プロフィール

浅田 彰(あさだ・あきら)
1957年、神戸市生まれ。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。
同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。
著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。

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新国立競技場問題をめぐって

2016年01月04日
(これは1月4日発売の『SAPIO』2月号に掲載された談話「いっそのこと、国立競技場は草地に戻してはどうでしょうか?——ザハと安藤忠雄に責任を押し付けた国家とゼネコンの大罪」[同誌編集部によるタイトル]に基づいて、紙幅の制限ゆえにカットされた部分を復元し、談話収録後の変化に応じた加筆を施したものである。)

 
私は建築の専門家ではありませんが、伯父・浅田孝が1950〜60年代に丹下健三の右腕だったこともあり、それとは別に私自身が磯崎新と30年以上にわたって共同論文を執筆するなどしてきたこともあって、建築についてはいつも興味をもって見てきました。その観点から見ても、日本の政治や社会の問題として見ても、新国立競技場をめぐるゴタゴタはかつてなくひどいものだと思います。

国際的な設計競技(コンペティション、略してコンペ)が行われ、安藤忠雄を委員長とする審査委員会がザハ・ハディドの案を選んだにもかかわらず、日建設計と大成建設・竹中工務店が加わってその案を具体化していったところ、1300億円の予算を大きく超える2500〜3000億円の費用が必要だとされ、初期の案を縮小してもその額が一向に減らない——その過程が延々と続いたあげく、とうとう安倍晋三首相が白紙からの見直しを指示、設計から施工まで含めた案を競う新たなコンペが行われ、隈研吾の案が選ばれた。安倍政権としては「首相の英断」と言いたいところだろうけれど、実は問題は悪化しこそすれ何ら改善されていないと言わなければなりません。

その前に「そもそも論」を言えば、そもそもオリンピックを招致したのが間違っていたのは明らかです。ロサンゼルス大会の頃から、現代のオリンピックは、ポピュリスト政治家、土木建設業者、そしてマス・メディアと広告代理店のためのカネまみれのイヴェントになり果てた。「アスリート・ファースト」と言うけれど、それなら良い季節を選んで10月10日に開会した1964年東京大会の例に倣えばいいものを、欧米を中心とするTVのプロ・スポーツ中継がシーズン・オフになる真夏の猛暑の中でしか開けなくなっている。実は、インターネットでのストリーミングなどが盛んになって、10億人以上がTV中継でオリンピックを見る、従ってTV局やスポンサーが巨額の放映権料を支払うというビジネス・モデルは時代遅れになっているのだけれど、そういう状況だからこそ古いマス・メディアや広告代理店(日本なら電通)はオリンピックという「キラー・コンテンツ」にいっそう固執するのでしょう。

オリンピックだけではない。サッカーのワールド・カップでFIFA(国際サッカー連盟)が開閉会式に8万人収容のスタジアムを要求するので、ワールド・カップの誘致も考えて国立競技場の規模も大きくなった(2014年ワールド・カップ開催国のブラジルでも、多くの巨大スタジアムの建設を迫られた結果、巨額の債務が残る一方、今ではスタジアムのほとんどが廃墟と化している)。そのFIFAの幹部が次々と汚職で摘発されているのは連日報道されている通りです。オリンピックはそれよりはましだと信じたいものの、実は似たようなものだという説も強いんですね。(1998年冬の長野オリンピックに関しても、後に田中康夫県知事が招致活動の実態を調査しようとしたところ、すでに会計帳簿が見つからないというありさまだった——そのこと自体が招致活動の不透明度を如実に物語っています。)

2015年になって、ボストンは住民投票を待たず、ハンブルクは住民投票の結果として、2024年オリンピック招致を断念しましたが、「さすがに良識のある都市だ」というのが大方の反応でしょう。東京も「オリンピックは返上する、そもそも過度に商業化したオリンピックは原点に戻るべきであり、さしずめ毎回ギリシアでやればいい、ギリシアに予算がないというなら東京が先頭に立って奉加帳を回してもいい」とでも言えば、「いまどきオリンピックなどをありがたがる成金の都市かと思いきや、なかなか見識のある都市じゃないか」というので大いに面目を施したと思いますよ。

そもそも日本が本気で誘致しようとしたのは2016年オリンピックでした。このときの安藤忠雄による東京案は、湾岸に10万人規模のスタジアムをつくるほかは既存の施設を最大限に再利用するというもので、オリンピックのコンパクト化という時代の要請にかなっていた。同時に、東京の緑化を進め、東京湾のゴミの島を緑の森に変えようとした——計画のこの部分はいまも生きています。(当時の石原慎太郎都知事は黒川紀章との長年の盟友関係にもかかわらず安藤忠雄を選んだわけで、怒った黒川紀章が都知事選挙に出馬、落選後まもなく死去するという一幕もありましたが、時代の流れを読むのが政治家だとすれば、この件に関するかぎり石原慎太郎の政治家としての勘は正しかったと言えるでしょう——安藤忠雄の大衆的人気に便乗するというオポチュニズムも含めて。)ついでに言えば、そのとき国内コンペで落選した——というか財政的に最初から問題外だとされた福岡案は磯崎新によるもので、「オリンピックはTVで見るのだからスタジアムはいらない、スタジオがあればいい」と断じるばかりか、宿泊施設等の建設を抑制し多数の大型客船を集めて博多湾にインスタント・シティをつくる、国境を超え東シナ海沿岸の諸都市と連携して予選会場を分散する、等々の提案を並べたそのラディカルさは、今なお、いや今こそ注目に値します。ところが、出来レースで福岡に勝った東京も、結局2016年オリンピックの招致に失敗したわけですね。ならば東京は手を下せばよかったのに、いわば惰性で手を挙げていたら、2020年はイスラム世界との対話という意味でイスタンブールが最有力だったのが反エルドアン政権のデモが広がって雲行きが怪しくなり、ユーロ危機で次点のマドリッドも怪しくなって、財政的に余裕があるとみなされた東京が安全パイとして選ばれてしまったわけですよ。そもそも招致活動の初期には東京での市民の支持が他都市と比べても低いことがIOC(国際オリンピック委員会)で話題になったくらいで、「日本国民全員が一丸となった招致活動でオリンピックを勝ち取った」というのは結論が出た後にマス・メディアが捏造した幻想です。実際、そういう経緯だったので、今回の東京案は前回の安藤忠雄案と比べてもあまりよく練られたものとは言えなかったんですね。極端に言えば、本当に来ると思っていなかったので適当な案を出していたら現実に来ることになって大騒ぎになったというところじゃないでしょうか。(ついでに言えば、誘致に積極的だった猪瀬直樹東京都知事が辞任に追い込まれ、後任の舛添要一都知事は当然ながらオリンピックについてさほど熱意がないように見受けられる。いまもって本当にオリンピックに固執しているのは安部首相くらいじゃないか。問題の背景にはこの「当事者不在」の状況もあるような気がします——猪瀬都知事が辞任していなければ事態が改善されていたかどうかはまた別問題ですが。)

ついでに重要なことを付け加えておけば、安倍首相がブエノス・アイレスのIOC総会で東京をアピールしたとき、東日本大震災で大事故を起こした福島第一原子力発電所がすでに「統御下にある(under control)」と強弁した、これは誰の目にも明らかな虚言です。いまだに溶融した炉心がどうなっているかさえわからないし、放射能に汚染された水の漏出を食い止めることすらできていない、その他、問題を挙げ始めたらきりがないというのが現状でしょう。逆に、本当にそれが「統御下」にあって問題ないのであれば、東北の復興を加速するためにも東京ではなく福島でオリンピックを開催すべきだったんです(2016年のサミットを伊勢・志摩ではなく広島・長崎で開催すべきだったように——そうすれば核軍縮を訴えてノーベル平和賞をとったにもかかわらず実際には何ひとつできなかったアメリカ大統領バラク・オバマが少なくとも任期最後の年に広島・長崎訪問という「レガシー」を残すことができたかもしれません)。その問題は別としても、現在の日本にとっての急務は4年たっても被災者の生活再建が遅々として進まない状況の打開であって、本当はオリンピックなど開催している余裕はない。視点を変えて見るなら、生活再建を置き去りにして「スーパー堤防」の濫造に象徴される土木主導の「復興」だけが暴走しているのが現状であり、それによる資材や労働力の不足、それゆえの資材価格や労賃の高騰が、新国立競技場建築予算の膨張の背後にもある(逆に言えば、東京オリンピックの強行は需給をさらに逼迫させ、東北復興をさらに困難にする)。つまり、この問題自体、日本がオリンピックを開催すべき状況にないという現実の明白なあらわれなんです。

ともあれ、2019年開催が決まっていたラグビーのワールド・カップと2020年のオリンピックのため、国立競技場が建て直されることになった。元の競技場のリノヴェーションでもよかったのに、サッカーのワールド・カップにも使えるようにしたい、それにはFIFAの要求する8万人規模のスタジアムが必要だ、というような理屈で、建て直しになったんですね。それで国際コンペが行われ、ザハ・ハディド案が選ばれたわけです。

イラクで生まれロンドンで学んだザハ・ハディドが一躍有名になったのは1983年の香港のピーク・レジャー・クラブのコンペで選ばれたときのことです。実は、最終選考には残っていなかったザハの案を拾い上げ、審査員たちを説得して最優秀賞に選んだのは、磯崎新でした。ロシア構成主義(コンストラクティヴィズム)を捻ったようなディコンストラクティヴィズムのデザインの独創性を評価したからでしょう。これはアンビルトに終わりましたが、それはクライアントの財務危機が原因です。ザハにはその後もアンビルトの案がいくつもあるのは確かですが、ローマの21世紀美術館をはじめ、注目すべき建築もたくさん実現してきています。その中では新国立競技場の案はとくにいいとは思えなかったものの、とくに悪いわけでもなく(ただし縮小案は最初の案の魅力を失っている)、私なら別の案を選ぶところだとはいえ、審査委員長の安藤忠雄らがザハ案を選んだのも決しておかしなことではないと思います。

むしろ、それよりも問題なのは、これが十分に時間をかけた本格的な設計競技ではなく、大まかなコンセプトとイメージをもとに「デザイン監修者」を選ぶコンペだったことです。たとえば1964年東京オリンピックのときは、代々木競技場の設計者として丹下健三が(コンペなしに)指名され、最新の吊り橋の技術を使いながら造形的にも美しくなるように細部まで徹底したデザインが行われた(吊り橋のようなワイヤーからさらに吊られる鉄板がシャープな曲線を描くように、最後はほとんど原寸大で調整が行われた)。予算を超過する部分については、丹下健三から直談判された田中角栄大蔵大臣の「よっしゃ」の一声で片が付いた。非民主的にやったから可能だった部分もあるとはいえ、それによって世界の建築史に残る傑作が生まれたわけです(1970年代に亡くなっていたとしたら——晩年いたずらに「豪華」な建築を濫造していなかったなら——丹下健三は世界の建築史に残る巨匠として記憶されていたでしょう)。ところが、今回は時間の余裕がなかったこともあり、まず「デザイン監修者」としてザハ・ハディドを選び、そのあと日本の設計会社(具体的に選ばれたのは日建設計)および総合請負建設会社(general contractor、略してゼネコン;こちらは大成建設と竹中工務店)と組んで具体的な設計案をつくらせる、そこではむしろ日本側が主体であり、ザハは「監修者」に過ぎない、ということになっていたんですね(厳密にいえば「監修者」の権限と責任は曖昧なままのように見えますが)。設計者が構造の根幹から細部のデザインまで責任をもつのが理想だとすれば、ここでは「デザイン監修者」は大まかなコンセプトとイメージ、そして「名前」(ブランド・ネームのような)を提供するだけになっている。これは実は近年よくあることで、たとえば東京ミッドタウンは全体としてアメリカの大手設計会社SOMが設計するけれど、サントリー美術館の部分は隈研吾が「デザイン監修者」にあたる立場から木材を使った和風の設計で付加価値をつける、といった形になるわけです。隈研吾はそういう仕事もうまくこなすけれど、東京ミッドタウンで言えば安藤忠雄による21_21 Design Sight(建設主唱者の三宅一生が一枚の布を折り畳むことでプリーツ・シリーズを生み出したのに倣う、一枚の鉄板を折り畳んだかのようなデザイン) のように、設計者が全体を設計してこそ一貫性のある建築が生まれるのだと思いますね。(これは東京ミッドタウンの中での比較であって、隈研吾の仕事でもたとえば彼が全体を設計した根津美術館は本格的な作品として評価に値するでしょう。)
しかし、裏を返せば、このシステムなら本来ザハ・ハディドの案はいくらでも変更可能で、予算の枠内に収めることもできたはずなんですよ。また、ザハは最初からそういう場面では柔軟に対応すると言い続けてきた。実際、つねに大胆な提案をするザハにとって、案の修正は珍しいことではない。たとえばロンドン・オリンピックの水泳競技場アクアティクス・センターもザハの最初の案よりずっと小さくなっているけれど、とくに内部空間などはそれなりにうまく収まっていると思います。では、新国立競技場ではなぜそういう修正ができなかったのか。

ここで思い起こされるのは、日本ラグビーフットボール協会名誉会長であり東京オリンピック組織委員会会長になった森喜朗が、新国立競技場の案が白紙から見直されることになった前後にマス・メディアで繰り返していた、「ロシアはソチ・オリンピックに5兆円も使った、日本が東京オリンピックのメイン・スタジアムをレガシーとして残るような形で作るというのに2500億円ぽっちも出せないのかね」という主旨の発言です。ここから推測するに、彼を中心とする「スポーツ界のドンたち」の間で「オリンピックは国家行事だから予算はほとんど青天井だ」という「景気のいい話」が飛び交い、ゼネコン側も「それなら当初の予算枠にこだわることはない」と考えるようになったのだとしても、おかしくはないでしょう。ここまでは私の推測ですが、そこへさらに多種多様な関係者やスポーツ団体から「広いVIPエリアが必要だ」とか「サブトラックが必要だ」とかいう要求が積み重なり、それらをすべて盛り込んだあげく費用が当初予算の倍以上に膨らんだ、ザハ側が縮小案を示しても費用はなかなか減らなかったというのは事実です。むろん、本来ならばクライアントである日本スポーツ振興センター(JSC)とそれを監督する文部科学省がもっと当事者意識をもって予算管理にあたるべきで、彼らが「絶対に1300億円以上は出せない」と断言していたならザハ+日建設計+大成建設・竹中工務店もそれに対応するほかなかったでしょう。これほど大規模な建設工事をマネージした経験がないというのなら、国土交通省から建設業界との交渉に長けた(誰にどう圧力をかければいいか知っている)官僚に出向してもらえば済むことですよ。JSC(と文部科学省)はなぜあれほど呑気に構えていたのか。彼らがよほど無能だったのでないかぎり、ここでも「スポーツ界のドン」たちの「景気のいい話」が影響していたと推測するのが自然でしょう。だからこそ、最後は安倍首相が登場し、森元首相の首に鈴をつける他に、事態を収拾する道がなかったんですよ。

こうした推測が正しいとするなら、費用が膨れ上がった責任は、明らかに、何度修正を試みても1300億円の予算を大幅に上回る見積もりを出し続けたゼネコンと、クライアントとしてそれを圧縮させられなかったJSC(と文部科学省)にあると言うべきでしょう——その背後にいた「ドン」たちには触れないとしても。それにもかかわらず、この問題がマス・メディアを賑わすようになってから、悪いのは誇大妄想的なデザインにこだわるザハ・ハディドであり、無責任に彼女を選んだ安藤忠雄らであるかのような話がまかり通るようになってしまった。しかも、安倍首相が白紙からの見直しを決断した後もザハは改めてのコンペに参加する意思を示していたにもかかわらず、今度のコンペは時間がないという理由で設計から施工まで一体となった案を競うことになり、そうなると事実上ゼネコンと組む形でしか参加できない、そして、日建設計がザハと組んで修正案を詰めていたにもかかわらず、ザハ+日建設計と組むゼネコンはなく、ザハはこうして魔女狩りよろしくコンペから排除されてしまったのです。新たなコンペで、木を使った和風の表現が要求されたときから、「隈研吾を選ぶつもりなのだろう」と思いましたが、最終的に、隈研吾をかつぐ大成建設+梓設計と伊東豊雄をかつぐ竹中工務店・清水建設・大林組+日本設計だけがコンペに参加することになり、案の定、隈研吾案が選ばれました。大問題は、こういうコンペだと、ザハのみならず、いわゆるアトリエ派の建築家の参加する余地がほとんどないということです。いや、近代的な設計者の職能が設計と施工の分離に基づくものであってみれば、これはすべての設計者にとっての危機なんですよ。隈研吾や伊東豊雄もまさに「デザイン監修者」であり、とくに隈研吾は器用なだけにゼネコンにとって御しやすい駒であって(彼の唱える「負ける建築」は、環境にかまわず自己を主張して勝ちに行く建築への批判に基づいて、むしろ環境に溶け込むことを目指すものですが、柔術の受け身のようなその「敗北」と、やすやすと長いものに巻かれる「敗北」の差は、あまりに微妙です)、主役は明らかにゼネコンの方でしょう。両者のデザインは決して悪いものではありませんけれど(どちらかといえば白磁の器を木の列柱が支えるかのような伊東豊雄案の方がベター——この点では不本意ながら森喜朗の判断に同意せざるを得ません)、もはやデザインは決定的要素ではなく、ゼネコンが予算と工期を守って完成させられるかどうか、その信憑性が勝負を決めたのだと思います(とはいえ、ここから本格的な実施設計にかけて予算を膨らませていくのがゼネコンの常套手段、費用が再び膨張することがあったとしても決して驚いてはいけませんが)。つまり、そもそもこの問題に大きな責任をもっていたはずのゼネコンが結果的に得をし、「予算を無視して自分勝手な表現にこだわる芸術家気取りの建築家」(このポピュリスティックな紋切型はマス・メディアによって何度も繰り返された——その意味でマス・メディアもゼネコンの共犯者です)に責任を押し付けて、まんまと主役の座を獲得したということになります。

ちなみに、ザハ・ハディド案に対しては日本の建築家たちが早くから批判の声を上げ、市民運動とも連動して反対の機運を盛り上げました。こうして多くの市民が建築と環境の問題を主体的に考え発言するというのは、意義深いことだったと思います。ただ、反対運動の先頭に立った槇文彦は国立競技場の近くにある東京都体育館の設計者であり(しかもこの体育館は彼の名誉になるようなすぐれた建築とは言い難い)、伊東豊雄はそもそも最初のコンペに落選した建築家です。反対運動を組織するなら、本来、彼らではなく中立的な立場の建築家が前面に立つべきだったでしょう。

ついでに言うと、師の丹下健三から東京大学教授の椅子を受け継いだ槇文彦は良かれ悪しかれエリート的なモダニストで、全共闘世代を中心とする建築家たちを「野武士」と呼びましたが、全共闘世代の建築史家・鈴木博之(ザハ案を選んだ審査委員会のメンバーでもあった)が彼の後任として「野武士」世代の中でも大学さえ出ていない安藤忠雄を東京大学教授に招いたことを快く思っていなかった節があり(確かにこの人事は「安田砦」攻防戦の直前に逃亡した鈴木博之による別の形での「大学解体」だったのかもしれません)、また、磯崎新によるザハ・ハディドの「発見」も「無責任なポストモダニストの前衛ごっこ」のように思っていた可能性があって、そうしたことと反対運動とは完全に無関係とは言えないのではないかと「邪推」します——といっても、槇文彦の反対意見がそれなりに一貫した論理をもっていることは認めなければなりませんが。(ちなみに、反対運動で槇文彦と並ぶことになった伊東豊雄は「野武士」の筆頭です。)(→付記2

しかし、その反対の論理に関してさらに言うなら、「ザハ案のような巨大な建築ではなく明治神宮の森や周囲の環境と調和するような建築を」という批判は正論ではある半面、既存の文脈に合わせることを絶対化してしまうと大胆な建築が不可能になる危険もあるということを意識しておくべきでしょう。たとえば1960年代にそういうコンテクスチュアリズムが支配的だったとしたら丹下健三の代々木競技場のような当時としては過激な案が許容されたでしょうか。(→付記3

ともかく、海外から見ると、「日本は最初に国際コンペでザハ・ハディドを選んでおきながら、みんなでよってたかって難癖をつけ、最後に首相が『あのコンペの結果は白紙に戻す』と一方的に宣言して、結果的にザハを排除したあげく、あらためて日本の建築家と日本の設計会社と日本のゼネコンだけでコンペをやり直した、こんな国に国際コンペをやる資格があるのか」と思われても仕方がないでしょう。これは日本の国際的信用にかかわる大問題です。それにもかかわらず、この問題がマス・メディアによってほとんど伝えられていないこと自体も問題でしょう。繰り返しますが、私個人はザハの今回の案がとくにすぐれたものだとは思いません。しかし、少なくともそれは公的な国際コンペによって選ばれたものです。しかも、ザハは現実に即して案を修正する用意があると一貫して言ってきたし、現にいくつもの修正案や費用削減のための勧告を提示してきています。そのザハを一方的に排除し、コンペとはいえ日本の二つのゼネコン・グループの間だけで新たな案を決める。安倍首相の「英断」に基づくこうした経緯がおおむね肯定されているのが日本の現状だとしたら、世界で高く評価されてきた日本の建築界の未来も暗いと言うほかはありません。1964年東京大会で代々木競技場を設計した丹下健三がこの惨状を見たら(あるいはポスターをデザインした亀倉雄策らがエンブレムをめぐる盗作騒ぎを見たら)いったい何と言ったでしょうか。

そもそもいちばんいいのはオリンピックを返上することだと言いました。それが無理でどうしても東京大会を開催するというのなら、そして、国際コンペで選んだザハ・ハディドに予算内で案を練り直してもらうという至極当然の手順が取れないのなら、あらためてコンペなどせず、更地に戻った国立競技場や周辺の地域を草地にすればよかったんじゃないでしょうか。杉本博司の言うように、そこに白墨で線を引き、走ったり跳んだりすればいい。簡単な仮設の観客席に収容できる観客だけがそれを観ればいい——どうせ世界の観客はTVやインターネットで観ることになるのだから。幻の福岡オリンピック磯崎新案ではありませんが、それくらいラディカルなことができれば、世界も「日本というのはなかなか面白い国だ」と思うかもしれません。実のところ、東京というのは、明治神宮の森だけではなく、ど真ん中に森を抱えた都市です。そう、「美しい国」を目指すと称する右翼政権の喜びそうな話をあえてするなら、昭和・平成の二代にわたる生物学者天皇は、江戸城の跡にあった大名庭園を原始の森に戻すというある意味で過激なプロジェクトを遂行し、結果、東京の文字通りの中心に驚くべき生物多様性をもつ森が誕生するに至った。それに代々木の草地を加え、そこで原点に帰った「アスリートの、アスリートによる、アスリートのためのオリンピック」を開催するなら、2020年東京大会も歴史的な意味をもつことができたかもしれません。

 
 
付記1 これは「一般大衆」向きに語ったものであり、もう少し立ち入った分析と批判については何よりも磯崎新の「偶有性操縦法」(『現代思想』連載)を参照すべきである。まずは本稿に続き連載第4回(2016年1月号)の具体的な記述から読み始めるのがいいだろう。

 
付記2 談話収録後に振り返ってみると、私が槇文彦を不当に非難し安藤忠雄を不当に擁護していると言われても仕方がないと思う。あらためて言えば、槇文彦のザハ・ハディド案批判は「正論」であり、あえて言えば、私はそれが口当たりのいい「正論」でありすぎることへの違和感から「異論」を唱えていたのだ。他方、安藤忠雄がこの案を選んだ審査委員長であった以上、彼がその責任を最後まで十二分に果たしたとは言い難いことは認めざるを得ない。そもそも2016年東京オリンピック案が落選した段階で身を引いておけばよかったので、審査委員長を引き受けたこと自体が間違いだったのだ。「営業活動」に熱心すぎる彼の処世術が招いた禍い——さらには望んで「ビッグ」になったがゆえの報いと言うべきだろうか。しかし、大学に行ってさえいない文字通りの「野武士」である安藤忠雄が、東京大学出身のエリート建築家たちには想像もつかない困難を孤軍奮闘しゃにむに乗り越えて、彼らには真似のできないすぐれた建築を実現してきた(むろんすべての作品がそうではないが)ことを高く評価する私には、そのように断ずるのがフェアだとは思えない(という一見反エリート主義的な見方こそ実はエリート主義的な判官贔屓だと言われるかもしれないが)。ただ、あれほどの大衆的人気を誇ってきた安藤忠雄が、この件で掌を返したようなバッシングを受け、ガンと戦いながらなお旺盛な活動を続ける彼の晩年にそれが影を落としたことを、心から口惜しく思う。自他ともに認める磯崎新派である私の、これが正直な気持ちだ。(むろん、客観的に見ればそんなことはどうでもよく、ザハ・ハディドや安藤忠雄を悪玉に仕立てながら本当の責任者たちが批判を免れるどころか却って得をしているという状況こそが問題なのだが。)

 
付記3 コンテクスチュアリズムの現代的形態のひとつが「コミュニティ・デザイン」と称する流れだろう。「建築家や都市計画家はクライアントやそのコミュニティに独善的なデザインを押し付けるべきではなく、コミュニティに寄り添ってその顕在的・潜在的な要望に適切な形を与える媒介の役に徹するべきだ、そのために最も重要なのはコミュニティにおけるコミュニケーションと合意形成のプロセスであり、建築家や都市計画家は(形のデザイナーというよりむしろ)そのようなプロセスのデザイナー——つまりはモデレーター&ファシリテーターになるべきだ」というわけである。確かに、モダニズムの建築家や都市計画家が独善的なデザインを振り回し、結果として住みにくい家や使いにくい(従って使われない)公共施設の類が量産されてしまったことへの反省は必要だろう。しかし、だからといってコミュニティの要望を絶対化するならば、ほとんどの場合、既存の文脈を無批判に延長する結果にしかならないのではないか。(あるいは、ミーティングを重ね、平屋根を望む人と三角屋根を望む人の意見を両立させて、部分的に平屋根、部分的に三角屋根の建物をつくったとしたら、悪しき折衷にしかならないのではないか。ちなみに——あえてこの戯画的な例を使い続けるなら——一方的に平屋根なら平屋根の建物の建設を決めて反対の声が上がる危険を避けるべく、最初から潜在的な反対派も「民主的な話し合い」に巻き込み、結果、折衷的な外見で装った当初案を実現するというのが、行政官僚の常套手段であり、たとえば藤村龍至の提案するコミュニカティヴなデザインが、それとどう違うのか、話し合いの途中で出てきたさまざまな折衷案の履歴をすべて残したところでそれが結果的折衷案のつまらなさをどう補えるのか、私にはまったくわからない。)

実のところ、このような「コミュニティ・デザイン」のとらえ方はきわめて偏ったものであり、「コミュニティ・デザイン」の中にはきわめてラディカルで興味深い試みも多々あることを、急いで付け加えておかねばならない。ただ、上に述べたような「コミュニティ・デザイン」をさらに戯画化していくなら、近代的なデザイナー(建築家や都市計画家)は自己を否定し、コミュニティの御用聞きに徹するべきだ、ということになるだろう(こうして脱近代が前近代に帰着する)。しかし、それなら地元の大工で事は足りる。コミュニティが(あるいは私自身も含む非デザイナーのクライアントが)ストレンジャーとしてのデザイナーに意見を求めるのは、自分たちに過去と現在を超えるアイディアがないからであり、そこでデザイナーにいちばん求められているのは、コミュニティには思いもつかなかったような、あるいは無意識の中にはあっても意識されることのなかったような、大胆なアイディアを提案することなのではなかったか。むろん、そのアイディアが強い反対を引き起こすこともあるだろう。それでいいのだ。そういう大胆な提案——ある意味で非民主的な暴力的介入——こそが真に民主的な論争を引き起こし、その過程においてはじめて、コミュニティは自分たちが何を望んでいたのかを自覚するに至るのだから(そうした「他者の介入によるコミュニティの覚醒」を「コミュニティ・デザイン」と再定義するなら、それを肯定するのも吝かではない)。

やや文脈を変えて、具体的な話題を取り上げよう。1995年の阪神淡路大震災の翌年、ヴェネツィア建築ビエンナーレ日本館のコミッショナーだった磯崎新は神戸から運んだ瓦礫を積み上げて金獅子賞を獲得した。ディコンストラクティヴィズムの流行に対し、「この問答無用の破壊(destruction)の前では 脱構築(deconstruction)を云々している余裕などないだろう」と凄んでみせた、いかにもあざとい演出の勝利と言うべきか。他方、2011年の東日本大震災の翌年、同じ日本館のコミッショナーだった伊東豊雄は、被災地のための「みんなの家」のプランを展示してやはり金獅子賞を獲得した。繊細な配慮によって自然木を生かした建物をつくり、被災者たちが絆を確かめ合いながら新しい地域のあり方を自由に話し合う居心地のいいサロンにしようという善意が、ナイーヴでありながら、いや、ナイーヴであるがゆえに、多くの人々の共感を得たのだろう。被災者に寄り添おうとするその善意をいささかも疑うつもりはないが、問題は、そこでの活発な話し合いが復興計画に、そして現実の復興につながる様子がなかなか見えてこないことだ——そう言えば性急なモダニストの偏見ということになるだろうか。しかし、私が被災者だとすれば、「緊急事態に対処することが先決問題で、悠長な話し合いの場など今は無用な贅沢品に過ぎない」と言いたくなるだろう(裏を返せば、そういう緊急性のないところでの「みんなの家」なら有効に機能しうる、また現にしている例もあることを認めるのも吝かではない)。その点、東日本大震災後、「紙管を使えば避難所の中に即席でパーティションを作ってプライヴァシーを確保できる」「海上輸送用のコンテナ—を積めばすぐに3階建ての集合住宅ができる」といったアイディアで即効性のある介入を行った坂茂の実践(それまでの世界各地での災害援助の実践の積み重ねに基づく)は高く評価すべきものだ。問題は、それを中長期的な復興にどうつなげていくかということだろう。
いまや最も悪名高いモダニストをあえて例に出せば、もし黒川紀章が生きていたら震災直後にメガロマニアックな「東北改造論」でもぶち上げてその計画の売り込みに走り回っていたに違いない。それは「良識ある人々」の顰蹙を買っただろうし、仮に部分的に実現しても田中角栄の「日本列島改造論」(新陳代謝する建築や都市を目指した黒川紀章らの「メタボリズム」の資本主義的実現;他方、「メタボリズム」から派生した最も良識的/微温的な実践例は槇文彦による代官山ヒルサイドテラスなどの一連の試みだろう)と同じ惨状を招いていた可能性が高い。その種の独善的な計画の押し付けへの反省が「コミュニティ・デザイン」や「みんなの家」につながったのだ。しかし、そういう暴力的介入の方が、それへの反発とも相俟って、事態を動かしていた可能性はないだろうか。「みんなの家」での話し合いではなかなか事態が動かない——というか、建築の領域でデザイナーが乱暴な介入を自己抑制している間に土木の領域で「スーパー堤防」などの巨大事業が暴走しているというのが現状ではなかったか。これが戯画的な両極端を比較する暴論であることは重々承知している。ただ、悪玉と見られることを恐れ、あくまでコミュニティに寄り添う善玉を演じようとするデザイナーたちの偽善が、モダニズムの「悪」と同じくらい、あるいはそれ以上に有害であり得ることに、われわれはもっと意識的でなければならないと考え、問題提起のためにあえて暴論を述べた次第である。

最後に付け加えれば、これはデザイナーだけの問題ではない。ザハ・ハディドのスタジアムを拒否するコンテクスチュアリストは、たとえば楳図かずおの赤白ボーダーの住宅「まことちゃんハウス」をも拒否するだろう(現に楳図邸に対して近隣住民の反対運動があった)。異物を排除して小ぎれいな見かけの統一性を維持しようとするコンテクスチュアリズムほど偽善的で反動的なものはなく、脱モダニズムが結局そのようなコンテクスチュアリズムに帰着するなら、それはポストモダンどころかプレモダンな保守主義でしかない。