豊田市美術館で
岡﨑乾二郎がコレクション+αで構成した
「抽象の力」展は、ニューヨーク近代美術館に代表される視覚中心主義的モダン・アート史観に対して、物のネットワークの触発力を軸としダダとデザインの狭間を縫って展開されてゆく唯物論的モダン・アート史観を提案する、きわめて野心的で興味深い展覧会である(展覧会の準備と並行して書かれたテクストはここに;
http://abstract-art-as-impact.org//4月23日のギャラリー・トークは実に面白かったが、5月14日14時から講演も予定されている。)
他方、大阪の国立国際美術館の
ライアン・ガンダー展のオープニングに行ってみると、コレクション展も彼が選んだ作品を独自の方法で展示していて、これまた非常に面白い(全館がガンダー展になっているわけで、彼にとってこれまでで最大規模の展覧会とのこと)。
両者は対極的で、岡﨑が、必ずしも十分ではない作品を手札として使いながら、知的な解釈によって展覧会そのものを大きく超えるモダン・アート史観を語っているとすれば、ガンダーは(個展の方と同じく)子供のように感覚だけを頼りにしてコレクションから作品を選び二つずつ対にして並べていくだけ、しかし、それはそれで選び方が面白く、展示デザインも抜群にセンスがいいので(個展の方で天井から床まで使っているのも含め、車椅子生活で視点が低いことも影響しているかも)、とても楽しく見られる。ちなみに、「『ライアン・ガンダーによる所蔵作品展ーかつてない素晴らしい物語』/”The Greatest Story Ever Told —The Collection curated by Ryan Gander”というタイトルはドナルド・トランプの口調のパロディ?」と尋ねたら、シャイなアーティストはニヤッと笑っていた。
さらに付け加えれば、京都国立近代美術館のコレクションの展の一画で始まった
デュシャン特集展示(便器を「泉」と題して展示してから100年になるのにちなむ)も、予想より本格的、企画者の平芳幸浩がデュシャンの全体像を手際よくまとめた初回に続き、2回:藤本由紀夫、3回:河本信治と、5回までリレーで展示が変わっていくらしく、目が離せない。
(補足)
国立国際美術館では久しぶりに全館で現代美術の展示が展開されているのに対し、豊田市美術館の企画展は
東山魁夷の唐招提寺障壁画、京都国立近代美術館の企画展は
ヴァン・クリーフ&アーペルの高級宝飾と日本の工芸、新自由主義の下で美術館にも観客動員が求められる時代らしい状況と言うほかはない。ただ、どんな展覧会でもいちばん面白いところに注目すれば、学ぶべきことはあるのではないか。
たとえば、戦後日本を代表する日本画家のひとり東山魁夷の障壁画は、伝統的な障壁画以上に全面に自然を描いたものだが、日本渡航の苦労で失明した後の鑑真の脳裏に浮かぶ風景——とくに二度と戻ることのない故国・中国のそれを描いているのだとすれば、なかなか面白い試みだとも言えるというのが、おかざき乾二郎の見解だ。
また、ヴァン・クリーフ&アーペルの宝飾も、1920〜30年代のそれはアール・デコの典型と言ってよく、その職人芸と、明治日本の主な輸出品のひとつだった工芸品の超絶技巧を交えて展示しているのも、面白い試みではある。「芸術はきれいであってはいけない。 うまくあってはいけない。 心地よくあってはいけない」(岡本太郎)というモダニズムの「根本原則」が説得力を失い、逆に、かつて反動的とされた明治の工芸の超絶技巧がもてはやされるようになってすでに久しく、京都でも
清水三年坂美術館などでその種のものが展示されているし、京都国立近代美術館から白川沿いに少し南下したところにある
並河靖之七宝記念館(展覧会にも出品されている作品が生み出されたアトリエ兼住居で、外国人の顧客を接待した部屋もある)も一見の価値はある。ただ、時代が下って現代に近づくにつれ、展覧会に選ばれた日本の工芸品も明らかに質が落ちてくる。(志村ふくみの染色のように質の高いものもあるけれど、それは展覧会の文脈から浮いているし、森口邦彦の西陣帯などよりは、
Kyotographie のメイプルソープ展の会場2階に展示された誉田屋・山口源兵衛の黒と銀の帯の方がはるかに質が高く展覧会にふさわしいものだと言うべきだろう。誉田屋源兵衛では Kyotographie のムニョス展も開催されており、両者は「LOVE」をテ−マとする Kyotographie 全体の中でタナトスのブラック・ホールのような位置を占めるので、できれば両方見るとよい。)いわんや、現代美術さえ、「芸術」というより、技巧を売り物にする「巧術」(池内務)に徹するべきだとは、私はまったく思わない。ただ、そうしたことを考える意味でも、ヴァン・クリーフ&アーペル展もまったく無意味とは言えないだろう。