【SMALL ARCHIVE 森村泰昌】

1992年『Art & Critique』19号より転載
〈INTERVIEW〉「森村泰昌」構成・原久子

 

(掲載誌面より)

●91年は湾岸戦争からはじまった
91年の僕の仕事について言えば、11月19日から12月19日までソーホー(NY)のルーリング・オーガスティン・ギャラリーで行った個展に、すべて指標を合わせて制作を続けていました。1年間かけてどのような作品をつくろうかと練っていたわけです。その間、ベルリンでのメトロポリス展、リバプール・テート・ギャラリー、ホワイト・チャペル・アート・ギャラリーでのA CABINET OF SIGNS展へ出品することなども含めて、制作に明け暮れていました。

年(91年)の初め仕事にかかりはじめた頃に、湾岸戦争の勃発があり、ある意味で暗い気分になり、自分のなかで「戦争」をテーマにせざるを得ない状況になりました。戦争の不気味なかたちでの終結。それでも僕は作品をつくり続けていたわけですが……。「戦争」とは何なんだろうという事を考えていくうちに、現在ここで行われている戦争について云々ではなくて、ちょっとおおげさに言えば、人間の存在のなかにある争い、揉め事、それらがどういうかたちで私たちの日常にくい込んでいるのかを考えるようになりました。月並みなことばで言えば、作っている間に「戦争」ということばが内面で進化していったとでもいうのかな。

そうこうしているうちに、「人類の神話」みたいなものを考えるようになったんです。NYでの個展に出した作品にはそれぞれにテーマがあって、MOTHER(母)というシリーズでは、クラナッハの「Judith(ジュディス)」をあつかい、レンブラントの「目を潰されるサムソン(サムソンとデリラ)」を扱った作品はTHE DEATH OF FATHER(父の死)というタイトルをつけています。BROTHERS(兄弟たち)というシリーズでは、ゴヤの「マドリッドの虐殺」をテーマにした作品や、ミレーの作品を用い、男女がお祈りしている姿を、原爆のキノコ雲を背景に、銃を向け合っている姿に、イメージを置き換えてつくりました。また、「盲人のアレゴリー」について言えば、それはひとつの社会。或いは、 MOTHER、 BROTHERS、SISTERSなどの他のシリーズのファミリー・ポートレートといえる作品です。生きているがゆえに起こる人間の悲劇や喜劇を意識しました。父なる存在の不在、母と父の、兄弟同士の家族の関係、これら全体がある種の対立関係にあって、同時に被害者にも加害者にもなりうるのです。内面的なもののリフレクションを物語にしたという感じです。

ルーリング・オーガスティン・ギャラリー 個展会場風景(1991年11月19日〜12月19日)
(掲載誌面より)


左)母(Judith–Ⅰ) 右)母(Judith–Ⅱ) 共にカラー写真プリント 240×234cm 1991
(掲載誌面より)


 
●90年のフィナーレを飾るメトロポリス
展覧会としてはメトロポリス展(91年4月20日〜7月21日)は今年に入ってからあったのですが。作品は90年の終わり頃からつくりはじめていました。ですから、作品に関しては、90年の活動のフィナーレを飾るものをつくろうという意識が強かったのです。十字架に処されたイエスをあつかうということは、90年の制作とかプライベートにあった出来事も含めて磔刑にかけるという意味がありました。

もともと、イエス・キリストという人物にも興味がありました。その前に仏像を取り上げた作品をつくっていますが、宗教というより宗教的な物に興味があったわけです。それには様々な契機があるのだけれど、ひとつは、「魚(玉城Ⅰ、Ⅱ)」をみて笑う人とか、蛸はもう食べられないという反応が一般の人には多いのですが、慰められるといった人が1人いたこと。そしてポストカードの「アシュラ」という作品を、病気の友達を励ます(アシュラのような状態にする)ために、送ってあげたいといった人がいたことです。僕の仕事は順調にいっていると周囲から見られがちですが、作品を制作するということはそんなに甘くはありません。それらの作品をつくったときというのは、実際とても苦しい時期だったんです。だから、同じような状態にあったりした人には全てが伝わってしまうかもしれないとそんな反応を聞いて思いました。聖書に出てくるキリストをめぐるいろんな人間関係、孤独、使命などは、人間の営みのある側面を鋭くついていると思わざるを得なかったのです。

ああいう作品をつくると、宗教的なものに対する椰喩であるとか思われるかもしれませんが。僕の中にはそういったところはなかったし、ベルリンでも作品について、神を冒瀆しているとか、宗教やモラルの次元では語られませんでした。そのあたりは、ニューヨークの個展の出品作についても同じで、一見、非常に政治色の強い作品ではありましたが、その部分での反応はそれほど強くなかったんです。彼らは単なるインテリア・エレメントなどとして、作品をみてはいないし、例えば下品な部分を一面的にそこだけ取り上げて、何かをいうことはありませんね。

註1:その部分での反応がなかったのではなく、戦争を扱ったことへの好意的なリアクションがあったと言うべきであろう。そしてそのことについて作者自身は驚いている。

 
●美しい「室内楽」もつくる森村
リバプール・テート・ギャラリーとホワイト・チャペル・アート・ギャラリーを巡回した
A CABINET OF SIGNS展に出品したラファエル前派のシリーズは、テート・ギャラリーの所蔵品であるあれらの作品を主題にするということで、美術館の協力を得て、仕事をすすめることが出来ました。これはとてもいいきっかけでもありました。今後、美術館のコレクションをテーマにすえたものや、美術館自体をテーマにした作品をつくろうとするときの1つのよい前例となったというか、これから同じようなことをしようとしたとき、美術館とのコミュニケーションが非常にとりやすくなったと思うのです。

ラファエル前派の作品は、どれも美しくつくろうとしました。彼はセンスが悪いなどという誤解を受けては困るので、こんなに美しいものも作れるということを示しておきたかった、ということも正直にいってありますよ。いつもおどろおどろしい作品しかつくれない作家だと思われては困りますから…‥。作品の幅の広さを折につけみてもらうことも必要だと思いました。どれだけ美しいものがつくれるか。どれだけシャープなものがつくれるか。どれだけ大きなものがつくれるか。どれだけ小さくても輝きのあるものをつくれるか。自分の能力を試すということもあるし、ある意味ではそこまで丁寧にしてあげないと人々はなかなかわかってくれないということがあるのです。自分自身の制作の幅を広げることと、他人とのコミュニケーションをとるということの交わる部分から作品をつくるということも、必要なことだと思います。

ラファエル前派の作品のシリーズは、ニューヨークの個展にも3点出しました。画廊のスペースが大きな部屋と小さな部屋に分れていて、大きな部屋に新作をいれ、小さい方にラファエル前派の作品をいれたのですが。「人類の神話」をテーマにした新作を悲劇的な交響曲(シンフォニー)に例えると、ラファエル前派の方は明るい室内楽なんです。「階段を降りる天使」はデュシャンの「階段をおりる裸婦」に対する興味の一環でもあるし、そしてロッセティとW・モリスとジェーン・モリスの3人の人間関係についての興味でもありました。W・モリスが描いたジェーン・モリスの作品と、ロセッティが描いたジェーン・モリス、ロセッティが描いたベアトリーチェ。親しい彼らの関係のなかにあったいろいろなことは、「人類の神話」のテーマとも非常につながりの深いものだと思うのです。

メトロポリス展会場風景(マルティン・グロピウス・バウ 1991年4〜7月)©佐藤毅
(掲載誌面より)


左)王妃と犬 カラー写真プリントにキャンバス加工 180×120cm 1991
右)石榴を持つ肖像 カラー写真プリントにキャンバス加工 200×100cm 1991
(掲載誌面より)


 
● GREAT ART
最近の美術をみていて思うのは作品が小型化する(小粒になっている)傾向にあるということです。世界的な経済不振の影響もあるらしく、大きな作品は一般的には輸送に関わる問題も含めて売れにくく、例えばソーホーの画廊を歩いてみても、置き物的なサイズの小さな作品ばかりが目につきました。だから、A・キーファーみたいに御大層な作品は、そんなオシャレな作品と並ぶと古い感じにみえたりするんです。そんなところへもってきて、僕が大きな作品ばかり(横が4メートル近くあるものなど)を個展に出そうとしたのには理由があります。

例えばゴーバーは好きな作家のひとりですが、近ごろの彼の作品をみていると、「ゴーバー君それではちょっとアカンのとちゃうか。」と言ってしまいたくなることがあるんです。逆に、キーファーは好きじゃないけど、あんなに大袈裟に「オレは芸術をやっています」と宣言しているような作品をつくっているところには、ある種の共感を覚えます。あんなことに真面目に取り組むことも必要じゃないかと思います。

「大きい物語の時代は終わった」と云う人もいます。終わったかどうかは知らないけれど、「僕は大きい物語を語ります」ということをやりたい。つまり、グレート・アート(GREAT ART)を目指したいのです。今こういうことを言うと、時代錯誤にうつるかもしれません。が、芸術というものは確実に存在していて、「芸術は死んだ」などというのは、芸術の重みのような部分を無視した言葉だと思います。ピカソの「ゲルニカ」もそうであるような偉大なる作品を残したいわけです。人類の歴史に少しでも足を突っ込むような、普遍的な意味を持つものです。大編成のオーケストラでシンフォニーを演奏する。文学を例にとればドストエフスキーの大作……。小気味よいピアノソナタが流行っている中で、あえて大きなものに挑戦したい。小さいものの中に素晴らしいものがいっぱい詰まっていることがあることも否定しませんが、そのことを自信をもって言うためには、まず大
きなものが出来るようになってからじゃないかと思っています。

註2:繰り返すようであるがキーファーは好きではない。キーファーをひとひねりした時の見え方のことを私は言おうとしているまでである。

 
●背負ってしまった事情
勿論、正岡子規のように米粒ほどの世界から、豊かな作品をみせてくれた人も実際にはいます。部屋と窓の外にみえる世界が彼にとっての社会でした。病床にあった子規は四畳半のなかから、素晴らしい作品を生み出しました。逆境にもめげずに彼は書き続けたわけです。夏目漱石と親交があり、夏目から留学先のイギリスのことを聞く、それが子規にとっての外国でした。友人関係にあり、同じ時代に生きた彼らではありましたが、全く異なる視点から執筆活動を行いました。子規の場合の小さな物語にはその必然があり、小粒ではあっても、そのなかには非常に大きな物語が込められていたのです。不幸を跳ね退ける力強い凝縮された生命のなすものを、そう簡単に普通の人間には作り出せないと思います。子規と違って、僕は幸か不幸か元気だし、いろいろなところへ出掛けて、歴史的なものに触れたり、また鶴橋(大阪市)に帰って来て、小さな出来事に触発されたりもします。今はまだグレート・アートを目指して制作していかねばなりません。

動かしようのないことと言えば、例えばですけれど、僕が日本人として生まれ、日本に住んでいること。明らかにニューヨーカーでもアメリカ人でもないし、日本人であるという事実からは逃れられないことです。スターン・ツィンズが双子であること、メイプルソープがエイズを患っていたこと、これらの事情は同じレベルで語ることは出来ないまでも、彼らの作品にかなりの影響を与えていると思われます。
 ニューヨークでは、あるホームレスの美術家と80歳を過ぎたおばあさんの美術家が、話題を現在呼んでいます。作品そのものが取り沙汰されるというよりは、ホームレスであることや高齢だということが問題にされているところはあっても、彼らはその看板を背負って活動しているわけです。そんな事情が、彼らに作品をつくらせているところはありますよね。

註3:私がここでいいたいことは作家のアイデンティティーの問題ではない。芸術はスムーズな風の流れの中に生まれた渦のようなものであって、それが生み出されるためには風の流れがとどこおるための「壁」のようなものが存在する必要があるということである。

 
●僕のお祖父さんはウォーホル
篠山紀信と横尾忠則がお父さんとお母さんで、お祖父さんはウォホール、従兄弟がC・シャーマンかな、なんてことを最近僕はよくいうのですが、そんななかでは日比野克彦はお兄さんかなと思っています。

横尾忠則の業績は偉大だし、人々はもっと彼を美術家として評価すべきだと思う。日比野克彦についても美術の関係者ほ皆んなよく言わないけれど、彼は時代をある意味で担ったし、80年代にしたことは無視出来ない。ただ80年代、日本では美術というものが存在し得なかった。だから、彼はグラフィック・アートというところに位置付けられてしか制作が出来なかった事実があります。そのあたりは彼を不幸だと思う。でなければ、キース・ヘリングのように彼は美術として位置付けられることも可能だったでしょうし、これは日本という国の大きくかつ重要な問題だと僕は思います。横尾さんにしても、あえて芸術家宣言みたいなことをしなくても、活躍する力があったと思います。人のことをとやかく言う前に、皆んな自分の足元を固めなければいけませんよ。プロとして仕事をしていこうとするとき、美術の現場では場所がなかった。美術というところにはプロがいなかったからです。

誰が親だなんて言い方はゲームみたいなものだけど、自分の位置を検証してみることは、自分自身の歴史を明らかにすることでもあります。バックグラウンドを考えてみる必要はあるはずです。

註4:横尾忠則さんと日比野克彦さんに関しては山のように言わねばならないことがある。そこで私はあえてその口火を切ってみたのである。彼らのことは、日本の現代の美術がなんであるか、文化はどうなっているのかを語る上でのキーマンであり、全員もっとマジメに取り上げるべきである。これまで日本に彼ら以外に“プロ”として現代の美術をやってきた人はいただろうか。例えば、横尾さんのことはまたの機会にするとして、日比野さん以上に80年代をプロとして疾走し得た美術家がいただろうか。他の美術家は、アマチュアかせいぜいセミプロだつた。その貧困さを知っていたから彼は“グラフィック・アート”として出発せざる得なかった。この苦しい持続のことを知らずして彼のことを語ることはできないだろう。だから日比野クン。90年もガンバルンダ。

 
●そして……92年「私は文句を言いません」
ニューヨークのギャラリーの人達というのは凄いです。何が凄いかというと、彼らは作品を展示しているときから、そこにある展示作品がいかに素晴らしいかということを、自分たちに言い聞かせて、暗示にかけているかのようなんです。そして、お客さんに対して、不安を抱かせることなく、熱意をもって作品の良さをアピールしていく。その作品について批判的な発言をする人があれば、相手のもつ作品への印象を好転させるように徹底的につとめる。あんな姿を日本でみることはまずないですね。

どちらかと言えば日本では、最近、批判することを目的とするような批評が目につきますよね。ああいったものはそこから生み出されるものがないように思えるんです。勿論、欧米でも痛烈な批判を作品に対して浴びせることはよくありますが、それのみではありませんよね。そのように考えると、極端にいえば、確実に生産的な行為をしえているのは、実際にものをつくっている美術家だけなのではないでしょうか。例えば、Against Natureという展覧会についていろいろな発言を耳にしますが、僕はあの展覧会が生み出した成果は大きいと思います。あの展覧会が何を成し、何を成し得なかったのか、そしてどうあることが望ましかったのかについての具体的な提案もなく、ただ批判するのみではあまりにも空しく感じます。日本国内で同じようなことばかり語り尽くし、日本の美術は相変わらずつまらないなんてことをいくら言っても、どうしようもないと思うのです。そんなことはやめてもらいたい。

……1992年のわたしのテーマは「私は文句を言いません」です。

註5:困難なことが起こると一致団結してコトに当たるパワーは、きわめてアメリカ的な臭いがする。彼らは被害者として受け身に立った時、突如「正義」という情念を湧きだたせ、団結してパワフルにふるまう。その要領はアメリカの歴史の中に数限りなく見い出せる。そしてそれは彼らの長所でもあり、短所でもある。
(註はすべて森村氏本人による)

(1991年12月18日 大阪/構成・原久子)

『A&C』(Art & Critique) No.19

(1992年2月25日 京都芸術短期大学芸術文化研究所[編])

より再掲


【SMALL ARCHIVE 森村泰昌】 『A & C : Art & Critique』は1987年7月〜1994年2月まで、京都芸術短期大学(現・京都造形芸術大学)が刊行していた芸術批評誌です。いまでは入手が難しいこの雑誌から森村泰昌関連記事を選び、OCRで読み取って、小さなアーカイブを作ってみました。
 転載を許諾して下さった森村氏をはじめとする執筆者の方々と、『A & C』誌元編集担当の原久子氏、京都造形芸術大学のご協力とご厚意に感謝申し上げます。なお、記事はいずれも原文のママであることを申し添えます(明らかな誤字は訂正しました)。

(REALKYOTO編集部)

CONTENTS ▶『Art & Critique 5』
〈DRAWING〉「美に至る病へ」へのプロローグ(文・森村泰昌)1988年

▶『Art & Critique 8』
〈TOPICS〉ベニス・ビエンナーレ——ベニス・コルデリア物語
(文・石原友明、森村泰昌)1988年


▶『Art & Critique 9』
〈CROSSING〉森村泰昌展「マタに、手」(レビュー・建畠晢/篠原資明)1989年

▶『Art & Critique 15』
〈CROSSING〉森村泰昌・近藤滋「ART OF ARTS, MAN AMONG MEN.」
(レビュー・山本和弘)1991年


▶『Art & Critique 15』
〈NOTES〉 森村泰昌[1990年 芸術のサバイバル](構成・原久子)1991年
 小池一子 井上明彦 松井恒男 塚本豊子 飯沢耕太郎 長谷川祐子
 横江文憲 山野真悟 南條史生 中井敦子 斎藤郁夫 岡田勉
 藤本由紀夫 石原友明 山本和弘 尾崎信一郎 アイデアル・コピー
 富田康明 近藤幸夫 篠原資明 一色與志子 南嶌宏


▶『Art & Critique 19』
〈INTERVIEW〉 森村泰昌(構成・原久子)1992年

 

(2016年5月3日公開)