石山友美監督の『
だれも知らない建築のはなし』(2015年)は、モダニズム以後の世界と日本の建築界を考える上で有益なヒントに溢れる興味深いドキュメンタリーである。ドキュメンタリーといってもインタヴューがほとんどで、監督はそれを撮影してつないだだけ、実質的にはアドヴァイザー役の中谷礼仁の映画といったほうがいいかもしれない。いずれにせよ、磯崎新、安藤忠雄、伊東豊雄、チャールズ・ジェンクス、ピーター・アイゼンマン、レム・コールハースといったインタヴュイーの選択と配列がうまく、インタヴュー自体の内容も面白いので、現代建築史の一断面がそれだけで十分鮮明に浮き彫りにされるのだ。
実のところ、この映画の原型は、2014年のヴェネツィア建築ビエンナーレ日本館で上映されたものである。それに先立って『都市ソラリス』展で磯崎新インタヴューの部分を見たときは、日本館の展示企画の国内コンペティションの不透明性とあわせて、きわめてネガティヴな印象をもった。
黒瀬陽平との意見交換の第2ラウンドとして転載した『週刊ソラリス』のためのエッセーの末尾に「場違いでかつ醜悪な映像」と書いたのはそのためで、現在もそれを訂正するつもりはない。ただ、ヴェネツィア・ビエンナーレ用に編集され、さらに二川由夫(GA)のインタヴューなどを付け加えて映画として完成されたものを見直したところ、それが全体として興味深いドキュメンタリーになっていることを再認識したのである。
とはいえ、この映画の主人公は明らかに磯崎新であり、『だれも知らない建築のはなし』よりは『知る人ぞ知る磯崎新のはなし』というタイトルの方が中身にふさわしかっただろう。磯崎新といっても、建築家というより、一種のキュレーターとしての磯崎新である。
近代建築運動において重要な役割を果たしたのは「近代建築国際会議(CIAM)」を筆頭とする会議だった。丹下健三の下で浅田孝が中心となって組織し、「メタボリズム」の発表の場となった「世界デザイン会議」(1960年、東京;建築以外の分野も含む)も、そのようなものとして企画された。しかし、その後、前衛の運動が先鋭化・細分化していく中で、時代全体をリードするような会議は難しくなっていくと同時に、むしろ、建築ジャーナリズム、そして最終的にはマーケットの力の方が大きくなっていくのだ。そんな中で独特の役割を果たしたのが磯崎新だった。大学や公的機関に属さず、元祖アトリエ派として建設業界からも距離をとっていたこの戦略家は、早くから国境を超えジャンルの壁を超えたネットワーキングに熱心で、まだごく小規模な作品しかなかった無名時代の安藤忠雄や伊東豊雄をもピーター・アイゼンマンをはじめとする仲間たちに積極的に紹介していく(アイゼンマンの組織したフィリップ・ジョンソンを囲む「P3会議」[1982年]で安藤忠雄の発表した「住吉の長屋」にレオン・クリエがあからさまに冷笑的な拍手を浴びせるといった「事件」も起きたが、そのような「事件」も含めての出会いこそ磯崎新の狙ったものだろう)。他方、細川護熙熊本県知事の「鶴の一声」で「
くまもとアートポリス」(1988〜)のコミッショナー(コンペティションなしに設計者を指名する特命権限を持つ)となり、福岡地所の依頼で「
ネクサスワールド香椎」のコーディネーターとなった磯崎新は、国内のみならず海外の建築家たちにも次々に建築の機会を提供する。伊東豊雄や山本理顕らは「くまもとアートポリス」において、レム・コールハースやスティーヴン・ホールらは「ネクサスワールド香椎」において、ほぼ初めて大きな建築を実現することができたのだから、その歴史的な意味は大きい。知る人ぞ知るものだったこうした活動の重要性にスポットライトを当てたのは、この映画の大きな功績である。(この映画に出てこない例をひとつだけ付け加えよう。磯崎新は、香港のピーク・レジャー・クラブのコンペティションでザハ・ハディドを「発見」したように妹島和世を「発見」したわけではないが、彼女が新日本建築家協会新人賞を獲得した「くまもとアートポリス」の
再春館レディース・レジデンスのラディカルな空間構成[寮の個室にあたる部分を極小化し、他のすべてをコモン・スペースとする]を評価し、やはりコミッショナー役を務めていた
岐阜県営住宅ハイタウン北方・南ブロック[1998年竣工]の設計に彼女を抜擢する。このときは女性ばかりを選ぼうというので、他に高橋昌子、 そして海外からクリスティン・ホーリィとエリザベス・ディラーが招かれた。そこで日本の家族を理解するため、まず小津安二郎の『東京物語』と森田芳光の『家族ゲーム』を見せることから始めたというのも、いかにも磯崎新らしいアイディアである。)
磯崎新が建築のコミッショナーとして世界でも例のない規模で展開したこういう活動は、アートでいえば国際展のキュレーターに相当するものだ。しかし、グローバル資本主義の全面化とともに、国際展からアート・フェアへ(たとえばヴェネツィア・ビエンナーレからアート・バーゼルへ)と重心の移動が起こったように、磯崎新のコミッショナー=キュレーターとしての活動も、モダニズムの拘束は解けたもののグローバル資本主義がまだ全面化していなかった一時期——バブル経済に支えられてポストモダニズムが一世を風靡した時期のことに過ぎず、やがて縮小を余儀なくされたというのが、この映画のもうひとつの強調点である。それを象徴するのが「ネクサスワールド香椎」の運命だ。バブルの崩壊のせいもあって、コールハースやホールをはじめとする建築家たちの設計した集合住宅(1991-92年竣工)は売れ行きが良かったとは言いがたく、ロシア・アヴァンギャルド建築を代表するレオニドフの重工業省案を踏まえた磯崎新自身の高層集合住宅はアンビルトに終わる。他方、同じ福岡地所がジョン・ジャーディに依頼して大成功を収めたのがキャナルシティ博多(1993年着工-96年オープン)だった。イタリアの山岳都市をはじめとするプレモダンな空間からもヒントを得て、モダンな合理的空間ではなく、迷宮のような、従って適度に迷ううち自ずと多くの店舗を目にせざるを得ないようなショッピング・センターを設計するジャーディの手法は、真の意味で商業的ポストモダニズムと呼ぶにふさわしい。それが日本ではこのキャナルシティ博多を出発点に六本木ヒルズにまで及ぶというわけである。こうしてみると、「ネクサスワールド香椎」の「失敗」と「キャナルシティ博多」の「成功」は、ポストモダニズムの凋落とグローバル資本主義の制覇を象徴する出来事だったと言えるだろう(もちろん「ネクサスワールド香椎」は磯崎新の仕事のごく一部でしかなく、また狭義でポストモダンと呼べるのは「つくばセンタービル」や「ロサンゼルス現代美術館」などやはり一時期の建築に限られるのだが)。
では、そのような磯崎新の活動を別の形で受け継いだのは誰か? 誰もいないというのがこの映画の暫定的結論と言っていいだろう。安藤忠雄は植樹による都市の緑化を語り、伊東豊雄は東日本大震災の被災地に建てた「みんなの家」をきっかけにコミュニティ指向を語る。むろんそれは悪いことではなく、一定の社会的影響力を持つだろうが、かつての磯崎新の活動のように世界の建築界に影響を与えることはないだろう。磯崎新のような存在は例外中の例外なので(→付記)、当然といえば当然のことなのだが、モダニズムの拘束は解けたもののグローバル資本主義がまだ全面化していなかったポストモダニズム時代の条件がその活動を可能にしていたこともまた事実なので、時代が変わってしまったいま同じようなことを別の形でやろうとしても非常に難しい、その客観的条件の変化を考慮しなければ、今後の戦略は立てられないだろう。『だれも知らない建築のはなし』は、磯崎新の後「そして誰もいなくなった」状況、建築そのものが雲散霧消していきかねない状況を映し出し、その中での建築の根本的な再考と戦略の立て直しを静かに促している。
最後に付け加えておけば、自身が磯崎新のネットワーキングに巻き込まれ、とくに10年にわたる「Any会議」でこの映画の登場人物ほとんどすべてと知り合った私から見ても、ここでのインタヴューは各々の個性をうまくとらえていると言ってよく、とくにアイゼンマンやコールハースのインタヴューは語り口そのものが面白いので思わず笑ってしまう。そういう表面的な興味から引き付けられた観客をも、歴史の再認識へ、建築の再考へと誘う、これはなかなか巧みに構成された罠であるとも言えよう。建築の専門家のみならず、多くの観客に薦めておきたい。
(付記)
この映画のテーマからは外れるが、丹下健三の下で設計に従事しながら、他方では処女作に先立つ Op.0 として「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の活動拠点となった吉村益信の「ホワイトハウス」(1957年)を設計した磯崎新は、建築とアートの境界を最初から乗り越えていた点でも特異な存在であり、ピーター・アイゼンマンやイグナシ・デ・ ソラ=モラレスと組織した「Any会議」ではジャック・デリダや柄谷行人のような理論家たちをも議論に巻き込んでみせた。 それにしても、この会議の第2回「Anywhere」では、神戸に集合して夜の船で別府に渡り、別府温泉の「地獄」と高崎山のサルを見てから会場の湯布院に入るというプログラムが設定され、結果、ピーター・アイゼンマンやフレデリック・ジェイムソンらの前でサルの群れの「政治学」に関する飼育係の解説を私が通訳する羽目に陥った、あのときのことを思い出しても、「こんな無茶を思いつくオーガナイザーは他にいないな」というのが正直な感想だ。希代のメディエーターと言うべきだろう。
『だれも知らない建築のはなし』
京都みなみ会館にて2015年8月15日から9月4日まで上映