福嶋亮大
9月下旬、香港中文大学で教鞭をとる朋友の日本研究者・張彧暋(チョウ・イクマン)に「国慶節の10月1日に大規模なデモをやるから、良かったらおいで」とTwitter上で誘われて、私は半ば物見遊山で香港に行くことにした。ところが、この予定された「決起」が学生リーダーの拘束をきっかけに前倒しとなり、9月27日(土)の晩にはOccupy Central(佔領中環)の運動、及びそれに続く大規模な抗議デモが始まってしまったのである。そして、その翌日に、警察がデモ隊に催涙弾を使用した映像は、恐らく多くの日本人を驚かせたことだろう。私が香港に降り立った30日の晩には、まだこの異例の騒動の余韻が残っているようだった。
私はジャーナリストでも香港の専門家でもないが、この運動はさまざまな角度から記述されるべきだという見地から、ごく簡単なレポートをお届けする。なお、今回の取材は、張氏の詳しいガイドがなければ成立しなかった。彼の友情に深く感謝したい(ゲンロンの刊行する
『観光地化メルマガ#23』にも香港デモの写真レポートを寄稿しているので、あわせてご覧頂きたい。また、11月12日には五反田の
ゲンロンカフェにて報告会が予定されている)。
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その前に少し前置きを。今回のデモ(雨傘運動)に関しては、何をもって「成功」と見なすかが難しい。そもそも、相手が中国の中央政府である以上、完全な「普通選挙」を求める学生側の主張がすべて通ることは望み薄で、百点満点の解答を得るのは簡単ではない。かと言って、どこで妥協すべきかも判断しにくい。私の見聞きした範囲内で言えば、現実的な着地点は、若い参加者たちのあいだでほとんど共有されていなかった。
それに「中国化」(=中国の政治的コントロールが強まること)の流れそのものは、そう簡単に止まるものではない。長い歴史を振り返ってみても、中国の辺境の政権が長続きした例はほとんどなく、やがて中央の政権に吸収されるというパターンが繰り返されている(注1)。したがって、台湾の「太陽花〔ひまわり〕学運」も香港の「雨傘運動」も、中国化の進行を前にした末期的な痙攣症状にすぎない、という冷たい見方も成り立つ(なお、雨傘「革命」という呼称は必ずしも実情に即していない。政権を倒そうとする民主革命ではなく、あくまで抗議運動なのだから)。実際、中国に逆らっても仕方がないし、痛い目にあうだけだと諦観している香港の若者もいた。
とはいえ、protesterの側に立てば、頑張れるだけ頑張って、あとは折々に立ち返るべき「参照点」が創設できればよい、という考え方もあり得る。仮にそのような尺度で考えるならば、今回のデモは現時点で大きな成功を収めていると言ってよいだろう。実際、香港史における2014年が、SARS危機(これは香港人にはトラウマティックな出来事であった)及び50万人デモの起こった2003年以来の重大な年となったのは、確かである。ある条件が揃えば、メインストリートすら大胆に占拠してしまう政治的群衆――、そのイメージが市民と為政者の記憶に刷り込まれたことは、相応のインパクトを持つ。運動はいずれ終わるが、「イメージや認知の書き換え」はひとびとの未来の振る舞いを規定するからである(他方、今の日本人の群衆イメージは渋谷の交差点や満員電車、コミケ、アイドルのライブ会場あたりに留まっているのではないか?)。
ただし、SARSがいわば全市民共通の「敵」であったのに対して、今回のデモではついに警察が市民に対して催涙弾や強制排除という物理的手段を用いた。と同時に、市民のなかでも学生(群衆)を迷惑がったり、冷ややかに評したりする声は存在する。もとより、あらゆる社会運動は大なり小なり「危険な遊び」、すなわち、かりそめの調和を壊し、日常では隠された亀裂や差異、矛盾を浮き上がらせるゲームとしての性格を帯びる。したがって、雨傘運動をきっかけにして、香港社会では今後さまざまな社会的対立が顕在化していくかもしれない。それは果たして、香港の未来にとって福音となり得るだろうか? (注2)
□ 金鐘(アドミラルティ)
……という悩ましい問題がある一方で、今回のデモはその運動形態において、かなり驚くべき外見を呈している。現地の様子を駆け足で紹介していこう。9月30日の19:00頃、私は張氏とともに、まずは地下鉄で金鐘駅へ向かった。
政府庁舎やブランド店の立ち並ぶ金鐘が、今回のオキュパイの発端となった。地下鉄構内は大混雑。
煌々と輝くジョルジオアルマーニの前で、日頃はイベントの運営を手がけている若者が忙しそうに連絡をとりあっていた。組織の幹部ではなくボランティアだという。
Occupy Centralそれ自体は数ヶ月前から計画されており、決して突発的なものではない(ちなみに「本家」のOccupy Wall Streetと違って、今回のデモは反資本主義的な性格はほぼ皆無である。香港人は基本的にはお金が好きな人たちなのだ――と同時に、香港社会の貧富の差が激しいのも一方の事実なのだが、今はそれには触れない)。だが、これから見るように、その運動の進行はアクシデンタルな出来事の連鎖であった。
計画を超える「水漏れ」が発生したのは、デモを支えるインフラの性格と関わる。まず①Facebookでのリアルタイムの情報交換に加えて、②便利な地下鉄網があるおかげで、デモの参加者たちの機動性・流動性は高められた。Facebookで呼びかけがあると、すぐに現場に直行できるわけだ。さらに、③仕事が終わってから仲間で遊ぶ香港的習慣は、群衆の「単位」を作るのに役立った。日本だと「脱原発デモに行って初めて同志と出会えた」という話も聞くが、香港はそれとは対照的である。私自身、張氏の友人たち5人とわいわいがやがや北京ダックを食べてから皆で現場に移動したのだが、それは半ばピクニックのようでもあった(ちなみに、私は広東語を解さないが、張氏に聞くと食事中の話題は「今はどの銘柄が買い時かな?」という株の話だった様子! デモ中でもお金儲けのチャンスは逃さない)。とすれば、金鐘のprotesterたちがどこか花見客の集団のように見えるのも、あながち偶然ではない。
金鐘の路上。5、6人のグループが目立つ。現場で暇つぶしするのにもデジタルデバイスは必需品だ。
ともあれ、今回の雨傘運動は、香港社会の ①情報インフラ ②交通インフラ ③ライフスタイル の上に形成された「都市型のデモ」としての性格を有しており、トップダウンで運動が厳密に管理されるものではなかった。こういう水のような運動が、しかし長期化に耐えるだけの実質を得たというのは、実に驚異的なことだ。香港人はどうやらデモに慣れたひとびとらしい……。
こうした流体的・都市的性格とも関わることだが、オキュパイ宣言から僅か3日めにして、傘のバリケードはすでに半ば観光名所と化しており、私同様にカメラを構えた観客が群がっていた。立法院を占拠した台湾の学生運動が「籠城戦」であったのに対して、香港の雨傘運動が「市街戦」であった(だから見たくなくても絶対に見えてしまう!)のは、やはり重要なポイントだろう。これはプレイヤーとして「参加する」だけではなく、観客=野次馬として「見る」デモでもあり、その観客のなかには私のような外国人も含まれていた。こういう「雑多な観客」が群衆に混じっていることは、武力による弾圧をやりにくくしているのではないかと思う。
バリケードは観光名所に。
実際、こうした「娯楽化」は意外と軽視できない。例えば、張氏曰く「例の催涙弾は派手に見えるけど実は防御可能で、恐れるに足りない。今やあれを浴びないと祭りに参加したことにならない。あの日に体験しておくべきだった……」って、それじゃ遊園地のアトラクションそのものじゃないか?! ちなみに、対催涙弾用の装備はSARSの防護服を想起させるものだったらしく、図らずも香港市民共有のイメージが再現されたのも興味深い。何にせよ、最初のショックが次の段階では娯楽になるという「経験の変質」――、これは今回のデモを考える上で重要なヒントとなるだろう。むろん、この種の変質自体はいつでも・どこでも起こり得るものだが、香港の現場は、この一般的社会現象を早回しで見せてくれるのである。
□ 旺角(モンコック)
香港島の金鐘から、地下鉄に乗って九龍サイドの旺角に移動。オキュパイ運動の「水漏れ」を象徴する場所である。早い話が、香港島北部の金融の中心地を制圧しようという当初の目論見からすれば、九龍サイドの庶民的な街・旺角を占拠する必然性はないじゃないか! しかし、その旺角がなぜか重要な拠点となり(むろん純粋な自然発生というわけではなく、噂話によると、Golden Forumというネット上の組織の呼びかけが動員のきっかけにはなったらしい)、運動のエリアが拡張していったところに、今回のデモの機動性(あるいは遊戯性)の一端が示されている。オキュパイの計画者も、まさか旺角を含めた複数のエリアが1ヶ月も占拠されるとは、夢にも思わなかっただろう。
彌敦道(ネイザン・ロード)いっぱいに群衆が広がる。誤解を恐れず言えば、メインストリートを占拠するのはとても爽快だ。
ビラの掲示板と化したバス。張氏の解説によると、バスの運転手はデモ隊に協力して、わざとこの場所に乗り捨ててくれたらしい。
689(行政長官・梁振英 [リャン・ジェンイン]の侮蔑的ニックネーム)の「下台」(ステップダウン)を求めるビラ。
別のバス。香港は道路工事が多く、バリケードの資材には困らないとのことだが、ここではバス停がバリケードにされている。この荒っぽさも旺角的な現象とのこと。
面白いことに、実はバリケードの形態も日々変化している。翌10月1日晩に旺角を再訪したときには、何とも珍妙な車が並べられていた。
「旺角(MK)のお兄さん、守ってくれてありがとう」という趣旨の張り紙。
その「(ちょっと見た目の怖い)お兄さん」たちのデカい車が整然と並べられている。そのうちの1台は痛車だった。
ステッカーは日本からの直輸入らしい。ヤンキーとオタクの融合というやつだろうか……。
それにしても、10台ぐらいの車を路上に並べて防護壁にする(汽車囲城)というのは、誰にとっても初めての経験だろうし、それなりのテクニックや機転も必要だろう。なのに「お兄さん」たちはいったいどうしてこんなに手慣れているのか……。ともあれ、社会運動に際しては理念も必要だが、それ以上にユーモアやテクノロジー、ノウハウこそ大事だということが、旺角にいると強く感じられる。
バス停にはデザイン性にも配慮したビラが貼り付けられている。拠点の近くに印刷所があるらしく、金鐘よりもビラが多い。
支援所や救急所が各所にある。
こちらは物資の供給所。老若男女が入り混じっている。この雑然とした感覚が旺角を特徴づけている。
張氏は「香港島を超えて、九龍サイドの庶民的な旺角にまで運動が広がったこと」の重要性を、私に何度も力説していた。彼の見解は正しいと思う。実際、金鐘のprotesterと比べると、旺角は比較的年齢層が多様で、通りすがりのおじさんがマイクをもって演説している場面も何度か見かけた。
旺角の新しいショッピングモール・ランガムプレイス(設計はジョン・ジャーディ)の前でも演説が行われていた。
日本でも報道されているように、今回のデモ参加者たちが総じて非暴力的でpoliteであった――のみならず、ゴミ拾いをしたり、現場で勉強したりする学生の姿も見られた――のは「育ちの良い大学生が多いから」という理由もある。だが、その一方で、旺角は(霜降り肉のように?)さまざまな世代・階層が混在していて、誰が支持者で誰が反対者なのか、そう簡単に色分けはできない。学生を支持してバリケードを作ってくれる、ちょっと見た目の怖いお兄さんもいれば、オキュパイを潰そうと暴力行為に及ぶ本物のヤクザも(新界あたりから?)押し寄せてくる。商売の邪魔だと言って怒っている人間もいれば、達筆のビラを書ける地元のおじさんもいる。
私の見た限り、デモへの共感と反感がいちばん際立っていたのが、この旺角であった。張氏が言うように、このエリアこそが本当の意味での「民主主義」が試される場なのだろう。金鐘と旺角という対照的なエリアが主要拠点となったことは、きわめて重要な意味をもつ。もし香港島だけで完結していたら、今回のデモの印象は大きく違ったものになったはずである。
10月2日に、旺角の隣の太子(プリンス・エドワード)駅近辺で見かけた、反オキュパイ派(親北京派)の街宣。この数十分後には激しい揉みあいになっていた。
旺角周辺には、中国では弾圧されている法輪功も出張していた。大陸からの観光客が興味津々でパネルを眺めている。
□ 銅鑼湾(コーズウェイベイ)
10月2日には、三つめの拠点である香港島の銅鑼湾へ。SOGOの前が占拠されていたが、昼間ということもあって、デモ側ものんびりした様子。この拠点を死守しようという気魄はあまり感じられなかった(実際、この数日後に警察によってクリアされ、今では銅鑼湾の拠点はかなり縮小している)。
応援メッセージを書くコーナーが設置されていた。
各国語の応援メッセージ。
弛緩した雰囲気が漂う。暴動の恐れもないので、バリケード内部の店はふつうに営業していた。
他にも色々と興味深い情報はあるのだが、ひとまずここまでにしよう。さて、私が帰国してからの展開としては、旺角に即席の関帝廟やチャペルが出現する一方で、金鐘では職人たちが決起し、竹製のバリケードを一晩で設置してしまう……という具合に、奇怪な現象が次々と起こっている(市民的不服従civil disobedienceの守護神は、関羽とイエス・キリストだった?!)。当初はFacebookと地下鉄を駆使した都市型のデモであったはずが、運動が長引くにつれて、古層の民俗学的地盤が露出してきた、というのが実に奇妙で面白いところだ。ここでも「経験の変質」が理解の鍵となるだろう。
こういう経過を見ていると、職業柄、私はどうしても『水滸伝』を思い出してしまうのだが――このカーニバル的な白話小説にも、都市の技術者たちが魅力たっぷりに描かれていた――、兎にも角にも、サイバー空間からリアル空間まで、今回さまざまなテクノロジーが顕在化したことには驚きを禁じ得ない。この豊かなテクノロジー/ノウハウが、一見してまじめな政治運動のなかにいわば「変な経験」を胚胎させたことは、ここで強調しておくべきだろう(他方、日本のジャーナリズムは理解不能な「変なもの」をノイズとして無視しがちだが、好ましくない傾向だ。それは、人間の社会行動に対する日本人の見識をひどく狭めていると思う)。
むろん「経験の変質」が可能だったのは、政府側が決然たる武力的処置に出なかったからでもある。政治的な「決断」が宙吊りにされるなか、そのあいまいな間隙を埋めるようにして、遊戯的かつエスニックなイメージがぞろぞろと湧いて出る……この点で、今回の雨傘運動は一種の「文化人類学的対象」としても考察されるべきかもしれない。何にせよ、私が現地で感じたのは、政治的行動の「余白」の部分がいかに重要かということである。ひとの感じ方や印象を決めるのは、往々にして、声高なイデオロギーよりもユーモラスな「余白」の部分だったりするものだ。そして、このユーモアは、家族的な親しみやすさや心理的な余裕を作り出すのに役立つ。本レポートからその一端を感じ取ってくれれば、嬉しく思う。
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最後にいくつか補足を。日本人はデモというとき、きまって欧米を参照する。しかし、飛行機で3、4時間のところに「デモをやるアジア人」がいるのだとしたら、どうだろう? そういう関心からこのデモを見てもいいかもしれない。
周知のように、日本の政治運動はややもすれば党派的になり、集団ヒステリーと内ゲバに向かいがちである。それに比べて、香港の運動が(親北京派の疑心工作等にもかかわらず)1ヶ月近くも「和平」とユーモアを貫き、無謀な暴走を抑えているのは、成熟した態度だと言えるだろう。張氏に「日本赤軍やオウム真理教のようなテロリストは香港から出てくるかな?」と訊ねてみたところ「ないだろうね」と即答。この点は、やはり日本人の精神性とは違うところだ。香港のプロテストは「玉砕戦」から遠い。それどころか、ネットでは、今回の運動を戦略ゲームの感覚で捉えているケースもある。日本ではいわゆる「ネタ化」は理念を嘲笑するものだが、香港ではむしろ、理念を平和的に持続させるために「ネタ」が投入されている。
ただし、攻撃性が皆無というわけでもない。特に、大陸への反発心から来る香港ナショナリズムが、この学生運動に含まれていることは否定できない(そもそも「反共」のプログラムは、冷戦時代から香港の大学的な「知」に内在するものだ)。近年では大陸からの観光客も増加し、彌敦道(ネイザン・ロード)でも彼ら向けの貴金属や日用品がディスプレイされ(大陸の富裕層は、自国の人民元にも生活用品にも信を置いていない)、街の風景は変容した。今のところヘイトスピーチの類はないが、大陸の中国人への不快感が、いつの日かより暴力的な行動を生み出さないとも限らない。
旺角のprotesterの周囲にも有名な貴金属店(周生生 [チョウサンサン])が並ぶ。
資本主義の光がデモ隊と観光客とバリケードに降り注ぐ。
さらに、今回のデモの主役となった若者も、先行世代のような豊かさを享受できずにいる。特に、不動産価格の上昇のために、家を手に入れるのがひどく難しくなったことが、彼らの大きなストレスとなっている。たとえそこそこの収入があったとしても、親元でのパラサイトを選ばざるを得ない若年層は多い。こうした現状も、雨傘運動の背景を形成している。
雨傘運動がどういう結末を迎えるかは、いまだに不透明である。現時点で死者が出ていないのは素晴らしいことだが、今後どうなるかは分からない。ただ、結果はどうあれ「雨傘運動にどういう意味があったのか?」という問いは、これから何度も繰り返されることになるだろう。もし普通選挙の要求も通らず、ただ社会的不和を増大させただけで終わったとしたら?――とはいえ、かの「塞翁失馬」の教えを踏まえれば、結局のところ、最後に何が幸いするかは誰にも判定できないものなのだ。ならば、社会運動は面白いに越したことはない。そして、運動を面白くするユーモア感覚にかけては、香港人に勝るものは恐らく稀なのである。
ふくしま・りょうた
1981年、京都市生まれ。文芸評論家、中国文学者。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、京都造形芸術大学非常勤講師。著書に『神話が考える――ネットワーク社会の文化論』(青土社、2010年)、『復興文化論――日本的創造の系譜』(同、2013年)がある。
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(注1) それにしても、なぜ春秋戦国時代から今日に到るまで、中国は「1つ」であることを強く志向し、ヨーロッパのような複数国家体制にならなかったのか? この謎は近年でも歴史家の関心を惹いている。興味ある読者は、以下を参照されたい。Yuri Pines, The Everlasting Empire: The Political Culture of Ancient China and Its Imperial Legacy, 2012.
(注2) 返還前の香港では全面的な「中国化」を危惧する声が多かったが、現実には一国二制度の名のもとに高度な自治は保たれた。しかし、他方で、その独立性はやはり「期間限定」のものでしかなく、従来の自治の維持が危ぶまれているのも確かである。かたや、大陸の沿岸部では深圳や広州の経済的地位が上昇し、香港のプレゼンスは相対的に低下した(むろん、香港の市場の成熟度はそれでもまだ十分に高いし、それが香港人のプライドにもなっているのだが)。こうして、香港が政治的にも経済的にも一種のクライシスを迎えていたことは、今回の背景として見逃せない。
なお、多くの日本人は今回の大規模デモに唐突な印象を覚えただろうが、実際には2000年代から2010年代にかけて、香港市民はたびたびデモをやっており、そのうちのいくつかは成果を挙げている(最近では「愛国教育」を撤回させた2012年のデモなど)。もともとはイギリスの植民地統治のなかで、香港人の政治参加の機会は限定され、それがエリートたちの政治意識の低さ(あるいは経済での上昇志向)に結びついたと言われるが(詳しくは、倉田徹『中国返還後の香港』第四章参照)、ここ十数年のあいだに若い香港市民の「政治化」が進んだということだろう。
この「若者の政治化」との関連で言えば、私の出会った香港の有名な日本研究者(40代のリベラルな知識人)が「自分は群衆を信じない」と言って、今回のデモに対して批判的であったことが思い出される。天安門事件をリアルタイムで見て、政治に幻滅し、そこから撤退するという、彼の(村上春樹的な?)デタッチメントと個人主義は、天安門事件の記憶を持たない若い世代の政治意識とは明らかに異なっている。今回のデモは一面では街頭での「拍手喝采」を通じての「人民の意志」を出現させたが、他面では世代間の差異をも浮き彫りにするものであった。
中国圏の問題として見れば、中国大陸のエリート学生は総じてこのデモに冷淡だと伝えられる(例えば
NYTの10/10の記事を参照)。現行システムから多くの恩恵を受けている大陸のエリート学生にとって、香港の学生運動はたんなる迷惑行為でしかない(むろん、中国の政治的統制の厳しさを思えば、既得権益のシステムに安全に寄生できればよいという彼らの適応形態は、一概に非難できるものではないが)。中国と香港の学生の政治的態度の違いも、ゆくゆくは重大な問題となってくるだろう。
(2014年10月25日公開)