小説家・劇作家・詩人のサミュエル・ベケットは、1989年12月22日に亡くなった。そこで昨年末、没後30年を記念して、京都造形芸術大学舞台芸術研究センターによって『サミュエル・ベケット映画祭』が開催された。日本ではほとんど知られていないが、ベケットは生前から現在に至るまで、文学・演劇以外の芸術ジャンル、特に現代アートに多大な影響を与えている。3人の日本人アーティストに、ベケット作品のレビューを寄稿していただいた。
CONTENTS
□ 髙橋耕平 厄介な「私」との共生
□ 田村友一郎 エンドゲーム
□ 毛利悠子 思考が揺るがされる
厄介な「私」との共生
髙橋耕平
昨年末上映の『没後30年——サミュエル・ベケット映画際』。上映ラインナップを見通した際、タイトルの響きだけで《クラップの最後の録音》(原題:Krapp’s Last Tape)と《プレイ》(Play)に注目したが、的外れではなかったことをこのテキストを書くことでひとり勝手に確認している。もちろん、ベケットのどの作品も上演・上映の度に注目され、多くの批評が書かれ分析されてきたことであろう。自らの身体をモチーフの一部とした映像作品を作ることのあるわたしにとって、「最後の録音」や「プレイ」という響きは、作り手としての最後の作品のあり方を切実さをもって想像させ、かつ、ひとりの生の最後期の発話状態を想像させる。そこにはまだ見ぬ老いへの怖れとやり残したこと=後悔が含まれる。それらは連続する「私」を生き抜いてこそ存在する感覚かもしれず、もしも「私」が複数化していたとすれば、その感覚自体が存在しないかもしれない。
「69歳の老人クラップが、30年前に録音された自らの声を聴いている。録音された30年前のクラップの声は、さらに『10年か12年前』に録音したテープを聞いたことについて話している。時を隔てる複数の『私』が舞台の上で重なる本作においては、『記憶』と並んで声を『聞くこと』がモチーフとも言える。ベケットはテクノロジーとメカニズムに関心を抱き続け、多くの作品に新しい機械やメディアが登場する」と、映画祭で配布されたリーフレットに説明が掲載されていた。文は過不足なく端的に作品の骨子を示しており、また作品自体も他の上映作品に通底する手法をある意味要約している。それは切断による反復の強調と、統一不可能な複数の「私」の存在の出会いである。自分の声を録音したテープをクラップが聴いている。この行為は過去から続く統一された私をあっさり断ち切る。それは、私の身体の断面がテープという別の物質の中から発話する(身体性を伴って突如現れる)からにほかならない。過去に書いた日記、ブログ、ツイート、投稿、論文、インタビューを読み返した際、「誰だ! お前は!」と憤りながら赤面し、そこにいる「私」に落胆した経験がある人はわたしのほかにもいるだろう(文字は脳内で発話され再生される)。クラップ同様、わたしたちは「私」の記録の前で右往左往する。統一されているはずの「私」の切断面を目撃し、動揺するのだ。しかし「私」を記録することはその複数性を認め、他者に発見してもらうための行為でもある。他者にはまだ見ぬ未来の「私」も含まれる。現代はテクノロジーによって、イージーに素早く「私」をちりばめることができる。
1962年に書かれた《プレイ》。大きな壺に首まですっぽり身体を入れた女ふたりと男ひとり。それぞれ別の壺に女・男・女の順に横並びしている。穴に棒が刺さったかのような出で立ち。暗闇の中スポットライトがひとりずつを照らし出し、そのたびに個々が独白する。いわゆる痴情のもつれ、男の不倫による三角関係がモチーフになっている。この劇は俗に言われる性格の二面性や裏表など、「私」の複数性を肯定しきっているものではない。むしろ複数の「私」があることの耐え難さを描きつつ、耐えられないがゆえに「私」を統合しようと右往左往する姿が3人の発話を通して描かれている。例えば男は妻と愛人のふたりを傷付けながら都合の良い夢想を繰り広げる。妻と愛人が互いに男と過ごした思い出の場所を訪ね、グリーンティを飲みながら和やかに打ち解け合う景色。3人が一緒に迎える朝。小さなボートの上で横たわりながら揺られる3人の姿。安易な和解の夢想。しかしこの夢想は「私」を平和的に統合したいという欲求の証であり、複数の「私」が互いの身体、他者の身体に組み込まれ存在していることを教えてくれる。無自覚な散種の過程で複数化された「私」。「私」の集合が叶ったとしても、ここでの統合には手こずるだろう。
これらふたつの作品は《ゴドーを待ちながら》(Waiting for Godot)にルーツを持つ(と考えてみたい)。
2幕ある舞台は、同じ場所の2日間が同じ時間繰り返される。1本の樹が生えた丘の上の道端でゴドーを待つウラジミール(ジジ)とエストラゴン(ゴゴ)。そこに現れるポゾーとラッキー。幕の終わりに登場する少年。結局ゴドーは来ないまま終幕。
ジジとゴゴは似ている。ふたりを安易に結びつけるのはどうかとは思うが、同一人物が分離した状態、あるいは別の人物同士の融合と考えてみる。「俺たち別れた方がよい」と呟くが別れられず再開を繰り返す。「嬉しいよ! また会えて」と喜びあい、「またお前か!」と罵り合いながらゴドーを待つ。コントのごとく互いの帽子を交換しながら繰り返し被り続ける行為も分離と融合の象徴として見てとれる。ひとりで脳内ミーティングをするかのごとく振る舞い続けるジジとゴゴから、複数の「私」への関心を見てしまう。そしてふたりの前に2日連続して現れるポゾーとラッキー。手綱に繋がれたラッキーとそれを操るポゾーの関係は冷酷であり主従が明確だが、あっさり反転・入れ替わる。1日目(1幕目)はポゾーがラッキーを奴隷の様に従えているが、2日目(2幕目)のポゾーは盲目となり、ラッキーも口がきけなくなったため、ふたりの結びつきは密となっている。ここでは日を跨ぐこと、いったん別れることにより時間を切断し、身体の変化(切断の象徴化)を作っている。主役のひとりゴゴの身体に変化はないが、前日の記憶が曖昧である。少年も、昨日訪ねてきた少年と自分とは別人だと言い出す。ジジだけが2日間の連続性を理解しているため、自分以外の言動に戸惑い、右往左往し続ける。ゴドーを待ちながら。
ベケットは連続する記憶をジジだけに持たせることで、いまここにある諸々の切断面を顕在化させ強調したのではないか。そして《ゴドーを待ちながら》以降の作品において、モノローグとダイアローグを使い分けながら複数存在する「私」を発生させることで、強固な主体や統合された私を問い直したのではないだろうか。ひとりの人生の中にある矛盾や整合性の問題をベケット自身の問題として考え続けたかどうかは知る由もないが、少なくとも劇において発生させた複数の「私」の厄介さ、その扱い、付き合い方、つまりは共生の仕方を我々に問いかけているのではないだろうか。
たかはし・こうへい
アーティスト。京都造形芸術大学専任講師。https://www.takahashi-kohei.jp
エンドゲーム
田村友一郎
このテキストを執筆している時点(2020年1月半ば)で世間を騒がしているのが、2019年の年末も押し迫った12月29日の深夜に起きた、保釈中の日産自動車前会長カルロス・ゴーンによる海外への逃亡劇である。かつて日産自動車、ルノー、そして三菱自動車のトップに上り詰め、フランス政府からレジョンドヌール勲章、イギリス政府から大英帝国勲章、そして日本では外国人経営者として初めて藍綬褒章を受章するなど、まさに“栄光の”という接頭句がふさわしい経歴を勝ち得てきたカルロス・ゴーン。しかし、2018年の東京地検特捜部による金融商品取引法違反容疑に関わる逮捕によって彼の栄光の経歴には終止符が打たれる。日産自動車、三菱自動車の会長職の相次ぐ解任からルノーの会長職も辞職に追い込まれることになる。それから1年足らずして起きた冒頭のエピソード。最新のニュースによれば国際刑事警察機構によって国際手配の手続きがとられているという。
遡ること3年前の2017年、私は日産自動車のお膝元である横浜にて、あるアートアワードに参加していた。日本で活動する現代美術作家が隔年で選出され、最終ノミネートに残ったファイナリストが新たに作品を制作し展示する。その後、国際的な美術関係者による審査を経てグランプリを与える賞レースといった内容のアワードである。それを主催していたのが、カルロス・ゴーン率いる当時の日産自動車であった。アワード自体がカルロス・ゴーンの肝煎りで始められたということもあり、セレモニーは彼のスピーチから始まる華やかなものだった。生憎、私の作品は受賞に至らず、セレモニーの後半は作品制作にかかった莫大な経費について思いを巡らす暗澹たるものだったように記憶している。発表した作品は、サミュエル・ベケットの戯曲のひとつ『エンドゲーム』に想を得たもので、タイトルを『栄光と終焉、もしくはその終演 / End Game』とし、日産の高級自動車グロリア(栄光)が崖から墜ちるその様を起点に展開するインスタレーション作品である。アワードのセレモニー前には当のカルロス・ゴーン会長も展示会場を訪れ、ノミネートされた各作品を取り巻きと共に足早ではあるが、その鋭い視線をもって見て回っていた。グロリアが崖からゆっくり墜ちる私の映像にも、眉をひそめることもなく興味深げに対峙していた彼の背中が今でも印象に残っている。その彼の背中が、その後に起こる数々の出来事によって、何か因果めいたものとして今では映り始めてきている。実際、『エンドゲーム』での「終わり、終わりだ、終わろうとしている。たぶん終わるだろう。」という冒頭のクロヴの台詞は、そのままカルロス・ゴーンが語るべき台詞となって聞こえ始めている。
その『エンドゲーム』の最初の舞台設定の描写、
「家具のない屋内。灰色がかった光。高いところに小さな窓が二つ。カーテンがしめてある。」
カルロス・ゴーンが長く拘留されていた拘置所では小窓しかない部屋に収容されていたという。そして、「たぶん終わるだろう。」に連なるクロヴの台詞、
「もう、わたしを罰することはできない。台所へ行こう、縦も三メートル、横も三メートル、高さも三メートルの。あいつが笛を吹くまで。ちょうどいい広さだ。テーブルによりかかって、壁を見ていよう、あいつが笛を吹くまで。」拘置所の刑務官が吹く笛を日夜、彼が聴いていたことは想像に難くない。
「行くよ。」「きれいな小鳥よ、籠を出て、巣を営みに飛んで行け、かわいいあの
『エンドゲーム』の終盤、灰色の部屋から出て行こうとするクロヴは、そのままカルロス・ゴーンへと憑依する。
「わたしは考えた——ときどき、クロヴ、もしひとが——いつか——おまえを罰するのに飽きてほしいと思うのなら、もう少しうまく苦しまなくちゃいけない。わたしは考えた——ときどき、クロヴ、もしひとが——いつか——おまえを出て行かせてくれたらと思うのなら、もう少しうまくここにいなくちゃいけない。けれどわたしは、新しい習慣を身につけるには、年をとりすぎ、深入りしすぎたような気がする。よかろう、これは、つまり、けっして終わらないんだ。わたしは、つまり、けっして出て行かないんだ。そしてある日、不意に、それが終わる、それが変わる、わたしにはわからない、それが死ぬ、それともわたしがか、わたしにはそれもわからない。わたしは、残っている言葉に、聞いてみる——眠り、目ざめ、夕べ、朝。けれど、言葉はなにも答えてくれない。わたしは監房の扉をあけて出て行く。腰がすっかり曲がって、目をあけても、足しか見えない。両足のあいだに黒っぽいわずかな埃しか見えない。わたしは、地球が
クロヴ、ドアの方へ行く。
その後、彼は縦150センチ、横75センチ、高さ80センチほどの黒い箱に隠れて日本からの脱出を成し遂げる。箱のなかで漆黒の壁を見つめながらはたして彼は何を考えていたのだろう。「終わり、終わりだ、終わろうとしている。たぶん終わるだろう。もう、わたしを罰することはできない。ちょうどいい広さだ。壁を見ていよう、あいつが笛を吹くまで。」
*戯曲テキストは「勝負の終わり」(安堂信也+高橋康也訳・白水社刊)による
栄光と終焉、もしくはその終演をめぐる作品。ここでの栄光=グロリアは、2017年秋のほぼ同時期に個展を開催した小山市立車屋美術館の公用車である日産グロリアに端を発している。時系列としては、車屋美術館での個展の企画が先行していたが、展覧会の開催時期はほぼ重なっていたため、同時に2つの場所で栄光=グロリアをめぐる作品が展開された。ただし、それぞれの作品は独立している。車屋美術館のタイトルは『栄光と終末、もしくはその週末 /Week End』としている。その車屋美術館の公用車のグロリアの色は黒だが、日産アートアワードの作品のために用意されたグロリアは同タイプのY31型で色はシルバーである。つまり、栄光と終焉(終演)、もしくは終末(週末)をめぐるこれらの作品にはそれぞれ主人公がいるということになる。黒のグロリア、そしてシルバーのグロリアである。
本作品タイトルに含まれるEnd Gameはサミュエル・ベケットの戯曲『勝負の終わり/ Fin de partie』の英語タイトルとして用いられるもので、ベケットの舞台設定は本作品にも要素として取り入れられている。ベケットの『エンドゲーム』の主人公ハムは車輪付きの椅子に座り盲目、その両親と思しき2人ナッグとネルはドラム缶状のごみ箱に入っていて脚がない。主人公の手下と思われる男クロヴは何度も脚立の上り下りを繰り返す。そのクロヴが劇中で上り下りする脚立を介して、本作は重要なエピソードに出会う。80年代の米国のポップ歌手ローラ・ブラニガンが、庭で藤の手入れをしている最中に脚立から転落した事故である。そしてその彼女のヒット曲が『グロリア』であったこと。曲中には「グロリア、あなたがいま落ちていることをわかってる?」という印象的な歌詞が挿入されている。このエピソードに呼応するように、展示インスタレーション内、3画面で構成される映像では、彼女が歌うシーンに合わせて、日産のグロリアが崖から落ちていく。
展示では実際に崖を落ちたグロリアの部品から違うかたちへと変化したオブジェが空間に遍在する。例えば、板金の技術で製作された2つのドラム缶。グロリアから取り外されたボンネットと屋根はそれぞれ丸められ、溶接される。『エンドゲーム』でナッグとネルが入っていたドラム缶が、栄光から生み出されるという格好である。
作品ではベケットの『エンドゲーム』から「終わり、終わりだ、終わろうとしている。たぶん終わるだろう」という台詞が象徴的に引用される。ある意味で現在の時代状況を反映しているふうに聞こえなくもないが、特に時代を特定しているものではない。ただし、これは演劇上の台詞であり、翌日には幕は再び上がる。それを踏まえ、作品では日常が再び再生されていくようなことが示唆される。終焉をあつかう劇は終わるが、翌日その幕は再び上がる。悲劇的喜劇、もしくは喜劇的悲劇ともとれるような体裁をとりながら、日常の再生を終わりなきドライブと言い替え作品はドライブしていく。
また、会期中にはある演劇関係者から奇妙な指摘を受け、作品は新たな側面を露呈する。ベケットが第二次世界大戦中に密かに参加していたレジスタンス組織の名前が「グロリア」だったという事実である。
たむら・ゆういちろう
アーティスト。http://www.damianoyurkiewich.com
思考が揺るがされる
毛利悠子
きっとこの原稿が発表されるころにはちょうど会期が終了してしまうのだが、水戸芸術館の現代美術ギャラリーで開催されている『アートセンターをひらく 第Ⅱ期』というグループ展に参加していて、最初の部屋で《無題(パイプ)》(2019)と《遊具を使ったプラクティス》(2019)という、2つの作品を展示した(2つといっても、1本のケーブルで繋がっているので、大きくは1つのインスタレーションなのだけど)。実はその作品の中で、サミュエル・ベケットの散文集「見ちがい言いちがい」からの一節を引用していたのだが、とくに「なぜベケットなのか」など、誰かに触れられることもなく、お話しする機会もなかったので、偶然いただいたこの原稿依頼の機会に、手前味噌だがすこし考えてみようと思う。
年末から年始にかけて、京都造形芸術大学で「没後30年——サミュエル・ベケット映画祭」のプログラムで上映されていたもの、またUbuWebや図書館などにアーカイブされている映像資料を一気に鑑賞した。
ベケットのテレビドラマ《Nacht und Träume》(夜と夢)は、椅子に座った男が、机に突っ伏して眠りにつくと、画面右側に同じ男が夢のように浮かびあがってくる、そしてグラスで何かを飲まされる、誰かの手を握る、などの小さな行動を繰り返す、非常に美しい映像だ。また、短編の戯曲《Come and Go》(行ったり来たり)やテレビのために制作した《Quad》(クワッド)では、舞台や画面に現れては消え、質問をする、ひそひそ話をする、ドラムの音と共に歩く、など規則的に動いていく俳優たちに目を惹かれる。
こういった単純な行動のルーティン、規則性、その反復をみていると、ふと自分の体や精神を通じて思考が揺るがされていくことに気づく。この揺らぎとは、「思考することを思考しはじめる」ことでもあって、時に結論がでることがなくても、ある種のエンジン装置のように、体の中で動きつづけていく。すると、ブレーキがかかるまで止まることはない。
で、ちょっと私の作品の話にもどります。
部屋に入ってまずみえてくるのは、3.5m×6.5mのパイプに、トランペット、パイプ椅子、くしゃくしゃになった針金、スプーンなどで構成されている構造体。そこから1本の細いケーブルが壁の方へと伸びて行き、下の床に置いてある大きなモーターに繋がっている。モーターは時々ロープで、4人がけのブランコを引っ張って、揺らす。揺れているブランコの座席にはプロジェクターが置いてあって、乳白色の楕円型のスクリーンに向けて、文字が投影されている。ブランコが揺れると、映像も揺れ、さらに水戸芸術館の綺麗な自然光が影響して、読めるか、読めないかの中で文字列が繰り返し映し出される。スクリーンの裏には、コンビニ袋が風に舞いながらふわふわと浮いていて、時に長い間駐車している車のフロントガラスに張り付く落ち葉のように、画面の裏面に姿をあらわす。この時、乳白色のスクリーンの文字列は、少しはっきりとみえてくる。
この文字列というのが、今回のお題であるサミュエル・ベケットの散文のひとつ「見ちがい言いちがい」から引用したものだ。
作品の描写の中にあるように、私はモーターやケーブル配線などそういった、機械仕掛けを作品に組みこんでいるのだが、その構図は、ある意味ベケットの反復とオーバーラップするのではないかと思っていた。
去年の夏、偶然にも私は1か月、ジェイムズ・ジョイスとサミュエル・ベケットの出身地であるダブリンで滞在制作した。ダブリンは街として歩き回るにはサイズがとてもちょうどよかった。自分たちの故郷やルーツを探しにきたアメリカ人観光客がこの街を好きなのは、古い建造物がたくさんあるからだという。そんな知人・友人がほとんどいない場所で毎日街を歩き回っていると、ジョイスの文章で垣間みる、ストリートの名前や建物を偶然みつけることがあった。その体験はとても奇妙で、文字を介して何かが憑依するようで、彼が何をみていたのか、その情景がイメージに濃く浮かんでくるかのようだった。
ジェイムズ・ジョイスの助手をしていたベケットの文章を読んでもまた、このような感覚を覚えることがある。たとえば、私が作品で引用した一節をあげると、
光をまったく必要としないのに、眼は急いで見る。
夜がくる前に。こんなふう。こうして眼は自らを欺く。
そしてみたされ——そして瞼の下でまどろみ、狂気に
ふみこむ。彼らが包囲することができるのは、彼女で
なくて何だろう。注意。もう目をあげはしない彼女が、
それでも目をあげ、彼らを見る。動かない、あるいは
遠ざかる彼ら。遠ざかる。すぐ近くに見えたものもま
た離れる。他のものが前進すると同時に。(宇野邦一訳)
この文章をよんでいると、ダブリンの街を歩き回っていた時と同じように、何かが憑依してくるというか、ベケットがひとり立ちすくみながら、目で追っていた情景が、自分のまわりにひろがっていくような気がしてくる。おそらく、椅子に座る、立ち尽くす、または歩く、といった単純な状態で体験していた風景だろう。ベケットの場合は戯曲作品にも、椅子に座る、立ち尽くす、歩く、といった、このなんということもない行動が繰り返し出てくる。
私が興味を持っているのは、歩く、座る、立ち尽くす、こうした単純な行動を繰り返す中で、人は環境から何を受け取っているのか、つまり「受動的な能動の態度」から何が生まれるのかということだ。
作品の中では、ときたま揺れるブランコが置いてある。このブランコは茨城県の幼稚園で危険遊具として指定されたためつかわれなくなったモノを譲ってもらった。
揺れるという動作もまた、単純な動きの繰り返しだ。一昨年、キューバを訪れた際、インターネットがない街中で、スマホで暇つぶしするかわりに、ブランコにのってぼーっと景色をながめている人たちを多くみた。フィジカルに身体を揺らすことができるマシーン=ブランコに乗ることで、私たちは勝手に揺らされ、エンジンをかけながら様々な情報をとりいれていく。この構造体はベケットが文章や戯曲でつくりあげている、思考の揺らぎの状態と近いのではないだろうか。
最近もっぱら、インターネットばかりみていて、ぼーっとすることがなくなった。
ベケットの作品《Krapp’s Last Tape》(クラップ最後の録音)(2011年。アトム・エゴヤン監督)の冒頭部分でクラップは机に座ってただ外の風景をみつづけている。机に反射する光の影から察するに外は雨が降っているのかもしれない。部屋はきたない。埃の匂いが湿気とともにしてきそうだ。
単純な行動とともに、ふと身の回りの景色をみること、体験すること——最近、その「反復のマシーン」が、とても必要な気がしてならない。
もうり・ゆうこ
アーティスト。http://mohrizm.net/ja/
(2020年1月27日公開)
○ラウンドテーブル:21世紀のサミュエル・ベケット 金氏徹平+多木陽介+藤田康城+森山直人