プロフィール

浅田 彰(あさだ・あきら)
1957年、神戸市生まれ。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。
同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。
著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。

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京都フランス音楽アカデミー2015

2015年04月04日
映画『バードマン』でちらっと引用されていたのをきっかけにラヴェルのピアノ三重奏曲の録音を聴き直していたら、思いがけず京都でこの曲をライヴで聴く機会に恵まれた。「京都フランス音楽アカデミー アンサンブル・スペシャル・コンサート2015」である。

1989年に始まり、今回25周年を迎える京都フランス音楽アカデミーは、毎年春休みに2週間程度、フランスの第一線の音楽家たちが12人ほど京都に滞在して、マスター・クラスを教えるというものだ。フランス国外で行われるフランス音楽を中心としたマスター・クラスとしては実は世界有数と言えるのではないか。

この機会に開催される講師たちのコンサートも聴衆にとっては楽しみだ(むろん受講生たちのコンサートも別にある)。府民ホールALTIは決して恵まれた会場とは言えないけれど、立派なホールでのコンサートにないインフォーマルな雰囲気がかえって魅力的だ(舞台は高さ50㎝ほどしかない)。たとえば2006年にメシアンの「時の終わりのための四重奏曲」を演奏したときは、ピアニストのボファール(エマールと共にブーレーズの「2台のピアノのための構造」を録音して有名になったが、ドビュッシーの「練習曲集」の録音なども素晴らしい)とイヴァルディが前半と後半を分担、弾かないときは譜めくりをしていた。最高水準の演奏をこういうインフォーマルな雰囲気で聴くというのは何とも贅沢な楽しみである。

今年も3月27日に「アンサンブル・スペシャル・コンサート2015」が開催された。ジャン=マルク・ルイサダが家族の事情で来日できなくなったのは残念には違いないものの、おかげで彼がピアノを担当する予定だったプーランクの「フルート・ソナタ」(注1)に替えてドビュッシーの「フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ」が演奏されることになったので、個人的には僥倖と言いたくなってしまう(幼い私が初めて音楽に感動した――音楽を聴いて身体に戦慄が走ったのは、両親の聴いていたレコードからこの曲が流れてきたときのことだったのだ)。実際、ライヴで聴く機会がなかなかないこの曲やラヴェルのピアノ三重奏曲の演奏は、私がかつて聴いた中でも最高の部類に入ると言ってよく、他方、フィリップ・マヌリの新作も披露されるなど、必ずしも一貫性はないものの、実に充実した一時だった。以下に簡単なレポートを書いておく。

 
メンデルスゾーン:『無言歌集』より op.67-2 「失われた幻影」、op.38-5 「情熱」、op.30-6 「ヴェネツィアの舟歌 第2」、op.67-4 「紡ぎ歌」 ダヴィッド・ワルター(オーボエ)、ピエール・レアク(ピアノ)
料理でいえば「突き出し」というところ。オーボエはうまいのだが、やはり本来のピアノ独奏のほうがよい。

ラヴェル:『シェエラザード』より「魔法の笛」 ミレイユ・アルカンタラ(ソプラノ)、ジャン・フェランディス(フルート)、ピエール・レアク(ピアノ)
本来はオーケストラの伴奏がついているのだが、編曲版ではピアノの伴奏にフルートのオブリガートだけが加わる。私はニューヨークでジェシー・ノーマンがラヴェルを歌うリサイタルを聴いたことがあり、『シェエラザード』全3曲も記憶に刻み込まれている。あの超人的なスケールよりアルカンタラのサロン的な軽い歌いまわしの方が曲自体にはふさわしいのかもしれないと思いつつも、やはりこれではもう満足しきれない。

サン=サーンス:「幻想曲」op.124 シルヴィー・ガゾー(ヴァイオリン)、ギレーヌ・プティ=ヴォルタ(ハープ)
この作曲家らしく、技巧的な作品で、面白いのだが、記憶に残らない。ただ、ハープの決然としてしかも抑制の効いた演奏は見事。

ラヴェル:「ピアノ三重奏曲」イ短調 ジョルジュ・プルーデルマッハー(ピアノ)、オリヴィエ・シャルリエ(ヴァイオリン)、ドミニク・ド・ヴィリアンクール(チェロ)
ラヴェルが第一次世界大戦に出征する(といっても救急車の運転手として)前に書いた、精巧にして華麗な音楽。時に「ラ・ヴァルス」なみのヴィルトゥオジテを要求するにもかかわらず、ちょっと力を入れ過ぎると精妙なバランスを崩してしまう。その点、今回の演奏は(録音するにはやや派手すぎるかもしれないにせよ)ライヴとしてはほぼ文句の付けようのない出来栄え。プルーデルマッハーは隙がないし、鋭角的でダイナミックなシャルリエのヴァイオリンと、やや控え目ながら正確で清潔感のあるド・ヴィリアンクールのチェロのバランスも絶妙だった。第3楽章のパッサカリアで、いちどヴァイオリンとチェロの二重奏だけになったところに再びピアノが加わっていく、あのパッセージなどは、ライヴで聴くと本当に美しい。下手な演奏だとうるさく響きかねない第2楽章と第4楽章も、隙もなければ無駄もない見事な演奏だった。聴衆からも「ブラヴォ」の声が。

ラヴェル:「ピアノ三重奏曲」
『第25回京都フランス音楽アカデミー アンサンブル・スペシャル・コンサート2015』
2015年3月27日 京都府立府民ホール “アルティ”


(休憩)

マヌリ:「独奏チェロのためのシャコンヌ、保続低音をともなって(ブーレーズ生誕90年記念)」 ドミニク・ド・ヴィリアンクール(チェロ)
シャルリエ(ヴァイオリン)、ガゾー(同)、パスキエ(ヴィオラ)、5人の受講生(チェロ)
独奏チェロの最初の音を8人の弦楽器奏者がリレーして保続させ、それに支えられて独奏チェロが技巧的なソロを展開してゆく。ド・ヴィリアンクールは熱演を聴かせ、弓からはずれた絃を手でひきちぎる場面もあったが、つねに冷静さを保ち、ある種のチェリストのように過度にエモーショナルにならないところがよい。(それにしても、受講生たちはこの演奏会で1音だけ弾いたことになる。)
フィリップ・マヌリ(1952-)はIRCAMでライヴ・エレクロトニクスを駆使した作品を制作してきており、2011年に京都のヴィラ九条山に滞在していた時は京都郊外の同志社女子大学でレクチャー・コンサートがあって「ネプチューン」や「プルトン」(それにパーカッションのための「鍵盤の本」抜粋)が演奏されたが、率直に言えば、あの種の手の込んだ作品より、普通の楽器だけを使った今回の作品の方が、効果的と言えるのではないか。IRCAMの創設者であり、複雑な作品をつくり続けるブーレーズ(1925-)のことを考えると、いささか逆説的なトリビュートと言えるかもしれないけれど…

マヌリ:シャコンヌ、チェロ独奏曲:アカデミーの生徒との共演
『第25回京都フランス音楽アカデミー アンサンブル・スペシャル・コンサート2015』
2015年3月27日 京都府立府民ホール “アルティ”


ドビュッシー:「フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ」 ジャン・フェランディス(フルート)、ブルーノ・パスキエ(ヴィオラ)、ギレーヌ・プティ=ヴォルタ(ハープ)
ドビュッシーは最晩年に6曲のソナタを計画、そのうちヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタと並んでこの曲が実現された。ドビュッシーの最も精妙なスコアのひとつであり、フルートとハープが光彩陸離たる戯れを展開するが、実はそれを内声部で支えるヴィオラのパートが決定的に重要である。その点、ブルーノ・パスキエは、あまりヴィブラートをかけない正確なピッチの音、そして一見控え目でありながらツボをおさえた演奏で、難しいアンサンブルをうまくリードした。まさにいぶし銀の魅力と言うほかない。大柄なフェランディスは、風が自由に吹き抜けてゆくような演奏スタイルで、現代的な精密さとは一味違うところが魅力的(この曲の有名な録音でハープを弾いているラスキーヌとの共演者で言えば、ランパルより、戦前のモイーズを思わせるところも)。他方、プティ=ヴォルタのハープは、決然としていながら、あくまでも透明。それらが一体となって、精妙なバランスを保ちつつ、美しい音楽を奏でた。この曲をこのレヴェルの演奏でライヴで聴くというのは、最高の贅沢と言うほかない。

ドビュッシー:「フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ」
『第25回京都フランス音楽アカデミー アンサンブル・スペシャル・コンサート2015』
2015年3月27日 京都府立府民ホール “アルティ”


フォーレ:「ピアノ四重奏曲」第1番(Op.15) ハ短調 ピエール・レアク(ピアノ)、シルヴィー・ガゾー(ヴァイオリン)、ブルーノ・パスキエ(ヴィオラ)、ドミニク・ド・ヴィリアンクール(チェロ)
若き日のフォーレ(注2)がヴァイオリン・ソナタ第1番(Op.13)に続いて書いた室内楽曲で、ベートーヴェンにとって宿命の調だったハ短調で書かれ、実際ベートーヴェン的な迫力をもっている。とはいえ、第2楽章で絃のピチカートに乗ってピアノが軽妙なメロディを奏でるところなどは、弟子のラヴェルの弦楽四重奏曲第2楽章のピチカートに影響したのではないかと思わせるし、中間部では逆にピアノのスタッカートに乗って絃がメロディを奏でる、その3度の平行進行の洒落たニュアンスはフランス的と言うほかない。ガゾーのヴァイオリンは白熱するわりにやや弱く不安定なところもあるが、ここでもパスキエのサポートが絶妙、4人が阿吽の呼吸を見せながら全体として熱く盛り上がった。総じて、フランスの名手たちが得意のフランス音楽を自在に演じてみせたというところだろう。
以上、小さなホールでのインフォーマルなコンサートとしては、盛りだくさんで多彩なプログラム、そしてきわめて質の高い演奏であり、聴衆にとっては実に贅沢な体験だったと思う。立派なホールで5桁の入場料を払って聴くコンサートも一概に悪いとは言えない。だが、学校の発表会に毛の生えたようなコンサートが、実は世界最高水準のものだったとすれば、これこそ最高の音楽の楽しみと言えるのではないか。その意味で、京都フランス音楽アカデミーがしっかりと根付き、素晴らしい音楽を聴かせてくれていることを、京都市民の一人として本当に嬉しく思う。

コンサートの最後 演奏者(教授陣)全員
『第25回京都フランス音楽アカデミー アンサンブル・スペシャル・コンサート2015』
2015年3月27日 京都府立府民ホール “アルティ”


 
(付記)

大阪のザ・フェニックス・ホールでも4月4日に「フランス音楽の名手たち 京都フランス音楽アカデミー 過去・現在・未来」と題するコンサートが開催された。京都のコンサートほどではなかったけれど、せっかくなのでついでにレポートを書いておく。

ラヴェル:「ソナチネ」 ジョルジュ・プルーデルマッハー(ピアノ)
いかにもフランス的なラヴェル。ただ、調子がよくなかったのか、ミスタッチが多いのが気になる。鬼の首を取ったかのようにミスタッチばかりあげつらうようなことはしたくないけれど、ラヴェルの音楽は精妙なガラスのミニアチュアのようなもので、演奏に少しでも疵があるとどうしても気になってしまうのだ。

フランセ:「弦楽三重奏曲」 シルヴィー・ガゾー(ヴァイオリン)、ブルーノ・パスキエ(ヴィオラ)、ドミニク・ド・ヴィリアンクール(チェロ)
フランセ(1912-1997)が1933年(21歳のとき)に書いた4楽章からなる軽妙洒脱な音楽。ナチスがドイツで政権をとった年にフランスではまだかくも1920年代的な音楽を楽しんでいたとは! 演奏もまた無駄のない洗練されたものだった。とはいえ、記憶に残る音楽かと問われれば、答えは否。

ドビュッシー:「練習曲集」第2巻 ジョルジュ・プルーデルマッハー(ピアノ)
ドビュッシー晩年の傑作である12曲の練習曲のうち7~12曲(ただし福田公子によるプログラムの解説に「ドビュッシー最後のピアノ曲」とあるのは、高橋悠治による晩年作品の演奏のレポートを見ればわかる通り、厳密には正しくない)。⑧「装飾音のために」や⑩「対比的な響きのために」では悠然としたテンポでスケールの大きな音楽を聴くことができた半面、他の曲では現代的な切れ味のいい演奏と比べてテクニックが不足しているように聴こえてしまう。

(休憩)

ショーソン:「ヴァイオリン、ピアノ、弦楽四重奏のための協奏曲」 石上真由子(ヴァイオリン独奏)、ジョルジュ・プルーデルマッハー(ピアノ独奏)
シルヴィー・ガゾー(第1ヴァイオリン)、森悠子(第2ヴァイオリン)、ブルーノ・パスキエ(ヴィオラ)、ドミニク・ド・ヴィリアンクール(チェロ)
フランクに作曲を学んだショーソン(1855-1899)はヴァイオリンの巨匠イザイと親しく、ヴァイオリンのための「詩曲」などで知られる。1925年生まれの私の両親はチボー、カザルス、コルトーのカザルス・トリオの録音を愛聴した世代で、チボーの弾く「詩曲」も好んで聴いていたが、私には退屈な音楽でしかなかった。この室内楽による協奏曲もイザイが初演して成功を収めているが、やはり私には不器用な作曲家の無駄の多いスコアが大時代的なものとしか感じられない。演奏は充実したもので、有名な第2楽章「シチリアーナ」がアンコール演奏されたが(その前に舞台奥の木製スクリーンが上げられたので、ガラスの向こうの大阪のビル街を背景にショーソンを聴くという不思議な体験をすることになった)、個人的にはこのアンコールだけ(つまり第2楽章だけ)で十分だったのではないかと思う。

このように、大阪公演は私にとってさほど満足すべきものではなかったけれど、普段あまり聴く機会のないフランス音楽の質の高い演奏が聴けたという意味では、4000円(学生1000円)の入場料に十分に値する音楽体験だったことは確かだ。しかし、それに比べても、京都公演の聴衆は、同じ4000円の入場料ではるかに豊かな音楽を味わうことができたと言って間違いないだろう。「the happy few」とはまさにわれわれのことだ。


注1
プーランクの「フルート・ソナタ」が光彩陸離たる音楽であり、彼の最も成功した作品のひとつであることは事実だが、私はむしろこの曲の暗い分身とも言える「ヴァイオリン・ソナタ」(ファシストに虐殺されたガルシア・ロルカの追悼のために書かれた)の方に関心がある。興味をもった人には、エミール・ナウモフがピアノを弾き、それぞれクラリネット、フルート、ヴァイオリン、チェロ、オーボエとの5つのソナタを録音した1枚を挙げておく。
“Francis Poulenc : The 5 Sonatas with Piano : Emile Naoumoff et al.” (Saphir)
注2
フォーレに興味をもった人は、ぜひ、晩年の「ピアノ五重奏曲」第2番(Op.115)や「ピアノ三重奏曲」(Op.120)なども聴いてみるとよい。かつて五味康祐が「マーラーの”闇”とフォーレ的夜」(『西方の音』)で述べたように、マーラーが闇の中でなお無限の高みを目指してどこまでも伸び上がろうとするのに対し、フォーレは静かな夜の中で己れの限界を超えることなく抑制された美を彫琢する。それを退嬰的と非難するのは易しいが、その高雅な美を否定することは少なくとも私にはできない。『バードマンの音楽』の付記で触れた「ピアノ三重奏曲」の録音をあらためて挙げておく。
“RAVEL/FAURE/BONIS/Trios avec piano/Trio George Sand”(ZZT120101)