撮影:松見拓也
真部優子
舞台空間を正方形に区切る紅白紐が、木造の船によって突き崩される。そして「わっしょい」という録音された掛け声に合わせて、その船が鎮座していた台座をかついで運ぶ人々。彼らは無表情で押し黙ったまま、一人が発する頼りない指示に盲目的に従う。その様は限りなく不気味だ。そして、最後には全てが波の音に包まれ、舞台は暗転する。
この劇『忘れる日本人』は何故このような結末を迎えたのだろうか。少なくとも途中までは、このような悲惨な結末など誰も想定できないほど、ユーモラスな観客参加型の演劇だったのである。
今作は大きく三つのパートに分けられる。一つ目のパートではまず、舞台中央に置かれた木造の船の下から一人、また一人と役者が登場してくる。彼らは漁師、サラリーマン、女子高校生といった格好だが、横向きにすり足で動くことしか許されていない上、上半身も常に奇妙な動きをしている。皆、何かを懸命に訴えているが、人物間で会話が交わされることは無く、文脈も曖昧なままであるため、その言葉の意味するところは判然としない。そして時折、誰かが紅白紐で区切られた正方形の外へ出ると、不思議な音楽が流れ、青い照明が舞台上方に点き、その人物は黙りこんだまま、しばらくその空間でとどまっている。その空間は特別であるということが観客に伝わり、いかにも「意味ありげ」な演出である。次第に彼らは船に乗り込み、「わっしょい」「ばんざい」という合いの手が台詞の間に挿入されてくる。
そして二つ目のパートでは、彼らは船から降り、なぜかそれを担ぎたがる。しかし、「ハラセツコ」と呼ばれる女性(安部聡子)が船にしがみついて協力しない。その上また一人が正方形のスペースを超え出たため、なかなか共同作業が始まらない。漁師風の男(小林洋平)が、彼女に早くスペース内に戻ってくるよう諭すが、彼女は全く意に介さない。そして男は「待っている間に、残っている台詞を全部しゃべって」というようなことを他のメンバーに告げ、発された台詞を「いいね」とまるでフェイスブックのように調子よく評価していく。このあたりはかなりユーモラスで、コントでも見ているかのようだ。
しかし、よく考えるとここでなされているのは、演劇の根本的なシステムの否定である。一つ目のパートでなされた「意味ありげ」な演出を笑いものにした上、「役者が覚えて来た台詞を舞台上でそれらしく発する」という演劇の暗黙裡の了解すらも嘲笑するかのようだ。また、ここで軽々しく「いいね」と言われた台詞の多くは、劇の最終場面で放たれるにふさわしいような真剣な言葉だった。それを劇も半ばのこの時点で笑いものにすることは、「この劇にいかなるヒューマニスティックな感動も期待するな」という観客への事前通告のようだ。このように松原俊太郎の戯曲、そして三浦基の演出は徹底的に何らかの価値観を提示することを拒む。今作を貫いているのはこのような「絶対的価値観の不在」である。
そして彼女が紅白紐の外から戻ってくると、今作最大の特徴ともいえる観客の参加が呼び掛けられる。船をかついで動かすのに、10人の“ともだち”の力が必要なのだという。そして集まった“ともだち”と共に、役者たちは船をかついで動いたり頭上に掲げてみたりする。この場面は思ったより盛り上がるわけでもなく、船の移動に何の意味があったのかも分からず、“ともだち”という言葉の居心地の悪さだけが残る。ここでも観客参加型の芸術作品に通常期待されるような「一体感」をもたらすことは周到に回避される。
“ともだち”が観客席に帰されると、三つ目のパートが始まる。役者たちは先ほどまでの様子とは打って変わって、しばし無言のまま船を運ぶ。そして冒頭に述べたような、恐ろしい情景が繰り広げられるに至る。彼らの手によって、その船はそれまで超え出ることのなかった紅白紐を荒々しく突き崩す。しかしもう、あの「意味ありげ」な演出はなされない。紅白紐をつないでいた四本のポールが次々に倒れる。場内を満たす「わっしょい」という声は、彼らが先ほど口にしていたものの録音だ。しかし、今はもう彼らは何も言わない。その空虚な響きに合わせて、台座をかつぎ、あてもなくさまようだけだ。彼らは司令塔らしき一人が発する「進め!」という声に何の疑問も抱かずに、粛々と従い続ける。
一方、彼らに加わっていないのはサラリーマン風の男と「ハラセツコ」のみ。サラリーマンは自分の体を包囲する黒い枠を何度も持ち上げては地に落とし、気が狂ってしまったかのようだ。それに対し、先ほどの「ハラセツコ」は一人何かを懸命に訴え続けている。思えば彼女は最後に船の下から登場し、一人周りと違う動きをする道化のような存在だった。しかしこの最後のシーンに至って、自分の意思で動き、自分の声で話し続けたのは彼女だけだった。
さてここで、冒頭に述べた「『忘れる日本人』は何故このような結末を迎えたのだろうか」という問いに戻りたい。筆者には、この「ハラセツコ」なる彼女と盲目的な群衆と化した人々の対比こそがその問いの答えとなるように思えてならない。無言で誰かの指示に従うことしかできなくなってしまった彼らは、あたかもファシズムやポピュリズムになびく大衆のようだ。彼らがそうなってしまった一因こそが、先ほど挙げた「絶対的価値観の不在」ではないだろうか。これがもたらすのは、寄る辺の無さからくるニヒリスティックな諦念であり、何も考えずに強力な指導者に身を委ねたいという願望である。そうして、誰かの「わっしょい」に合わせて無言で台座をかつぐだけの群衆が生まれるのではないだろうか。
他方、最初は道化にしか見えなかった「ハラセツコ」が示すのは、「周りに流されず、自分の考えに従って行動することは一見愚直に見える」ということだ。盲目的な群衆が闊歩する中、「ハラセツコ」は一人観客席の方を向いて立ち、力強くこちらを指差す。その凛とした人差し指の美しさを、私たちは「忘れ」てはならない。地点が今作で突きつけたのは「絶対的価値観の不在」の状況にあって、盲目的な群衆に堕することなく、自分の意思を持って踏みとどまることができるか、という観客への、そして「日本人」への挑戦状である。
まなべ・ゆうこ
京都大学総合人間学部在籍。現代美術や映画、現代演劇、コンテンポラリーダンス、音楽、現代文学など、ジャンルを問わず、現在の表現行為に対して批評をしていきたい。
(2018年8月18日公開)
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地点『忘れる日本人』 は2018年7月18日〜21日にロームシアター京都 ノースホールにて上演されました。
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【上演予定】山口情報芸術センター YCAM/2019年2月16日・17日