小崎哲哉
国立国際美術館地下2階の展示室は、使いにくいことで知られている。とりわけ四角い構造柱が立ち並ぶ部屋は、ここで展示を行うアーティストに呪詛の言葉を吐かせることが少なくない。宮永愛子は構造柱と同じ素材の、あるいは白い布で作ったフェイクの柱を何本か足し、周囲に金属パイプの梯子を立て、縦木と横木の間にはめ込んだ透明なケースに白い蝶のオブジェを収めた。闇の中に白い柱がほのかに浮かび上がり、数十羽の純白の蝶が翅を広げて静止している。静謐な幽暗の世界に身を置くだけで、作家の空間的センスが理解される。
撮影(全写真):豊永政史
モノクロームの世界で
この作品は展覧会名と同じ「なかそら–空中空–」と題されている。それを含め、個展に出展された作品は全部で6点しかない。すべてが新作で、柱の部屋の手前には3点が展示されている。長さ18メートルの透明な樹脂の箱に、ジグソーパズルのピースから傘までの日常品を並べた「なかそら–透き間–」。床から天井にまで伸びた樹脂ケースに、細い糸で作ったミニチュアの梯子を収めた「なかそら–はしご–」。そして、古風な背もたれの付いた椅子を、やはり透明な樹脂の中に封入した「なかそら–waiting for awakening–」だ。ただし、パズルのピースも傘も椅子もナフタリンで象ったものであり、蝶もナフタリン製であり、「はしご」のケースの中にもナフタリンが仕込まれている。宮永のファンなら先刻ご承知の通り、蝶や「透き間」のオブジェは時の経過とともに昇華し、崩壊して、ケースの内側に氷片のように結晶化してゆく。「はしご」のナフタリンは梯子の糸やケースの内側に、同じく白い結晶を凝着させてゆく。
あとの2点は、美術館からほど遠からぬ堂島川の汽水域で採取した水を濃縮し、糸に塩分を結晶させ、ガラス瓶とともに並べた「なかそら–20リットルの海–」と、12万枚に及ぶキンモクセイの葉を葉脈だけにして、1枚の布のようにつなぎ合わせた「なかそら–景色の始まり–」。特に後者は人手も時間もかけた大作だが、この個展の白眉は「なかそら–waiting for awakening–」だと思う。前述したように、小さなコンテナほどの透明な樹脂の中に、椅子を象った白いナフタリンが封入されている。よく見ると樹脂には縦に地層のような筋が入っていて、椅子が段階的に閉じ込められていったことがわかる。樹脂の底には小さな穴が開いているが、いまはシールで閉じられている。シールが剥がされると、ナフタリンは空気に触れてゆっくりと昇華を始め、数年、数十年、ひょっとすると数百年後に、椅子の形だけを樹脂の内部に残すことになるだろう。
実物の椅子をナフタリンで象り、樹脂で封入した後に穴を開けて昇華させると、もとの椅子の形だけが残る。技術的に可能かどうかは知らないが、樹脂の中に生じた空きにもう一度ナフタリンを注入すれば、再び白い椅子が内部に現れるはずだ。だとすれば、ナフタリンの椅子はもとの椅子のポジであり、樹脂はネガであり、つまりこの作品は総体として写真と同様の機能を果たしていると言えるだろうか。あるいは、かつて存在したものの痕跡を未来に伝える、化石のような役割を持っていると言えるだろうか。写真や化石と宮永作品を比べてみるのは興味深い。
写真=化石とナフタリン
化石のコレクターとしても知られるアーティストの杉本博司は、「写真とは現在を化石化する行為である」と述べている(『歴史の歴史』図録)。杉本は化石を「前写真、時間記録装置」と呼んでいるが、「現在を化石化する行為」はしかし、「現在を過去化する行為」にほかならない。地層やフィルムに「記録」された瞬間、生き物や被写体の生は凍結され、再び甦ることはない。ロラン・バルトが『明るい部屋』で述べているように「それは=かつて=あった」というのが写真の(そして化石の)本質である。写真と化石は確かに「時間」を記録しているが、それは「死の記録」と言い換えられる。
宮永の白い椅子も「死の記録」かもしれない。しかもそれは、長く固体としてとどまる写真や化石と違って、やがては昇華してしまうのだから、もとの椅子に二度目の死をもたらすものかもしれない。もとの椅子は、いずれは木が朽ち、革が破れ、あるいは単純に廃棄され、焼却されて形を失う。ナフタリンはその外形をしばし止めるが、結局はそれ自体が消え失せてしまう。不朽の紙や石に比べると、いかにも儚い存在であり……。
だが、事実はそうではない。宮永の白い椅子は「それは=かつて=あった」を示すものではない。瞬間的に凝固させられた写真=化石とは異なり、停止してさえいない。作家はいみじくもこう述べている。「私の作品はいつも変化を伴っている。防虫剤にもなるナフタリンを素材とするため、作品は常温で昇華をはじめる。つまり時間の経過と共に、彫刻作品はそのフォルムを失う。(中略)実際は消滅しているのではなく、同じ空間で再び結晶化し、新しい形へと結ばれているだけなのだ」(
「なかそらの話」)
だから白い椅子は、姿を変えるだけで決して消滅しない。それは「かつて=あった」のではなく「いま=ある」ものであり、「いつまでも=ある」。そして同様に、もとの椅子も「いつまでも=ある」ことを、身をもって示唆している。実は不朽ではなくいつしか本来の姿を失う紙や石も、さらには森羅万象が「決して消滅などしない」ことをも暗示している。「waiting for awakening」という作品名が示しているように、白い椅子は死んでいるのではなく、もとの椅子のデスマスクであるわけでもない。それはいま、正確に言えばシールが貼られている間、単に静かに眠っているのだ。
ハーケの「現在」と宮永の「永遠」
同様の形態から連想される、ハンス・ハーケの「コンデンセーション・キューブ」(「ウェザー・キューブ」)との比較も面白い。ハーケのキューブは、透明な樹脂で出来た立方体のケースに少量の水を入れ、蒸発した水蒸気がケースの内側に結露する様を見るという、自然環境におけるエネルギー循環の可視化を試みた作品である。ここでは「現在」が切り取られているが、その「現在」は「死の記録」ではなく「生の確認」とも呼ぶべきものだ。水はケースの中で室温によって蒸発し、水蒸気となった後に再び液体へと姿を変える。「実際は消滅しているのではなく、同じ空間で再び結晶化し、新しい形へと結ばれている」という点で、宮永作品と極めて近しい。
だが、ハーケの関心が「現在」にあるのに対し、宮永の関心は「永遠」に向いているように思える。ナフタリンが昇華する速度は、如何様にでもコントロールできるそうだ。また、陶器にかけた釉薬が膨張と収縮の過程でひび割れ、稀に生じるあえかにして金属的な音を聞かせるサウンドインスタレーション「そらみみみそら」は「条件が整えばほぼ永久的に音が生まれる」という(筆者によるインタビュー。同作は本展には出展されていない)。展覧会を機に刊行された初の作品集に寄せたエッセイに、宮永はこう記している。「世界はいつも変わり続けている。(中略)ちょうど空の中で生まれた雲が、終わりなく漂い続けているように、消滅はないのだ」(
『空中空』)
展覧会場のそこかしこにある大小の梯子は、床から天井に向けて屹立している。その様からは、コンスタンチン・ブランクーシの「無限柱」や、草間彌生の「天国への梯子」が想い起こされる。「無限柱」はブランクーシの祖国ルーマニアの民間伝承に基づく作品で、その名が示すように、偏菱形のエレメントがあたかも無限に連なって天空に伸びていくような柱状の彫刻だ。ミルチャ・エリアーデによれば「ブランクーシにとり憑いているのは、(中略)無限の空間における飛翔である」(「ブランクーシと神話」鈴木登美訳)。一方、草間の梯子はネオン管で作られていて、上下に鏡が設置され、無限に伸びているように見える。蛇足を承知で書けば、代表作『無限の網』シリーズや展覧会『永遠の永遠の永遠』に明らかなように、草間も無限と永遠に取り憑かれた作家である。
宮永が求めているのも、やはり「無限の空間」ではないだろうか。それは「永遠の時間」とも言い換えられるものだろう。宮永作品は世界とともに永遠の時間の中にあり、作品を含む世界が、変容しながら永続してゆくことを静かに語っている。
『宮永愛子:なかそら−空中空−』(2012年10月13日~12月24日。国立国際美術館)
(図録「
宮永愛子作品集 空中空(なかそら)」(青幻舎))
おざき・てつや
1955年、東京生まれ。『REALKYOTO』『REALTOKYO』発行人兼編集長。
(2012年12月1日公開)