第9回ヒロシマ賞受賞記念 ドリス・サルセド展 展評

ヒロシマのドリス・サルセド(第9回ヒロシマ賞受賞記念 ドリス・サルセド展)

 
浅田彰

ロンドンのテート・モダンは昔の発電所をヘルツォーク&ド・ムーロンが改装した建物だが、その巨大なタービン・ホールは良かれ悪しかれ現代芸術のスターたちがスペクタキュラ—な作品で腕を競う大舞台と化した観がある。むろん全部を現場で見たわけではないけれど、その中でも突出した作品が、タービン・ホールの床を叩き割って亀裂を走らせたドリス・サルセドの《Shibboleth》(2007)だろう。最もスペクタキュラ—だったからではない。むしろ、この作品はスペクタクルの批判——スペクタクルの舞台の床に着目し、その下に隠されているものに視線を届かせようとする試みなのだ。とはいえ、それが、表象不可能なものを亀裂によって表象するといういまやありふれた方法の応用例に過ぎないと考えるなら早計に過ぎる。実際、床を叩き割ったというのは不正確な表現であり、亀裂は歯科の器具まで使って精密に削り出された上で床に填め込まれた。そこで主題化されているのは、亀裂の反スペクタクル的スペクタクルではなく、亀裂のミクロ地理学であり、亀裂を超えることを許されるか許されないかにかかわるミクロ政治学なのだ。言うまでもなく、題名の《Shibboleth》(カタログでは《シボレス》と表記されているが《シボレート》の方がいいだろう)とは、この単語をうまく発音できるかどうかで民族を見分け、越境を許可/禁止するための、文字通りのキー=ワード(鍵=語)だった。

Shibboleth Tate Modern” by Nuno Nogueira (Nmnogueira).From en.wikipedia –


ドリス・サルセド(記者会見にて)

そのドリス・サルセドがヒロシマ賞を受賞し、7月18日に広島市現代美術館で授賞式と記念展(7月19日〜10月13日)のオープニングが行なわれた。1989年に始まり3年に一度与えられるヒロシマ賞は、これまで三宅一生、ロバート・ラウシェンバーグ、レオン・ゴラブ&ナンシー・スペロ、クシュシトフ・ウディチコ、ダニエル・リベスキンド、シリン・ネシャット、蔡國強、オノ・ヨーコが受賞してきた。私はリベスキンドと蔡の受賞記念シンポジウムに参加したので完全に中立的な立場とは言えないかもしれないが、あえて言えばこのような賞としてはきわめて適切な人選が行なわれてきたと思う。それだけに第9回の人選も簡単ではなかったろうが、サルセドが選ばれたことはやはり誰の目にも適切な人選と映るはずだ。

1958年にコロンビアのボゴタで生まれ、ニューヨーク大学大学院に留学したほかは、ほぼ一貫してボゴタを拠点に活動してきたドリス・サルセドは、7月19日の記念講演で本人が明言した通り、政治的暴力をテーマに制作を続けてきたアーティストである。政治権力は暴力の表象を振りかざして人を威嚇する——それもまたひとつの暴力だ。それに対して暴力を非暴力的に表象することはいかにして可能か。暴力の犠牲者に対する一見不可能とも見える喪の作業をいかにして行なうか。むろん、それはコロンビアの政治に限った問題ではない。世界のいたるところでいまも政治的暴力が犠牲者を生み続けているのであり、たとえばあの《Shibboleth》も、古くからの越境の問題を、まさしくグローバルな拡がりを見せるアクチュアルな移民問題に即して考え直すところから生まれた作品なのである。
広島での記念展の最初に置かれた《A Flor de Piel》(2014)はそうした作品の典型だ。薔薇の花びら(保存可能なように処理された)を一枚ずつ縫い合わせてつくられた巨大な布。それは拷問の犠牲になった女性への献花であり、薄くはかない埋葬布である。と同時に、それは拷問の犠牲になった触れることのできない身体と私たちを辛うじて結びつけるインタフェースなのである。

ドリス・サルセド 《ア・フロール・デ・ピエル》 2014年
広島市現代美術館での展示風景 / 撮影:内田和宏


そこから階段を降りた地下の展示室には《Plegaria Muda》(2008-2010)と題するインスタレーションが一面に展開されている。柩のサイズの土を上下からテーブルで挟み込んだものが所狭しと並んで、一種の迷路を形成しているのだ。コロンビアでは2003年から2009年の間に貧困地区の2500人もの若者たちが軍に殺され、「身元不明のゲリラ」として処理された(ラテン・アメリカの他の国にもある「失踪者」の例だ)。行方のわからなくなった我が子を探す母親たちに同行し、集団墓地での身元確認作業に立ち会ったサルセドは、その経験から、無名の死者がそれにもかかわらずひとりひとりかけがえのない者として葬られる一種の墓地として《Plegaria Muda》を作り上げたと言えるだろう。実際、匿名の死者が一様に並んでいるかに見える迷路をさまよいながらよく見ると、ほとんど同じに見える机も微妙に違っているし、挟まれた土の厚みも違っている。そして、さらによく見ると、その隅々から緑の草が芽吹いているのだ——ありえないと思われた再生を、いかにも頼りなげに、それでも決して抑えこむことのできない力をもって体現するかのように。

ドリス・サルセド 《プレガリア・ムーダ》 2008-2010年
広島市現代美術館での展示風景 / 撮影:内田和宏


主にこれら二つのインスタレーションだけから成るこの展覧会は、多種多様な作品で観客を楽しませる展覧会の対極にある。しかし、忍耐力と注意力をもってすれば、観客はそこから深い体験を汲み取ることができるだろう。実のところ、来年の2月にはシカゴ現代美術館でサルセドの多くの作品を集めた大回顧展がスタートし、ニューヨークとロサンジェルスに巡回する予定だ。日本でもいつかそのような展覧会が見られるに越したことはない。しかし、日本でのサルセドの最初の展覧会が、広島でこういうストイックな形をとって開催されるというのは、いかにもこのアーティストにふさわしいことだったのではあるまいか。

振り返ってみれば、広島市現代美術館のある比治山は、昔、陸軍墓地があり、後にも墓地のつくられた場所だ(さらに、山頂近くには原爆投下後にアメリカのつくった原爆傷害調査委員会[ABCC]があり、マンガ『はだしのゲン』にも描かれたそのカマボコ型の建物はいまも日米共同の放射線影響研究所に改組されて使われている。実はここが本来の陸軍墓地の場所だったのだが、そこから出発し、移転した陸軍墓地をへて、美術館を訪れるというのも、悪くないのではないか)。そしていま、美術館の地階が墓地になる——《Plegaria Muda》があたかもここでサイト・スペシフィックな作品としてつくられたかのように。

私の不十分な記述を読み、パウル・ツェランやネリー・ザックス、ジャック・デリダやジャン=リュック・ナンシーらの引用をちりばめたテクストや講演に触れただけだと、サルセドが否定神学に傾斜した思弁的なアーティストだという印象を受けるかもしれない。もういちど確認しておくが、それは誤った単純化だ。すでに示唆したように、きわめて抑制されているために一見一様に見える彼女の作品をよく見れば、そこに繊細きわまる細部の表情が見つかるはずだ。もうひとつ、ステージを降りたサルセドが実はたいへん魅力的な語り手であることも強調しておこう。同行しているパートナーのアスリエル・ビブリオビッチ(小説家)を交えて、われわれは実にさまざまなことを語り合った。最近亡くなったガブリエル・ガルシア・マルケスは偉大な作家であるには違いない。だが、彼のフィデル・カストロに対する変わらぬ支持は、大きな汚点と言うべきではないか。日本同様、むろんコロンビアでも、キューバ革命は、アメリカ帝国主義の支配に対する抵抗として擁護すべきものと考えられた。しかし、それがマッチョ主義とミリタンティズムに毒されたカストロ独裁を生み出したに過ぎないことがわかるのに、そう時間はかからなかった。それでもなおガルシア・マルケスがカストロを支持し続けたのは、彼自身があらゆる意味で権力に魅了されていたからではないか(「ゲイであるがゆえにキューバの監獄につながれたレイナルド・アレナス[*注]の作品群との出会いが、日本でもカストロとガルシア・マルケスに対する幻滅を決定的なものにした」。私がそう言うと、ビブリオビッチは「私はアメリカに亡命したアレナスに二度会ったことがあるんだ」と明かした。時間差はあれ、一定の同時代性を確認することができた瞬間である)。そうした会話の中から見えてきたのは、スターリンやカストロの革命に対する幻想を完全に捨て、しかもなおグローバル資本主義下の世界の圧政と暴力に対して新たな抵抗——ただし暴力によらない抵抗を組織していこうとする、しなやかで粘り強いアーティストの姿だ。

そう、ドリス・サルセドはスペクタクルの人ではないが、表象不可能な傷/傷の表象不可能性の前に立ち尽くすメランコリーの人でもない。傷の微細な構造を探求し、それを完全に癒すことは不可能であると知りながらだからこそできるかぎり繊細な手つきでそれを癒そうとする、またそれを通じて平和な生の希望をわずかでも開こうとする、最も深い意味でアクチュアルなアーティストなのである。

 
補足:
この展覧会は主に2つの作品だけから成ると書いたが、冒頭には《Shibboleth》をはじめとする過去の主要な作品の写真が展示されていて、サルセドの仕事をざっと展望することができる。
その中で、そもそも写真作品である《ハンス・ハーケとエドワード・フライへの捧げもの》(2009)に一言触れておこう。1971年にグッゲンハイム美術館で開催されるはずだったハンス・ハーケ展には、ハーレムをはじめとする低所得者居住地区のアパート約150棟の写真とその所有権に関する書類を並べた「シャポルスキー・マンハッタン不動産ホールディングス:1971年5月1日時点でのリアル・タイムの社会システム」が含まれていたが、この作品を含む2点が不適当であるとして展覧会はキャンセルされ、ハーケを擁護した担当キュレーターのエドワード・フライが解雇された。所有者の中にグッゲンハイム美術館の理事、あるいはその関係者が含まれていたためであると言われる。美術館の舞台の背後に隠されている現実を舞台の上に上げようとして検閲されたというわけだ。そのグッゲンハイム美術館で2009年後にナンシー・スペクターの企画した『ヴォイド』展にサルセドの寄せた作品は、ハーケ自身から借りたアパートの写真を素材として、グッゲンハイム美術館の吹き抜けにそれらのアパートを実物大で建て込んだ様子を精密な合成写真として示したものである。いかにもサルセドらしい作品であると同時に、彼女がいかなる系譜を引くアーティストであるか、その一端をそこから窺い知ることができよう。その文脈で言えば、サルセドが舞台の下に見出そうとしているものも、たんに表象不可能な「裂け目」や「穴」と言ってしまえるものではないのだ。

思い出してみれば、1993年のヴェネツィア・ビエンナーレでナムジュン・パイクとともにドイツ館のアーティストに選ばれたハーケは、ドイツ館のメイン・ホールの床を叩き割ってみせた。1934年に共にビエンナーレ会場を訪れるムッソリーニとヒトラーの写真がドイツ・マルクのマークの下に飾られた入口を入ると、「GERMANIA」と大書された壁の下、床が一面に叩き割られているのだ。サルセドの《Shibboleth》からこのハーケの《Germania》を連想することもできるだろう。ただ、ハーケの作品すべてではないにせよ少なくとも《Germania》がアンチスペクタキュラ—・スペクタクルであるとすれば、サルセドの作品はアンチスペクタキュラー・ノンスペクタクルである。本文で言おうとしたのはそういうことだ。

(あさだ・あきら 京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長)

 
*注:アレナスについては『ユリイカ』2001年9月号・特集「レイナルド・アレナス」に収録された島田雅彦・星野智幸との鼎談「夜明け前のレイナルド・アレナス」を参照されたい。

 
第9回ヒロシマ賞受賞記念 ドリス・サルセド展
広島市現代美術館 2014年7月19日(土)~10月13日(月・祝)

 

(2014年7月30日公開)