プロフィール

神里 雄大(かみさと・ゆうだい)
1982年、ぺルー生まれ。岡崎藝術座主宰。2011年〜16年まで、セゾン文化財団ジュニア・フェロー。
移民や労働者が抱える問題、個人と国民性の関係、同時代に生きる他者とのコミュニケーションなどについて思考しながら舞台作品を発表している。
『亡命球児』(「新潮」 2013 年6月号掲載)により小説家としてもデビュー。16年10月より文化庁新進芸術家海外研修制度により、アルゼンチン・ブエノスアイレスに滞在中。

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10月20日、ブエノスアイレス到着

2016年12月10日
Parque Centenario

Parque Centenario


これはぼくの思い込みだと思うけれども、この街にいると、時間というものは止まっていて動かすのは自分であるという気がする。そして、止まっているところをわざわざ動かさなくてもいい、というものである。

ブエノスアイレスは、南米のぼくが行ったことのある街の中でも、都会度がひじょうに高い。
高いとどうなるかというと、だいたい時間が一直線に進んでいく。たとえば電車が走った距離のぶんだけ時間も進み、バスが撒き散らしたガスのぶんだけ時間も消費される。時計の支配する世界。
小学生のときの川崎の街はよく光化学スモッグの警報が発せられていて、それから大半の人生をぼくは東京とその郊外の川崎北部で過ごしてきたので、だからよくもわるくも都会育ちの人間といってさしつかえないと思うのだけど、いや川崎市北部は都会ではないという意見もわかるし、というか郊外なわけだし、けれどもローカルなそんな話はどうでもよくて、とにかくぼくは時間というものにたいして、そういった具合に、だいたいいつも左から右へと一直線に進む、線で描きやすいものだという認識を持っている。
だから、たまに山に囲まれた温泉地だとか、海がまぶしすぎて目がおかしくなりそうな島なんていう場所にいくと、一途であったはずのぼくの時間は波をうちだして、ゆっくりとその場からはなれようとする、みたいなよくわからないことになるので、好きだ。

話がずれた。
ブエノスアイレスは都会度が高いので、だから基本的にはそのように一直線の時間を刻む、という感じなのだけれども、たとえば人気のなくなった深夜の路地、無数にある道の売店にいるおばちゃん、バスに乗っているときなど、つまりは路上の様子に目をこらしているとき、ああ時間は止まっている、と思う。それは時代遅れとかそういう話ではぜんぜんなくて、洗濯機が回っているのをずっと見つめている感じ。
ずっと見つめていると、洗濯物が洗濯されているという事実がどうでもよくなってくるという感じ。
うーん、日がのぼってまた沈むまでの時間を、ずっとそこにいる感じ?

時間が止まっているってどういうことなんだろう。 そういうものを体感し考察する、というのがこの1年弱の滞在の大きな目的のじつはひとつで、しかしながら、ぼくにはこのことはまだまだ謎が多い。そのくせ、これは直感的につまり肌感覚的に、時間は止まっていて自分が動かすものなのだ、という気がする。

書いていったら謎がすこし解けると思っていたけど、そうでもなかった。次はもう少し具体的なことを書くつもり。