森村泰昌・近藤滋「ART OF ARTS, MAN AMONG MEN.」
ギャラリーNWハウス(東京) 1990年12月5日〜12月24日
けったいな、あまりにけったいな価値の顚覆
(掲載誌面より)
山本和弘
「待ってましたッ!」との掛け声がどこからともなく聞こえてきそうな大東古美術とジェニー・モリムラとのコラボレーションの登場。宮沢りえもぶっとぶ60年代末ファッションと仏像コスチュームとの妙、普賢菩薩のクシャミもふっとぶサトちゃんスマイル、四天王のアトリビュートと絵画のアレゴリーの置き換えなどなど、期待どおりのモリムラ漫才がさえわたる。といった具合に、無規定的開放性と多重批評性を旨とするモリムラの1回の発表としては、これまでになく今回の作品はその無規定性と多義性において複雑に絡み合っている。したがって、観者の自由裁量にゆだねられる、笑いをもって貴しとする側面の無粋な解釈は遠慮して、「彫刻」と「絵葉書」という2つの観点に絞って、今回の作品をみてみたい。
まず、今回の作品では、彫刻が3つのモードで展開されている。1つは、後光のさした国宝級の彫刻。これはレディメイド以前のハンドメイド彫刻一般を代表し、モリムラ自身によって引用され、辱しめられる。国宝級というハイアートの栄光は、忘年会の隠し芸レベルの徹底した悪趣味とお笑いのセンスによって奈落の底へとおとしめられる。2つめは、キューピーちゃん、サトちゃんなどのフェイク・スカルプチャー。これは日常から見い出されたファウンド・オブジェでレディメイド一般を代表する。この彫刻モドキはモリムラの作品の一部に採用されることにより、匿名のプロダクトからハイアートの領域へと鞍替えする。3つめは、宇宙人を演じる近藤滋。これはレディメイド以後、写真によって初めて可能となるところの活人彫刻一般を代表する。この出来そこないのロボットのような宇宙人彫刻は、エネルギーを補給され、点滴を受けながら必死にもがくというストーリーをもっている。これは現代彫刻のアレゴリーであろうか。ともあれ、この三様の彫刻は、写真という悪魔に魅入られたまま、人間モドキの彫刻、彫刻モドキの人形、ロボットモドキの活人の間を行ったり来たりしながら、次第に本物とフェイク、芸術と非芸術、人間と人形、彫刻と活人などの差異を磨滅させ、最後にその本来的な境界のあいまいさを露呈させる。ここでモリムラは、写真の悪意を巧みに利用し、造形美術の形式的差異を雲散霧消させてしまっている。
次に絵葉書について。かつての絵画の屠殺者、今様にいえば「“ハイアート”になった“ローアート”」の大立者であったモリムラが、後光をまとって舞い上がっている写真をあえて後景に退かせ、オフセット印刷という大衆文化の支持基盤を採用している点は、今回の最も戦略的な部分である。これまでタイプCプリントによる作品提示を主としていたモリムラにとって、これはモチーフ(=引用ソース)の変遷以上に重大な問題提起である。
もちろん私たちは、洋便器に腰をおろし悦に入る半跏アンドロギュノス思惟像から、レディメイドの絵葉書に“L.H.O.O.Q.”と書き込んで作品として提示したアイロニストを想起することもできるだろう。だが、モリムラは単なるアプロプリエイショニストではない。
ハイアートの領域で君臨するヒゲのはえたモナリザが、市中で絵葉書として流通している事態こそ、今とりくむに値する課題なのだ。ちなみに、モリムラの絵葉書はレディメイドの便器もまた絵葉書の中にとり込まれ、カスタムメイドとレディメイドは巧妙に重層化されている。
したがって、今回のポストカードは、昨年、福岡と京都で発表されたNECOプリントによる看板とポスターに次ぐローアー卜応用戦術の一環としてとらえるべきである。
ハイアートに成り上がった写真は、ここで再びローアートとして奈落の底に突き落とされそうにみせかけながら、一方で株価操作モドキの販売システムを引用することによって、段階的に奈落の底から再びハイの方向へ引きあげられる仕掛けがほどこされている。つまり、単に安価な1枚の絵葉書(Aコース)は、サインとエディションを付加され(Bコース)、作家が宛名を直筆で郵送(Cコース)したあげく、20点1セット、希望によっては鉛バッケージ(Dセット)という豪華版の設定によって、したたかにハイアートの後
光を身にまとうという寸法だ。タイプCプリントからオフセット印刷への転換、額縁をもった芸術然とした形態から額縁のない商品への転換は、批判の矛先が過去の美術史ではなく、現在の美術をとりまく状況そのものへ向けられていることを示している。「なるほ
ど、敵は本能寺か!」などと感心している間に、昨日までの鑑賞者が消費者として作品の一部にとりこまれてしまうのである。
また、大判タイプCプリントとしてすでに発表された「花と包丁」以外の19点の絵葉書は、今回の発表のために制作された全くの新作であり、それらはこれまでオリジナルプリントとして発表された作品と実質的には全く同じ価値をもつはずである。それにもかかわらず、習慣的、形態的に絵葉書は安価なものであると思いこんでいる私たちに、モリムラは痛烈な一撃をくらわせる。つまり、芸術作品が複製として大衆に開放され、普及すればするほど、オリジナルの所有という権威が増すという情報社会の欺瞞が露呈される。モリムラが今回試みたオリジナル不在の複製品販売というシステムは、オリジナル作品にまつわる礼拝的価値と複製品による情報的・擬似所有的価値とが、相互補完的に現在の消費システムに組み込まれていることをあばき出すのである。
このようにモリムラは、エンターテイメントとインテリジェンス、カスタムメイドとレディメイド、ハイとロー、オリジナルと複製、鑑賞と消費、礼拝と所有など芸術にまとわりつく対立する価値の崩壊を自らの作品の中で巧みにシミュレー卜する。こうして価値の
基準そのものがあいまいになると、私たちはモリムラの作品を評価する基準をも失ってしまう。そして、モリムラの作品は、既成の価値に左右されることなくサヴァイヴァルしてしまう、という筋書が成就するかどうかは仏のみぞ知るといったところだろう。
何はともあれ、今回のお笑いの極致は、何といっても各国著名芸術家御用達の豪華絢爛 “鉛バッケージ”であろう。だが、『モリムラ、お前もか!?」などという軽ロは夢々たたいてはいけない。そのような嘆息の陰で、当のモリムラは真っ赤な舌をベーッと出して冷
徹な微笑をうかべているのだから。
『A&C』(Art & Critique) No.15
(1991年2月25日 京都芸術短期大学芸術文化研究所[編])
より再掲
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【SMALL ARCHIVE 森村泰昌】
『A & C : Art & Critique』は1987年7月〜1994年2月まで、京都芸術短期大学(現・京都造形芸術大学)が刊行していた芸術批評誌です。いまでは入手が難しいこの雑誌から森村泰昌関連記事を選び、OCRで読み取って、小さなアーカイブを作ってみました。
転載を許諾して下さった森村氏をはじめとする執筆者の方々と、『A & C』誌元編集担当の原久子氏、京都造形芸術大学のご協力とご厚意に感謝申し上げます。なお、記事はいずれも原文のママであることを申し添えます(明らかな誤字は訂正しました)。
(REALKYOTO編集部)
CONTENTS
▶『Art & Critique 5』
〈DRAWING〉「美に至る病へ」へのプロローグ(文・森村泰昌)1988年
▶『Art & Critique 8』
〈TOPICS〉ベニス・ビエンナーレ——ベニス・コルデリア物語
(文・石原友明、森村泰昌)1988年
▶『Art & Critique 9』
〈CROSSING〉森村泰昌展「マタに、手」(レビュー・建畠晢/篠原資明)1989年
▶『Art & Critique 15』
〈CROSSING〉森村泰昌・近藤滋「ART OF ARTS, MAN AMONG MEN.」
(レビュー・山本和弘)1991年
▶『Art & Critique 15』
〈NOTES〉 森村泰昌[1990年 芸術のサバイバル](構成・原久子)1991年
小池一子 井上明彦 松井恒男 塚本豊子 飯沢耕太郎 長谷川祐子
横江文憲 山野真悟 南條史生 中井敦子 斎藤郁夫 岡田勉
藤本由紀夫 石原友明 山本和弘 尾崎信一郎 アイデアル・コピー
富田康明 近藤幸夫 篠原資明 一色與志子 南嶌宏
▶『Art & Critique 19』
〈INTERVIEW〉 森村泰昌(構成・原久子)1992年
(2016年5月3日公開)