスもすごいことをやるなと思って見ていたんだけれど。こういう芝居だと、レジはすごく強い。それは、あの人の力なのか、あるいは役者を説得するある種の仕掛けかマジックかがあるのかもしれないけれど。―― いまの話を聞いていると、例えばベケットという作家がいて、去年日本で上演されたマウス・オン・ファイアの『ゴドーを待ちながら』にせよ、マドレーヌ・ルノーの『しあわせな日々』にせよ、良いものだったけれどもしかし、それだけで良いのかという評価が渡邊先生の中にあるように聞こえます。その場合、渡邊先生の演劇体験全体の中で、まさにそういう問いが生まれてくる源になっているのが、レジの舞台が示した禁欲性ではないかというふうにも思えました。そのような、ある種の演劇における原理的な基準、つまり「ここまでやらなければ駄目だ」「ここまでやれるんだぞ」という基準をレジは示しているというふうに言えるのでしょうか。
言葉は単純だけど、やっぱりものすごく「禁欲的」ですね、括弧つきでね。そう言わざるを得ないでしょうね。ただ、普通のフランス人とは違う禁欲的な思考があって、それがやっぱり、芝居の演出で言えば、それをやる役者の身体的な全存在をそこに賭けてくれなきゃ困るという、そういう非常に要求過多というか暴力的な禁欲性だと思うのですよ。つまり、上手い役者を強引に縛り上げて、絞り出すというよりは、その役者が普段やっていることとは別の次元に、飛び込ませてしまう。しかし役者のほうでそれを取り返して、自分の演技の一部にしちゃうと、それは確かに面白いけど、レジの「初心」からは離れてしまう。―― クロード・レジについてのドキュメンタリー映画『世界の火傷』のインタビューで非常に印象的だったのは、彼が自分の作品について強調していた中に「空虚」と「沈黙」という言葉を繰り返すわけですね。空虚っていうのは「vide」、沈黙は「silence」だったと思いますが、この空虚と沈黙っていうようなキーワードは、ある意味では、19世紀以来のフランスの前衛演劇史全体――マラルメ以来と言ってよいかもしれませんが――におけるキーワードになっている感じもするんですが、どうでしょうか。
ですから、「他に類を見ない」としか言いようがない。つまり、他人が真似はできない。ベケットの作品というのは、どっちかというと、すごく「禁欲的」で、すべてを削ぎ落とした戯曲という印象を与えるけど、にも関わらず実を言うと、特に初期の作品は、すごくサービス過剰です。『ゴドーを待ちながら』は特にそうですよ。―― それにどこかメロドラマ的なところがあるでしょう。あるいはメロドラマの断片みたいなものを素材にしているようなところが。不倫の話とか、恋愛沙汰とか、そういうものが擦り切れてほとんど残ってはいないけど、残骸みたいなものは見える……。
だから上手い役者がやると、フランス語バージョンですらも、そういう方向に流れてしまう。フランス語バージョンのほうが禁欲的だと思います。いろんなものを削ぎ落としているから、つまり、「サーカスの道化が云々」、というようなことを言う余地がないくらい、サーカスの道化ではない。そうなんだけど、上手い役者がやるとそうなってしまう。ベケットの中にある「道化芝居的なもの」と「ニヒリズム的なもの」がさ、「虚無主義的なもの」の「二重写し」になっているという話になるはずなのだけれど。―― やっぱり言葉を書く人はサービス過剰になるものなんでしょうかね。
デュラスはやっぱり、ただものではないんだけれど、あの人のほうがエクスプレッシブですよね。外側に出していく人ですよ。それは、レジとは正反対。だからレジの『イギリスの恋人』がすごかったというのは、デュラスの舞台における女優の演技の魅力などを、全部切っていくというか、押さえ込んでいく。言ってみると、作者と女優が、戦っているみたいなことになってしまう。それで、普通だと、役者のほうが表現できないから戦うのだろうけど、ルノーさんはできすぎちゃうから、それを切れ、切れといって戦うわけですよ。それで言うと、レジも、言葉の上では表象不可能性の演出家と見えるかもしれないのですけれども、しかし、やはりこうしてレジについて考えてみると、やはりアプローチの違いというのがあって、要するにデュラスのほうは、「ヒロシマでは何も見なかった」というふうに言葉で表象してしまう。それに対してレジは、そうせずに、何か気配とか、沈黙とか、一瞬の動きのようなもので表現しようというアプローチがある。
それは簡単に言えば、表象不可能性そのことを可能な芝居にしてしまうということでしょ。―― 表象不可能性っていうことを表象していると。
レジのほうは、本当になんというか、不可能性の臨界まで役者を追い詰めてしまうという感じです。―― だからこそ、『舞台芸術』21号でもお書きになっている『ホロコースト』みたいな作品が可能になるってことですね。
つまり『ホロコースト』は、我々日本人にはあまりピンとこない主題ではあるし、それから、それが日本人じゃなくても、これだけ時間が経ってしまっているわけだからね。いわゆる「週刊誌的なヒューマニズム」とは、ぜんぜん違うわけです、舞台は。―― その意味でクロード・レジは、数少ないアウシュヴィッツ以後の作家として、アウシュヴィッツという巨大な問いに対して厳密に応えたというふうにも言えるでしょうか。
そう言ってしまうと、すごく常識的で話がわかりやすくなってしまうんだけど。だから、レジの演出作品っていうのは、やるほうは大変だと思う。―― そういう気もしますね。どこかで、劇作家として俳優のある種の上手い演技を、ちょっと無責任に楽しみたいって感じている感じもありますよね。
一方で、クロード・レジが演出で追究することはさ、いつでもそういう、テクストの裏というのではないけれど、テクストになっているような言葉では表せないもの、それを役者の声と身体が表現するという意思があるでしょう?―― レジと渡邊先生との対談の中では、レジの言葉でいうと「テクストの下に存在する『別の言語』というものを立ち現せるものです。その『別の言語』は、音、そしてリズムのおかげで我々が知覚できる言語です」みたいな言い方をしていますが、そこでいう「別の言語」は、いわゆる心理主義演技術で常識的にいわれるような「サブテクスト」とは別のものですよね。
それは上手いことを言っていると思う。そう、だから、フランスに限らないけれどとは言わないけれど、ただフランスでは特に、劇場はほとんどが国公立ですからね。それは政治的な立場の如何にかかわらず。そうすると、どうしてもルーティーンワークになるところがあるでしょう。毎シーズンに何本か新しい演出をしていかなきゃなんないから。そうすると、レジみたいな演出をしていたら保たないと思います。―― 本当に出来るのか? みたいな作品しかやらないわけですもんね。
そう。だから彼は、劇場支配人になるという道は取らなかったのです。孤高の演出家などというと、ことを単純にしすぎるけれどね。とにかく、すごい人です。(2018年5月1日公開)