プロフィール

浅田 彰(あさだ・あきら)
1957年、神戸市生まれ。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。
同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。
著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。

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トランプから/トランプへ(4)クールなオバマと暑苦しいトランプ

2018年10月27日

去る8月16日にアリサ・フランクリンが亡くなったとき、訃報を伝えるアメリカのTVは、2015年のケネディ・センター名誉賞授賞式でアリサが受賞者キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの作詞・作曲による「ナチュラル・ウーマン」(1967:注1)を歌うシーンを競って再放送した。パンチの効いた歌い出しに打たれたかのように貴賓席のキャロルがのけぞり、隣に妻ミシェルと座るバラク・オバマ大統領(当時)が思わず涙を拭う。アリサが歌い進むうち、ホールは高揚感に包まれ、大統領も歌詞を呟いたかと思うと微笑みながらファースト・レディと囁きを交わす。黒人解放運動の同伴者としてキング牧師らの活動を支援し、アンジェラ・デイヴィス(アメリカ共産党&ブラック・パンサー党)の保釈金を支払うとまで公言する一方注2、男が女に敬意を求めるオーティス・レディングの歌「R-E-S-P-E-C-T」(1965)をカヴァーして女が男に敬意を求める歌に変えたフェミニストでもあったアリサ。この「ソウルの女王」が、史上初の黒人大統領の前で「あなたのおかげでありのままの女と感じられる(You make me feel like a natural woman)」(「女(woman)」に他のマイノリティを代入してもよい)と熱唱し、さまざまな色の肌を礼装に包んだ満員の聴衆が総立ちで喝采する光景は、黒人や女性の解放運動の結果、すべてのマイノリティの存在と権利の承認が(認められるとまではいかないでも)求められるところまで来た、誰もがそう信じた輝かしい勝利の証だったのかもしれない。

あるいは、それを見ていて想起した2016年のモハメド・アリの葬儀。ビル・クリントン元大統領の弔辞を圧倒してしまったビリー・クリスタルの弔辞や、このコメディアンが物真似でアリのボクサー生涯を語り尽くす名人芸「15ラウンド」が想起させてくれたように、ネイション・オヴ・イスラムの影響でキャシアス・クレイという「奴隷の名」を捨ててモハメド・アリとなり、マルコムXとも一時近しい関係にあったボクサーは、ヴェトナム戦争に反対して宗教的理由から徴兵を拒否、懲役と罰金を科せられ、世界チャンピオンの称号を剥奪されるばかりか試合にも出られなくなるのだが、それでも法廷闘争と反戦運動を続けて、ついには連邦最高裁判所で全員一致の無罪判決を勝ち取り、最盛期の3年半を棒に振ったにもかかわらず世界チャンピオンのタイトルを取り戻した、反体制のヒーローだったのだ(詳しくはさしあたりマイク・マークシー著『モハメド・アリとその時代』[邦訳・未來社]が参考になるだろう)。ユダヤ人クリスタルが黒人イスラム教徒アリとの友情と協力を語り注3、「壁ではなく橋を」という言葉で満場の喝采を浴びる光景は、これまたマイノリティ解放と多文化主義の現時点での到達点を示すものだった。

もちろん、この言葉は、折しも過熱しつつあった大統領選挙でのドナルド・トランプ候補の暴言(「不法移民の流入を防ぐためメキシコ国境に壁を建設し、費用はメキシコに負担させる」というこの公約は、大統領就任後1年半になる現在ももちろん実現していない)を意識してのものだ。逆に言うと、多種多様な人種や性別・性的指向や宗教の人々が集ってモハメド・アリやアリサ・フランクリンを偲ぶこうした光景――バラク・オバマほどクールではないヒラリー・クリントン候補もビヨンセや Jay Z を選挙集会でフィーチャ-して再現しようとした光景――こそ、ドナルド・トランプとその支持者たちが何よりも憎悪してやまないものなのではないか。

大きな枠組で考えてみよう。政治経済的な冨の再分配のみならず、マイノリティの存在と権利を認める社会文化的な承認が重要性を増している(むろん、政治的・社会的闘争の課題はこの二つだけではないし、一応区別されたそれら二つは密接に関連してもいるのだが、とりあえず議論を単純化するためこの枠組を採用する)。言うまでもなく、富裕層や大企業の減税を求める共和党と富裕層から貧困層への再分配を求める民主党は明確に対立するが、たとえばウォール街との距離ではいまや五十歩百歩に見えてしまう分、民主党はマイノリティの承認とその成果としての多文化主義を強調し、共和党、とくにトランプが時代遅れの愚かで醜い人種差別や女性差別を匂わせてそれと対決するという「承認の政治」の前景化が生じたのだ。そこでは民主党が進歩派、共和党が反動派なのだが(社会文化的トレンドや人口動態から見て明らかに時代に置き去りにされようとしているがゆえにその反動はますます過激化する――というか保守反動というのはそもそもそういうものだ)、だからこそトランプが愚かで醜い旧時代の遺物に見えれば見えるほど支持者たちが彼の下に結集するという実に困った状況になっているのである注4

しかし、民主党側にも問題はある。オバマやクリントンが社会文化面でマイノリティの承認を強調しながら政治経済面ではウォール街べったりに見えるとき、彼らの語るマイノリティの承認の「政治的な正しさ(political correctness)」は「偽善」(タテマエ)と映り、それに対するトランプの「露悪」(ホンネ)が逆にカラフルな多文化主義の波に乗り遅れた大衆(教育水準・所得水準の低い白人男性を中心とする)――ヒラリー・クリントンが候補者にはあるまじき正直さをもって「残念な人たち(basket of deplorables)」と呼んだ連中――を惹きつけてしまうのだ。およそ恥というものを知らぬトランプの、この「露悪」の大波に抗するには、リベラル派は多文化主義の自画自賛を超えて現実的な「再分配の政治」を再構築する必要がある。

実はそういう動きはずいぶん前から始まっていた。グローバル資本主義のもたらす経済的な格差の拡大が強く意識されるにつれ、経済的には市場原理主義を基本としつつ安全網の整備などで矛盾を緩和するという「第三の道」(アンソニー・ギデンズが提唱しトニー・ブレアやビル・クリントンが実行したこの戦略こそ、マーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンの始めた新自由主義[[第一の道]の純化]を完成に近づけたという見方もできる)に替わり、むしろ古典的な民主社会主義(「第二の道」に近い)をはっきり打ち出そうとするジェレミー・コービンやバーニー・サンダースのような左翼政治家が、意外なほどの人気を集めるようになってきたのだ。実際、対トランプの選挙シミュレーションではヒラリー・クリントンよりバーニー・サンダースの方が有利だという世論調査結果も多かった。それを民主党内で依然として圧倒的な力を持つクリントン・マシーンが押しつぶしてしまったのだ。(ロシアが民主党全国委員会のコンピュータをハッキングして盗み出しウィキリークスがネットに流したメールの中には、民主党幹部がクリントン陣営と結託してサンダース陣営を不利にしようとした証拠が含まれており、これが若いリベラルな民主党支持者の強い反発を招いたことはクリントン陣営にとって痛手だった。)むろん、昔の「第二の道」ではグローバル資本主義の競争にも選挙にも勝てなかったからこそ「第三の道」を選ばざるをえなかったわけで、コービンやサンダースがいまイギリスやアメリカで勝利を収められるかといえば大いに疑問が残る。しかし、そうした党内左派の盛り上がりを無視し、「最初の黒人大統領の次は最初の女性大統領を」という承認の物語の力で勝てると思ったクリントン陣営は、現実を見誤っていたのではないか?

他方、新自由主義を打ち出したレーガン大統領の頃から、共和党の最重要課題は、大企業と富裕層への減税、そして規制緩和であり、その政治経済面での課題を実現する方法は、そうした経済政策によって最も損をするはずの白人低所得層を、(大企業や富裕層が潤えばそれが貧困層まで滴り落ちてくるというほとんど一度も実現したことのないフィクションを除けば、)社会文化面での保守的なポーズ、とりわけ人種差別カードをちらつかせて惹きつけることだった。その欺瞞的戦略の究極の化身が、自らグローバルな「カジノ資本主義」で荒稼ぎしてきた大富豪でありながら、マイノリティを含む人々のグローバルな活躍に憎しみの眼差しを向ける白人低所得層に向かって「お前らの気持ちを本当に理解し、お前らの望む『古き良きアメリカ』の復活を実現できるのは、洗練された言葉で偽善を連ねる民主党候補ではなく、共和党主流派ですらなくて、お前らと同じ言葉で正直にホンネをぶちまけるオレなのだ」と語りかけるトランプだったのである。そういう意味で、共和党主流派は、自分たちが偽善のオブラートに包んで語ってきた欺瞞的戦略をあまりにもあからさまに体現するトランプという怪物に呑み込まれてしまったのだと言ってもよい。そして、民主党主流派がマイノリティの承認と多文化主義を語りながらウォール街との距離では共和党と五十歩百歩に見えるとき、それを「偽善」と見る有権者たちの多くがトランプの「露悪」を選んでしまったのである。だから、繰り返そう、ヨーロッパにおける反EU派(Brexitを頂点とする) 、あるいは「日本維新の会」(創設者の橋下徹を生み育てたのは露悪合戦で笑いを取る関西のお笑い文化だ)にも共通するこの「露悪」の大波に抗するには、リベラル派は多文化主義の自画自賛を超えて現実的な「再分配の政治」を再構築する必要がある。

誤解を避けるために強調しておくが、私は承認の問題を軽視しているわけではない。それどころか、とくに日本のように遅れた社会ではマイノリティの存在と権利の承認がこれからいよいよ本格的に進められるべきだと確信する。しかし、欧米で過去四半世紀にわたって強調されてきた「政治的正しさ」が、いまやしばしば「偽善」と受け取られ、トランプのような反動派の「露悪」に敗北するというバックラッシュの流れは、われわれも教訓とすべきだろう。では、どうすればいいのか。問題はケース・バイ・ケースで考えていくほかなく、簡単な万能の解答は見当たらない。ただ、ここで最初の話題に戻ってひとつだけ言っておけば、アリサ・フランクリンやモハメド・アリがいまも多くのファンに愛されているのは、彼らが人種差別や性差別と戦いながら、偽善から限りなく遠い「ワル」だったことと無関係ではないだろう。モハメド・アリについては言うまでもないが、トレヴァー・ノア注5お笑いトークショー(The Daily Show)の幕間に語ってみせたように、ラディカルな黒人解放運動を支援することが「クール」であるどころか危険な行為だった時代に、アンジェラ・デイヴィスの保釈金を払うと申し出たアリサ・フランクリンは、普段は現ナマで出演料を受け取ってからでないと舞台に出ない「ギャングスタ」であり、あのケネディ・センター名誉賞授賞式にも、動物愛護などという偽善には目もくれず、豪奢な毛皮のコートをまとい、ダイヤモンドのネックレスをギラギラ輝かせて登場したのだった。あえて言うなら、ドナルド・トランプの「露悪」を打ち負かせるのは、ヒラリー・クリントンでも、エリザベス・ウォレンでも、いやオプラ・ウィンフリーですらなく、モハメド・アリやアリサ・フランクリンのようなファイターなのではあるまいか。「オバマは実はアメリカ生まれではない」などとあらぬ噂を広めたトランプ一党に対し、「彼らが低劣な道を行くとき我々は高潔な道を行く(When they go low, we go high)」と宣言したミシェル・オバマとその夫は、確かに見事にその原則を貫いてみせた。だが、政治を動かすには、残念ながら時には低劣な道でストリート・ファイトに勝ち抜くことも必要なのだ(注6)。共和党は、2000年の大統領選挙で、総得票数で上回っていたアル・ゴアを押しのけてジョージ・W・ブッシュを大統領に担ぎ上げた頃から、低劣な場外乱闘には滅法強く、まだ残っていたタテマエのすべてをかなぐり捨てたトランプ時代になって、なりふり構わぬその戦闘力にはさらに磨きがかかったかに見える。今年の中間選挙はともかく、2020年の大統領選挙にかけて、状況は決して楽観を許さない。残念ながら、現時点で問われるなら――自分でもこんなことを口にするのが信じられないのだが――トランプ再選の可能性が最も高いと答えるほかあるまい。だからこそ言うのだ、アメリカが(そしてわれわれが)必要としているのは、おそらくひ弱な「偽善」だけではなく強力なパンチでトランプを打ち倒せるファイターなのである。

 

注1 ナチュラル・ウーマン
男性から女性に性転換した主人公を描くチリ映画『Una Mujer Fantástica』(2017年)の英語タイトルはそのまま『A Fantastic Woman』、ところが日本語タイトルは『ナチュラルウーマン』となっている。映画の中で「ナチュラル・ウーマン」が流れるシーンもあるからいいだろうと配給元が考えたのだろうか。しかし、そのシーンでは彼女を見守ってくれる年上の愛人がいた。彼がいたからこそトランスジェンダー女性は「生まれついての女(natural woman)」と感じられたのだ。その彼が急死し「ナチュラル・ウーマン」でいられなくなった彼女が数々の苦難に直面しながら「ファンタスティック・ウーマン」となってサヴァイヴする映画なのだという基本的理解があれば、こんなタイトル変更はできなかったはずなのだが…

 
注2 アンジェラ・デイヴィスとアリサ・フランクリン
アンジェラ・デイヴィスは1970年に法廷占拠事件にかかわる殺人や誘拐の容疑で逮捕されたため、最初は保釈の対象ではなかった。1972年に保釈が可能になったときアリサ・フランクリンは国外におり、実際に保釈金を払うことはなかったが、1万ドルだろうが2万5千ドルだろうが保釈金を支払う、と彼女が『JET』誌で公言したことは、極左として敬遠されていたアンジェラへの支援運動が広がるのに大きく貢献した。なお、音楽界ではジョン・レノン&ヨーコ・オノが彼女の解放運動に「Angela」(『Some Time in New York City』, 1972 )という曲を捧げている。

 
注3 モハメド・アリとビリー・クリスタル
ビリー・クリスタルがとくに記憶に残る共同作業として語るのは、イスラエルやパレスチナのユダヤ人とアラブ人が共に学び活動する「パフォーミング・アーツを通じての平和」という演劇集団をエルサレムのヘブライ大学につくるための資金集めにモハメド・アリが協力してくれた思い出だが、同様に若者たちが民族の壁を超えて共に音楽を学び演奏できるようパレスチナ人エドワード・サイードとユダヤ人ダニエル・バレンボイムがつくった西東詩集オーケストラ(世界文学を夢見たゲーテの詩集にちなむ名前)を想起させる話である。なお、伝説的なビリー・ホリデーの「奇妙な果実」(リンチで殺された黒人の死体が木に吊るされた姿を象徴する題名)をプロデュースした伯父をはじめ、ユダヤ系のクリスタル一家は黒人ジャズ・ミュージシャンたちを最初期からサポートしてきたという。

 
注4 スティーヴン・ミラー
トランプが愚かで醜い旧時代の遺物に見えれば見えるほど、同類の固い支持を集めてしまう。これは支持者の話だが、側近のスティーヴン・ミラーなどもその好例だろう。1985年生まれの彼は、サンタ・モニカの「進んだ」ハイ・スクールで、古臭い考えに凝り固まって「政治的な正しさ」をわきまえない「イケてないダサいやつ」として仲間外れにされ、ルサンチマンゆえに保守主義に傾倒、若き論客としてスティーヴ・バノンの目にとまり、彼についてホワイトハウス入りした。そんな人間が、バノン失脚後も、とくに移民問題に関して大統領のアドヴァイザーやスピーチライターを務めているのだから、おそるべき状況ではある。

 
注5 トランプとコメディアンたち
ドナルド・トランプが登場し、ひっきりなしに「ネタ」をまき散らすようになったため、一時は先行きが暗いと思われたTVのお笑いトーク・ショーが復活を遂げ、時ならぬ隆盛を極めている。この構図からして、コメディアンたち(そしてとくにその背後にあるマス・メディア)がトランプを徹底的に笑いのめしながら結局は共犯関係にあることは明らかだ。その上で言えば、彼らが驚くほど健闘していることもまた確かであり、それと比べて日本のコメディアンたちがいかに去勢されてしまっているか改めて痛感せずにはいられないほどなのである。

ざっと振り返っておけば、選挙戦中もっとも人気を集めたのは、「サタデー・ナイト・ライヴ(SNL)」の大統領候補討論会のパロディでトランプ役としてデビューしたアレック・ボールドウィンの意外な芸達者ぶりだろう。他方、クリントン役のケイト・マッキノンも負けてはいない。彼女の演ずるクリントンが選挙戦の息抜きのため夜遅くバーを訪れたらクリントン本人がバーテンダーとして出て来る一幕などはなかなかのものだった。それだけに、思わぬトランプ勝利の衝撃は大きく、投票日前日に亡くなったレナード・コーエンの「ハレルヤ」(ちなみに伝説的なTVドラマ『The West Wing(ザ・ホワイトハウス)』シーズン3のフィナーレでも流れる曲だ)の、マッキノン演ずるクリントンによる、決してうまいとは言えない、しかし真率な弾き語りは、「私は諦めてない、あなたも諦めちゃダメ」という締めくくりの言葉とともに、視聴者を泣かせた――その感動は、やがて同じ曲をボールドウィンのピアノで偽のトランプ一家が歌うパロディへと裏返されるのだが。「SNL」でもうひとつ付け加えれば、メリッサ・マッカーシーが最盛期のビートたけしをも顔色なからしめる暴力性をもって演じた「スパイシー報道官」(初回からして乱暴でありながらトランプ政権の「循環的言語使用」を鋭く指摘し、2回目3回目とエスカレートしていく)は、あっという間にクビになったショーン・スパイサー報道官の名を歴史にとどめることになるだろう。

トーク・ショーに関して言えば、大統領選挙ライヴでのスティーヴン・コルベアは明らかにトランプ勝利にショックを受けて茫然自失、その後、戦闘モードに突入して、「The Late Show」でトランプをコケにし続けている。セス・マイヤーズの「The Late Night with Seth Meyers」、あるいは古参のビル・マーの「Real Time with Bill Maher」など、同じ戦線で戦うコメディアンは枚挙に暇がない。

面白いのは、南アフリカ出身のポリグロットであるトレヴァー・ノア(「The Daily Show with Trevor Noah」)や、イギリス人ジョン・オリヴァー(「Last Week Tonight」)など、一昔前のアメリカでは語り口からして大衆には受け入れられなかっただろうコメディアンたちが第一線で活躍していることだ。ただし、これはトランプの政界入り以前から始まっていた現象だ――というか、こうした多文化主義への反発がトランプ・ブームを生んだのである。

最後に付け加えれば、彼にとって最後のホワイトハウス記者会ディナー(2016年4月30日)でのバラク・オバマ大統領のアメリカン・ジョークをちりばめたスピーチは、こうした文脈でも突出した例として記憶されるだろう。「私が行っちゃったら恋しくなるわよ」という歌(アナ・ケンドリックの「When I’m gone」)にのって登場し、「口には出せずとも本当のことだとわかってますよね?」と口火を切った大統領は、「私にとって最後の――そしてもしかすると本当に最後のホワイトハウス記者会ディナーに出席することを名誉に思います。みなさんお元気そうだ。共和国の終焉がこれほどよく見えたことはありません」と古代ローマのストア派哲学者のように語り出す。そして、自虐ネタをちりばめながら――「今日のネタがうまく行けば来年はゴールドマン・サックスで使って相当な額のタブマン紙幣(奴隷出身の奴隷解放・女性解放運動家ハリエット・タブマンはオバマ政権のもとアフリカ系アメリカ人として初めて20ドル紙幣に肖像が載ることが決まった)を稼ぎます」というのは政治経済面でのウォール街との妥協と社会文化面でのマイノリティの承認という二重の戦略の手の内を正直に明かし過ぎていると思うけれど――大統領候補者たち(まだ予備選挙の段階だった)をメッタ切りにしていくのだ。ただ、トランプについて軽く触れたあと「もっとジョークを用意してきたけれど、これでもう十分でしょう。ドナルドにこれ以上時間を費やしたくない。あなた方マス・メディアのリードに従って私もいささかの自制心を示したいのです。トランプが最初から彼の立候補の真剣さに見合った適切な報道時間を与えられてきたことにはみなが合意できるでしょうから」と強烈な皮肉を投げつけるところは、オバマのホンネだろう。残念ながら、マス・メディアはトランプを大々的に取り上げ続け、トランプはふざけた政治的ギャンブルにまんまと勝つことになる。それにしても、かくもクールなオバマと比べれば、トランプの特徴がよくわかるだろう。巨大な空虚を内に抱え、それを少しでも埋めるための他人からの称賛に絶えず飢えているこの悲惨なナルシシストには、およそユーモアというものがなく、称賛を受けて威張る瞬間を除けば笑いすらない。そんなトランプを笑いのネタにし続けると、その笑いもどこか陰惨な影を帯びて来る。その危険を十分意識しながらトランプを徹底的にコケにし続けるコメディアンたちの絶望的勇気には、トランプの話題で儲けるだけ儲けようというマス・メディアの利害を超えたところがあると言えば、お人よしに過ぎると言われるだろうか。

 
注6 JFKとLBJ
いま日本で公開されているロブ・ライナー監督の『LBJ』(2017)はジョン・F・ケネディ(JFK)の暗殺後に副大統領として大統領職を継いだリンドン・B・ジョンソン(LBJ)を描く興味深い映画である。東部エスタブリッシュメント出身のリベラルな理想主義者JFKは、大統領選挙に勝つため、予備選挙でのライヴァルだった南部出身の保守的な現実主義者LBJを副大統領候補に選ばざるを得なかった。民主党上院院内総務(日本で言えば幹事長・兼・国会対策委員長、さしずめかつての自由民主党の金丸信あたりを考えればいいだろうか)として独立心の強い上院議員たちの「タマを握って」党議に従わせることを本領としていたこの粗野で泥臭いテキサス人こそ、しかし、黒人解放運動の高まりの中でJFKが目指した公民権法や投票法を現実に議会で成立させた最大の功労者――彼なくしてはJFKの夢が夢のまま終わったかもしれない意図せざる改革者だったのである。残念ながら、LBJはJFKの始めたヴェトナム戦争を引き継ぎ、その泥沼化によって再選出馬断念に追い込まれた(この悲運は、JFKが目指しLBJが「偉大な社会(Great Society)」というスローガンの下にまがりなりにも実現した「福祉国家(welfare state)」とは実は「福祉-戦争国家(welfare-warfare state)」だったことをあまりに雄弁に物語っている)。しかし、いまにして思えば、クリントン夫妻やオバマの不幸は周囲にLBJのような存在が見当たらなかったことなのかもしれない(日本の民主党とその残党の場合もそうであるように)。

ちなみに、JFKの父ジョゼフ・ケネディは財力を背景にフランクリン・D・ルーズヴェルト(FDR)が大統領になるのを支え、1938年にはイギリス大使に任命されたが、チェンバレン英首相の対独宥和政策を支持し、自らも反ユダヤ主義者として在英ドイツ大使と親交を深めるとともに、アメリカに関しては孤立主義をとったため、1940年に解任され、政治的野望を果たす道を絶たれた(その野心をついに達成したのがJFKだった)。この連続コラムの第二回でリンドバーグとその「アメリカ・ファースト」運動を取り上げたが、JFKの父もまたそれに近い存在だったというわけである。


 
(このコラムの短縮版は2018年10月20日の日本経済新聞に「半歩遅れの読書術」として掲載された。なお、この短縮版の方ではアメリカのナンシー・フレイザーとドイツのアクセル・ホーネットの『再配分か承認か?』(邦訳・法政大学出版局)を参照しているが、用語法について誤解のないよう一言付け加えておけば、邦訳者はおそらくアリストテレスの用語の定訳である「配分的正義」を考慮して「再配分」という用語を使っているのに対し、経済学では資源のallocation を「配分」、所得の distribution を「分配」と訳すので、このコラムでは一貫して「再分配」を使っている。))