対談「渡部直己×福嶋亮大」高熱の京都――テクスト論から少し離れて【京都 内外篇】

 
構成:福永信(小説家)/福岡優子(編集者)

 
いままでたくさんの小説家や批評家を魅了してきた街、京都。

研究休暇で初めて京都に長期滞在(2014年4月~12月)することになった渡部直己に、京都に生まれ育った福嶋亮大。世代の異なるふたりの文芸批評家が、偶然にも同じ時期を京都で過ごし、交流を重ねた。ふたりの目に、いったい京都はどう映るのか?

没後・50年を迎えた谷崎潤一郎から、現代京都のガックリ名所案内まで、
京都を縦横無尽に熱く語る、記念すべき初対談、その前篇!
 

疏水沿いを散策する渡部直己(左)、福嶋亮大(右)
Photo: Kanamori Yuko


 
● 京都へ来てみると

福嶋 そもそも京都にはサバティカルということで今年(2014年)の4月に来られたんですよね。

渡部 そうです。

福嶋 最初から京都に来ようと?

渡部 最初は「30数年ぶりにパリに、1年くらい滞在できたら」と思っていました。この10年ほどの間にすっかり映画好きになったので、足しげくシネマテークに通って、錆びついたフランス語を磨き直して、帰国したらリカルドゥーでも訳して……などと考えていたんですけど、病気をしちゃったんですね。食事療法や薬の関係でひとりでパリにやるのを家族が不安がり、僕も自信がなかったので、病気抱えて海外は面倒くさい、と。それでふと、「じゃあこの際だから京都に住もうかな」と思い立った。で、大学には「谷崎潤一郎と中上健次における関西文化」といういかにも凡庸な書類を出して、こうしているわけです。しかし、谷崎は京都だけに住んだわけでもないし、中上は何より京都を嫌ってましたから、なぜピンポイントで京都を選んだのかと問われると、実は上手く答えられません(笑)。

福嶋 谷崎にしても中上にしても、関西という場所性と深く結びついている作家ですね。渡部さんはもともと小説の現実の舞台にはあまりこだわりがなく、テクストを内在的かつ精密に読んでいくというスタンスで批評を書いてこられた。京都に来られて、そのようなスタンスには何か変化がありましたか。

渡部 かなり変わりましたね。少なくとも、変わる予感がする。おっしゃって下さったように、確かに僕はテクスト分析をやってきたんで、その場所で書かれている意味とか、「土地の力」とか、そういうのをどちらかというと軽視あるいは無視してきた。「テクストさえあれば思考できる」というスタンスで30年間やってきたんだけど、ここへ来てみて、「土地の力」にまみれることと、小説を書く(読む)こととの間の回路を、勘のようなものですが、模索しはじめました。もちろん、テクスト論を放棄するということではなしに……。
 ありがたいことに、浅田彰さんが、折りにつけ素晴らしいホスピタリティを発揮して下さって、いろんな情報をいただいた。一方で福嶋さんからも情報をもらって、これが浅田情報とまるで違うのが面白かった。浅田さんからは、大徳寺を中心とした、言葉の真の意味で上等な「良いもの」を教えられ、足を運んでみるとやっぱり確実にいいんだよね。対して、福嶋さんには、京都に残っている「変なもの」をたくさん教えてもらいました。千本ゑんま堂(引接寺)とか、ね。僕は東京の下町育ちですが、ゑんま堂のあたりなど妙に懐かしい。懐かしさのあまり、通りすがりに、200円の「亀の子たわし」を買っちゃったり(笑)。そんなふうに、おふたりから、「良いもの」と「変なもの」を同時に教えてもらい、非常に効率的に京都を歩けました。わずか1年にも満たない時間の中でこの街にまみれた。おかげですっかり「京都通」になったというのではなく……「通」とか「京都検定」準一級とかいったいやらしいものではなく(笑)、単に好きになりました。この点はとても感謝しています。

Photo: Kanamori Yuko


 
● 場所とテクストの関係

福嶋 僕はこの半年ほど近くにいたのでわかりましたけど、渡部さんは基本的にスタティックなものには興味がないんですよ。運動しているものじゃないと関心を示されない(笑)。

渡部 ええ。それはたぶん、小説の読み方とも通じていて、僕は、作品を形成する言葉の動きに何より惹かれるわけです。動体としての言葉にしか興味がないといっても過言じゃない。そういう者が、最初は世評にとらわれて、「京都という場所は運動を感じさせないだろうが、まぁ静養だから……」と思ってたんですね。でも、水路とか、粟田口やら鞍馬口といったまさに「開口部」をもった交通路とか、京都はむしろ運動の街であることに気づきました。京大の熊野寮とかもね。ただ、一筋縄ではいかなくて、その運動性っていうのを、そうたやすくは見せてくれない街でもあるんだよね。

福嶋 それは興味深い指摘ですね。

渡部 その運動性が、例えば京都に対する谷崎の愛着と関わるんじゃないか。まだ確言できないけど、彼の移住地をずっとたどってみると、関西(阪神間)にいる戦前の13年間で13回引っ越している。彼は転居魔なんですが、驚いたことに、その13回の内の10軒近くはみんな川のそばなの。住吉川とか芦屋川とか、六甲から海に流れていく3、4本の川があるでしょ? それらの川べりにずっと、彼は住んでいるんです。で、戦後、京都へ来てもここ(渡部住居のある東天王町)から歩いて5分くらいの永観堂近くの白川沿いなんだよね。窓の下を白川が流れるその家で、彼は『細雪』下巻を書き、やがて、下鴨糺ノ森の境内を流れる瀨見の小川のそばに移って都合10年。その後、熱海で最晩年を迎えるまで、谷崎はつまり、昭和の初めから30年間近く「水辺の作家」だったわけです。その「水流」と「文流」(=エクリチュール)の関係に興味を覚えました。
 で、びっくりしたんですが、その白川から歩いてすぐの「哲学の道」べりの疎水は、北へ向かって流れているんですね。白川は南に普通に流れ、琵琶湖疎水は一部、北へ流れている。ただ、谷崎は、「水辺の人」の割に、この逆流についてはひとことも触れていないんだよね。鷲田清一さんの『京都の平熱』を読んでも、どこにも触れていないんですよ。例えばまた、田宮虎彦の「琵琶湖疎水」(1949年)という短篇は、同じ疎水べりの家に集まる戦前の京大生たちを描いていて、そのひとりは最後に、同志社の女学生とこの疎水で入水心中までするというのに、男女の死体を洗うその水が北へ「逆流」しているという素敵な細部を使おうともしない。これなんか、小説作法にもとる無視なわけよ(笑)。しかも、わずか200メートルか、300メートル距てただけで、2本の水流が逆方向に流れているのに、京都の人たちがなんでこれをヘンだと思わないのかが、ヘンですよ(笑)。もちろん、あれは琵琶湖からの山沿いの高低差を使った人工水路だからそうなるわけだけれど、人の目ではその高低差が把握できないので、あの北流には、たまげるわけね。

福嶋 僕も逆流のことは全然意識していませんでしたが(笑)、いろいろ考えさせられますね。実は僕は、晩年の谷崎が宿にした渡辺家(北白川仕伏町)のすぐ近くに住んでいるんですが、その裏手にも白川が流れています。
 とりあえず林屋辰三郎ふうに言うと、京都はまずは池泉の街ですよね。太古の昔は湖底だったということもあって、京都の街は湿潤であちこちに池があり、神泉苑のような苑池が文明の拠点にもなる。大阪の中心部だと川が蛇行しながら流れていて、だからこそ島と橋によってトポスが作られていくわけですが、京都は流れる水(川)と流れない水(池)が共存している。ここでちょっと飛躍してみれば、こういう二重性は谷崎の文学にも認められると思うんです。
 テーマ批評的に言えば、『細雪』は「流れること」に取り憑かれた物語ですね。阪神大水害で芦屋川と住吉川が氾濫する話とか、赤ちゃんが流産しちゃう話とか、最後も雪子の下痢の話で終わるというふうに、とにかく大小様々なエピソードが文字通り流れていく。他方でしかし、初期や中期の作品には空間的な切断がありますよね。子供の遊び場のような舞台装置の中で変態性欲のプレイをやるとか、あるいは中期の『蘆刈』でも、蘆の生い茂った淀川の中洲の中で夢幻能ふうのエロティックな追憶を語るとか、閉じた空間での欲望の淀みがポイントになっている。仮に谷崎の文学が「流れ」と「淀み」の中間にあるとすれば、渡部さんのおっしゃる「逆流問題」も意味ありげに見えてきます(笑)。

Photo: Kanamori Yuko


渡部 そもそも『鍵』の舞台が、その「逆流」地帯でね。何遍も読んでいたのに、ここへ来るまでそれに気づかなかった。それがまぁ、あの作品自体の「人工性」だって考えても良いのですが、それだけでは、どうにも割り切れず……よって、ほんの「腰掛け」のつもりで来たはずが、ますます谷崎にはまり、京都にはまりって図なんですが、この図自体が、ちょっとした「プチ谷崎」ではあって、谷崎も、関東大震災があって、関西には明らかに腰掛けのつもりで来てるんですね。「関西移住」当初のエッセイには、大阪人なんて実はどうでもいいやっていう感じのものがたくさんある。

福嶋 あれは本当に野蛮人を見るような感じですね。

渡部 ところがいつの間にかどっぷりはまっちゃった。阪神間にいて、それから京都に来て。はまりきったあげくに、最後は法然院のあの墓に収まったわけですよね。その谷崎は当初、食いもんと女性の声を通じて京都にアクセスする。彼はグルメだし、ああいう男だから、食べ物と女性が、まずこの土地と彼を結びつけた。対して、僕の場合は水なんです。僕を京都にここまで惹きつけるのは、さっきの疏水もそうだし、(おもむろに冷蔵庫から梨木神社で汲んできた水を出して)この名水もそうなんですよ。うれしいことに、タダ(笑)!

 
● 京都のランドスケープ

福嶋 まぁ谷崎の話はおいおい触れていきましょう。ところで、渡部さんは今回京都を巡りながら、訪れた場所をマップに記録されたんですね。これは力作です(笑)。

多数の書き込みのある地図。ところどころテープで補強してあるのが見える(いずれも部分)
Photo: Kanamori Yuko


渡部 京都へ来た当初、どこかの店でやはりタダでもらった地図なんですが、これが非常に活躍して、「今日はどこへ行ったか」ということを忘れないように書いているんですね。このマーカー部分が一応「制圧」したところです。御所の一画に「立ちションベン!」って書いてあるところがあるでしょ。半ば無意識の内に「不敬」を働いてしまいました(笑)。春の、まだ右も左もわからぬころですが、たまたま青山真治が京都に来ていて、彼の宿のそばでさんざん呑んで別れて、あまりにもいいおぼろ月夜なんで歩いて帰っていったら、途中で催してきて、なんか格好の暗闇と木立があったので、知ってか知らずか、つい……しかし、誰からも咎められなかった。さすがは京都だ、と。東京では絶対無理です。

福嶋 東京の皇居は「空虚な中心」とか言われるけれども、そうはいったって人は住んでいるわけですからね。でも、京都御所には誰も住んでいないから、文字通り空虚です。

渡部 だからといって、あんまりその空虚さが嫌味な方向に行っていない。そもそも天皇というもの自体がヘンで厄介なものじゃないですか。そんな存在と長く過ごしてきただけの土地の知恵みたいなものを感じるよね。それがいてもあまり嫌じゃないという感じのランドスケープになっている。しかも、厄介なもの自体が、いない。ですから、京都人は明治政府に端的に感謝すべきですよ(笑)。

福嶋 なるほど。そういえば、むかし建築家の黒川紀章が、西洋の中心には広場があり、対して東洋には道があると言ったことがありますが、明治以降の京都はそれが極端な形で実現されたと思うんです。要は、道(通り)と交差点というランドスケープで空間を把握しているので、「空虚な中心」とか言う以前に、中心という概念そのものが空虚なんですよ(笑)。ちなみに鷲田さんの本でも、市バスの206番の経路(東大路通〜北大路通〜千本通〜七条通)から京都を観察しようとしているわけで、あれが京都的な地理感覚でしょうね。

渡部 その「道」の下も面白い。父親がソヴィエトの駐在武官をやっていたとき、1970年代前半のモスクワに行って、いちばん驚いたのは地下鉄の深さでした。おそろしいほど深い。父は軍事の専門家ですから、「これは核戦争に備えてるんだ」って平然と言うわけです。いま東京の地下鉄ってどんどん開発されて、東京人でもわからないくらい、ものすごく深く、たくさんの路線がある。おそらく、そのどこかに緊急用の物資や、ことによると武器が置いてあるはずだと思う。あの異様なまでの地下鉄の掘り方、それは「事があったとき」のためですよ。むろん、なかば邪推ですよ……でも、軍事の専門家の家で育ってるとそう見える。で、そんな目で京都の街を見ると、「平和なんだなぁ」、と。都市の感覚として、地下鉄が単純すぎるんだよね。それで事足りるからなんだろうけど。京都市民は意識してないと思いますが、「この街は核戦争する気はないんだ」と感じました。もちろん、それはとても良いことなんですが。

福嶋 それは面白いですね。そもそも、京都人はどうも垂直的なものに対する関心が薄いと思うんです。つまり、天上にも地下にもあまり興味がない。都市の平面を合理化して作るというのがこの街の思想であって、非合理的なものや不気味なものは周囲の山とか高台にどんどん追いやっていく。逆に、大阪とか東京というのは、その辺が入り混じってくるでしょう。何が合理的で何が非合理的なのかが峻別できない。だから、奥泉光さんの『東京自叙伝』じゃないけど、東京には影の支配者である地霊がいて云々というパラノイア的な妄想話も作れる。でも、京都はそこを地理的に峻別しちゃうんですよね。

渡部 だから、きれいに東西になるんでしょ?

福嶋 ええ、京都は東西軸ですね。大阪はキタとミナミですが。

渡部 それにしても、京都の地下街って中途半端なんだよね。地下街になろうという意志がまるで感じられない(笑)。

 
● 郊外へ

福嶋 渡部さんはある意味ではすでに僕よりも京都に詳しくて(笑)、深草の石峰寺をすすめていただいたので先日行ってきました。伊藤若冲の墓があることで有名ですが、それに加えて、若冲の手がけた五百羅漢(釈迦の一生を石仏群によって再構成したもの)が、寺の背後の山に散在している。というより、竹林の中で、ほとんどタケノコのように地面から無数に生えているようにも見える。あれはちょっとすごいですね。
 一般的には、若冲というと「動植綵絵」みたいにゴージャスで色彩あざやかな作品によって代表されている。でも、彼も後期になると水墨画をたくさん描いたり、あるいはプリミティブな石仏の制作に行ったりしますよね。彼は禅に帰依していて、相国寺に「動植綵絵」その他の代表作を寄進した。でも、辺境の深草で作られた五百羅漢こそ、意外に禅のもともとの精神に近いのではないかという気もします。奇妙なことに、日本の禅はなぜか美や芸術に傾きがちなんですが(禅の和様化?)、その中で、高度に美的な芸術作品を作れる若冲が、むしろモノそのもののような石仏を手がけたところが面白い。村上隆さんが最近ゴージャスで巨大な五百羅漢図を描きましたが、ちょうどそのネガのような感じですね。
 そもそも、本家の中国禅はある意味ヤケクソというか、かなり野性味のある宗教なんですよね。中国禅を革新した馬祖なんて、坊さんを平気でバンバン殺すような地方長官に後援されていたりするし、禅の語録も物凄いべらんめえ口調だったりする。美しいアートを作るような感じではない。でも、京都の大きな禅寺では、どうもそのヤケクソ感が美的洗練の中で消えてしまっているようにも感じるんです。むしろ、一休や水上勉みたいに中心からドロップアウトしちゃうとか、若冲みたいに深草に引っこんで、ごろっとした質感の石仏を地面からニョキニョキ生やしてみるとか、そちらのほうが案外オーソドックスな禅に近いのかもしれない。

渡部 その剥き出しの「質感」って、前に連れてい ってもらった山科あたりにもありますね。何かのほころびがむきだしに見えてくる場所でしたね。中上さんに見せたいなと思いました。さすがに歳を重ねてくると、谷崎のこと、中上のことが以前よりよくわかるようになる。谷崎のことがわかればわかるほど、中上のことが非常に鮮明に見えてくる部分がある。すると、なぜかじっとしていられなくなる。僕としては、『日本小説技術史』という厚い本を書いちゃって、病気もして、1年くらいはゆっくり休もうかと、ほんとは思ってたのよ。でも実際に京都に来てみたら、良い意味で休んでいるヒマがない。朝から動きたくなるんだよね。坂口安吾が昔、京都のいちばん正しい歩きかたは「彷徨う」ことだ、と言ってたけれど……。

福嶋 安吾は深草の隣の伏見に住んでいたんですよね。そこから京都の街中まで平気で歩いて行ったりしている。

渡部 大駄作の『吹雪物語』を書いていて、それを担保に、その金で遊んでたんだね。これまでは、安吾には京都は似合わないと思っていたのだけれど、あなたのいう「ごろっとした質感」って、案外、その安吾に相応しいし、同じことは中上健次にも当てはまるかもしれませんね。

 
● 山科は背後霊?

渡部 ところで、変な話ですが、僕は生まれて一度も蛍の実物を見たことがなかったのね。それが疎水にはまっちゃったもんだから「哲学の道」が散歩コースになっていて、6月のある日、深夜に歩いてみたら、なんか光るものが飛んできたのね。「なんだこれは!?」って飛び退いた。生まれて初めて見るものだから、ほんの1秒くらいだけど怖かった。そこで、吉本隆明のいわゆる「原始狩猟人」のごとく「ホッ!」と叫ばなかったのは、さすがに「近代人」なんだけれど(笑)、昔の人が蛍を見て人魂だと思った気持ちがよくわかったし、その怖さに裏打ちされたような美しさに打たれて、ひどく惹かれてしまいました。それから毎日のように、疎水沿いを蛍を探し求めて歩いたんだけど、今年は蛍が少なくてひと晩に5、6匹が平均で、悪いときにはほとんどいないこともあった。ただ、若王寺方向の小さな橋の向こうの木に、必ず光っていてくれる蛍がいたんだ。だからどんなときでも、必ず1匹は見られる。僕は「友達蛍」と呼んで、仲良くしてましたね(笑)。

福嶋 渡部さんはいつも動物を対等の存在として扱っておられますよね(笑)。冒頭の話題と結びつけるならば、王朝文学は京都の四季折々の風物と深く関わっていて、蛍もその「場所の美学」のカタログの中に登録されてきた。谷崎の『細雪』にも有名な蛍狩の場面がありますよね。ともあれ、物語と格闘してきた日本の作家にとっては、場所性をどう処理するかが大きな宿題だった気がするんです。

渡部 というかね、そういうことを考えていい作家とそうでない作家がいるんだということです。谷崎は考えるべきですが、例えば島田雅彦と川崎の関係は別に考えなくてもいいとかね。だから逆に、中上健次が京都をものすごく警戒した理由もわかりました。僕はここでこうして満喫していると、中上さんに後ろめたいものがあるのよ。肩の後ろのほうで「お前、こんなところで何してるんだ」ってね、中上の声が聞こえる(笑)。じゃあ、彼が京都を舞台にしたものを書いていないかというと、ひとつだけあるんですね。

福嶋 そうなんですか。

渡部 都はるみをモデルにした小説で、前半の舞台が西陣です。『天の歌』っていうんだけど、これがまぁ、なんともヘタなんだ(笑)。都はるみが10歳くらいのときに全国歌謡コンクールでデビューしてから、歌をやめるまでのことが書いてある小説なんだけど、ものすごくザツな書き方で、西陣の匂いなんて全然ない。彼は自分の感じている「路地」の力を間違っても京都で感じない。もちろん媒体が『サンデー毎日』で、言ってみればキワモノみたいで、ほとんど書きっぱなし。おそらく、京都という土地を本気で書く気にはならなかったのではないか。わずかでも本気を出せば、ひとつふたつは、「これが中上だ」っていう中上印が光るんだけど、それが全然ない。いかにも観光的な西陣になっていて、逆に言うと、そのくらい彼は京都を畏れたんだと思う。その畏怖も含めて、自分の敵として京都をとらえていたと思うんです。

福嶋 なるほど。そういえば、熊野は都の背後霊だという意味のことが『地の果て 至上の時』に書かれていますよね。中上さんは単純にローカルカラーの文学を書いたというよりは、むしろ京都の(ひいては日本史の)悪霊のようなものとして、自分の文学のトポスを作ってきたというところはあると思うんですよ。
 ついでに言うと、ART GRID KYOTOの冊子作りの一環〈編集注〉で、我々は山科に取材に行きましたよね。僕は京都に取り憑いた背後霊のようなものとして、山科という場所を見ているところがあるんです。例えば、京都市内と山科盆地を結ぶ日ノ岡の道沿いに、巨大な「名号碑」があるんですね。あれはもともと粟田口で処刑された罪人たちを弔うために、木喰上人が建てた大きな石碑です。しかし、それが廃仏毀釈のときに、3つに割られて側溝のフタにされてしまった。それを昭和の初めに建て直して、今度は京都と大津を結ぶ京津国道の工事中に死んだ人たちを弔うための石碑として再利用したわけですね。というわけで、二重三重の暴力がそこには刻印されている。しかも、その石碑自体に、割られたときの傷がくっきりと残っている。あれはヘタな現代アートよりもよっぽどアーティスティックでしょう。
 ああいう暴力性というのは、京都の観光地だと往々にして消えてしまう。でも、山科から大津に抜ける通り道に、京都のインフラを作った死者や暴力の痕跡がちゃんと残っているわけです。単に京都の上品な伝統文化に触れるとかなんとかいうだけじゃなくて、文化の外の荒々しいところもちゃんと見ていかないといけない。ちなみに、この日ノ岡の名号碑については保田與重郎が晩年のエッセイで触れていて、そこはさすがに慧眼ですね。

日ノ岡の道沿いの「名号碑」


 あと、山科本願寺の跡地のあたりにも取材に行きましたよね。山科は蓮如以来、本願寺の拠点だったわけだけど、天文法華の乱(浄土真宗と法華宗のあいだの一種の宗教戦争)のときに完膚なきまでに破壊されて、大坂の石山本願寺に拠点を移すわけです。京都の観光地だけ見ていると、なんとなくいろんな仏教の宗派が多元的に共存しているような気がする。でも、そういう平和な街・京都という一般的イメージは、山科に来るとかなりグラグラしてくる。京都に対する背後霊的批評として、山科は面白いと思うんです。

▷ 後篇「京都 今昔篇」



『ART GRID KYOTO 2015』


 
〈編集注〉

ART GRID KYOTO」とは、京都の文化芸術を知り、発信するために生まれた活動。2015年春に京都市内で開催される大小様々なイベントをツアー、レクチャー、広報誌を通して紹介しており、その内の広報誌『ART GRID KYOTO 2015』)には、福嶋が独自の目線で選んだ京都の名所案内「福嶋亮大の京都十番勝負」が収録されている。ほとんどの取材に渡部も同行した。

 

『ART GRID KYOTO 2015』より「福嶋亮大の京都十番勝負」


(2014年12月12日取材/2015年5月19日公開)

 
 
渡部直己(わたなべ・なおみ)
1952年、東京生まれ。文芸批評家。早稲田大学文学学術院教授。著書に『日本小説技術史』、『言葉と奇蹟 泉鏡花・谷崎潤一郎・中上健次』など多数。7月に最新刊『小説技術論』(河出書房新社)を刊行予定。

 
福嶋亮大(ふくしま・りょうた)
1981年、京都生まれ。文芸批評家。立教大学文学部助教。著書に『神話が考える ネットワーク社会の文化論』、『復興文化論 日本的創造の系譜』(サントリー学芸賞受賞)。REALKYOTOに「香港デモ見聞録」を寄稿。

 
 

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