2013年4月6日から7月15日まで、国立国際美術館の常設展示「コレクション1」の一部を「特集展示 塩見允枝子とフルクサス」と題し、塩見の代表作「スペイシャル・ポエム」の一次資料を世界で初めて公開した。
音楽家であると同時に、フルクサスのメンバーとして1960年代から活動を続けてきた塩見允枝子と国際美術館とのファースト・コンタクトは、まだ私たちが万博公園にいた頃に開催した展覧会「
ドイツにおけるフルクサス 1962-1994」(2001年)に遡る。この展覧会で塩見は「《フルクサス裁判》破壊的ピアノ・パフォーマンスとコンピュータによる」と題されたパフォーマンスを他の演奏者とともに行ない、時空を超えてフルクサスの精神を召喚した。その後、現在のロケーションである中之島への移転開館記念展「
マルセル・デュシャンと20世紀美術」(2004年)では、塩見の所蔵するフルクサスのコレクションから《FLUXUS 1》(ジョージ・マチューナスによって制作されたマルチプル。1964年以後、10年に渡って作り続けられた「雑誌」)の出品を依頼した。1970年から大阪に在住する塩見と、1977年より同じ大阪の地で現代美術と向き合い続けてきた私たちとのこうした断続的な交流は、塩見の所蔵するフルクサス関連のコレクションを美術館に収蔵するという、私たちにとって幸福な流れを導いたのである。
こうして2009年、約40点のフルクサス関連作品が国際美術館に収蔵された。初期のフルクサスを代表する作品であるジョージ・ブレクトの《ウォーター・ヤム》(1963)やマチューナスが編集した《cc V TRE》の各号などの印刷物、アリソン・ノウルズ、ロバート・ワッツ、ダニエル・スポエリらのマルチプル、いまもドイツで活躍を続ける斉藤陽子の《エッチング・ボックス》(1968)(作品の内側に塩見への献辞あり)など。今回の特集展示ではこれら旧塩見コレクションに加えて、京都国立近代美術館が所蔵するフルクサス関連作品を15点お借りし、国際美術館に所蔵のないフルクサス作品をさらに補完した(同時開催の「美の響演 関西コレクションズ」にて京都国立近代美術館から作品をお借りするトラックに便乗した)。また、当館所蔵の関連作家作品(ヨーゼフ・ボイス《直観》(1968)やナム・ジュン・パイク《鳥籠の中のケージ》(1994)など)も展示し、既に所蔵している作品との関連性も示唆した。
展覧会場入り口。右側の写真は「パーペチュアル・フルックス・フェスト(1964年10月30日、ワシントン・スクエア・ギャラリー、ニューヨーク)」にて塩見の《ウォーター・ミュージック》を選ぶフルクサスのメンバー
フルクサスの代名詞ともいえる各種印刷物や各作家のマルチプル作品の見ごたえもさることながら、今回の特集展示において特筆すべきはやはり2012年に収蔵した塩見の代表作「スペイシャル・ポエム」(1965〜1975)の一次資料であった。
「スペイシャル・ポエム」とは、1965年から1975年までの間に塩見が行なった9つのイヴェントで、ニューヨークに滞在中に開始し帰国後も続けられた。塩見が参加者に送った招待状とそれに対する返信(報告)から成るという意味では、メール・アートでもある。9つの招待状を通して届いた返信は、全部合わせて471通。今回展示したのは、スペイシャル・ポエムNo.1からNo.9すべての招待状とその和訳、返信された手紙や葉書(展示スペースの関係でごく一部)、イヴェントをもとに作られたオブジェであった。
銀色のケースは、スペイシャル・ポエムの一時資料が全て納められる専用のもの。イヴェントごとにクリアケースに入れて整理されている。
これらの一次資料は、国際美術館に収蔵される前に、すでに塩見によって丁寧に整理されていた。すべての返信はイヴェントごとに差出人のアルファベット順に並べられ、番号シールを貼った透明の袋に収められ、コンパクト・デジカメで塩見が撮影した画像も整理されて美術館にやってきた。自らの作品とはいえ、膨大な量の手紙を塩見自身がここまで整理していたことは私たちを大きく驚かせた。また今回の展示のために、塩見は自ら展示すべき返信を選び、英文和訳さえも行なった。展示場に掲出されていた和訳のパネルは、塩見自身がレイアウト指示したものである。
さて、幸運にも物理的な整理がほとんどできた状態で国際美術館にやってきた手紙たちだが、情報の整理という意味ではようやくこれからである。作品に限りなく近いこうした資料類をいかに活用していくのか(レジストレーションや保管の問題のみならず、研究者がアクセスできるマテリアルを目指すならば、いかに情報を整理し、どこまでオープンにしていくのか)が、今後の課題となる。塩見の「スペイシャル・ポエム」に限らず、作品や作家に付随する資料類(草稿、手紙、記録写真、チラシやポスターなど)を収集・整理し、作品・作家研究に役立てることの重要性は今日ますます認められてきている。国内の美術館や大学で「アーカイヴ」という語を耳にする機会も多くなった。だが、アーカイヴの準備と公開、継続的な運営には膨大な手間と労力と予算(単年度では不可能であることを強調したい)を必要とするということについての認識が十分であるとは言えない。何のために保存し、どういう目的で運営するのかというビジョンを明白にしたうえで、数十年先を見越して取り組むべきプロジェクトであるだろう。
「スペイシャル・ポエム No.8 風のイヴェント」オリジナル資料(手前)と和訳テキスト(奥)
また「スペイシャル・ポエム」の一次資料には、アーカイヴとしての「公開」を考えたときもう一つ難しいファクターが浮上する。すなわち、471通の返信にはすべからく送り主が存在するということである。「スペイシャル・ポエム」は無論塩見の作品であるのだが、返送されてきたこの手紙や葉書自体をどう考え、扱っていくべきなのか、おそらく各人意見が異なるだろう。可能な限り彼らにアクセスするべきだが、この道のりがまた困難である。塩見が最初に招待状を送ったアドレスリストは、マチューナスが提供した名簿に基づくもので、狭義のフルクサスにこだわりなく、世界中のさまざまな美術家、音楽家、詩人などがリストアップされていた。回を追うごとにこのリストは変化し、中には招待状をもらった友人に内容を聞き、勝手に返信を送ってくる者もあった。すなわち、塩見に返信を送ることでスペイシャル・ポエムに参加した人々の中には、塩見が直接に面識のない人や、その後の消息が不明な方、既に存命でない方も含まれているのである。美術以外のジャンルで活躍する人物など、私には名前の読みさえあやしい人名も多く、全ての人物をトラッキングするには膨大な時間がかかるだろう。中には私信が添えられたり、住所や電話番号が記載されたりした手紙をどのように扱っていくのか(今回の展示では送り主名以外の個人情報はすべて見えないように隠して展示を行なった)。とにかく進めていかねばならない。1960年代後半から70年代前半という美術において激動の時代の、知られざるネットワークが立ち現れて来る日を待ちながら。
写真提供:国立国際美術館
会場風景写真撮影:福永一夫
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前回のブログから2ヶ月以上たって、展示も終了してしまいました。とほほ。
次回はこの特集展示に関連して去る7月7日に開催した、「ミュージック・トゥデイ・オン・フルクサス 蓮沼執太vs塩見允枝子」について書きます。